その剣 第二話

作者:揚げ玉




その剣 第二話


 ドスビスカスが、風にそよぐ。
 先日まで、この辺りは緑の色彩に埋まっていた。そこへ不気味に映えるものが一色、染みのように付着している。
 野草の中、一輪だけ咲いた、ドスビスカスだ。
 この華の、茎や葉は大抵の植物と同様、緑色をしている。それがつぼみを付ける頃になり、色を変えるのだ。つぼみがほころべばもう、花弁も茎も、葉もそして根すら、染まり終えている。
 色は、血の色としか言いようのない、深紅だった。
 珍しい花ではあるが、市街を歩けば、何処かには見つける事ができる。
 今はまだ、という事だそうだ。
 かつて、竜操大戦の起こる前、この華はどこでも見かける、ありふれたものであったらしい。それが徐々に数を減らし、今は注意しなければ、街中でも見つける事ができない。やがては、どこかの辺境にでも行かなければ、見かける事もなくなるのだそうだ。理由は、小難しい理論が羅列されていたので、覚えていない。
 たかだかこんな物などと、ピトハナは思わなくもない。
 だがアニッタはそうではないと、寂しそうに笑ったものだ。
 世界は、弱い部分から崩れて行くのだと。消え行く花があれば、死ぬ生き物がいる。いなくなる生物がいるなら、生きられない人がいるのだ。華を惜しむ事は人の死を惜しむ事であり、華を慈しむのは、誰かを慈しむのと同じなのだと、彼女は言っていた。
「お前が、ねぇ……」
 ピトハナがかがみこんだ拍子、指で弾こうとしたドスビスカスの花が、アニッタの顔と重なる。こんなにも毒々しい色彩とはまるで違う、可憐な彼女の笑顔は、だが何処かで、この華に似ている。毒々しくも目を引き、だが一方で、無性に不安を掻き立てる華は、彼女に似て思えた。
「……じゃぁ祝ってくれよ、今年は俺……ああ、いや、やっぱいいや……」
 アニッタに願うのと同様に、ドスビスカスにも、ピトハナは祝福を請おうとした。だが不意、眼前の華が桃色に染まり、風に目いっぱい身体を揺らして、祝ってくれているらしい姿を思い浮かべ、彼は首を振った。何とも、気色の良い光景ではない。
 彼女に向かって、外は冷えると、真冬の工房で話した時の事を、彼は今でも覚えている。暖を取るのにと、彼女は溶けた金属を容器いっぱいにして、差し出して来たのだ。数千度の熱を孕んだ液体に照らされ、彼女の満面の笑顔は大層美しくも、そら恐ろしくも感じたものだ。
 真夏に、外は熱いなどと、彼女に話してみようと思った事は、彼にはない。そんな、不器用というか、人慣れしていない部分も、やはりこの華に似ているのかもしれない。
「……似てんのか……!?」
 ピトハナは首を振り、蹴るようにして、踵を返した。ドスビスカスなどとアニッタが、似ているはずなどないのだ。
 不意、上げた視界の脇に、人影があった。影は、既に声の届く距離にいて、手を上げる。
「ピトハナ」
 一瞬だけ身体を固くし、慌てて、ピトハナは直立不動の姿勢を作った。
 人影は案の定、ヤズルカヤだ。その頬は微かに上気していて、男の臭気が風に伝う。籠手とすね当て以外、鎧は身に付けていないものの、ヤズルカヤが調練の後なのは、明らかだった。
 優しげな笑顔を、ヤズルカヤが浮かべる。
「エイビスを仕留めたらしいじゃないか、めでたいな」
「ありがとうございます」
 剣技に長け、面倒見も良く、人望に厚い。
 周囲のヤズルカヤへの評価は、すこぶる高い。一部からは、ここぞという時に逡巡する癖があると、言われてはいる。だがそんなものは、ピトハナのような狩兵見習いにわかるはずもなかった。見た限り、武器さばきといい、戦闘と狩猟の知識といい、ヤズルカヤは非の打ちどころがない。
 狩兵として、この上ない逸材なのだろう。ピトハナとて、尊敬すべき先任だと思っている。
 だからこそ腹の中で、それ以上は言わないでくれと、願わずにいられない。
「ところで装具の担当、決めたのか」
「はい! 自分は以前に申請した通り、装具担当官を決めております!」
