SFシリーズ『プリンセス・プラスティック』の設定の管理用。

 ちょっと面倒な考えなんだけど、私の考えを要約するとこんな感じ。






 世界は、始まりとともに多世界として発生し、それとともに超弦が生まれた中から突然変異自己組織化利己的遺伝子による自然淘汰によってフラクタルな世界が構成され、それは現在も拡張を続けている。
 しかしそれを検討する主体である魂は、無限後退デカルト劇場に陥る。
 しかし本来はウィトゲンシュタイン独我論の究極として、超弦の作る世界のなかで超弦を超越した空間から参照することで多世界解釈による世界を認識しているのであり、超越した空間は人間の認識がほぼ不可能な空間であるが、その空間はそれ故に不滅であり、故に独我的自我、魂は不滅であるとともに自由であると考える。
 しかし私はウィトゲンシュタイン論理哲学論考の第7の命題については懐疑的である。なぜなら魂は不滅であることを我々はすでに体験してしまっているからである。
 故に、私はこの世界論を実人生で沈黙することなく語り、それによって体験と哲学および哲学の一分野とかつてされていた知識の融合を目指すことを目的とする。
 

利己的遺伝子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E5%B7%B1%E7...

自己組織化 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E7...

フラクタル - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3...

エヴェレットの多世界解釈 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B4%E3...

超弦理論 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E5%BC%A6%E7...

『心のパラドックス』
http://www1.accsnet.ne.jp/~hosinots/self.html


ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3...

青色本
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/wit...

第5部 現代哲学史-1 第1章 ウィトゲンシュタイン(ウィトゲンシュタイン的独我論)
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/postmodern... l


 で、これを小説にしたのが私のプリンセス・プラスティックというもの。
 それが本当に表現されているかというと、かなり難しい。
 でも、必死。
 
 つまり、宇宙?というものは、誕生の瞬間から、いやそれ以前からすでに超弦でできていて、そこからID説という誰かがデザインした、ということはなくて、どんどん増殖し、そのなかで突然変異を起こす。コピーにはコピーミスがどうしてもあるように、突然変異は絶対にある。その突然変異も宇宙規模だし、私の世界観ではその宇宙すらもほぼ無限にあるのだから、変異もものすごく多い。
 だけど、その変異に自然淘汰が起きる。それによって世界は利己的遺伝子遺伝的アルゴリズムで、愛や憎しみでさえもゲーム理論上の戦略として選択し、それでいながら一夫一妻制やつがいのような、制約的な制度も結果的に変異としての浮気と淘汰としての浮気の破滅のようになっていきながら、結局一夫一妻のような封建的といわれかねないものでさえも自己組織化で自然と認め、そのなかで暮らすなかで愛をはぐくみ、子を残し、遺伝子を残していく。
 そのようにミツバチの巣や、毛細血管の配列のように、自然のなかに自然と規則性が生まれ、それを数学的に我々は最適な会であったことを認識できる。それがフラクタルである。そしてそれは部分が全体に、全体が部分に相似するという仕組みにもつながり、世界は非常に不完全なように見えながら、部分を分析したり、全体を俯瞰するとき、高度に組織化されたも野であることを感じることが出来る。
 しかし、そうなると自分の居場所がなくなる。自分なんかいなくても世界はやっていけると思えてくる。そこで問う。自分とは何かと。
 すると、自分は後退していく。自分の身体、自分の脳、自分の心、自分の気持ち。どこまでいっても自分は小さく小さくなっていく。
 だが、それはウィトゲンシュタイン的独我論とエヴァレットの多世界解釈で解決できる。
 つまり、精緻に作られた世界の中に自分がいるのではない。自分が認識するから世界があるのだ。
 自分は、世界の起点なのだ。
 そして、その自分は超弦で構成された世界を、超越世界、アメノミナカ世界観アメノミナカの樹としての多世界の企図は別の部分に存在し、そこから樹という多世界であり、運命である中を参照している。
 つまり、自分は後退しきった結果、実は世界の中にはいない。超越世界の中に存在し、自由に超越世界の会である運命を参照するだけであり、またその参照はたびたび途絶える。それが意識の消失と復帰であり、それは眠り?である。そして睡眠夢の世界や現実に描く理想の世界もまた多世界であり、それらを認識するのもその参照である。
 そして、その超越世界は、超越しているが故に、存在は主張できても、否定できない。否定するための手がかりすらも存在しないからである。哲学に心得があれば、そういう考えもあるんですか、程度にしか言えない。むしろこれをむきに否定するものは、哲学を理解していないことになる。しかし私も同様に、主張しても、それは実在として強く強制することは出来ない。超越世界とはそういうものである。
 そういう質の議論の無意味さについては、ウィトゲンシュタイン論理哲学論考の第7の命題で検討し、沈黙すべきものであり、無意味であるかのように扱っている。
 しかしそれは当時肥大しながら膨大なリソースを消費していた哲学と神学への批判であると私は考える。コンパクトに考え、論題を整理すべきと彼は考えたのだと思う。
 だが、私は沈黙しない。なぜなら、私はこの世界観を体験してしまったし、いくつかその実証的な感覚を得てしまっているからである。
 故に、私は沈黙せず、この世界図を元に各分野の知識を統合して自己の考えとして確立することを目指していこうと思う。
 その考えの一環が、アメノミナカであり、プリンセス・プラスティックである。
 




