仏教ー日本の仏教

【日本】
[仏教の渡来と飛鳥の仏教]  仏教は一部の渡来人系の子孫のなかではすでに6世紀の初めに信奉されていたと考えられるが,公式の伝来は百済の聖明王が釈梼仏像と経典その他を朝廷に献上したときとされる。この仏教公伝の年について538年説と552年説があるが,今日では《上宮(じようぐう)聖徳法王帝説》や《元興(がんごう)寺伽藍流記資財帳》により前者の538年(宣化3)を公伝の年と考える学者が多い。公伝当初,蘇我稲目(いなめ)は崇仏を,物部尾輿(もののべのおこし)は排仏を,天皇は中立の立場をとったといわれるが,仏教はいくたびかの迫害をうけながらも,蘇我氏を中心に渡来系氏族が多く居住していた飛鳥の地に最初に根づいた。そして,587年(用明2)の排仏派の物部守屋(もりや)滅亡を契機に,用明朝つづく摂政聖徳太子の推古朝に,仏法興隆の道がひらけた。この時期の仏教の中心は飛鳥と斑鳩(いかるが)だった。飛鳥では6世紀末,蘇我馬子が百済系の技術を取り入れて日本最古の伽藍とされる法興寺(飛鳥寺)を建立し,そののち当寺はこの地域の仏教の中心として栄えた。蘇我氏とともに仏教興隆に尽くした聖徳太子の事績も大きい。太子は仏教に深く帰依し,法華・勝鬘(しようまん)・維摩(ゆいま)の三経の注釈書,いわゆる《三経義疏(ぎしよ)》を著した。594年(推古2)有名な三宝興隆の詔が出され,これを契機に臣(おみ)・連(むらじ)などの豪族が競って寺を建て,またその第2条に〈篤(あつ)く三宝を敬え〉の有名な文言がある十七条憲法は今日偽斤説が主張されるが,それでも太子の政治思想が,仏教を根幹に置いて,その普遍的な教理思想のなかで国家統一を志向したことは確かであろう。太子は605年(推古13)斑鳩に移り,この地が飛鳥とならんで当代仏教の中心となった。斑鳩には前後三つの法隆寺が存在したと考えられる。在地豪族の膳(かしわで)氏が建立した第1次の寺,太子が建てた第2次の若草伽藍,そしてその再建の第3次の寺である。こうして推古朝期,中央豪族の私寺建立が多くなった。この時代の建立と確認される寺址は,今日,奈良県21,大阪府6,京都府4,兵庫県1,岡山県1の計33ヵ寺に達している。これら推古朝期までの寺院は,正確にはすべて豪族の私寺である。推古天皇はその在位中,みずから寺を建てることも,宮廷内で仏事法会を営むこともなく,天皇自身は異国の神である仏教に対して天皇家伝統の傍観的態度で終始した。
 天皇が建立した日本最初の寺院は,舒明天皇が639年(舒明11)に建立した百済大寺である。舒明天皇の2人の皇子,天智・天武両帝も仏教を積極的に受容した。天智天皇は飛鳥の川原寺と大津の崇福寺を建て,天武天皇は諸国の家ごとに仏舎を作り仏像と経典を置くことを命じ,また父舒明天皇が建立した百済大寺の後身として飛鳥京に高市大寺(たけちのおおでら)を造営した。この寺はのちに大官大寺(だいかんだいじ)と呼ばれて,東大寺ができるまで,官寺第1位を占めた。さらに天武朝期,難波の荒陵寺が四天王寺と改称され,また皇后の病気平癒を祈って薬師寺の建立を発願し,これが次の文武朝に完成し,この天皇代に大官大寺,川原寺,薬師寺,法興寺が飛鳥四大寺に指定され,ここで仏教的な国家行事が行われた。こうして舒明,天智,天武,文武に至る時期に,仏教は氏族受容の段階から宮廷受容のものとなり,天皇が帰依する国家仏教の道を歩みだした。舒明・天智・天武の陵墓が八角墳であることは,仏の世界の象徴である蓮華往生の思想と関連するものと考えられる。白鳳時代の寺院数は,今日520余を数え,分布は関東から北九州に及び,仏教の急速な地方伝播が,律令体制の全国的拡張と照応することを示している。
