とあるマンションの一階。皆さんお馴染みのコンビニ。
先ほどから店長がレジを打ちながらも心配そうに目線だけは外に向けていた。お昼のピークは過ぎていたが、店内はそれなりに混雑しており手は離せないようだ。
そんな店長の目線の先で、今日は休みのさゆみが屈みながら少年に声をかけた。

「ハルくん、一人でおつかい?」

愛娘の優樹もそうだが、この頃なんでも一人でやってみたがるのだと先日も聖と話したところだ。
しかし遥はその顔を横に振った。きっと誇らしげな笑顔が返ってくるだろうと思っていたさゆみは、思わずしゃがんで遥の顔を覗き込んだ。
1.5L入りの大きなポカリンちゃんさんスウェットのペットボトルを抱えた遥は、涙を必死にこらえようとしているように見えた。

「かーちゃん、おねつあるって…だから」
「そっか…じゃあ、さゆみもママのお見舞いに行ってもいい?」
「うん!」

さゆみは、わずかに表情が柔らかくなった遥の後頭部にそっと手を添えながらマンションに入っていき、エレベーターのボタンを押した。


◇◇◇◇◇◇◇◇


「おじゃまします」

部屋の入り口から聞こえたさゆみの声に、聖はゆっくりと体を起こそうとした。

「あっ、そのままでいいから」
「さゆみさん…どうしてここに?」
「孝行息子に感謝しなきゃなの」

さゆみの言葉の意図は瞬時にはよく分からなかったが、ただ遥がこの部屋には見当たらないことに聖は気づいた。

「…そういえば遥は…?」

聖が周囲を見回していると、慎重な足取りで遥が部屋にやってきた。コップにいっぱいのポカリンちゃんさんスウェットを差し出し、

「かーちゃん! これ飲みぃ!」

と言った。その言葉に聖は何故だかすごく暖かな気持ちになった。

「ポカリン?」
「のんだらゲンキになるでしょー?」
「そうね。 飲んだらきっと元気になるから、そしたら遥のおかげね」

聖の穏やかな表情を見て、遥はその小さな胸を少しだけ撫で下ろした。

「…ところでこれ、さゆみさんが買ってきてくれたんですか?」
「残念ながら私は下でたまたま会った孝行息子のハルくんについて来ただけなの」
「え? ってことは…?」
「そういうこと。遥クン随分しっかりしてるのね。そのポカリンのお金だって“ははのひ”のプレゼント買うために出発前のパパに貰ったものだって。
 それに、さっきの“これ飲みぃー!”って言い方なんかそっくr…あっ、そういえば生田は帰ってくるの来週なんだって?」
「…え? あ、はい。来週の木曜あたりには」

そう答えながら暖かな気持ちの理由に気づいた聖は、差し出された優しい飲み物を両手で受け取り、一口ずつしっかり、体と心に沁み入らせた。

「ホント男って肝心な時に日本にいないの…って、ごめんなさい。ところで病院にはまだ行ってないんでしょ?」
「はい」
「さっき香音ちゃんにクルマ出してくれるようにお願いしたから、もうちょっとしたら病院に行くの」
「いろいろすいません、さゆみさん」
「もう! 普段からお互い様でやってるんだから、気にしないの! っていうかこういう時こそ頼って欲しいんだけどなぁ?」

そんな二人のやり取りの中、遥が今度は濡れタオルを持ってやってきた。

「はいこれ、おでこにのせり!」


〜〜〜〜〜〜


「ママ! もちもちきた!」

真莉愛の言葉に促されて香音がスマホを見ると、さゆみからメッセージが届いていた。

「さゆみさん? どうしたんだろうね?」

>フクちゃんが体調を崩したみたいなの
>もしこのあと時間あるなら病院までクルマ出してもらえないかな?
>さゆみは知っての通り運転苦手だから…

「ありゃ!それは大変じゃん! 返信返信……えぇと、『OKです! いつでも大丈夫なんで、聖ちゃんの支度が出来たら連絡してくれますか?』…っと」

香音がさゆみに返信をしたちょうどその時、玄関のチャイムが鳴った。

「は〜い!」

ドアスコープ越しに見てみるとそこには私服姿の石田クンがもじもじと立っていた。

「はいは〜い?」
「香音さんッ! その…おかゆ、作ってくれませんか?」

石田クンはドアが開くといきなりそう言った。

「ふぇっ?!」

香音はあまりに突然の頼みに一瞬面食らい素っ頓狂なリアクションをしてしまったものの、石田クンが悪い奴でないことは勿論知っているし、そもそもおかゆを作ってくれというのはきっと体調が悪いってことだろうと、すぐさま納得した。