 
 そこで、運命というものは、実はある。
 あるけれど、それは我々自身がもうアメノミナカの世界から参照しているだけだし、しかも世界は無限の数存在するし、運命も無限にある。
 それを自由に参照している状態で、私たちはそれを体験していると思っている。
 すると、もともと無限の運命のなかで、超えられない壁があったり、大失敗があったりというのは、そういう運命を我々が選び取っているからだと思う。
 
 もっと単純に言うと、世界は無限にだれそれの運命という映画のDVDがあるレンタルDVD店なんだと考える。
 そのDVDのなかには、バッドエンドもあれば、悲しいものもある。
 でもすべて、始まりがあり、終わりがある。
 そして、それを我々は、おそらく生まれる前に選んでいるのだ。
 となると、おそらくほとんどの場合、そのDVDはハッピーエンドだろうと思う。
 ハッピーエンド以外を選ぶ理由がないからだ。
 これには反論があると思う。バッドエンドの人生を歩んで、死んだ人がいっぱいいると。
 でも、それにはこう言える。そのバッドエンドと判断しているのは、所詮我々の自我であり、なおかつその他人のバッドエンドの人生も、その自分の運命という映画のなかで、自分がショックを受けたり、考え込むためのシーンのためにあるだけなのだ。
 そして、その他人は他人で、おそらく我々と同じようにハッピーエンドの運命映画を見ているだろうし、それは話自身、我々自身の運命映画とたまたま重なり合う部分があっただけで、独立しているのだと思うのだ。
 
 となると、全てハッピーエンドの運命映画なのに、なぜこんなに悲しいこと、辛いことがあるのだろうと思う人もいると思う。
 私自身もそうだった。

 しかし、実は我々は、それも選んでいるのである。途中で苦しいからこそ、その直後の幸せが際だつ。幸せだけになったら、今度は強欲ばかりになって、幸せに満足できなくなっていく。となれば、その直後にはやっぱりどんでん返しでひどい目に遭う。
 そうしたとしても、結局はそういうひどい目にあっても、それもまた幸せをきちんと受け止めるためのシーンにすぎないのだ。
 そして、運命の愛は、早々簡単に我々にはわからない。愛自身が遺伝子的アルゴリズムで再現できても、それは結果論に過ぎないのだ。
 でも、我々は実は結果を知っている。
 そして、その結果に向けて、途中に頂きもあれば壁もあれば谷もある運命映画を見ているのだ。
 見ている、といっても、あまりにも没入しているため、その中ではそんな冷静に受け止めることなど到底不可能である。
 だが、我々は、この運命映画を選ぶときに、最後を見た上で選んだのだ。
 
 だから、超えられない壁もないし、完全な絶望もない。
 そして、途中で潰えたとしても、魂は不滅だ。
 それでいて、自由?かといえば、その自由?を享受するためには、脳が作る想像の世界でしっかり結果を想定して、できうるだけの最善の判断をする必要がある。
 それが出来ないところでミスをしたら、それはそれで苦しくなる。
 だが、最後は皆、ハッピーエンドで終わり、また魂は別の運命映画を選びに行く。
 そして、その運命映画を、主人公ではなく、主人公を見る観客として参照することが出来る。
 それがアメノミナカにおける時間共有?であり、タイムマシンなしにタイムトラベルをする方法なのだ。




 
 運命はある。
 でも、どんな運命であっても、それはハッピーエンドで終わる。
 苦しさも、悲しさも、てんこもりに運命の途中にある。
 でも、それを乗り超えられると、我々は選んでいるのだ。
 もちろん、そのときの我々と、その運命の中にいる我々は全く別の質なのだと思う。
 
 ぶっちゃけ、こんなこと言っても、私自身えろすな写真見たいとか、最近鉄道模型でほしいのがないとか、結構迷子ちゃんなのです。
 
 というか、この話をしたら、ユキさんにビビられてしまった。

 大丈夫。こんな話をしても、ユキさんがいなければ何も出来ない男だから、ユキさんと一緒に生きていくよ。
 ただ、二人とも、きっと、ハッピーエンドだよ。
 
 そして、世の中の全ての魂が、最終的に、この世では苦しくても、ハッピーエンドなんだよ。
 
 それが運命だと思う。

 そして、切り拓くと言うより、堪えるのが運命だと思う。

 自分が何かに挑戦したり、なにかを成したいとおもうのはあたりまえ。

 だけど、そうはうまくいかないことのほうが、ずっと多い。

 34年生きてきて、本当にそう思う。


 でも、今私は幸せと不幸せを持ちながら、こういう考えに至りました。


参項
死刑廃止反対の立場から/人が人を裁くことを裁けるか? 人間の限界、そして裁判員制度|米田淳一のなければ作ればいいじゃん
http://ameblo.jp/yonebor/entry-10091019926.html
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