GENOウィルス蔓延中! うつらないうつさない  このWikiは2ちゃんねるBBSPINKの「金の力で困ってる女の子を助けてあげたい」スレのまとめサイトです

クリスマスも終わり、正月までもうすぐの頃。
そろそろ夜が訪れるかの時間で、俺は書類の山を片付けていた。

「ったく。人様が辞める前だってのに、なんでこんなに仕事を押し付けたのか」
「『辞める前のひと仕事をするから必要なら机の上に全部置いておけ』。
 そうおっしゃったのは社長本人ですよ?」
「だからってこの山は何だこの山は。いつもの三倍はあるぞ」
「それでももうすぐ終わるんですから社長は異常です」

机の上に積み重なった書類の山。山。山。
机越しにドアが見えないほどの書類ってどうよ。
まぁ、秘書の言うとおり、もうすぐ終わるんだけどさ。

「そもそも何でデータにしないんだ」
「社長のサインが必要な書類ばかりですので」
「……茶」
「かしこまりました」

秘書がドアの向こうに行ったのを確認して、休憩……出来る筈もなく。

「腱鞘炎確定か。もう、そんな事もなくなるが……」

何の感慨もなしに、そうつぶやく。

一つの目的があって建てたいくつもの会社。
紆余曲折があったにせよ、どの会社も大企業と肩を並べるまでに成長した。
この会社もその一つで、このまま順調にいけばほかの大企業と同様に肩を並べられるだろう。

「金が欲しくて建てたわけじゃないんだけどな……」
「なら社長はどういった理由でこの会社を創設なさったのですか?」
「ただの好奇心だよ。この会社ならどこまでいけるのか」

いつの間にか戻っていた秘書に驚くことなく、左手でトレイから緑茶を奪ってひとくち。
その間にも、目は活字を追って右手はペンを走らせる。

「……この茶ももうすぐ飲めなくなるな」
「ならやめなければいいじゃないですか」
「もうこの会社に対しての興味は失せた。会社にとってもそんな俺は害になるだけだ」
「社長らしいですね……」

諦めたように秘書はため息をひとつ。
そんなことは知らずに、俺は最後の一枚にサインを走らせた。

「さて、ようやく終わった。屋上でたばこを吸って帰るから。
 見送りはいらんと重役共に言っておいてくれ」
「かしこまりました。……どうかお元気で」
「何今生の挨拶かましてんだ。気が向いたらタバコでも吸いに来るから」

軽く苦笑をして、壁に掛けてあった上着を羽織り、社長室を出た。
気が向いても来ないであろう、屋上に向かって。

階段を昇るにつれ、だんだんと気温が下がってくる。

「コーヒーでも買ってくればよかった」

一人ごちりながらも、一歩一歩上を目指す。
もうすぐ屋上へのドアが見えるところで違和感が走る。

「いつもより寒い……開いてるのか?」

果たして、予感的中。
暖房代がもったいないと、会社を辞めたのにそう思った。

さらに違和感。
叫び声とどなり声がドアの向こうから聞こえる。

「ゆっくり煙草吸いたいんだがな……」

まぁ、辞めた身だ。
大人しく端の方で煙草でも吸いましょうかというところで。

「まだ期日まで時間があるじゃないですか!」
「その期日までに払えるのか!あぁ!?」
「それは……」

そんな会話が聞こえた。

「人様のビルで何やってんだか……」

そんなことを思いながらも、きっと知り合いの所だろうと踏みながらドアを抜ける。

「何してんだ?」
「あぁ!?テメェには関け……って旦那!?」
「旦那はやめろとあれ程。それより人のビルで何してんだ」

的中。
知り合いの組の人でしたよっと。
そんなことを片隅に思いながら話を進める。

「いえ、この女が借金を返すアテがないもんで。それより、ここのビルは旦那が?」
「ああ、たった今辞めたばかりだけどな。最後に煙草吸って帰ろうとした時にコレだ」
「それは……すいやせん。すぐ引っ込みますから」
「いや、それよりコーヒー買ってきてくれ。その間に話つけるから」
「……わかりやした」

そう言ってドアの向こうに消える……誰だっけ?

「……まぁいいか。で、あんたの借金はおいくら?」
「……あなたに話す必要はありますか?」
「救いかどうかは知らないが、差しのべられた手をはたくなら必要ないな。ただ、その手を握らないと闇に沈むのは目に見えている」
「……あなたは何者ですか?」
「話の下りでわかってくれるとありがたいんだが。この会社の元社長だよ」

煙草を取り出して、火を点ける。

「まぁ、手をはたくつもりならどっかに失せてもらえるとありがたい。この場所で吸う最後の機会なんでね。ゆっくり吸いたいのさ」
「……」

考えあぐねている様子。
薄い上着にぼさぼさの髪、ボロボロの手と痩せた体。
ずいぶんと苦労しているらしい。
年端もいかない娘だろうにと思いながら、紫煙を肺に入れる。

「……5億」
「ん?」
「5億……です」
「ふーん、5億ねぇ……まぁいいか」

胸のポケットから小切手とペンを取り出し、5をひとつ、0を8つ書いて渡す。

「ほれ、アイツに渡してとっとと消えろ」
「……受け取れません」
「アンタの事情なんか知らない。人様の事情になんか興味がない。物思いに浸るのに邪魔だ」
「……そんな理由で受け取れません」
「金持ちの道楽。理由はこれで十分だ。存在が邪魔だからとっとと失せろ」

吸い終わったたばこを携帯灰皿に入れて、小切手を強引に握らせる。
小さい、冷たい手だと思いながら。

「受け取れません!そんな理由で受け取れるほどの金額じゃないです!」

そう叫んだ少女は、小切手をビリビリに破いて捨てた。
小切手の欠片が、風に流されてゆくのを見ながら、
舐めたことをしてくれる、そう思った。

「調子に乗るなクソガキ。そんな事を言うなら、なぜ消えなかった?
 最初に言ったはずだ。差し出された手を握るかその手をはたいて闇に沈むかだと。
 そんな理由?ならアンタが納得のいく理由を言ってみろ。
 誰もが感動するような理由が欲しいなら小説でも読んでろ。
 この世界は、そんなくだらない道楽で廻っている。
 搾り取られるだけの弱者が、奇麗事を言ってる暇なんて無い程の速さでな」

