「新しい仕事、どうですか?」
「おかげさまで順調だよ。鬱陶しい後輩もいないし」
「えー、衣梨奈そんなに鬱陶しくないですよ」
「自覚あるんじゃん」

里沙は食後の珈琲を飲みながらメールをチェックした。
盲学校を辞め、一般事務職に就き、もうすぐ8ヶ月ほどが経とうとしている。
めぐる季節をぼんやり眺めている暇はなく、新しい仕事に慣れるために急かされるばかりだ。

「にーがきさん、明日来れますよね?」
「あー、明日だったね。行くよ、さすがに」
「主役ですからね!」
「どこの世界に、半年以上前の退職記念を祝う人がいるかな?」
「ここに!います!」

うるさいなぁと思いながら、里沙はわざとらしく眉を顰めてみせた。

半年前の送別会。それは随分と遅いものだ。
単に理由を付けて飲みたいだけなのではないかとも思った。
実際、光井愛佳の個展成功の祝いや、道重さゆみの写真集発売記念の祝いなどもセットになっていたから、
自分はオマケだろうと苦笑せざるを得ない。

だが、せっかく立ててくれた企画に異を唱えるほど、里沙は意地悪ではない。
その日はしっかりと予定を空けているし、残業になったとしても、なるべく早く上がろうと決めていた。

「で、結局何人くるの?」
「いやー、把握しきれないくらい」
「ちょっと幹事ぃー」

茶化すように言うと、衣梨奈はくしゃりと笑った。
彼女は、文句なしの、美人だ。女子高生から憧れられる、モデルのような顔立ちだとも思う。
だけど、時折子どものように笑う。そのギャップが可愛いと感じる。
こうして穏やかに笑えるような関係が、好きだ。

結局里沙は、こんな風に笑い合える関係性になりたかったのかもしれない。
恋人や恋愛感情というものを飛び越えたような、或いはその手前で足踏みしてしまうような、二人の今。
責任感のない曖昧でありながら、二人にしか分からない不定形な絆を有したこの今を、里沙は大事にしたいと思った。

「あとは里保が来れば完璧なんですけどね」

これまで太陽のように笑っていた彼女に、陰が落ちる。
分かりやすく雲がかかり、ああ、まだ彼女は戻ってきていないのかと悟る。

鞘師里保という存在を、里沙はそこまで詳しく知っているわけではない。
バー「Ninth」で一度顔を合わせただけで、あとは、衣梨奈と同じ調査業を営んでいるということしか。
衣梨奈だって、そこまで詳しく語ろうとはしなかったが、彼女の話を総合すると、ある程度の輪郭は掴める。

さゆみが待つ気持ちは痛いほど分かるが、もし里沙が里保と同じ立場だったら。
と考えると、「戻る」という選択は途端に難しくなる。
たとえ誰もが赦していても、自分が自分を赦せない限りは、戻れない。
もう誰も怒ってないよ?と諭されても、物陰から出てこられないのは、まるで子どもよりも面倒くさい。
素直になれたら楽なのに、素直になる方法を忘れてしまっている。
ケンカが大人の方が長引くのも納得だ。子どものころは容易くできていたものなのに。
年を重ねるほど、経験値は増えるくせに出来ないことが増えていく。
厄介だなと里沙はため息を着いた。

「でも、諦めてないんでしょ?」

そう訊ねると、衣梨奈はぐっと親指を立て、「あったりまえですよ!」と鼓舞する。

「引っ張ってでも連れてくるって約束しましたから!」
「逆に生田が引っ張られたりしてね」
「任せてくださいよ。衣梨奈こう見えてムキムキですから」

衣梨奈はそうして、腕に力こぶを作って見せた。
比喩的な意味だと思ったのに、どうやら彼女は本気で腕力で連れてこようとしているらしい。
まっすぐというか、バカ正直な彼女に苦笑しつつ、里沙は窓の外を見る。
冷たい風が吹く。カタカタ震える窓が、次の季節を待ち詫びている。


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結局待つしかできないのよ。仕方ないじゃん。諦めるって選択肢が、もうないんだもの