[南都仏教]  奈良時代の仏教は国家仏教の性格をますます強めた。官寺を中心に,そこでは学問のほか,国家鎮護の祈裳が盛んに行われた。それを象徴するものが,聖武天皇による741年(天平13)の国分寺造営の詔と,743年の大仏造営発願の詔だった。相続く政局の動揺で衝撃をうけた聖武の朝廷が,仏教による国家の平安と繁栄を祈る試みだった。国分寺は国ごとに僧寺と尼寺から成り,僧寺の塔には読誦すると四天王がその国土を擁護すると説かれた護国の経典《金光明最勝王経》が安置され,尼寺では国土の災害を除去し,女性成仏と庶民の滅罪のための経典《法華経》が読誦され,国家が抱いた官寺仏教への期待がどこにあったか雄弁に語っている。南都仏教はどの時代よりも経典を重視し,ために写経が盛行した。国家や寺や貴族が写経所を経営し,そこで多くの写経生が一切経や特殊な願経を書写した。このことは正倉院文書や現存する優れた写経の現物で知ることができる。中国で形成された抑舎(くしや)・三論・成実(じようじつ)・法相(ほつそう)・華厳・律の六つの宗派,いわゆる南都六宗が留学僧などによって,この時代に奈良の寺院に伝えられた。奈良の都に多くの大寺が建立されたのも,この時代の特色だった。大官大寺(大安寺と改称),法興寺(元興寺と改称),薬師寺が移建され,また新しく東大寺,西大寺,法華寺,新薬師寺,唐招提寺などの大寺が建立された。仏教伝来当初から奈良時代までに国家や氏族が建てたこれらの大寺は,当初から七堂伽藍を擁し,伽藍のなかでは釈梼の遺骨である舎利(しやり)を安置した塔が中心となった。金堂(こんどう)では現世安穏と後世善処を祈る法会が行われ,講堂では僧尼が勉学し,諸堂の朱塗の柱,瓦葺きの雄大な屋根,金色の塔の九輪,堂内に安置された金色さん然たる異形の仏像,壁面に描かれた仏国土の絵など,当時の仏寺はさながら天皇や豪族の権勢と富を示す大陸文化の坩堝(るつぼ)だった。こうして,官大寺に存在する仏教は,一般民衆の信仰とはかけはなれた存在だった。これにかわって,国家仏教からはずれた立場にあった行基や道昭や万福,それに官寺の外縁にあった私度僧らが,民衆へ仏教信仰をひろめた。これに山林修行などで術力をつけた私度僧らも,山から降りて民衆社会で現世利益(げんぜりやく)の霊験をあらわし,あるいは村堂を建て,造仏や写経,放生や架橋など知識活動を展開して在家仏教信者を増やしたことが,《日本霊異記》などの説話文学で知られ,この時代の仏教の底辺を知ることができる。
[平安仏教]  行き詰まった律令政治の刷新をめざした794年(延暦13)の桓武天皇の平安遷都は,その裏面に奈良の仏教の官大寺経営に費やされる膨大な国費,増大する寺領荘園,加えて教団の腐敗堕落,僧綱制度の欠点などを改革しようとする意図を秘めていた。果たして,従来遷都とともに行われた大寺移建の慣例は放棄された。ここに新しい平安仏教が出現する契機があった。桓武朝の末年,入唐求法(につとうぐほう)して持ち帰った最澄の天台宗,空海の真言宗がこれである。