もう一度小切手に同様の金額を書いて渡す。
煙草が吸いたいと、くだらないことを頭の片隅で思いながら。

「もう一度言う。アイツに渡してとっとと消えろ」
「……」

それでも、力なく首を振る少女。
そろそろ飽きてきたところで、組の……もう組員Aでいいや。
組員Aがやって来た。

「旦那。お待たせしてすいやせん」
「いや……丁度いいかね。悪いんだけど今から爺さんの所に行きたいんだ。車出してくれないか?」
「……どうしたんすか?」
「存外強情でさ。久しぶりだし爺さんに直接渡す」
「わかりやした。この女はどういたしやすか?」
「本人次第。アンタはどうするんだ。爺さん……組の会長の所に行くかい?」

俺が借金を払うことに対して、諦めたのだろう。
おずおずと、それでもしっかりと彼女はうなずいた。

シミ一つない畳。
金のかかってそうな掛け軸。
その下にはこれまた高価な壺。
真新しい障子の向こうには、何匹もの鯉が悠然と泳ぐ池。
年代物の座卓の上には茶が三つに小切手。
そんな金のかけすぎた部屋に、俺と爺さんと少女はいた。

服を着た悪鬼。
そんな二つ名をもつ爺さんに小切手を渡す。

「んじゃ、これで足りるよな?」
「ああ、借金分確かに受け取った。おめでとう譲ちゃん。これであんたは晴れて自由の身だ」
「ありがとう……ございます」

ぺこりと、頭を下げる少女。
そんな様子に、爺さんは笑う。
『服を着た悪鬼』なんて二つ名も仕事上での話だ。
内心、心苦しかったのだろう。
冷酷な笑みではなく、朗らかな明るい笑い方だった。

「しっかし……明日は槍が降るのぅ」
「いやいや、核の間違いだろう」
「違いない。病原菌とまで言われたお主がまさか、どこの馬の骨かもわからぬ女の借金を払うとはのぅ」
「固いこと言うなよ爺さん。鬼の目にも涙って言うだろうに」
「この場合、病原菌の情けじゃがな」
「だな。煙草吸うぞ」
「ああ、灰皿はそこにある」

煙草に火をつける。
紫煙が肺を犯す感覚が体に満ちると同時に爺さんが話しかけてきた。

「で、どうするんだ?」
「なにを?」
「この娘。このまま家に帰すのも悪くないが、家はもうないぞ?」
「……は?」

驚いて少女の方を見る。
相も変わらず、彼女は自分の足元を見つめていた。
改めて爺さんの方に向きなおる。

「爺さんが?」
「いや、儂とは違う組の奴らじゃ。新参の若造どもが儂の領地を荒らしおった」
「……彼の悪鬼、老いて力を、衰わす。か」
「誰が老いた誰が」
「まずは鏡を見ろ。話はそれからだ」

所々禿げた白髪の頭。
皺がよりきって真っ直ぐなところがない肌。
儂口調。
さて、齢70以上のどこが老いていないというのか。
小一時間ほど問い詰めたいが、時間がないので割愛。

「で、どうするよ?それなりの家と真っ当な職、当面の生活費は保証してやれるけど?」
「偉くなったもんだのぅ坊主」
「偉くなったつもりはないが、これでも色々な企業を成功させたもんでね。……当初とは打って変ってだが」

遠い憧憬に思いをはせながら、煙草の火を消す。
……最近煙草を吸う本数が多くなってきたな。

「それより、坊主の家で侍従させるのはどうじゃ?」
「おいおい、冗談が厳しいんだが?」
「至極真っ当な意見のつもりじゃが?」

いけしゃあしゃあと、こんなことをのたまうジジイ。
俺のトラウマを知っているくせしやがって。
そんなことはつゆ知らず。
爺さんはつえを使って立ち上がる。

「どうした爺さん?」
「久しぶりに知人が来たんじゃ。それなりのもてなしはせにゃならん。
 準備にそれなりの時間がかかるから、その間に決めればいい」
「……へーよ」

ため息をひとつ……どうしろと。

障子の向こうに消える爺さんを尻目に、
俺は爺さんがいたところに移動する。

「で、どうするんだ?さっきも言ったとおり、それなりの家に真っ当な職、当面の生活費は保証してやれる。
 何か必要なものがあれば、その都度言ってくれれば用意できるしな」
「……」

少女は何も答えない。
ただただ、うつむいているだけだった。

「何か言ってくれないと始まらないんだが」
「……働かせて下さい」
「ん?ああ。どこで働くんだ?いろんなコネを持ってるからそれなりに選択肢は―――」
「―――あなたの所で、です」

……今何て言った?

「……ああ。さっきの会社か。辞めたばっかりだけどまぁ大―――」
「―――あなたの下で働かせて下さい」

顔をあげて力強く、少女はのたまった。

「……すまんが無理だ」
「何故、ですか」
「……精神的な問題。これの一言に尽きる。大体、もうちょっとマトモな選択肢があるだろう。
 OLとか、経営者とか、実力があるなら女子アナにもなれる。本音を言えば、これ以上アンタとかかわるつもりはないんだ」

二本目の煙草に火をつける。
もうすぐ無くなるな……後で買いに行くか。

「さっさと決めてくれ。そろそろ面倒になってきた」
「……働かせて下さい」
「あのなぁ……」

会社を降りて、久しぶりにゆっくりできると思ったのに……
こんなところで疲れるとは思わなかった。

「……ひとつ、昔話をしようか」




それはある日の憧憬。
いつか見た行動原理。
そして、俺というパズルを構成する一つのピース。



 ……ある所に、幸せな夫婦がおりました。
 そんな夫婦に、子供ができました。
 ですが、子供が出来たところで、夫婦はけんかになり、やがて離婚しました。
 子供は母にの下ですくすくと育ちました。
 ですが、子供が5歳になったとき、母は詐欺に引っ掛かりました。
 簡単に返せるような額ではなく、母は闇に沈み、
 子供は孤児院に引き取られました。
 その孤児院はひどい所でした。
 ぎりぎり餓死しない程度の食事を子供たちに与え、
 子供たちに重労働を背負わせました。


 その子供はそこで、人を信用することをやめて、
 道具に執着するようになり、不眠症を患いました。
 子供は15の少年になり、ようやく孤児院を出ようとしたところで、
 母方のおじいさんの遺言が見つかりました。
 100億を相続させること、お屋敷に住んでほしいとのことでした。
 孤児院の院長に5千万ほど渡し、少年はお屋敷に移りました。
 お屋敷に移って半年ほど過ぎたころ、
 院長は5000万を逃げて闇に消えたと、風の噂で聞きました。
 それから少年はお金が嫌いになりました。
 さらに周りは敵だらけ。少年は人間を敵だと思い込むようになりました。