撮影した写真を整理していると、ふいにさゆみの言葉がよみがえった。



新垣里沙の半年越しの送別会、光井愛佳の個展成功祝い、道重さゆみの写真集発売記念の合同祝賀会の開催は明日に迫っていた。
理屈をつけて呑みたいだけではないだろうかと誰もが思ったが、さすがに名目が多いだけ、出席者も多かった。
想像以上に大きな会になっているのは、企画者の人望だろうかとも思う。

生田衣梨奈という存在を、れいなはそこまで知っているわけではない。
ただ、里沙に真っ直ぐぶつかっては玉砕し、さゆみの良いオモチャになっているのは分かる。
不器用で、だけどぶれない存在だ。
里保のことを諦めていないのは、さゆみだけでなく、彼女も同じなのだろう。

絵里も、こんな気持ちだったのだろうか。
あの世界に閉じ込められたれいなを、ただ黙って待ち続けていた絵里。
あの時のことを、絵里と話す機会はあまりない。
避けている訳ではないが、ひとりぼっちの寂しさを、もう思い出させたくなかった。
USBにデータを移行していく。この日撮影したさゆみは、「それに、実質タダだから楽しみ」と舌を出した。

鞘師里保が彼女のマネージャーを離れ、もうずいぶんと時間が経った。
里保が今、何処で何をしているのかは、正確には知らない。
衣梨奈なりに手を尽くして調べているようだが、なかなか情報が得られないらしい。
それだけの覚悟をもってマネージャーから離れたのだとは理解できる。
しかし、大切な人を置いていくことは、れいなにはできないと思った。あの世界で、絵里を置いてしまった自分には、できないと。
もちろん、里保なりの信念や意図も分かっているつもりだから、責めることはしないが。

「れいな、会ったら殴るみたいな顔してるよ」
「殴らんよ失礼な」
「ラスク鼻に突っ込むくらいはするでしょ?」
「それはするかも」
「するんだ」

その表情はどこか晴れなくて、彼女もプロだからファインダー越しの顔はとても素敵なのだが、途端に瞳に映すと、不安そうな女の子になる。
早く迎えに来いと言いたくなるのも、事実だ。

「明日何着て行こーかなー」

さゆみは衣装の黒いドレスのままくるくるとスタジオを回る。
髪を下ろし、高いヒールをはき、背中を開けたその姿は、100人中100人が声をかけ、社交ダンスに誘いたくなるのだろうと思う。
同時に、明日って私服で良いんよね?と、ふいに服装についての心配事が浮かんできた。


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「かんぱーい!」

想像以上に人が多く、れいなは気後れしそうだった。
それは絵里も同様のようで、人が一番多く集まっている空間から少し離れた場所で、カシスオレンジを口にしていた。

「こういうの久しぶりだから、感覚忘れちゃったよ」
「人に酔いそうにならん?」

そう訊ねると、彼女は何も言わずにカウンターにグラスを置く。

「亀井さん、お水にしておきますか?」

バーテンダーの香音が笑顔で聞き、絵里は頷く。香音は大皿を運びながら厨房に入る。

「やだやだ!ムリ!」「いやムリとかじゃないから」
「照れちゃう…」「何がだよ、仕事だよ」
「だってぇ」「じゃあ私が行く?」
「………行きます」

そんなやり取りが聞こえてきた後、聖が顔を真っ赤にしてチェイサーを運んできてくれた。
バーテンダーにあるまじき、客とは顔を合わせずに、おずおずと絵里の前にグラスを置く。

「ありがとう」

絵里がそうしてにこりと笑う。
聖は一層顔を紅潮させ、すぐに厨房に引っ込んでしまった。

「絵里、あの子に嫌われたかなぁ」
「いや、逆やろ」

絵里は無自覚に、人を惹きつけるのだと改めて気付く。
彼女の内側から醸し出される淡い優しさのような雰囲気が、きっと、人の心を掴むのだろう。
これ以上、絵里に惚れる人が増えるのは困る…と考えながら、グラスに残っていたビールを飲み干した。