だが,南都仏教も平安仏教も,前者は〈鎮護国家〉,後者は〈護国仏教〉を標榜し,目的語句こそ異なったが,ともに古代国家の隆盛期に形成された仏教として,所椿は国家仏教の性格を共通してもっていた。だが,それでも,両者の間に政治とのかかわり方で大きな隔りがあった。南都仏教は平城京という都城に存在し,僧侶はつねに中央政界に進出するいわば都市の仏教だった。だが平安仏教では,天台宗は比叡山,真言宗は高雄の神護寺や高野山など,主要寺院が山岳に営まれた。この都市仏教から山林仏教への変化は,政治に従属する仏教から,政治に一定の距離を置いてそこに政治から不可侵独立の〈聖域〉を築き,国家を護持しようとする平安仏教の政治に対する新しい姿勢を語るものだった。こうして,〈王法と仏法は車の両輪のごとし〉という,王法・仏法の対等相依の理論が平安仏教の段階で初めて唱えられ,新時代の国家仏教の理念となった。円禅戒密の四種相承を果たして帰朝した最澄の大戒独立の運動は,仏教教理でみると戒律における大乗・小乗の優劣論にすぎないが,歴史的にみると国家権力に緊縛された南都の僧戒を,仏教側の自主的管理に取り戻そうとする僧戒自立の運動だった。この比叡山大乗戒の独立は,最澄の没後7日目に勅許され,日本天台宗の名実ともの独立がなしとげられた。長安の青竜寺の恵果(けいか)から純粋密教の秘法をうけて帰朝した空海は,嵯峨天皇に重用され,816年(弘仁7)高野山を開創,823年(弘仁14)東寺を給付され,真言宗の拠点を確保した。仏果を得ることは文字や学解によるのではなく,字(真言)・印(印相)・形(曼陀羅)などで表現され,如来の言葉である真言陀羅尼を念誦し,観修することで即身成仏できると説く空海の教えは,彼の南都諸宗に対する妥協的態度や加持祈裳の容認と相まって,貴族や地方の豪族や民衆のなかに急速にひろまった。法相宗学を主流とした南都仏教が,成仏の可否は人間の素質によるという〈五性各別〉を説いたのに対して,天台・真言の平安仏教は〈一切皆成〉,すなわち素質や能力に関係なく,すべての人間が成仏できるとの一乗主義を説き,これも平安仏教の新しい特色だった。こうして,平安時代,化外の地域とされた東北地方まで天台・真言の僧が布教の足跡をのばし,仏教はほぼ日本全域にひろまった。天台宗は最澄のあとの円仁・円珍のころ,密教(台密)が教学の中心となり,東密(真言密教)とともに,平安貴族の厚い帰依と保護をうけた。
 寺院造営や法会や加持祈裳が宮廷貴族社会に盛行し,貴族出身の僧侶が大寺の住持を独占するようになり,平安仏教もしだいに貴族仏教となった。諸大寺は貴族から寄進された荘園をもつ大領主となり,僧兵という武力をもち,権門と呼ばれて栄えた。だが,平安中期以降,末法思想が飢饉・疫病・地震・洪水などの当時の災害現象と相まって人心を強くとらえるようになると,阿弥陀浄土信仰(阿弥陀)が盛んになった。念仏によって極楽往生を願うこの信仰は,市聖(いちのひじり)と呼ばれた空也,《往生要集》を著した源信,融通念仏宗を開いた良忍らによって急速に古代末期の社会に浸透していった。