 そして、ふと疑問に思いました。
 なぜ母は闇に沈んだのかと。
 それから彼はいくつもの会社を立ち上げます。
 到底上手くいくとは思えないような会社ばかりを。
 どうすれば母のように闇に沈む事が出来るのか。
 それが彼の行動原理でした。
 ですが、その会社は期待を裏切ります。
 到底上手くいくとは思えなかったその会社は、
 いまでは最大手の企業でした。
 子供のころに患った、不眠症と重労働の経験がこんな所で活きてしまいました。


 ある人は言いました。
 「そこまでお金を稼いで何に使うのか」と。
 彼は答えました
 「稼ぎたかったわけじゃない、むしろ闇に沈みたかった結果がこれだ」と
 ある人は責めました。
 「なぜ困っている人たちのために使わないのか」と。
 彼は答えました。
 「そんな貴方は困っている人たちのために何かしているのか」と
 ある人は嘲笑いました。
 「病気ではないのか」と
 彼は笑いました。
 「何を今さら、それに病気ではなく病原菌そのものだ」と。

ある人は呆け、ある人は口をつぐみ、ある人は彼を妬みました。
そんな事もあり、彼の人間不信と道具に対する執着は、一段と激しくなりましたとさ。
それでも彼は止まりません。
自身が闇に沈む、その日まで。


煙草はいつの間にか燃え尽きていた。
ずいぶん長くしゃべったようだった。
注がれていた茶を飲む。
温かった。ただただ……ぬるかった。

「俺はもう、人を…人間を信用しない。俺が信用できるのは……道具だけだ。
 それに、闇に沈みたがっている俺についてきたところで、明るい未来は望めない」
「……」

俺の心情の吐露に、少女は答えない。

「…最後だ、働きたい所を言ってくれ」
「……私は―――」

ようやく、まともな職を言うのかと思ったら違かった。

「―――あなたの道具になります。
 …私を、3千万で買って下さい。
 立花雫という『道具』を、3千万で買って下さい」

少女―――立花雫はこうのたまった。

「……勘弁してくれ。大体、アンタに三千万の価値があるのか?」
「三千万の価値か、1円にも満たぬ価値になるかは、あなたの使い方次第です」
「……何故、そんな簡単に道具になれる?こんな得体の知れない男の道具になるなんて、まずあり得ない選択肢のはずだ」
「ならなぜ貴方は、道具という選択肢をくださったのですか?」
「……病気じゃないか?最低でも、正気の沙汰じゃない」
「あなたが望むなら、私は道具にでも病気にでもなります」

俺は言い、責め、嘲笑う。
少女は、ただ笑って答えるのみ。

俺は呆け、口をつぐみ、そして―――

「……病気は俺だけで十分だ。
 俺の名前は星夜流。お前を三千万で買い取る。
 雫。今日からお前は俺の『モノ』だ」
「……よろしくお願いします」

―――笑って答えることのできる彼女を少しだけ……羨ましく思った。


携帯の小うるさい目覚まし音が、耳元で鳴いている。
枕もとをまさぐり、半分寝ている状態でボタンを押して目覚ましを止めた。

「……どこだ?」

まず視界に入って来たのは、見慣れぬ歪んだ天井。
歪んでいるのは天井ではなく、自分の目だと気付くのに時間はかからなかったが。

「……あー。爺さんの家か」

意識が覚醒していくにつれ、昨日何があったのか思い出してきた。

爺さんのもてなしを受けて、もうすぐ夜更けだからと泊まる事になった俺と雫。
風呂をもらった後、疲れて眠ってしまった雫を布団に移して、自分もほかの部屋に移った。
明日はいろいろ忙しくなるだろうと踏んで、目覚ましを切らずに自分も就寝。

「……5時半? 」
「正確に言うと5時32分ですね」
「そりゃどうも。早いんだな雫」
「持ち主様だって早いじゃないですか」
「そりゃ、今日はいろいろと忙しくなると踏んだからな。
 それよりいくつか質問があるんだが、なんでここにいるんだ雫? 」

借りた寝間着を着たまま、雫は俺の横でただ座っていた……寒そうに体を軽くふるわせて。

「持ち主様がここにいると聞いたので。道具である以上、持ち主様のそばを離れるわけにはいきません」
「それはご苦労なこって……持ち主様って何だ? 」
「私は道具、あなたが持ち主様です」
「……ご苦労なこって。さて、疑問が解けたところで」
「?……キャ! 」

布団から抜け出し、逆に雫を無理やり布団に押し込む。

「何寒そうな格好して座ってんだタコ。今日はお前の用事で色々と駆けずり回るのに、
 自分から体調崩すようなマネをするんじゃねーよ」
「……私の用事…ですか? 」
「俺の道具になるにあたって、当面必要なものの買い出しだ。
 下着や洋服、学校で必要な道具だのお前が仕事するための道具だのと。
 自分の状況をよく考えてみろ。文字通り身一つだろうが」

爺さん曰く、雫の家は燃やされている。
本人はそのことを黙っていたが、黙っているって事は本当のことなのだろう。
さっきも言ったとおり、文字通り身一つなわけで。
今日は色々と駆けずり回る日になるだろう。

「とりあえず俺が戻ってくるまで布団の中で待機。持ち主の言うことは絶対だ。わかったな? 」
「はい……」

軽くうなだれて布団にもぐりこむ雫を背に、俺は居間へと向かった。

特にやる事もなく時間が過ぎてゆき、爺さんの家で朝食を済ませた後、
俺と雫は組員Aもとい、烏丸に送られてある大型百貨店についた。

「それじゃ、用があったら電話下さい」
「ああ、悪かったな」
「ありがとうございました」

車の窓ガラス越しに頭を下げて、烏丸はカーブの向こうに消えた。

「とりあえず社長室に向かうぞ」
「社長室…ですか?」

不思議そうに首を傾げる雫。
……そういえば言ってなかったな。

「このデパートの漢字をひっくり返してみろ」
「えっと、夜星……星夜…あ」
「そうゆうことだ」

大型百貨店『夜星』。
ここが星夜流の出発点。自分の苗字を使うのは面白くない。
でも自分が建てたという意味は残したい。安直な考えではあるが、それくらいが丁度いい。

「首が挿げ替えられたって言うニュースはまだ聞いてないからな。たぶん俺の元秘書、現社長がいる筈だ」
「元秘書……ですか」
「なかなか有用な奴がいなかったからな。
 俺の仕事についてこれたのがあいつだけだから後釜に座らせただけだ。
 ……ああ、一つ言い忘れていたが。役立たずな道具はいらない。意味はわかるよな?」
「はい……」
「精々がんばりな。あの時素直に金を受け取らなかったこと、後悔させてやるよ」

不味いな。スイッチが入っちまった。経営者としての星夜流になっちまった。
……あれ?どこがまずいんだっけ?