「何人くらい来てるの?」

グラスに口付けながら絵里が訊ねる。
れいなは貸し切りのバー「Ninth」を見渡す。
寺田は、さゆみの事務所の幹部と談笑しながら手帳をめくっていた。
フロアの中心では、今日の主役の里沙と愛佳が何かを話している。
そのすぐ近くには、別の企業の男が立っていた。
最近力を付けてきた、フォトクリエイターをまとめる企業の営業マンだと、後にれいなは寺田から聞かされた。
ちなみにこの時は、愛佳をヘッドハンティングしにきたらしいが、よくそんなことを呑気に話せるなと、れいなは内心冷や汗をかいた。
さゆみは肩のストールを羽織り直しながら衣梨奈と話している。衣梨奈がたまに、くしゃりと顔を崩す。
里沙のかつての同僚が、彼女の思い出話をする。里沙は恥ずかしそうに笑う。

「3か40くらい…かな?」
「そんなにいるんだ。学校みたい」

絵里は目を細めてチェイサーを飲んだ。

あの日、彼女の目は、確かに虹を捉え、一時的に光を取り戻した。
だけど、それからすぐに全部が見えるようになったわけではない。
誰かがそこに居ることや、目の前に何かがあることはわかっても、人の表情や空の色をはっきりと映すことはまだ難しい。
それに、光を映すことによって、肩こりや頭痛なども発生し、疲れも溜まるようだ。
全てを強引に手に入れようとすることはできない。

それでも、医者に言わせれば「大きな一歩」であることに違いはない。
今日はダメでも、明日、明日がダメでもまた次の日、というように。
安っぽい言葉ではあるが、絵里の瞳は、「希望」を映しているのかもしれない。

「……色は、分かる?」

言葉を選びながら、れいなは聞いた。
いつだったか彼女が話した、「人のオーラのような色」のことを思い出す。
色調感覚にも似たその話はとても興味深く、目が見えない代わりに渡された、お守りのようなものだ。

「ううん。もう今は、あんまり分かんないんだ」

絵里は首を振った。
光を失った代わりに手に入れたその感覚は、光が少しでも戻ると同時に、絵里の中から消えていったらしい。
それは少し寂しいことで、れいなは何と言って良いのか分からなくなる。
そんなれいなに、「でもね」と絵里は続けた。

「分かることも、あるよ」
「え?」
「この空間がね、シアワセの色で溢れてるのは、分かるよ」

絵里はそうして、微笑んだ。
相変わらず、子どものような淡い笑顔で。れいなの瞳をちゃんと捉えて、絵里は、笑う。
れいなは目じりを下げ、「そうやね」と微笑み返した。
ああ、消えたのではないんだなとれいなは悟る。
絵里の中に生まれたその感覚は、光とともに消えたのではなく、絵里の中に溶けたのだと。

いつの間にか、カウンターには水色のロングカクテルが置かれていた。
あれ?という顔をすると、隣の絵里が「れーなは水色が似合うから」といたずらっぽく笑う。
いつ頼んだのだろうと思いながら、口を付ける。
甘い味と、仄かに舌に残るビールのキレが絶妙にマッチしていた。

「マリン・スノーです。ビールとカルピスとブルーキュラソの飲みやすいカクテルですよ」

聖はそうして、絵里とは相変わらず視線を交わせないまま料理を運ぶ。
約40人の貸し切りにもかかわらず、キッチンとフロアを往復するバーテンは、香音と聖の2人だけだった。
よくこれで回るなと感心していると、衣梨奈が時折グラスを片付けている姿が目に映った。
ああ、と納得し、彼女が愛されるのはこういう所なのだなとマリン・スノーにまた口づける。

「おつかれさまー」

絵里の隣の席に、さゆみが腰を下ろした。手中のグラスは半分ほど空になっているが、3人はそれが儀礼のように、グラスを合わせた。
マリン・スノーと、お冷と、ビールで喉を潤す。そういえば、こうして3人で呑むのは、初めてだっけと思う。