[鎌倉仏教]  仏教が真の意味で民衆の宗教として確立したのは鎌倉時代だった。いわゆる鎌倉新仏教の成立である。念仏門の系統から,まず法然(源空)が日本浄土宗を開いた。法然は主著《選択(せんちやく)本願念仏集》を著し,富と知識を独占する貴族しかできない造寺・造仏・学解・持戒などの意義を退け,往生の要諦は阿弥陀―仏を信じて,念仏だけを唱えること(一向専修)で,これにより人びとは貴賤・男女の差別なく在家の生活のまま往生できると説いた。これまでのように観想の阿弥陀仏礼拝も,浄土三部経の読誦も不要であり,称名念仏だけが〈正定業(しようじようごう)〉であるという点で,阿弥陀信仰はより易行(いぎよう)となり,在家民衆の生活のなかに定着する条件をそなえた。法然の教えをさらに徹底化したのが,浄土真宗(真宗)を開いたその弟子親鸞である。師の法然がおもに京都で活躍したのに対し,親鸞は晩年こそ京都に帰ったが,越後に流されたあと妻帯し,そののち関東に移り,東国辺地の農民や下級武士に法を説いた。彼は往生の当否は称名よりも,阿弥陀仏への絶対的な信心にあるとし(信心為本),しかも《陸異抄(たんにしよう)》のなかで〈善人なをもて往生をとぐいはんや悪人をや,しかるに世のひとつねにいはく,悪人なを往生す,いかにいはんや善人をや〉,阿弥陀仏の〈願をおこしたまふ本意,悪人成仏のためならば,他力をたのみたてまつる悪人,もともと往生の正因なり〉と,絶対他力と悪人正機の説を述べた。法然・親鸞におくれて元寇のころ,念仏門に新境地を開いたのが,時宗の宗祖一遍である。一遍は,念仏往生の鍵は信心の有無,浄や不浄,貴賤や男女に関係するのではなく,すべてを放下(ほか)し,〈空〉の心境になって,名号(みようごう)(念仏)と一体に結縁(けちえん)することにあると説いた。一遍は生涯を廻国遊行(ゆぎよう)の旅に過ごし,念仏に結縁した人びとに往生決定の証明として念仏を書いた紙の札を与え(賦算(ふさん)),彼らに阿弥号をつけた。時衆に〈某阿弥陀仏〉と称する人が多いのはこのためである。彼らは賦算と阿弥号をうけ,生きながら阿弥陀仏と一体となると信じた。一遍が遊行し賦算するところ,歓喜の踊(念仏踊)の輪がひろがり,これが時宗の特色となった。一遍と同じころ,東国で日蓮が日蓮宗を開いた。日蓮は《法華経》だけを唯一の正法と認め,この《法華経》の眼目が〈南無妙法蓮華経〉の題目であるとし,《法華経》への唯一絶対の信心をもとに,専持法華と唱題だけで,すべての人びとが差別なく成仏できると説いた。しかも日蓮は,彼岸での救済よりも,主著《立正安国論》で明示したように,正しい仏法が興隆すれば国土の災害除去は可能であると,現実国土の世なおしや現世での救済を重視し,この教説における強卑な現世性がこの宗派の特色となった。
 以上述べたように,浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗は,それぞれ教説に特色をもつが,その反面でいくつかの共通点ももっていた。一つは諸経や諸仏や諸行のなかで,4宗とも一つの経,一つの仏を選びとって,余仏・余経・雑行を徹底的に排し,念仏や題目を専修することを主張する,いわば〈一筋の信仰〉だった。二つには4宗とも貴賤・男女・貧富の差別なく,殺生を業とする悪人さえ往生や成仏を認める徹底した民衆宗教だった。三つには,したがって奈良・平安の貴族仏教が重視した戒律の意義を認めず,民衆の日常生活のなかで信仰が維持できるよう,易行にして,在家成仏の仏教だった。四つにはこれら4宗の寺には,旧仏教や禅宗の大寺のように,創建当初から朝廷や幕府の官寺や祈裳所として七堂伽藍を整備し,寺領寄進をうけて出発した寺はなかった。浄土宗の知恩院,真宗の本願寺や専修(せんじゆ)寺,日蓮宗の久遠(くおん)寺など,いずれも武士や民衆に支えられて草庵から出発した寺院である。五つには,旧仏教や禅宗が宗祖によって中国から将来された仏教だったのに対し,これら4宗の宗祖,法然・親鸞・一遍・日蓮は入唐求法の意志もまたその経験もなく,経典や聖教を模索して教説の体系を形成した歴史をもち,この意味では鎌倉時代の日本がその社会のなかで育て上げた日本仏教ともいうべき宗教だった。