鬼が悪戯を思い付いたらこんな顔になるんだろう。凶悪な笑みが顔面からはがれない。

「……精々、頑張らせていただきます。あの時私を拾った甲斐があると、
 絶対に思わせて見せますから」

一瞬、凶悪な笑みが凍った。
次に浮かんだのは、挑戦的な笑みだった。

「ほぉ、言うねぇ……その言葉、絶対に忘れるなよ」

絶対に後悔させてやる。
……アレ?オレコンナニサドダッタッケ?

「……まぁいいか」
「?」
「ああ、独り言。今日は記念日だ。
 好きな物を好きなだけ買っていい。好きなだけ贅沢に溺れろ」
「いいんですか!? 」
「ああ、今日という日を楽しめ」
「ありがとうございます! 」

気楽にはしゃぐ雫を見て、ある言葉を飲み込んだ。
明日からは……地獄の方が生温い日々が続く。
そんな言葉を。

「……」
「どうかしたか?」
「……なかなかお目にかからない部屋だなと思って」
「こんな部屋があるのはここだけだろうよ」

暇があってはあんまりいけない部屋。
そんなドアプレートの掲げられた部屋をノックする。

「はーい。どうぞー」

数秒後にドア越しから返事をされた。
存外お暇なようだ。

「暇そうだな」

ドアを開けて、第一声が、
『失礼します』ではなく『暇そうだな』ってのはどうかと思うが。
それはともかくとして、部屋の主は机の上に山積みにされた書類に埋もれていた。

「いえいえ、全然暇ではないのですが」
「その程度の書類で暇じゃないとかどれだけトロいんだ」
「……先ほどから何様のつもりですか?」

おやおや、存外ご機嫌斜めの様子。
そんなことは知らんがね。

「何様だろうな?最低でもこの会社の元社長のつもりではあるが」
「元社長でも現社長でもこの書類の……元、社長!?」

書類の山の上に顔を出して俺の顔を確認しようとしているらしい。
……机の上に1メートル近くも積んである書類じゃあ、140の身長では無理だろう。
ピンと伸びた白髪の寝ぐせがかすかに見えるだけで、
諦めたらしくトテトテと机を周り、俺の顔を見て驚いていた。

「社長!」
「社長はお前だ。気分どうよ?」
「最悪です!連絡の一つもくれたっていいじゃないですか!」
「連絡しないのはいつも通りだろう」
「それはそうですけど……」

なんかもう諦めた表情でうなだれるのは、
大型百貨店『夜星』の代表取締役、桜井綾乃。
早い話がこのデパートの社長だ。
俺の仕事についてこれたのは実質コイツだけで、
俺が抜けると経営が傾くということで、コイツに後釜を座らせたわけだが。
新人社員に迷子と間違えられて、
迷子センターで社員が土下座をしたという、下らないエピソードがあるのは社員の間で有名な話だ。


「……楽しそうだな?」
「ええもう本当に……お茶の用意をいたしますので」
「よろしく」

そんなに長居をするつもりはないが、
そんな言葉を飲み込んで、ドカッとイスに座り込む。


「……そちらの方は?」
「ああ、紹介が遅れたな。コイツは立花雫。あとは察しろ」
「立花雫です。よろしくお願いします」
「ああこれはご丁寧に。桜井綾乃です……って違う!」
「……何がだ?」

灰皿があったので、ここはまだ喫煙所だと勝手に思い込んで煙草を吸う俺。
乗ってないのに突っ込む綾乃。
なんかもう色々と諦めたような雫。
……久しぶりにカオスだな。

「『奴隷を拾って夜な夜なSMプレイでガンガンに痛めつけている』
 という噂は本当だったんですね!?」
「随分とまた楽しそうな噂を……」
「だってお爺ちゃんに聞きましたよ!?『あのサドガキ、やりおるわい』って、
 大声で笑ってましたよ!? 」

近くに置いてあったであろう自分のハンドバッグを右手に装備して、
俺に殴りかかってくる綾乃。
いくらバッグでリーチを伸ばそうとしても、140の身長じゃ175の俺には届かない。
煙草を口にくわえながら、右手で額を抑え、左手でバッグを抑える。

「で、いつまでそんな下らない冗談に付き合うつもりだ?」
「……冗談なんですか?」
「残念かどうかは知らないが、爺さんのいつも通りの冗談だろ」
「……あの、お爺ちゃんって?」
「ん?……ああそうか。コイツは桜井源三―――あの組の爺さんの孫娘だよ」

この街に昔から根付いている桜井組。
その二十だか三十だかそれくらいの代で看板をしょってるのがあの爺さん。
俺が生まれる前は相当なやんちゃだったらしく、
曰く『一人でこの街の全ての組を潰した』
曰く『目をつけられたらその日に消える』
曰く『趣味は面子』
……なんだ最後?
まぁそんな曰くがあるからこそ悪鬼と呼ばれていたわけで。
年をとるとかなり丸くなるらしい。
今では近所のガキどもと遊んでるとか何とか。

いつまでも疑問をもった雫にコイツと爺さんの関係を教えてやると、
案の定、雫は驚いていた。
……なんか飽きてきたな。
財布と携帯を雫に渡す。

「雫。色々と時間かかりそうだから先に楽しんで来い。
 雑貨はカード、飯が食いたくなったら現金だ。」
「……連絡はどうしましょう?」
「こっちの携帯の番号がそれに入ってる。マナーなんかにするなよ」
「はい。行ってきます」
「あー……ちょっとまった」

