最終更新: greenland4 2009年02月15日(日) 06:38:58履歴
ヴァシーの虐殺とは、1562年、フランスで起こったギーズ公フランソワによるプロテスタント(新教徒)の虐殺である。36年におよぶユグノー戦争の幕開けとなった。
1962年3月1日、小部隊をひきいてフランスのシャンパーニュ地方のヴァシーを通りかかった熱烈なカトリック信者のギーズ公フランソワは、市内で数百人のカルヴァン派(ユグノー)が礼拝集会を開いているとの知らせを受け、ただちにみずからの兵士に襲撃を命じた。この事件で虐殺された者は30人におよんだ。負傷者は120人以上であった。
16世紀中葉以降、フランスでは貴族から農民にいたる幅広い階層にカルヴァン派の教えを信仰する新教徒が増えた。かれらは、カトリック側からはユグノーと称された。カトリックとユグノーの対立は激化し、ことに1559年の国王アンリ2世の死後、フランスは内戦寸前の状態となっていた。ギーズ公はフランソワ2世の王妃メアリ・スチュアート?の縁者として権力をふるい、「異端」の迫害にのりだすと、反ギーズ派のコンデ親王やコリニー提督がユグノー派の指導者となり、宗教対立は政治対立へと発展した。
1560年にフランソワ2世が急死、王弟でわずか10歳のシャルル9世が王位を継承すると、母后カトリーヌ・ド・メディシスが摂政として実権をにぎった。彼女は内戦を回避するため、両者の和解をはかり、1962年1月17日、ユグノーに都市郊外での礼拝を認める一月勅令(サン・ジェルマン勅令)を発布した。しかし、これはかえって火に油をそそぐ結果となり、カトリック教徒の怒りを招いて衝突が不可避の状態となっていた。すなわち、3月1日の礼拝集会が市内でおこなわれていたところから、ギーズ公は、それを逆手にとって勅令違反として虐殺を正当化したのである。
なお、事件に先だって2月には高等法院が勅令の登記を拒否するというできごとが起こっている。
1560年にフランソワ2世が急死、王弟でわずか10歳のシャルル9世が王位を継承すると、母后カトリーヌ・ド・メディシスが摂政として実権をにぎった。彼女は内戦を回避するため、両者の和解をはかり、1962年1月17日、ユグノーに都市郊外での礼拝を認める一月勅令(サン・ジェルマン勅令)を発布した。しかし、これはかえって火に油をそそぐ結果となり、カトリック教徒の怒りを招いて衝突が不可避の状態となっていた。すなわち、3月1日の礼拝集会が市内でおこなわれていたところから、ギーズ公は、それを逆手にとって勅令違反として虐殺を正当化したのである。
なお、事件に先だって2月には高等法院が勅令の登記を拒否するというできごとが起こっている。
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