最終更新: greenland4 2009年03月16日(月) 03:57:21履歴
「バリケードの日」事件とは、第8次ユグノー戦争のさなかの1588年5月、ギーズ公アンリひきいるカトリック同盟の軍と国王アンリ3世の軍との紛争で、パリ市民がギーズ公側について蜂起した事件。パリ市にバリケードが築かれたことからそう呼ばれる。
1585年のヌムール勅令以来、フランスの宗教戦争(ユグノー戦争は、国王アンリ、ギーズ公アンリ、ナヴァル王アンリ(のちのアンリ4世)による三アンリの戦いの局面をむかえていた。
当初はブルボン家のナヴァル王アンリが教皇より破門され、ギーズ公と国王はともに新教徒のアンリ・ド・ナヴァル征討軍を出したが、旧来からの名門貴族の特権の擁護を主張するギーズ公と、貴族の力を抑制し王国の求心力を失いたくない国王との距離はしだいにはなれた。
パリではギーズ公を支援するカトリック同盟が勢力を持ち、カトリックとプロテスタントの間で不穏な状況となった。
当初国王アンリ3世はギーズ公アンリと組んでブルボン家のアンリにあたっていた。ブルボン家のアンリは、1587年のクートラの戦いで国王軍に勝利し有利な立場にあったが、このような状況のなか、1588年、ギーズ家の勢力が拡大することに脅威を感じたアンリ3世はギーズ公アンリのパリ立ち入りを禁止した。
これに対し、ギーズ公アンリはわずかな従者を連れただけでパリに潜入、パリの民衆もこれを歓迎した。1588年5月12日、ギーズ公ひきいるカトリック同盟軍と国王軍との紛争で、王位継承を狙うギーズ公がパリに入ったのに対し、国王アンリ3世が軍隊を集めると、パリ市民がギーズ公アンリの側について蜂起し、バリケードを築いて国王軍に対抗した。翌13日には国王アンリ3世がパリを追われ、パリの南、ロワール川中流のブロワの宮殿に落ち延びた。
パリ市民の支持を失った国王はシャルトル、ルーアンなどへ移った。その後、12月にアンリ3世の刺客がブロアで全国三部会?に参加中のギーズ公を暗殺している。
当初はブルボン家のナヴァル王アンリが教皇より破門され、ギーズ公と国王はともに新教徒のアンリ・ド・ナヴァル征討軍を出したが、旧来からの名門貴族の特権の擁護を主張するギーズ公と、貴族の力を抑制し王国の求心力を失いたくない国王との距離はしだいにはなれた。
パリではギーズ公を支援するカトリック同盟が勢力を持ち、カトリックとプロテスタントの間で不穏な状況となった。
当初国王アンリ3世はギーズ公アンリと組んでブルボン家のアンリにあたっていた。ブルボン家のアンリは、1587年のクートラの戦いで国王軍に勝利し有利な立場にあったが、このような状況のなか、1588年、ギーズ家の勢力が拡大することに脅威を感じたアンリ3世はギーズ公アンリのパリ立ち入りを禁止した。
これに対し、ギーズ公アンリはわずかな従者を連れただけでパリに潜入、パリの民衆もこれを歓迎した。1588年5月12日、ギーズ公ひきいるカトリック同盟軍と国王軍との紛争で、王位継承を狙うギーズ公がパリに入ったのに対し、国王アンリ3世が軍隊を集めると、パリ市民がギーズ公アンリの側について蜂起し、バリケードを築いて国王軍に対抗した。翌13日には国王アンリ3世がパリを追われ、パリの南、ロワール川中流のブロワの宮殿に落ち延びた。
パリ市民の支持を失った国王はシャルトル、ルーアンなどへ移った。その後、12月にアンリ3世の刺客がブロアで全国三部会?に参加中のギーズ公を暗殺している。
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