ドアを開けようとした雫を止めて、胸のポケットからメモ帳と印鑑を取り出す。
メモを一枚ちぎって印を押し、雫に渡した。

「……これは?」
「紹介状みたいなもんだ。支払いの時に見せればわかる」
「はぁ……」


首をかしげているが、これは慣れてもらう他無い。
こんないい加減な性格で、よくもまぁ色んな企業を立ち上げたもんだと自分でも感心する。

「……時間は有限だ。とっとと行ってこい」
「はい。行ってきます」

頭を下げて、雫は静かに扉の向こうへと消えた。

「……相変わらずですねぇ」
「三つ子の魂百までだろ?諸説あるが、自分の性格は変えられないってのが持論だ。
 ……そもそも変えようとか思った事もないしな」
「……本当に相変わらずですねぇ」

諦めたような声色をしながら、ようやく俺に攻撃するのをやめた綾乃は、
バッグを定位置に戻し、紅茶の準備をし始める。

「アールグレイですよー」
「赤く染まれば何でも紅茶だ」
「……紅生姜はどうですか?」
「そんなものより砂糖をよこせ」

煙草の火を灰皿に押し付け、よどみなく注がれてゆく紅茶をみる。
6分目まで注がれたカップに、スティックシュガーを5本まとめて投入。
スプーンでかき混ぜるが、2本分くらい解けなかった。

「……糖尿病になりますよ?」
「沈みたがってるんだ。気にしねーよ」

軽く紅茶の香りを楽しみ、チビチビと飲む。口の中が甘くなってゆき、最後の方はジャリジャリしていた。



そんなこんなをして1時間ほど経った頃だろうか。ポケットに入れてあった形態が振動し始めた。
画面を確認すると「バックアップ」の文字。雫に渡してあった携帯のことだ。

「どうした?」
「……星夜、流だな?」

聞こえてきたのは雫の声ではなく、電子的な音……ボイスチェンジャーか?

「……それが、何か?」
「女を預かった。3億持って港区の三番倉庫に来い」
「……随分と楽しそうな事をしてくれる。時間は?」
「1時間だ」

それだけ言って、電話を切られた。
……三番倉庫?

「どなたでした?」
「知らない人。急で悪いがヘリを借りたい」

そんな会話をしながら俺はメモ帳に、ある数字と記号を書き込む。

「……どうかなされました?顔色が悪いですが」
「気にするな。それよりちょっと急いでくれ、ついでにジェラルミンケースとカッター。
 ホットの缶コーヒーと癇癪玉も頼む」
「かしこまりました」

煙草に火をつける。
肺から出される紫煙とともに浮かぶのは、雫の顔。

「ちゃんと着いてってやればよかったかねぇ」
「何がですか?」
「こっちの話。ヘリは?」
「ちまちま使ってますからねぇ、10分ほどでしょうか」
「わかった」

……地獄の方が生温いとは思ったが、さすがにこれは想定外。
俺が見せる地獄ってのはあくまで『社会の厳しさ』だった。
命を危険にさらす? そんなつまらないことを誰がしたいのか聞きたいもんだと。
……さて、この先雫はどうするのか。
危険を恐れて俺から離れるか、自分の言った言葉に縛られるか。どちらにせよ、俺の道具である以上まずは救出だな。

「綾乃、こんな用事」
「……!」

そう言って、俺は先ほどのメモ帳を渡す。
3233"23.82132112.735145.3.351325
こんな風に書かれたメモ帳を凝視し、驚きの色を隠せないでいた。

「爺さんよろしく。他には誰にもしゃべるな」

そう言って俺は煙草の火を消し、屋上のヘリポートへと向かった。


「相変わらず高いもんだな! 」
「高度約2000フィートですから! 」


メートル換算にして約600。
なるほどビルが小さく見える訳だ。

「目的地が見えてます! 」
「どれくらいでつくんだ!? 」
「15分かかりません!」

眼下に広がる街並みと、その先にある海。
その間に見えるのは、港といくつもの倉庫

夜星グループが手掛けているのは百貨店だけじゃない。
農業から始まる第一産業から、果てはアーティストのプロデュースまで。
色んな事業をして倒れたという事例は少なくない。
倒れたかったからこそ手を広げたんだが、残念ながら結果は大成功。
『この街で夜星に出来ないことは、他の誰にも出来はしない』
そんな事まで言われるほど大きくなった―――なってしまったグループ。

だが、そんな中にも例外はある。
それが、今から向かう貿易用倉庫第三番、通称三番倉庫。
つまり貿易業は出来なかったわけだ。

この街は漁業に向かない。
昔は漁業が盛んだったが、盛んであったがために起きた水産資源の乱獲。
早い話が、昔獲りすぎたせいで金になるほど魚が獲れなくなったわけだ。
それを知らなかった地主が大枚をはたいて頭を抱えていたため、
漁業が出来ないのなら別の事業をするだけだと。
相場の5倍もの金で買ったかつての部下。

結果は失敗。
獲れるかわからない魚を追い求めた漁業組合との衝突。
部下の高圧的な態度による取引先の減少。
理由を問われたらこう答えるしかないわけだ。

前者に対してはある程度の妥協は出来る。
元々水産資源をもとに育った街であるため、そう簡単に諦める訳にはいかないからだ。
だが後者は救いようがない。
アメリカで企業戦略を学び、発展途上にあった夜星に入ったかつての部下。
実績はあるが高圧的な態度で周りからの評判も悪かったが、
実績がある以上無碍にするわけにもいかず、
企業戦略を応用して貿易に手を出してみたいと直談判をしてきた。
その度胸を買って任せてみた貿易事業ではあるが、
客といざこざを起こし貿易業から撤退。
それから物置として使われていたため、三番倉庫と呼ばれるようになった。
その後部下は事業の失敗を理由にクビになったわけだが……

「社長!」
「社長じゃねぇ!」
「あー……何と呼べばいいですか!?」
「好きなように呼べ!強いて言うならOBだ!」
「じゃあOB!問題が発生しました!」
「どんな問題だ!?」
「着陸できる場所がありません!」
「なん……だと?」


頭の中にしまった倉庫付近の地形を無理やり引き出す。
………おいちょっと待て。

「小型ヘリなら着陸できるようにスペース空けたはずだぞ!?」
「社長の悪い癖ですよ!あそこにまた倉庫を作ったんです!」
「あのバカ……」


綾乃が有用な理由は俺についてこれたこと。
だが世の中に完璧なモノなどあるわけがなく。
アイツにも欠点がある。
『部屋を片づけられない』
興味本位で一度綾乃の部屋を見たことがあるが……
ゴミ屋敷が裸足で逃げ出す……と言えば解ってもらえるだろうか。
だがさらに性質の悪いことがある。
部屋の中には一切『ゴミ』がない。