「石田クンも体調悪いの?」
「いや、僕はあの、元気なんですけど…その、つまり…」

歯切れの悪い彼の答えに、香音はピンときた。
いつもハキハキとした彼がこんな風になるのは、超緊縮財政下で猛烈にお腹を空かせている時か、或いは…もう1パターンしかない。このマンションの住人なら皆知っていることである。

「もしかして、さくらちゃん?」

《もしかして》と訊いたが、確信はあった。

「ふぇっ!?」

図星を衝かれ、今度は石田クンが素っ頓狂な声を返した。


〜〜〜〜〜〜


「そっか、じゃあさゆみがフクちゃんと小田ちゃんの分のおかゆと香音ちゃんトコの夕ごはんもこっちでまとめて準備するから…いいのいいの、ついでだし……うん、じゃあお願いね」

香音からの電話でもう一人の体調不良とそれを心配する佐◯男子の件を聞いたさゆみは、病院への付き添いを香音に任せ、れいなとその上司である吉澤にも簡単に状況を知らせておいた。
ちょうど作業中だったれいなよりも先にメッセージを見た吉澤は、

「おいれいな、お前キリのいいところでちょっと優樹ちゃんのとこに戻ってやんな。シゲちゃんからの非常事態宣言だYo!小春はそこのマスク、箱ごと持って駐車場! ズッキに渡してきな!」

と、すぐに指示した。
「優樹」「シゲちゃん」「非常事態」という単語を聞いたその瞬間、既にれいなの姿はなく、

「田中さんこういう時は地球上の誰よりも足速いっすね〜コハハハハ」

という小春の乾いた笑いだけがそこにあった。


〜〜〜〜〜〜


「ごめんね、二人まとめて押し付けちゃたみたいで」
「あ、いやいや、とんでもないです。誰かの役に立ちたくって今も福祉の勉強してるんだし。
 それに聖ちゃんにもさくらちゃんにもさゆみさんにも普段からいっぱいお世話になってますから。
 ……真莉愛も優樹ちゃん朱音ちゃんといっぱい遊んでもらってよかったね〜」

病院から戻った香音をれいなが迎え入れ、それまで田中家で遊んでいた真莉愛、朱音とともに食卓を囲み、さゆみと遥を待っている。
聖・さくら二人ともインフルエンザだったため、遥クンへの感染の可能性を少しでも下げようとさゆみが一度着替えさせてから田中家に連れてくることになっていた。

「真莉愛いい子にしてました?」
「いい子やったばい! 朱音ちゃんはハル坊がおらんけ泣くかとも思っとったけど、真莉愛ちゃんと楽しそうにしとったし、パワフルやけどいい子やったと」
「すいません田中さん、大変だったですよね…」
「なん言いよぉと! 子供は素直でパワフルなら100万点っちゃ」
「ひゃくまんてんっちゃー」
「ちゃくまってちゃー」

優樹と真莉愛が楽しそうにれいなの言葉を繰り返した。

「…まったく、香音ちゃんの前だからってカッコつけちゃって!」

ちょうど帰ってきていたさゆみに突っ込まれたれいなだが、

「違うし!れーなはさゆの前やけんカッコつけよぉとよ!」

と臆面もなく言い放った。

「あーはいはい」
「はは てれてるー!」
「別に照れてなんかないの」
「ニシシ…でも香音ちゃん二人の付き添いじゃホントに大変やったやろ?」
「そんなことないですよ? 聖ちゃんには遥クンがついてましたし、さくらちゃんには石田クンが…」