 これで二度目、いや三度目だったろうか。初めてではないが、幾度もしたやり取りではない。そもそも装具担当官の選定など、他人が易々と口を出す問題でもないのだ。世話やきのする、ヤズルカヤの性格なのだろう。
 彼の眉が、しかめられた。
「ヤズルカヤさん!」
 不意に遠く、背後から声がかかった。
 見れば調練場の出口に、数人の狩兵がいる。彼らはいずれも鎧を脱ぎ終えていて、これから酒場にでも繰り出すのだろう事は、容易く見て取れた。
 幾瞬か、ヤズルカヤはピトハナに視線を送ったが、一度、口を開きかけただけで、ため息でそれを打ち消した。
「お前の前線への赴任中、手紙を出す。ここへ戻る前に、考えを変えろ。……職人見習いの娘に命を預けるなど、考えられない。……お前のためだ」
 出口へ振り返ったヤズルカヤが、背中越しに言う。声は諦めを含み、反面で命令にも似ている。
 説得を、諦めたという事なのだろう。次に来るのは、明らかな命令だと思う。狩兵として先任であるヤズルカヤの、命令となればピトハナには絶対だった。
 先任に、戦場で死ねと言われれば、死ななければならない。装具の担当を変えろなど、躊躇いもなく瞬時に、従ってしかるべき命令だった。
「……死ぬより嫌だね」
 ヤズルカヤの背中が遥か、軍の検問所を出て見えなくなって、ピトハナは舌を出した。
 算段はあった。
 前線から戻り、このカマン=カレゼツに狩兵として着任するまで、まだ数年はあるのだ。その間に研究素材の捕獲でも、偵察部隊との遭遇戦でも、何でも良い。功績を立てれば、ヤズルカヤも文句を言えなくなるはずだった。狩兵は、モンスターからの都市防衛と、戦時には一般兵の指揮も担う。見習いとはいえ、軍功の立てようは幾らでもあった。
 狩兵の最大集結地にして、ゼツの城塞都市こと、このカマン=カレゼツを離れるのは、身を切るように苦しい。だが経験のためにも軍功のためにも、前線での数年は無駄にならないはずだった。

「失礼致します!」
 振り切るように調練場を駆けた後、ピトハナが工房に訪いを入れる。
 重い金属の扉を二枚、隔てた向こうへ呼びかけるのだ。あちらに聞こえるわけもなく、呼びかけ自体にほとんど意味はない。軍内に存在する無数の儀礼の、一つに過ぎないのだろう。呼びかけは、これから工房という、軍属にして階級を超越した、ある種の聖域に踏み入るのだとの、意思の表明だった。
 軍事費の相当を占めながら、かつては軍人が出入りする事すら適わなかったのが、この工房である。全ての職人は軍の階級を与えられながら、誰に対しても敬礼をする必要がない。軍内での、窮屈な言葉を強要される事もなかった。彼らの階級は給与体系に組み込むためだけに与えられたもので、敬われるべき対象としては、将軍に等しい。現在の房長であるタワナンナが就任するまで、それは鉄則として軍隊を支配していたそうだ。
 ピトハナが軍に入隊した頃、タワナンナの工房改革は既に定着した後で、職人の態度も改まったと言われている。だがピトハナにしてみれば、職人は今でも十分以上に傲慢で、これ以上の態度など、むしろ想像が難しく思えた。
 思考に、重々しい音が割って入る。
 操作盤に指を走らせて間もなく、扉が稼働を始めたのだ。扉のあちら側の、狭い空間が、音を幾重にも反射させる。重厚に過ぎる扉が、長い時間をかけて開け切るよりも前に、身体をよじって中へ踏み込んでしまうのは、利用者の暗黙の了解でもあった。
 一枚目の扉の中は、巨大な箱のような空間になっている。部屋は見渡すような目新しさも、広さもない。やがて背後で半音、低くなった音が断続的に響く。開け切った扉が、ようやく閉じ始めたのだ。
 彼の足元で、闇が増して行く。
 部屋が薄明かりだけの闇に満たされると、今度は、目の前の扉が開き始める。
 重い音が、彼を幾度も揺さぶると同時、より濃い闇が、眼前から流れ込んで来る。
 二枚目の扉が開いてようやく、工房の内部が窺い知れた。暗く、あちらが見渡せない程、長い廊下が伸びている。廊下は傾斜を帯びていて、地の底へ向け真っ直ぐに、口を開けていた。