『アイツだけが俺に着いて来れた』と言ったが、
『アイツだけが俺の要望に応えられた』と言った方が正しい。

「アレがしたいからコレとソレを三日で覚えてプロジェクト組んで来い。
 ちゃんとアレを踏まえた上でどれが必要かも明記しておけ」

俺が基本するのはこれくらい。
あとはアイツが組んできた企画に穴がないかチェックするだけ。
で、問題はここから。

過去に組んだ企画と企画を混ぜて新しく作るのがアイツの真骨頂。
そのために組んだ企画書を捨てることが出来ない。捨てないから溜まる。
溜まった企画書からまた新しく構想を練る。
その無限ループ。

綾乃が組む企画書の量は一日に20〜30程度。
基本どれも使えるものではあるが、時期、進めている企画の数などの問題で、お蔵入りになるものが多い。
だが企画書は紙である以上劣化する。記憶媒体であるハードディスクも何かしらのアクシデントにより消えることもある。
そこで選んだのが企画書を密封する事。
簡単にいえば、企画書を真空パックで密封して倉庫に放り込んでおくだけ。
で、アレから毎日組んでは密封してを繰り返していたら……

「……アレでもずいぶん整理したんですよ」
「……だろうなぁ」


さてどうしようか、普通に着地できないとなると……


「倉庫の屋根にギリギリまで降ろせ!点検用の梯子から降りる!」
「了解!」


港まで後8分。その間に装備の点検を済ませる。
まずは小道具の類から、癇癪玉、カッター、缶コーヒーにジェラルミンケース。
キャリングベルも完備。

「ああOB!」
「何だ!?」
「不用意にジェラルミンケース開けないで下さいよ!?事故りたくなければ!」
「何を詰めやがった!?」
「催涙ガスですよ!すぐ効果は切れますが、強力です!」

痴漢撃退から暴動鎮圧まで幅広く使われる催涙系。
化学薬品を使い、相手に嘔吐、せき、くしゃみといった症状を出して行動を困難にさせるというものだが。
いい方からして考えれば、それをジェラルミンケースいっぱいに詰め込んだ可能性が高い。


「あとこのテンキーはなんだ!?」
「ダミーです!適当な数字を押してEボタン押せば自動で開きます!」
「ダミーなのにか!?」
「駆け引きに色々使えるとのことですよ!
 あとケースにくっついているゴーグルも持って置いてください!
 かなり目にきますよ!」
「体験済みか!」
「一度やらかしまして!」


一筋縄でいかない相手用。
しかも下手すれば自爆するかもしれない品。
確かに今回はうれしい機能かもしれないが……

「色んな意味で危なっかしくなって来たなアイツも!」
「後釜に据えられた後のストレスなんじゃないですか!?」
「……どんなストレスだ!」
「自分の胸に手を当てて考えて下さいよ!?」

まぁでも戦術の幅が広がったのは大きい。
……ってアイツ何時の間にこんな物作りやがった。
今は感謝しないといけないだろうが、後でゆっくり問いただす。

「そろそろ着きます!」
「ああ!」

降下するべき倉庫は見えてきた。
赤い屋根の大きな……それは違うな。あってるけど何か違う。


「人形遊びですか!?」
「知るかぁ!」


まったく……緊張感が無いのは良いことか、それとも悪いことか。
だが、これでいざという時の心配はなくなる。
緊張がたたって動けなくなるのは最悪の過程だ。
それだけは絶対に避けないといけない。


ロングコートを羽織る。
右ポケットにカッターと癇癪玉を。
キャリングベルトをケースにつけて。
缶コーヒを開けて一口。

「朝じゃないですよ!」
「首領が欲しかったのになぁ!」
「ふざけるのもいい加減にしてください!」
「お前が言うなぁ!」


そんなこんなで倉庫の屋根の上に到着。
目的の三番倉庫までここから5分。
時間的には余裕があるが、出来ればもう少し準備できる時間が欲しかった。


「世話になったな!」
「お礼は一本で!」
「……考えておく!」

スライド式のドアを開け、緩やかな屋根の上に移る。
ドアを閉めて手を振ると、ヘリは来た方向へと戻って行った。

梯子を探しながら、bluetoothに繋いだ携帯で爺さんにコール。
見つけたと同時に携帯が繋がる。

『こちらのお電話は現在使われて―――』
「かすれた声でふざけてんじゃねぇ!」
『何じゃ詰まらん。たまには年寄りのジョークにも―――』
「今回の騒ぎ、例の新参者が介入してるとしたら?」
「……根拠は?」


途端に爺さんの雰囲気が変わる。
珍しく怒気を孕んだその重々しい声を聞くのは久しい。


「やっこさん、バックアップで俺の携帯にかけてきたとき、ボイスチェンジャーを使っていた。
 声をわかりにくくさせたいなら、軽くハンカチを当てるだけでいいのにも関わらずだ。
 そこから浮かび上がるのは、『俺と声を交わしたことのある人物』であることが一点。
 次に取引場所であるこの倉庫。三番倉庫なんて言っているのはうちの社員くらいしかいない。
 一般人なら普通の倉庫で十分通るからな。これが二点目
 んで、新参者が介入しているという根拠だが……」
 
一息ついて。
 
「さらわれたのが俺自身ではなく、雫だということ」
「……面識か」
「物分かりが早くて助かるよ。あの印を押した紙を持たせしまったしな」


以前、雫があそこまで追い込まれたのは、新参者が雫の環境を壊したからに他ならない。
そして直接介入した以上、新参者が雫の顔を覚えている可能性は大。
雫が環境を壊されてからそう時間はたっていない。

そして、数時間前に手渡した、印の押された紙を思い出す。
あの印は、俺の関係者であることを証明するためのモノ。
アレを見せて金を払えば、かさばる荷物を直接俺の家に持っていく。
逐一住所書くのが面倒だからそういうモノを作ったわけだが、今回は裏目に出たらしい。


「さらに根拠付けるならだ」

はしごを降りて、周囲を確認。
綾乃の企画書をしまう以外用事が無いのか、風の音以外何も聞こえなく、
寂れた雰囲気が漂う中、真新しい車の後を発見。
何台もの車が通ったと思われるタイヤの跡は、中々見ない高級車のそれだった。