〜〜〜〜〜〜


(え〜っと…今は何時頃なんだろう…。外は暗いみたい…ってことは多分夜だよね)

さくらは、思考の淀みの中でぼんやりと考えた。

(そういえば……なんだか幸せな夢を見てた気がするんだけど…思い出せない。…っていうか、私いつから寝てたんだっけ?…飯窪さんが来てくれたのは今朝だよね…)
(…そうだ、さっきまで香音さんトコの車で……病院に連れてってもらってたんだ。…インフルエンザだったんだ……予防接種してたんだけどな……)
(…あれ? でもそういえばなんで香音さんは私の体調不良に気付いてくれたんだっけ?)

それは、インフルエンザでぼんやりとしたさくらの頭でも導き出せる簡単な答えだった。

(……ああ、やっぱりコイツですか…)

ベッドサイドに俯向き加減に座る“コイツ”が口を開いた。

「…起きたのか?」
「…え?」

「起きたのかって訊いてるんだよ」
「………寝てます」

「……そうか」
「………はい…」

「………………」
「…インフル、移りますよ?」

「………うん…」
「………………」

「………………」
「……あの……」

「…………ん?」
「……私たち……付き合ってたんですかね? あの頃……」

さくらは、まるで子どもの頃に覚えた遠い国のおとぎ話の秘密の呪文のように、無意識の中でその言葉を虚空に浮かべた。

「………………」
「………………」

「……もう少し寝てろよ…」
「……はい…」

薬の効果なのか、あるいは…。望む答えを得られたかのように思考を放棄したさくらは再び眠りについた。
覚えていないはずのさっきの幸せな夢、その続きが見られるような気がしていた。


〜〜〜〜〜〜


「ちょうど遥クンも寝ちゃったみたいだし、ちょっと様子見に行ってくるの」
「わかった。こっちは大丈夫やけん、よろしく頼むばい」
「お薬が効いてるはずなんで、聖ちゃんもまだ眠っているとは思いますけど、お願いします」

さゆみは遥を起こさないように静かに玄関の扉を閉め、階下に向かった。

「……しかしハル坊はしっかりしとぉっちゃね」

れいなは今日何度も思ったことを改めて口にした。

「本当は遥クンもこちらでお留守番しててもらうつもりだったんですけどね」
「…けど?」
「『とーちゃんがいないあいだはハルがかーちゃんをまもるって、やくそくしたから』って言って聞かなかったんです。一応マスクはつけさせたんですけど…」
「一人でコンビニに行って、ポカリン抱えて帰って、濡れタオルまで準備したっちゃろ?」
「みたいです」

遥の髪を優しく撫でながら香音が答えた。

「れーななんかさゆか優樹どっちかがちょっと寝込んだだけでも未だに超オロオロしてしまうとに…」
「ちち おろおろ〜!」
「おりょ〜りょ〜!」

れいなの言葉を優樹と真莉愛が楽しそうに繰り返した。


〜〜〜〜〜〜


「聖さんもだったんですね」

春菜は驚いて言った。

「お昼に送ったメッセージに既読がつかなかったんで来てみたんですけど…」
「フクちゃん“も”ってことは小田ちゃんの方は知ってたの?」

生田家の玄関扉に鍵をかけながらさゆみが尋ね返した。

「ええ。昨日の夜になんだか熱っぽいって言ってたんで。インフルだとは思わなかったですけど」
「…それで小田ちゃんから預かってた予備の鍵を石田クンに渡したの?」
「はい、今朝たまたまエレベーターで一緒になったので」
「へぇ〜、たまたまねぇ……?」
「………すいません、待ち伏せしてました」

春菜の答えに、さゆみは娘のいたずらをたしなめる母の顔を作った。

「ねぇはるなん、さすがにそういうのは……」
「……………」

エレベーターが二人を迎えに来るまでさゆみは沈黙した。

「……………」
「………グッジョブなの!」
「ありがとうございます!」

楽しげな二人を乗せてエレベーターは上昇を始めた。

「香音ちゃんが小田ちゃんの部屋に行った時ちゃんとおでこに冷たい濡れタオルのせてたし、
 ポカリンのペットボトルにストローが挿してあったって。香音ちゃんは小田ちゃんが自分でやったのかなって言ってたけど…」
「多分あゆみんだと思います。私は今朝行った時に一枚だけ残ってたネツピタシートを貼っただけで出てきましたし」

