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Euros ネーデルランド興隆史

新航海暦元年

3月

 欧州の地にてポルトガル、イングランド、イスパニアの三大国家が航海技術を確立する。
 各国は自国の領域を拡大するためにこぞって冒険者、商人、軍人の育成計画を発表。
 ここに数多の海の漢たちが三国に集結した。

 各国はこぞって新規の交易路、未開の地の探検、海賊の討伐などを行い
自国の勢力を伸ばしていく。
 この時、イングランドは他の二国に対してアフリカ航路、地中海航路に出遅れ、
北海で雌伏することになる。
 同時に、この時点で地中海航路を争っていたイスパニアとポルトガルがカサブランカ沖で
制海権を求めて衝突する。
 その結果はポルトガルの圧勝であり、イスパニアは地中海からの外洋政策に大きく
立ち遅れ、これ以後軍事的劣勢が続く事になる。


 この時点で我等ネーデルランドはイスパニアの脅威に脅えながらも、北海に確固たる
影響力を所有しイギリスを凌ぐ国力を持っていた。
 それゆえイングランドの力を過小評価し、地盤の確保をおろそかにすると言う
失策を犯し、遠洋航海技術の確立も停滞していた。
 この時、成長著しいイングランドに対するアドバンテージを失っていることに
気付く存在は皆無であった。


4月

 この時点でポルトガルが地力の違いを見せつけ、他の二国を圧倒し始めた。
 西アフリカの主要拠点を制覇し、続いて東アフリカ、インド洋でも次々にポルトガルの
旗を打ち立てていく。
 しかし、ここでポルトガルの独走を許さないとばかりに、北欧からとびだした
イングランドが勢いを盛り返していく。

 イングランドは西アフリカのカリビブ、ケープに旗を立てることに成功し、
ここに後々まで続く宝石交易の基盤を確立していく事になった。
 しかし、この行動はポルトガルとの外交関係を悪化させる事に繋がり、
これ以後ポルトガルとイングランドの関係は急速に冷え込んでいく事になり、
後に引き起こされた第一次ジェノヴァ沖海戦の発端となった。

 急速に関係が悪化したポルトガルとイングランドは、イングランドの
宣戦布告により戦争と言う形に収束していく事になった。
 イングランド、ポルトガル両軍はジェノヴァ沖で合間見えることになり、
ここに第一次ジェノヴァ沖海戦が勃発する。
 この時点で全世界の人々はイスパニアを蹴散らしたポルトガルの勝利を
確信していた。
 だが、イングランドは下馬評を覆し、ポルトガルと互角以上の戦いを
繰り広げ、終盤にはポルトガル艦隊を圧倒していた。
 
 結局海戦はイングランドの勝利となり、第一次ジェノヴァ沖海戦は終結する。
 これにより、イングランドはポルトガルの対抗勢力として全世界に名を
とどろかす事になった。
 しかし、ポルトガルも即座に損耗した海軍力を復活させ、イングランドに
対応していく。
 ここに長きにわたるイングランドVSポルトガルの抗争が幕を開けたのである。



 この時点で我等ネーデルランドは北海の全同盟港をイングランドに奪われ、
残す拠点はアムステルダムとヘルデルのわずかニ港となっていた。
 事ここにいたって、ようやく遠洋航海技術の重要性に気付いた我が国は、
遅ればせながらも航海技術の発展に動いていくことになる。
 また、同様に地中海の同盟港を失ったヴェネチア、フランスも遅れを
挽回するために研究を進めていた。
 しかし、研究は遅々として進まず、世界に対して産声をあげるには
まだ長い時間が必要であった。


5月〜7月

 
 この時点で各国の影響力は東はインド洋、西はカリブ海にまで及んでいた。
各国はこぞって拠点に投資を行い、港を発展させていく。
 そんな中、アフリカの南端に位置するケープにダイヤ鉱山が発見され、
続いてルアンダにも良質のダイヤ鉱山が見つかった。
 これにより、ポルトガルとイングランドの抗争は激化の一途をたどり、
やがてケープ沖海戦にまで発展することになる。
 この海戦もイングランドの勝利となったため、ポルトガルはアフリカ南部の
影響力を失っていくことになった。
 しかし、続く第二次ジェノヴァ沖海戦ではポルトガルと引き分け
(ポルトガル優勢)、イングランドは地中海での勢力拡大計画は大きく
頓挫することになった。

 イングランドとポルトガルの抗争が激化していく中、イスパニアは
『カサブランカの悪夢』で受けた傷を回復させ、カリブ海にその勢力基盤を
設けていく。
 これ以後、カリブ海はイスパニアの強力なブロック圏となり、他の二国の
排除に成功したのである。
 しかし、ポルトガルとのファマガスタ沖海戦で地中海艦隊が壊滅した
ことにより、地中海の覇権はポルトガルへと移っていくことになった。



 この時点で我等ネーデルランドはかねてよりの研究が実を結びつつあり、
近いうちに近海を脱するメドがたちつつあった。
 しかし、肝心の航海者不足に悩まされていた。
 ただでさえ先進三国に遅れている現状に加えて、一から航海者の育成を
行う場合、莫大な金とそれ以上に貴重な時間を失うことになる。
 そのためネーデルランド、フランス、ヴァネチアの各国は先進三国からの
亡命者獲得に心血を注ぐことになる。

 時は移り7月、ネーデルランドより亡命を持ちかけられていた航海者達は
密かにアムステルダムに集結し、会合を開いた。
 この会議は後に『7月の盟約』とよばれ、この参加者は後のネーデルランド運営の
礎となったのである。


8月


 長きに渡る雌伏の末、ついに我等ネーデルランドの航海技術が確立した。
 これと同時に、イスパニアからの独立運動も激化し、ついに8月3日に
ネーデルランドは正式に独立宣言を行った。

 ネーデルランドの首都アムステルダムには数多くの亡命者、新規の航海者に
よってあふれかえっていた。
 町の人々は笑顔で彼等を迎え、ネーデルランドの益々の発展を誓うのであった。

 この時点でネーデルランドの拠点はわずかニ港、今後長く苦しい戦いが
予想されるが、アムステルダムに集結した航海者達の顔は光り輝き、
希望に満ち溢れていた。
 永遠に続くかと思われた独立記念祭の後、航海者達は一斉に碇を上げ、
帆を広げだして出港準備を整える。
 やがて、全艦の準備が整い、祝砲に見送られて大量の船が大海原を
目指して出港していった。

 今この瞬間、ネーデルランドの大航海時代が始まったのである。
2006年11月09日(木) 13:02:03 Modified by ID:q1OLBlI6dA




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