「爺さん。あんたセダンを保有してないよな?」
「いくらヤクザ御用達とはいえ、アレは趣味が悪くて好かん」
「趣味云々は人様の感性だが、とりあえず何台も通った形跡がある。
 あんたが言うヤクザ御用達の車が何台もだ。何も無い寂れた倉庫にだ。
 はてさて、何の断りも無く人様のシマを荒らした新参者が、またふざけた事をしでかしている
 それを許容できるほどアンタは老いて丸くなったのか?」
「……」
「久々に見せて欲しいもんだね。悪鬼が悪鬼たる姿を。
 それとも本当に老いたのか?桜井組当代組長、桜井源三殿?」
「……焚きつけているのか小僧?」
「焚きつけられるようなマネされるのもどうかと思うがね。返事は?」

数秒の沈黙の後、爺さんの口から洩れたのは笑い声だった。


「うまくなったもんだのう。あと五分でそこに着く」
「焚きつけるのがうまくなったっていうのなら爺さんのおかげだろう。
 息を潜めて来てくれ。あくまで一人で来たということを強調しておきたい」
「あいわかった。プランは?」
「合図を出すから突入よろしく」
「勝算は?」
「聞かれてなければ70%」
「いい数字じゃ。良くも悪くも」


電話を切り、ポケットから取り出したたばこに火をつける。
とりあえずプランは建った。あとはそのプランがどこまで円滑に進められるか。
時間まで10分切ったからこれ以上は策を練れないが。


「……ん?」


ここにきてようやく違和感が沸く。
そもそもここを指定したのはなんでだ?
いや違う、『なんでここを指定できた?』だ。


ここを三番倉庫なんて言っているのは事実社員だけ。
だが今現在社員の中で俺を敵に回して利のある人間はいない。
確かに一見ブラックと間違うだけの仕事量ではあるが、
この不景気の中で他の会社よりも一回りも二回りも給料を出している。
仕事量に見合うだけの休暇も出してあるはずだ。
会社の中で不満があればすぐ対処する以上、その芽は確実に潰していたはず。
あの会社を辞めたとはいえ、obだし今も社長のイスに座っているのは綾乃。
何かあれば、いや、何もなくてもすぐに情報が耳に入る。
その中で特に問題になるようなことはなかった。

「……辞めた?辞めさせられた?」

仕事が出来ないからやめさせるってことは基本ない。
あくまで実力と終身雇用が併合したような会社を目指したからだ。
そりゃ出来なければ給料は多少安いが。
次に不満を持ってやめた人間は、先ほどの通りこれも少ない。
最後に残るのは……


「仕事ででかい失敗をした人間……」


なんで気付かなかったのでしょうか?
あるいは気付きたくなかったのでしょうか?

三番倉庫。端からナンバリングしただけだが、事実ここが最もでかい場所。
本来なら、ここが貿易の拠点だったであろう場所。
ここの責任者であったアイツが最も力を入れていた場所。
なるほど取引場所がここだっていう理由も見当がつく。


「今更になって逆恨みか?もう半年以上前だぞ?」


だが事実、この場所に因縁のある人間はアイツしかいない。
そしてプランを変更するためにもう一度爺さんに電話する。


「ああ爺さん、ちょっと相談があるんだが―――」



要求の時間から30分遅れて、足跡の続く倉庫の扉を開ける。
長い間使われてないことを証明するように、床を厚い埃で覆われた倉庫の中。
光源が少ないのか、倉庫の中は薄暗く。
その中央を陣取るように、十名ほどの巨漢と、後ろに手を回され縛られたであろう雫。
意識はあるのだろうが、猿ぐつわをされてぐったりとしている。
そして。



「お久しぶりですね、社長。ずいぶんと遅い到着で」



その雫の隣に、大失敗をやらかした人物―――柿崎亮がいた。

「社長はもう半年前に辞めたよ。最近立ち上げた会社も昨日辞めたばかりだ。
 それに一時間とは言われたが、三番倉庫のどこまでとは言われてないから探すのに手間取ったよ。
 ちゃんと情報を回さないのはお前の悪い癖だったな、柿崎」
「……そうやってアンタは」


長い文句を言おうとしたのだろうが、後ろの殺気が気になるのだろう。
相変わらず気の小さい男だ。


「一億。ちゃんと持ってきていただけたのでしょうね?」
「時間にはルーズだが本質は守るのがポリシーでね。この中にちゃんと入ってるよ」
 
 
肩にかけていたキャリングベルトをはずして、床に置く。


「ただし、パスワードつきだ。正しい数字を押さないと半径10メートルが吹き飛ぶ」
「……もちろんそのパスワードも解除していただけますよね?」
「先に雫を解放したらな。」


挑発的な笑みを柿崎に向ける。
さてこっからが勝負所。伸るか?反るか。


「……折衝案です。彼女に持ってきてもらいましょう。」
「ずいぶんぐったりしているようだが持って来れるのか?これでも結構重たいぞ?」
「自分の命がかかっているのですよ?死ぬ気でやるでしょうね」



そう言って柿崎は、後ろの巨漢に何かを告げる。
言われた巨漢は、雫の猿ぐつわをはずし、後ろで縛っていた腕を、今度は前に縛り始めた。


「折衝案の割にはずいぶんそっちに理があるように見えるが?縛ったままじゃ動きづらいだろう」
「何かあった時のための用心ですよ。備えあれば憂いなし。でしょう?」
「備え?どう見ても小心者がずいぶんと背伸びしているようにしか見えないのは気のせいか?」


軽く小馬鹿にしたように言うと、顔に赤みを増す柿崎。ずいぶんと癪に障ったようで。

「……あなたは相変わらずですね。私を目の敵のように馬鹿にする」
「目の敵にした覚えはないが、あんな啖呵を切っておいてここがこのザマじゃ、
 馬鹿にされても仕方ないだろう。実に残念だと言うほかないね。
 もう少し度胸があって、その卑屈で見下したような性格と言動がどうにかなってれば、
 綾乃といい勝負だっただろうに」
「……ぃ」
「ん?何か言ったか?不利になるとすぐ声が小さくなるのはお前の悪い癖だ。
 んで切れたら癇癪。まるで子供だな、気の小さくて体がちょっと大人なだけ。
 ああ悪かった。まるで子供じゃなくてまんま子供なんだよな。悪かった悪かった。
 さすがにそこまでは気付いてやれなかったわ。
 いやまさか、俺の会社に入ってきたアメリカで企業戦略も学んだこともある頭のいいやつが、
 まさか中身の伴わない只の子供だったとは思わなかった」
「…る…ぃ」
「だから何言ってるのか聞こえないんだって。ずいぶんと気が小さいのはわかったから。
 もうちっと大きな声で話そうな。それとも本当に気が小さいだけなのか?
 まさか気だけじゃなくて短小とか言わないよな?」
「うるさい!」