さゆみに連れられて春菜も田中家を訪れた。

「ただいまー」
「おじゃまします」


◇◇◇◇◇◇◇◇


「すいません、私までご馳走になってしまって」

子どもたちも寝てしまい、食卓ではれいなとさゆみ、香音と春菜が食後のコーヒーを飲んでいた。

「そんなん気にせんでいいとって。それよか石田のヤツはご飯食べたっちゃろか?」
「病院から戻ってからもずっと小田ちゃんの側についてるんでしょ?」
「多分そうだと思います。一度帰ってきた時に私がさくらちゃんを着替えさせたんで、その時以外はずっと」
「ハル坊もやけど、石田もケッコーしっかりしとぉっちゃね。やっぱり大事な人は体張ってでも守らな」
「まったく、すぐにオロオロするくせに偉そうなの」

いつものように皮肉っぽく言ったさゆみの顔だが、ほんの僅かに曇ったように見えたのは気のせいだろうか。
香音も春菜も、かつてれいながさゆみを守ろうとして大怪我を負ったらしいということは、なんとなくだが知っていた。
さゆみの思考がれいなの傷跡に向かいかけたところで香音が思い出したかのように口を開いた。

「そういえば前にさくらちゃん言ってました、『アイツが体壊しても別にもう看病してあげません』って。確かまた石田クンが節約生活してた時だったと思うんですけど」
「ってことは少なくともあゆみんは小田ちゃんに看病してもらったことがあるってことですかね?」
「きっとそうなんだろうね」
「してもらったことはしっかり返すってのは石田らしかね」
「…してもらったから返すんじゃなくて、してもらって嬉しかったから自分もする、だと思うの」
「そっか、確かにそうやね……したら、石田は自分の気持ちに気づいとぉとかいな?」
「……………」
「……………」
「どっちも素直じゃないですからね、あの二人」
「そこは似た者同士なんだろうね」
「まぁそのうちなんとかなるでしょ、一応お互い好き同士なんだろうし」
「モヤモヤしますけどねー!」
「それも含めて楽しませてもらってるんだろうね」

盛り上がっている女性陣に、れいなは思わず、

「女の子はこういう話ホント大好きやね」

とつぶやいた。

「そういえば…どぅークンも以前に風邪をひいた後『カーチャンにポカリン飲ませてもらったらすぐに治ったんだ』って嬉しそうに教えてくれましたよ」

春菜が思い出して言った。

「遥クンも石田クンも、してもらって嬉しかったことをしたってことね」
「それで二人ともあんなにしっかりしてたんですね」

さゆみと香音が納得して頷いた。

「どうせなら石田もハル坊みたいに素直になればいいとに。男は素直なんが一番やけね!」
「ウチのりほちゃんも素直で…というか、まぁ単なるおバカなんですけど」

香音が照れたように頭を掻いた。

「いやいや、きっとれーなの方がおバカなの、ねぇれーな?」
「さゆぅ…それはあんまりっちゃ…」

四人の笑い声がリビングにあふれた。


〜〜〜〜〜〜


翌日、急遽予定を変更した生田クンが帰国してきた。地球の裏側の秘境のような土地にいたらしいのだが、嫁のピンチをキャッチして空港のある島まで泳いだらしい。
そんなバケモノのような衣梨奈だが、いざインフルエンザで寝込んでいる聖の姿を見ると途端に泣きそうな顔になり遥に溜息をつかれていたとか、いないとか…。

聖より一足先に熱が下がったさくらと、結局朝まで付き添っていた石田クンは、いつの間にかまたいつも通りに憎まれ口をたたき合うようになっていた。
それでもこの日の出来事も、二人の未来に何かの影響を与えている……とか、いないとか。





ぼくにできること 〜孝行息子といつものコイツ〜 (終)
 

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