 天井は、数人が縦に重なったよりも、遥かに高かかった。頭上にさえ、薄闇のもやがかかって、天井が見えない。異様に高いこの天井は、巨大なモンスターや装具を搬送するための、寸法だった。彼が立っているのは、人間が出入りするためだけの通用口なのだが、工房内全体が一つのドームとして設計されているため、天井の寸法はその規格のままである。
 天井は高いまま、幅だけが人間用のために狭く、廊下は見る者に酷く不気味な印象を与える。
「おたずねいたします!」
 踵をそろえ、ピトハナが直立する。通り過ぎようとした職人を、呼び止めたためだ。
 職人は無言のまま、酷くうろんな視線を投げつけて来る。薄闇で見ても、職人の肌には、つやも張りもない。体中にしわは深く、髪は禿げ上がり、瞳にも精気がなかった。工房では多くの者がそんな様子で、誰かが、職人連中はユニブロスの皮膚を移植したモンスターなのだと、冗談を言っていたのを、ピトハナは思い出した。今はそれが、冗談にも思えない。
「アニッタの居場所を御存知でしょうか!」
 ピトハナがたずねても、職人はやはり無言のまま、闇がかる廊下の彼方へ、顎を突き出した。
「ありがとうございます!」
 直立し、ピトハナが敬礼を送る。
 当の職人は、最早ピトハナに背を向けて歩き始めていた。遠ざかる職人の、廊下を蹴る足音が、牢番のそれにも似て思える。捕獲されたモンスターにとって、職人は確かにそうなのだろう。だがモンスターは時に、実験を施される事もあれば、解剖される事もある。牢番の方が余程慈悲深いのだろうかと、ピトハナは肩をさすった。
 悪寒を誤魔化すためでもないが、ピトハナの足は速まっている。職人が示したのは、アニッタがいつも働いている、装具工房への通路だった。
 行き慣れた場所へは迷う事もなく、やがて、見知った扉にたどり着く。
 装具工房は、房長であるタワナンナが以前所属していたという事もあり、工房の中でも特に改革が進められている。他の区画のように、出入りの度、衛兵から呼び止められる事もない。もっとも、ピトハナは狩兵見習いであり、誰何があるにしても、一般兵にすぎない衛兵からのものは、至って丁寧なものではある。狩兵は、戦時ともなれば一般兵の指揮官となるのだ。職人という魍魎の跋扈する工房で、衛兵らの操る慇懃な言葉は、時折ピトハナに笑いを誘いもした。
「入ります!」
 金属の扉が一枚、開く。
 扉は通用口とも、生命錬成課のものとも、異なる金属で作られている。何故、そんなに手間のかかる事をしているのか、ピトハナは知らない。以前、それとなくたずねたアニッタも、知らない様子だった。
 竜操術の時代に使われていたこの施設は、多くの部位がそうである理由を、知られていない。理由も、建造方法も最早、消失してしまっている。竜操術は極一部が断片的に残るのみで、その根幹となる生命錬成の技術は、最早皆無に等しい。
それどころか人類は、歴史すらも大戦によって失ってしまった。竜操術、竜操大戦、幾つの国が、どれだけの人口を抱え、どんな文明を誇っていたのか。それすら、今や推測でしか知りえない。記録の大半は消失し、また今も、僅かに残った記録は失われ続けている。
 そして人類は、残った資源と英知を持って、未だ戦争を続けていた。勝者は敗者を支配し、歴史と記録を塗り替え、消し去り、やがて勝者も新たな勝者に、敗れる。
 この世界はいずれ、狩猟を根幹とした小規模な都市国家が散在する、より原始的な姿へ退化するだろうと言われていた。
「狩兵見習い、ピトハナ参ります!」
 他の区画ならば、わずらわしげに振り向きもするだろう職人たちは、ここではこちらに注意すら払わない。ピトハナがアニッタを訪れるのは日課になっていて、彼らも慣れ切っているのだ。この小うるさい部外者をどんなに煙たがろうと、ピトハナを追い出す術はなく、職人らも、無視を決め込むようになっていた。
「ピトハナー!」
 高くなっている入口から見下ろす視界の底、赤黒くたぎる光が、蟲のように鈍く這っている。光は、一つ方向へ規則正しく蠢いていた。
 その鈍い光源に照らされ、小さな影が高々と、手を振っている。巨大な装具課のドームの底へ駆け降りながら、ピトハナはアニッタの声に応え、手を振った。