さすがにここまで言われて切れたか。とりあえずもうひと押し


「何だ本当に短小だったのか?こいつはびっくりだ。アメリカで企業戦略?
 自信満々に言ってこのザマ。気が小さいうえに男としては不能、いや無能か。
 さすがに言い過ぎたか?いやいや、事実なんだからしょうがないよな?
 ん?短小柿崎君?それともポークビッツのほうがいいか?」
「いい加減に黙れ!」
「黙ってもいいから、早く取引しようぜポークビッツ柿崎?」


アレだけけなされていきなり冷静になれる人間はいない。
けなされた相手に冷静になれと諭されればなおさらだ。
あとはちょこちょこ馬鹿にしていけばいい。
とりあえず第一段階は成功。
本題はここからだ。


「……フン」


とりあえずは冷静になろうとしているのか、
何回か深呼吸をして息をただしている。


「早くしてくれないかなポークビッツ。結構歩いたから疲れてるんだよ」
「……行け!」


背中から突き飛ばされ、ゆっくりと歩いてくる雫。
俺も床に置いたジェラルミンケースから、ゆっくりと後に離れる。


「雫、もう少しだからな」
「……」


軽く呼びかけてみるが、特にこういった反応はない。
ずいぶんと憔悴しているらしい。
ちゃんと逃げられるか心配ではあるが、こうなった以上後には引けない。


ジェラルミンケースの前に着き、ゆっくりと持ち上げる雫。
ゆっくりと振り返り、おぼつかない足取りで柿崎の元へと向かってゆく。


そして連中の元あと5歩といったところで、柿崎が手で制した。
ビクッと体が震えて、危うくケースを落としそうになる雫。
そのまま柿崎が指を下に向けた。


「嘘のパスを教えられて爆発されても困りますからね。
 ここで言っていただきましょう。パスはなんですか?」
「ずいぶんと小心なんだな。今に始まったことじゃないが」
「っ……ええ。こんな時くらいいくらでも小心になりますよ。パスワードは?」
「その前に雫を縛ってるロープをはずせ。外さなきゃ何も言わない。
 折衝案なんだろ?あくまでもフェアにだ」
「そんな事を言える立場だと思っているのですか?早く言わないとこの娘の命、
 どうなっても知りませんよ?」
「三億で買った道具だ。価値は自分の働きで見出すらしいが。
 こんな小心者に捕まった時点で100円の価値があるのかも見出せないな」
「っ……いいでしょう」


後ろの巨漢をうながし、雫のロープを外させようとするが、どうも不服そうだ。
早くしろと怒鳴って、巨漢は渋々雫のロープを外し、柿崎の隣に突き飛ばした。


「さてはずしましたよ。パスは?」
「パスは―――」


右手ににじんだ汗をコートに吸わせて。
第二段階要の合図を言う。


「―――3523Eだ」
「……3253E、ですね」


ためらいなく、かつ正確に押されてゆく数字。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
3253の数字を押し、0の右、9の下のEを押そうとしたところで。
左手をポケットに突っ込み、右腕で口元を覆って、目をつぶる。


ピッっといった後すぐに、バーンといった爆発音。
あたりには煙が舞い。絶え間ないせき、くしゃみなどの音。催涙ガスが回りに撒かれた。
息を止めて左ポケットからゴーグルを取り出し装着。
間髪いれずに右ポケットから癇癪玉を取り出し、床にたたきつける。


パーンという音が倉庫内に響き、くしゃみやせきの中に悲鳴が混じるのを確認。
その悲鳴の中に、雫の声が混じっている。
声の位置からして、雫が移動してないことを推測。


左腕で口元を覆いながら、悲鳴の元へと急ぐ。
大体5メートル。自分の感覚でしかわからないが、
そこでもう一度癇癪玉を床に叩きつける。
すぐ近くで悲鳴……ここか!


「いくぞ雫!」
「!」

近くで俺の声がしたことに驚いたのだろう。
煙の中で伸ばされてきた手を、右手で握りしめるが。


「いか、ゴホッ、ぜるか!」
「キャ!」

その伸びてきた手をつかむ、柿崎の右手。
これじゃあ動けない。


「邪魔だ!」

手の伸びて来た方向に蹴りを一発。
変な叫び声が聞こえて、柿崎の右手が外れる。


「行くぞ雫。こっちだ!」

うっすらと光が見える扉の方向へ、雫を引っ張って走り出す。


「グゾ……追え!……ゴホゴホッ……逃がずな!」

後ろで柿崎が何かを叫んでいるが、まだ催涙ガスが蔓延している倉庫内だ。当分動くことは無理だろう。
ようやく扉がはっきりと見えてきて、そして扉を抜ける。
新鮮な空気を胸一杯に吸いたいところだが、そんな時間は毛頭ない。
と、こっちへ向かってくる車の音。ゴーグルをかなぐり捨てて、音のほうを確認。


「旦那ぁ!」


運転席の窓ガラスから顔を出し、大きく手を振っている烏丸を確認。
その後ろにも、目視できるだけで5.6台のベンツを確認。
……だから旦那は止めろとあれほど。
後部座席に止まるようにうまく調整して、烏丸は車を停車。


「乗ってください!早く!」
「ああ!早く乗れ!」


先に雫を車に押し込み、自分も乗ろうとしたところで。
パーンと、破裂したような音が響き、俺の左わき腹に衝撃が走る。


一瞬、何が起きたかわからなかった。
わき腹を見てみると、コートに穴があいている。
そこからゆっくりと、次第に多くの血が流れ始めた。

ああ、撃たれたんだなと。やけにクリアになっている頭でそう思いながら。
傷口を抑えるが血は止まることを知らない。

周りで何か叫んでいる音が聞こえるが、やけにぼんやりとして聞こえない。
とりあえず車に入ってドアを閉めよう。

そこまで考えてようやく、痛覚が正常に機能し始める。
あまりのいたみに力が入らないが、なんとか車に乗り込み、ドアを閉める。


痛覚が機能し始めるが、ぼんやりとした頭は考えることを拒否し始めたらしい。
死ぬのかな。そう思いながら。


「雫、怖がらせて―――」


―――……ごめんな。

聞こえたかどうかわからないが。とりあえずこれだけ言って。
俺の意識は途絶えた。




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