 鎌倉新仏教のうち,残る禅宗は宋からもたらされた。臨済禅は1191年(建久2)帰国した栄西が,曹洞禅は1227年(安貞1)道元が伝えた。本来の禅は来世の概念がなく,不立文字(ふりゆうもんじ)を旨とし,坐禅や公案(こうあん)を中心として自力による悟りを自己の心中に形成することを目的とした。この気骨ある教義と,禅のもつ郁々とした中国文化の香りが,新しい時代の担い手として台頭する武家,それに一部の公家の気風に合致し,当代仏教界に禅宗は新風を吹きこんだ。臨済宗は幕府の保護をうけ鎌倉や京都に唐様建築による大寺院を建立し,蘭渓道隆,無学祖元,一山一寧など宋元の中国禅僧を迎え,次の室町時代に五山禅・五山文学の隆盛を築いた。曹洞宗は道元が中央権勢に接近して名利を得ることを拒んだので,彼が拠点とした越前の永平寺を中心に,鎌倉・室町時代,おもに地方武士層に教線をのばした。こうした新仏教諸宗の活躍に対して,旧仏教側にも新しい改革の運動が興った。禅宗を除く新仏教諸宗が戒律を軽視もしくは無視したことに対して,法相宗の貞慶(解脱)や華厳宗の高弁(明恵(みようえ)),律宗の叡尊(興正)・忍性(良観)・俊巣(しゆんじよう)らが,戒律の復興や施薬・土木建設などの社会事業をすすめた。また従来の外護者だった宮廷貴族層の衰退に伴って,旧仏教系の諸寺では,古い由緒や秘蔵する仏像の霊験をあらためて世間に喧伝し,観音・阿弥陀・地蔵など諸仏の霊場として,台頭する武士や庶民の信仰を集め,民衆仏教に再生脱皮しようとする動きが盛んとなった。
[室町仏教]  鎌倉新仏教諸宗が,全国的規模の教団に成長したのは,宗祖入滅後1世紀以上を経た室町時代のことだった。たとえば,1282年(弘安5)の日蓮入滅の時点で,日蓮宗は直弟・直檀を合わせても数百人,それらが散在するところも東国数ヵ国にすぎず,まだ微々たる地方宗教にすぎなかった。だが,13世紀末,日像が京都で布教を始め,15世紀に入ると,宗内の諸門流の教線は北は東北地方,西は南西諸島にまでひろがり,しかも中央京都の町衆社会ではその半分が日蓮宗信者といわれるほど確固たる地位を築き,全国的な教団に成長した。折伏(しやくぶく)の布教で知られる日親が活躍したのはこの世紀のことであり,また次の16世紀前半,京都では町衆信徒による法華一揆が史上に光彩を放った。浄土宗は法然の滅後,分派して発展したが,なお中世には純粋な浄土宗寺院の成立は少なかった。専修念仏者の集団は他宗寺院内に止住し,浄土宗の大勢は〈寓宗(ぐうしゆう)〉として推移したが,それでも室町後期,弁長のひらいた鎮西派が宗内外で雄飛し,知恩院を中心に独立した全国的教団に成長した。真宗では15世紀,本願寺に蓮如が出て,東海・北陸・東山・畿内の諸国を精力的に巡錫し,宗勢を飛躍させるとともに,真宗内部において仏光寺・専修寺を抜いた巨大な本願寺勢力を築き上げた。蓮如の膨大な消息と著述は〈御文(おふみ)〉とか〈御文章〉(《蓮如仮名法語》)と呼ばれ,宗祖親鸞の著述よりも,長らく門徒に大きな影響を与えた。