「走ったら溶けるよー?」
 慌てて、足をいなしながらも、アニッタのそれは多分、冗談なのだろうと、ピトハナは口の端で笑って見せた。辛うじて笑えたものの、やはり顔は、引きつっているのだろう。
 幾つもの筋に沿って、規則正しく蠢いて見えたものは、全て熱されて溶けた金属だった。こんなところで転がろうものなら、実際に彼女の言う通りになる。自らの技術を誇る事をいとわない、あの尊大にして傲慢な職人連中ですら、この場所で走るのを見た事がなかった。孤児として拾われ、ここで育った彼女だけが、それら液化金属の通り道を全て覚えていて、ドームの中を自在に駆け回る事ができるのだ。
 不意に目をやると、ドームの反対側で巨大な窯が、轟音と火花をまき散らし、溝の中へ新たな金属を流し込んでいる。数千度の熱を生じさせるあの窯は、掘られた溝の数だけ同じものが据えられていて、それぞれに異なる金属を吐き出している。その流れに人が飲み込まれようと、不純物が混じったと、職人が顔をしかめる程度の影響しか及ぼさず、金属は唯々流れて行くだけのはずだった。
 背筋に冷ややかのものを感じ、彼は咳払いを一つ、してみせた。
 彼女が不思議そうに首をかしげ、覗き込んで来る。
「熱風で肺、焼かれちゃった?」
「だ、大丈夫だから。風邪を引いた? とか、火傷してない? とか、もうちょっと浅い心配をしてよ」
「浅い所なら、少しぐらい削り取っても平気だよ」
 アニッタがにこと笑うと、華が咲いたような風情だった。白かったらしい彼女の工房着は、とうに焦げてすすけて、暗灰色に染まり、彼女自身の頬も髪も、黒い炭が張り付いている。それでも彼女の、春の陽のような笑みは、覆いようもない。ピトハナは思わず、彼女に見惚れ、呟いた。
「……そうか、そうだよな、皮膚とか肉とかなら、何とかなるよな」
「うん、何とかなるよ!」
 果たして自分は、軍事機密に彩られた薄暗いドームの底で、皮膚とか肉の話を、少女としたくてやって来たのだろうか。無論、少女の皮膚や肉に興味はなくもないが、それは外科的な意味では、決してないのだ。
 ピトハナは、二転三転する意識を、しきりに叱咤した。ここで彼女の調子に巻き込まれてしまえば、いつものように、何事も切り出せずに終わってしまう。
「あに……」
「そうだ! ねぇ! これ見てよ!」
 話しながらアニッタは駆けていて、ねぇで液化金属の溝をまたいで跳び、これで奥に置かれていた何かを掴み、見てよで、既にピトハナの元へ戻っている。
 近頃、急速に個体数を増やしているという、俊敏な小型のモンスターであるケルビとかいう新種も、ああは機敏に動けないだろう。
「ロアの甲殻をね、分けてもらったの!」
「ナイフ……? ロアの!?」
 手渡されたものは小ぶりの剣で、それを鞘から抜き放つと、確かに鈍く、炎が巻き起こった。まさしく、ロアの体組織だった。
 ロア。
 竜操術が隆盛を極めた時代、人為的に加工し、生み出されたモンスターの名前である。個体の名ではなく、種の名であり、戦場においてはロア級の名で呼ばれていた。ロアは全長十数メートルを超える、大型の四足で走るモンスターで、全身に炎をまとい、周囲のものを焼き尽くしたという。また、そのブレスは数百度に達し、鉄ですら、それを防ぐ事は困難であったそうだ。数騎から数十騎のロア級が、騎乗する人間と共に一列に突撃すれば、それを防ぐ事は不可能であったと、記録されている。
 記録の中での話だった。
 最後に竜操術が確認されて百年。今でも戦場には、稀にモンスターに騎乗する狩兵が現れるとは言われる。だがそれとて、存命の、竜操術時代に調教されたモンスターを、細々使役しているに過ぎない。新たなモンスターの錬成はもちろん、調教の術すら、今はもう失われてしまったのだ。
「房長のタワナンナさんがね、保管されてたロアの体組織を実験に使ったからって。余りをくれたの」
「そ、そうなんだ……。い、いや、アニッタ、俺……」
「それでね、この剣見せたらタワナンナさんが大したものだって! あの人が褒めてくれたんだよ!?」