「さゆ、お仕事順調?」
「うん、おかげさまで。絵里は?」
「んー…ぼちぼち。ゆっくり進んでるよ」

絵里とさゆみはそうして、お互いの近況を話し出した。れいなは口出しせずに、黙って話を聞いている。
恐らく絵里は、これから彼女の瞳がどう変わろうとも、雑誌限定というスタンスは変えないのだろうと推察する。
きっとその方が彼女に似合っている。ムリに露出を増やさずとも、今のままで十分だ。本人がまた、変えたいと思ったときに変えれば良い。
れいなも、撮りたいものを撮るスタンスは変わらない。
がむしゃらに撮り続ける中で得たものは、しっかりと此処に在る。それを活かしながら、次のステップへと進んでいこうと決めたのだ。

穏やかにこうして3人で呑める日が来るとは、最初に出逢った頃は想像もしていなかった。
あれからもう、随分、時間が経ったのだと気づく。
バラバラに始まった世界が、ある日突然くっついて、別の世界が離れていく。
「縁は異なもの味なもの」という言葉がある。
本来は男女の仲以外で使われるのは誤用らしいが、今の自分たちの関係性を表すには相応しい言葉だとれいなは思う。

高校生のあの日、いつものように屋上で授業をサボらなければ、さゆみと会うことはなかった。
ファインダー超しの恋をしなければ、さゆみと身体を重ねることはなかった。
雨の夜、たまたまあの路を通らなければ、絵里と会うことはなかった。
いくつかの偶然と、神様の気まぐれが重なって、3人はこうして、バー「Ninth」で、杯を交わしている。

グラスに口付けながら、隣に座る絵里をちらりと見た。
ふと、その首筋に赤い痕が映る。


―――「そんなにマジマジと見られたら恥ずかしいっちゃけど…」


―――「だって、今までれーなはずっと絵里の事見てたのに、絵里はれーなを見られなかったんだもん…」


―――「そうやけどさ」


―――「れーなの全部、絵里、見たいよ?」


昨夜のそんな会話が思い出され、顔が紅潮し、口元がだらしなくなる。
誤魔化すように、マリン・スノーを煽った。
先ほどよりも甘い味に変わった気がする。

「さゆ、何飲む?」
「どうしよ…ふくちゃんの手が空いたら、ギムレットにしよっかな」

さゆみはそんなれいなの様子に気付くこともないまま、フロアの中心を見る。



パーティーが始まって、約2時間が経った。
衣梨奈が中心に立ち、一度この会を締め、寺田を初めとしたいわゆるプロダクションの上の人たちは2軒目へと足を運んだ。
接待に駆り出されるかもしれないと覚悟していたが、意外にも肩を叩かれることはなかった。
他のメンバーも三々五々に散って行き、フロアからは半数以上の人が消えた。
それでも、2人のバーテンは残った客の相手をしつつ、後片付けに勤しんでいる。
あの2人のバーテンの手が空くことはあるのだろうかと苦笑しながら、明日の仕事って何時からだっけとさゆみはスマートフォンを取り出す。

すると、絵里がはっとしたように顔を上げた。
時計がもうすぐ今日の終わりを告げようとしているころ。
里沙が何杯目かの麦酒からハイボールにスイッチし、衣梨奈がケタケタと笑い、愛佳がバイオレットフィズ片手にれいなの隣に座った時だ。

「っ、さゆ……」

絵里は確かに、感じ取った。

「絵里?」

さゆみとれいなが心配そうに覗き込むのと、彼女が立ち上がったのはほぼ同時だった。
香音がフロアにいる客の数を把握し、「いつものメンバーだね」と聖に告げるのを横目に、絵里はさゆみの手首を掴んだ。
さゆみは半ば強引にカウンターから剥がされる格好になる。
え?え?と動揺するさゆみを無視し、絵里は「上に、行かなきゃ」と言う。

「行って……!」

性急な動作に困惑しながらも、さゆみは背中を押されるように、「Ninth」の扉を開ける。
地上へと続く階段を登る。高いヒールだと歩きにくい。
もう少しだけ低くすれば良かっただろうかと今更後悔しながら、外へと出た。
絵里に促されるまま来てしまったけれど、一体なんだったんだろうと思いながら、ふぁっとあくびをする。

夜が静かに広がり、風が雲を押し流す。
月明かりが世界の照明となり、良い夜だなと思う。
そこで彼女は、思わず「あ」と漏らしそうになる。

あの広島での再会を、思い出す。
雨に煙ったあの場所での、呆気ない、再会を。





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