本願寺は蓮如の代に法主制を確立し,寺基も洛東の大谷から山科(やましな)に移ったが,この城廓構えの山科本願寺は1536年(天文5)法華一揆に焼討ちされ,ために孫の証如は本願寺を大坂石山へ移した。16世紀に畿内・東海・北陸に蜂起した一向一揆は,本願寺法主を頂点とした門徒支配の郷村か,戦国大名が支配する郷村かを決する戦国群雄と本願寺門徒の血みどろの戦いであり,この決戦に最終的に勝利して登場したのが信長・秀吉の近世統一政権であった。遊行上人と呼ばれた一遍の時宗は,宗祖の代には止住すべき草庵さえもたなかったが,室町時代になると時宗寺院が諸国に建立され,とりわけ京都に大きな基盤をもった。特殊な技能をもって室町将軍に近侍した同朋衆などのなかに,時宗の阿弥号をもつ人が多く,東山文化に果たした阿弥集団の芸術活動の役割には注目すべきものがある。
 一方,室町前期の中央政界では臨済宗五山派が全盛をきわめた。幕府は京都・鎌倉五山以下,十刹・諸山(五山・十刹・諸山)の寺格を指定し,これら五山派の禅寺を官寺として保護した。五山派寺院の住持任命は将軍が行い,寺領を寄せ,伽藍維持を援助し,かわって幕府は寺から莫大な礼銭を取り,五山派の禅寺は幕府の大きな財源となっていた。将軍にならって守護大名の多くも五山派禅寺を領国に建立経営し,五山禅に帰依した。こうして室町前期,五山禅は黄金期を迎え,名僧が輩出したが,五山禅僧は名利に接近し,内部では坐禅よりも詩文の教養が貴ばれ,ここに五山文学の隆盛をみた。だが,五山禅は幕府の衰退とともに室町後期にはしだいに衰え,かわって林下(りんか)の禅が台頭した。宗峰妙超が開いた大徳寺,関山慧玄が創建した妙心寺,それに道元が伝えた曹洞の禅がこれである。林下の禅は中央の権勢におもねることなく在野の禅を標榜し,詩文よりも禅家本来の坐禅を守り,地方武士や庶民社会にその支持者を増やした。一休宗純によって大徳寺禅が堺町衆社会に根づき,それが堺町衆の茶数寄を接点にして,戦国武将や町人茶人と大徳寺禅との結びつきが生まれ,その結びつきが契機となって,大徳寺が戦国期に雄飛することとなったのはその好例である。
[近世の仏教]  近世の仏教は,同じ宗派でも,中世と大きく変わった。近世の統一政権は中世のように,政権から一定の距離を置きその不可侵性を認めた仏教の存在を許さなかったからである。近世の仏教は,完全に幕府の宗教行政の枠のなかで存在する仏教だった。そこには中世のような教説の新しい発展もなければ,宗派の組織からはみだした筒世僧・廻国聖(ひじり)などに象徴される自由闊達な旅の宗教者の姿も消えていた。新しい宗派としては,臨済の一派である黄檗(おうばく)禅が,明(みん)の僧隠元によって伝えられただけである。幕府の宗教行政にそむいて,俗権に対する教権,王法に対する仏法の不可侵自立性や独立を主張した日蓮宗不受不施(ふじゆふせ)派などは,容赦なく禁教された。他方で,幕府は寺領を安概し,寺地を免租とし,さらに僧尼の課役を免除するなど,仏教と寺院に対する保護策をとった。この限りでは,近世における仏教は,過去のどの時代よりも安定した時期を迎えたということができる。