「俺、週明けに……」
「今度ね! もっと大きい刃物を打たせてもらえるって! これっていよいよ職人! って感じじゃない!?」
 切り出す度、ピトハナは言葉を飲んでしまった。
 アニッタは、孤児だった。何処かの戦場で拾われたのか、物心つく頃にはもう、この工房にいたのだそうだ。彼が彼女と出会ったのも、その頃だった。身寄りもない彼女が、曇りのない笑顔で工房の雑用をこなしているのを、遠巻きに見詰めていた。やがて話をするようになり、工房の外に使いへ出る度、彼女と会うようになった。幼い頃は知りもしなかったが、彼女は工房内では酷く差別されていたらしい。孤児であった事を元に、随分と長く見習い以下の扱いをされていたようだ。それも全て、彼が長じて後に知った事で、彼女の口からは、何も聞かされた事はない。
 工房の職人になる事が、その彼女の夢なのだ。ようやくの事で、苦難の続いた道が開きつつあるのだろう。
「あ、ごめん……夢中になっちゃって」
 興奮のあまり、飛び回っていた自分に気付いたようで、アニッタは慌てて、ピトハナの元へ戻った。ばつの悪そうに、笑って見せる。
「それで週明け? 何かあるの??」
「……い、いや、それは大した事じゃないんだ」
「そう??」
 首をかしげ、アニッタが見詰めて来る。ほんの少しだけ、彼女の美しい灰色の瞳が、見えた気がする。
 この薄暗い工房では、何もかもが溶鉱の照らす、黒か赤か、その合間の色に染まってしまう。陽光の下での、彼女の姿など、職人らは知りもしないのだろう。
「うん。……それより、おめでとう。夢、適いそうだな」
 ピトハナが笑顔を作ると、はにかんだように、アニッタは笑った。
 ようやく、苦難の道が開けたのだ。そんな事を前に、自分の想いなど如何程でもない。
 彼は、見てほしいと手渡されたロアの剣を、溶鉱の光にかざした。握った柄の感触は、工房の物としては劣るが、市販のような刃物とは比べるべくもない。手に、たちまちに馴染んで来る。他方で、刀身の造詣には目を見張る物があった。刃を均一に磨くのではなく、素材であるロアの強靭な甲殻を活かし、ほとんど視認できない範囲で、凹凸を随所に残している。微細な凹凸が残る事で、刃こぼれしにくい事はおろか、恐らく実戦の斬り合いにすら、耐える堅牢さを備えているはずだった。
 さらに、摩耗により炎を発するというロアの甲殻の性格上、対象への接触面が増えるという事は、その火勢を強めるという事でもある。ナイフは、切ったものをたちまちに、炎に包み込むだろう。
「……良いと思う。うん……」
 柄に頬を当て、溶鉱の灯に刀身を透かし見ても、作りは見事と言えた。柄や鞘など、武器としての周囲には稚拙さも垣間見えるが、戦う道具としての機能は、相当に優れて見える。
 といって、ピトハナとて見習の狩兵に過ぎず、そんな自分の見立てがどれ程正しいのかは、彼も重々承知していた。
「トゥシャには、この事もう言った?」
「うん、喜んでくれてた」
 眺めていた剣を、鞘へ収めつつ、ピトハナがたずねると、案の定の答えが返る。アニッタが自分よりも先に、トゥシャへ報告をしていた事への、微かな寂しさと悔しさへ、彼は報いた。
「本当に喜んでた?」
 怪訝そうに眉をしかめて見せると、予想通り、アニッタは口を尖らせて、心外そうな表情を見せる。
 そんな顔を見られただけで、ピトハナの気は紛れたのだが、今度は彼女の気が、済まないらしい。
「トゥシャに聞いてみれば良いでしょ」
「いや、良いよ」
 笑いながら言ったのだが、その時にはもう、ピトハナはアニッタに腕を掴まれ、工房の階段を上っていた。
 良いから。
 ダメ。
 押し問答のようなやり取りが、工房に響く。彼の声は嬉しそうに笑っていて、彼女の声は、心底憤慨したように、低い。いつもの、平凡なやり取りは、工房を出るまで続いた。

↓続きました。
その剣 第三話
2011年01月10日(月) 19:06:57 Modified by orz26




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