1559年、
カトー・カンブレジ条約が結ばれ、その和平の象徴として、アンリ2世の妹マルグリットとサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト、アンリ2世とカトリーヌの娘エリザベートとスペイン王
フェリペ2世が、それぞれ結婚することが定められた。フェリペ2世にとっては、イギリスの
メアリ1世?(「ブラッディ・メアリ」)没後の妻となった。
同年、カトリーヌが制止したにもかかわらず、その婚儀の祝宴の一環で行われた
モンゴメリ伯ガブリエル(ガブリエル・ド・ロルジュ)との馬上槍試合において、アンリ2世は偶発的に右目を貫かれ、それがもとで40歳で死去した。このことは彼女に衝撃を与え、それ以来、カトリーヌは生涯にわたって喪服を着用している。この不慮の事故によってカトリーヌは、摂政として政治の表舞台に立ち、その政治手腕が発揮される事となった。彼女は、おそらくマキャヴェッリの「君主論」を読んでいたとされる。
なお、夫とは冷え切った関係であったカトリーヌであったが、夫を死に追いやったモンゴメリ伯を許そうとはしなかった。臨終間際のアンリ2世がモンゴメリ伯の過失を許したにもかかわらず、イングランドに追放。さらに
1574年には捕虜となったモンゴメリ伯を斬首させている。
12年間をフランス王妃として過ごしたカトリーヌは、フランス王
フランソワ2世の母后となった。即位当時のフランソワ2世はわずか14歳で、若き王の威光は、拡大するプロテスタント勢力に歯止めをかけようと企図するカトリック勢力によって利用されることとなった。カトリックの大貴族である
ギーズ公フランソワと、弟のロレーヌ枢機卿が、外戚として国王フランソワを意のままに動かそうとしたため、カトリーヌは、彼らのプロテスタントに対する強硬策を緩和するため、しだいに国政へかかわるようになっていった。
1560年にフランソワ2世が世を去り、弟の
シャルル9世が11歳でフランス王となった。カトリーヌ・ド・メディシスは、未成年の王が成人するまでの3年間摂政をつとめた。しかしその後もシャルル9世がみずから国政をとることはなかった。カトリーヌは公文書にかならず自分の紋章を押印し、これにより王の権威はしだいに弱まっていった。
1560年には、異端の罪を犯した異教徒に対し、改宗宣言をすれば恩赦を与えるとの勅令を発布しており、翌
1561年には、カトリーヌとミシェル・ド・ロピタルの尽力により、ポワシーで新旧両派の会談がもうけられたが、和解の望みなく論争に終わっている(
ポワシーの会談?)。
1562年には、
一月勅令(サン・ジェルマン勅令)を発布し、一部の地方でプロテスタントの信仰を認めたが、それに不満な
ギーズ公フランソワの陰謀で、数十人のプロテスタントがシャンパーニュ地方のヴァシーで虐殺される事件が起こった(
ヴァシーの虐殺)。これにより、コンデ公はプロテスタント軍を結成し、フランス国内は内戦の泥沼へと突き進んでいった。
カトリーヌは、宗教戦争が激化するなかで、弱体化する王権を維持しようとたえず努めた。息子のシャルル9世がフランス王としての成人年齢である13歳に達するや、王国全土の臣下に会わせるため、国王シャルルをともなってフランス一周旅行に出ている。
1564年から
1566年にかけて、シャルルは地方議会の訪問などを通し、国王としてのつとめを学んだ。カトリーヌはこの旅行を機に、依然として脆弱な地方と国王のつながりの強化をはかった。
カトリーヌは
マキァヴェリの影響を受けた、質の高い政治技術をもフランスに持ち込んだ。彼女は秘密主義で謎が多く、計算高い面も多かったが、それでも母后としての責務を果たそうと努力していたことは疑いないことである。