朝鮮人戦時動員、いわゆる強制連行に関するウィキです。

いわゆる朝鮮人強制連行について、多くの人が「強制連行された人数は何人だったのか?」という疑問を持つようです。

しかし、この問いに答えることは容易ではありません。第一に「強制連行」をどのように定義するかでその人数は変わります。第二に、終戦直後に多くの関連書類が焼却・破棄されたこともあり、現在見ることのできる史料だけでは不明な部分、あるいは史料によって数字が食い違っている部分も少なくない、という事情もあります。また、この限られたスペースで、人数に関する史料の全てについて言及することは不可能です。よってここでは、大まかな概要を示すだけにとどめておきます。


まず、終戦直後の1945年10月にアメリカの要請によって厚生省が作成した「朝鮮人集団移入状況調」という史料があります。この史料によると「募集・官斡旋・徴用」による日本への動員、および日本へ動員された朝鮮女子勤労挺身隊員の「移入実数」は667684人となっています。


ただ、この史料には朝鮮女子勤労挺身隊員の人数が750人となっているのですが、別の史料では富山県内への動員だけでも2800人はいたとされており、この数は少なすぎると思われます。また終戦の年の1945年の人数については推定数であるため、正確なところは分かりません。


また、この統計に含まれないと推測される動員として「朝鮮農業報国青年隊」というものがありました。これは1940〜44年に日本内地の農家の労働力不足を補うため朝鮮の農民を動員したもので、吉沢佳代子氏の調査した範囲ではその総数は1975人であったといいます。


以上は日本内地への「労働動員」についてですが、それに加えて兵士として、あるいは軍要員として日本内地に動員された朝鮮人もいました。前者については塚崎昌之氏によって65000人という推定数が出されており、後者については69997人という記録が残されています(大蔵省管理局「日本人の海外活動に関する歴史的調査」1947年)。


これらの数を合わせると、日本内地に動員された朝鮮人の総数は80万人以上と考えられます。



ただし、ここで注意しなければならない点が二つあります。一つは、戦時中に日本に渡ってきた朝鮮人の全てが戦時動員によるものというわけではないということ。そしてもう一つは、上記の80万人の朝鮮人全てが終戦まで日本にいたわけではないということです。募集や官斡旋、徴用については契約期間はおおむね二年とされていました(もっとも戦争の長期化による労働力不足から契約期間を延長された例も多くありましたし、動員先から逃亡したものの、朝鮮に帰れずに日本に残った人もいました)。また朝鮮農業報国青年隊が動員されたのは農繁期の一ヶ月ほどだったため、先に挙げた1750人のうち、終戦時に日本にいた人数はそれほど多くはなかったと思われます。ちなみに前掲の「日本人の海外活動に関する歴史的調査」には、労働動員の「終戦時に於ける現在数」として368602人という数字が書かれています(ただしこの数字が書かれている表は集計ミスもあるため、正確さには疑問があります)。つまり、「戦時中に増加した内地の朝鮮人の数」がそのまま「戦時動員で内地に連行された朝鮮人の数」ではないということです。



さらに付け加えるならば、上記の数字は「朝鮮から日本内地に動員された朝鮮人」の数です。朝鮮人戦時動員全体を見ると、そうしたケース以外でも、


・朝鮮在住の朝鮮人が、朝鮮内に動員されたケース。
・日本内地に在住していた朝鮮人が、日本内地に動員されたケース。
・朝鮮や日本内地に在住していた朝鮮人が、それ以外の地域(満州・樺太・中国・南方など)に動員されたケース。


があります。海野福寿氏は戦時労務動員の概数として400〜413万人という数字を挙げています(「岩波講座 近代日本と植民地 五」に収録された論文「朝鮮の労務動員」p122。ただし兵力動員・慰安婦・勤労報国隊・女子挺身隊・学徒動員等を除く)。


こうしたケースは、通常「強制連行の数」にはカウントされておらず、また日本への動員に比べるとそれほど研究は進んでいません。しかしこうしたケースでも、やはり日本への動員と同じような強制労働・民族差別の問題があったと思われます(史料)。ちなみに当時の朝鮮人の人口は約2400万人、その中で16歳以上40歳未満の男子が420万人ほどでした。その中から400万人以上の人が何らかの形で動員され、それによって精神的・肉体的苦痛を受けたり、命を奪われた人が少なからずいました。


朝鮮人戦時動員について考える時、単に統計上の数字のみに注目するのではなく、生活を破壊され、人生を狂わされたひとりひとりについて思いを馳せることが大切だと思います。

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