 こうして,近世仏教にはいくつかの特色が指摘できる。一つは近世の寺院本末制度の成立である。各宗本山が幕府に提出した末寺帳を台本にして,全国の寺院は本山・直末・孫末・曾孫末と分けられ,その本末関係が幕府によって公認され,変更は事実上不可能だった。これは寺院の自由な改宗や転派の不可能を意味し,本山の末寺支配をどの時代よりも強化することに役だった。逆にいうと,幕府は本山住持の任命について,その事前承認権さえ留保しておけば,全国寺院を末端まで支配できることを意味した。二つには幕府が行った人別宗門改によって,近世寺檀制度が生まれたことである。幕府は毎年,キリシタン宗門改を人別に実施し,このとき各人から寺請(てらうけ)証文を提出させた。寺請証文は檀那寺の僧が檀家各人について,当人が自分の寺の檀家であってキリシタンでないことを書いた証文である。人別の寺請による宗門改が全国に実施されたとき,近世の民衆はいや応なく檀那寺をもたねばならなかった。その檀那寺は寺院本末制で宗旨宗派が確定していたから,近世の民衆は固定した宗旨と宗派と檀那寺を生まれたときからもつことになり,この変更は結婚のとき以外,原則としてできなかった。こうして,近世の日本人はすべて先祖以来,固定した宗旨と宗派と檀那寺をもった仏教徒となった。しかも,幕府は寺請証文の提出を宗門改のときのほか,結婚・転住・奉公・検死・埋葬・旅行のときにも必要と定めたので,寺檀の関係はますます強固となり,寺を通じて幕府は民衆を支配できるようになった。このような制度を近世寺檀制度という。他面,この寺檀制度は,寺と檀家の関係をどの時代よりも強固とした。人びとは檀那寺を中心にまとまり,寺参りや先祖の年忌法会や葬礼が民衆社会のなかに定着し,郷村の寺院はその地域の農民の団結や文化活動の中心としての役割を果たすことにもなった。近世郷村の寺の僧侶は,信仰だけでなく,政治・教育・生活倫理・医術,ときには農業技術の改良の面でも村のリーダーだった。郷村の寺院に比べて中央の本山は,末寺や全国檀家からさまざまな名目の志納銭を寄せられ,大伽藍を造営し,儒者や国学者などの識者からその弊害を指摘され,また排仏論を育てる基をつくった。各宗を問わず宗学の研鑽が盛んとなり,檀林や学校などの僧侶の勉学機関が整備され,いわゆる近世宗学が勃興したのも,近世仏教の特色の一つだった。しかし,宗祖教説の研究も,幕府によって新義や異義は禁じられ,宗学の自由な発展はなかった。幕末の幕藩体制の解体期,興隆する洋学や国学のように,新時代の民衆社会の指導理念になるものを,近世の仏教はついに民衆の前に提示することはできなかった。
[近代仏教]  明治維新とともに,新政府が出した神仏分離令と神道国教化政策(神仏分離)は,仏教界に大きな打撃を与えた。法親王は還俗(げんぞく)し,宮中からいっさいの仏像や仏具は取り払われ,天皇家と仏教は完全に無縁となった。平安時代から続いた神仏習合の風習は禁止され,塔や仏像や仏具が神社から撤去され,社僧は復飾し,寺院と神社は分離した。政府は廃仏令こそ出さなかったが,明治初年,寺領の上地令,宗門改の停止に伴う寺檀制度の解体,旧来の陋習(ろうしゆう)としての祈裳禁止令などをつぎつぎと打ち出し,加えて士族階級の没落や農村人口の都市流入に伴う離檀の増加,滔々として押し寄せてくる西洋の文明開化の思想が他方にあり,仏教界は1872年から74年をピークとして,廃仏毀釈の嵐にさらされた。都市でも農村でも多くの寺院が廃寺となり,僧侶の還俗が続き,優れた仏像や仏具や仏画が狂騒の忌に消失した。この廃仏の嵐のなかで,諸宗それぞれの立場で近代社会のなかで生き抜くことができる市民仏教のあり方を模索する運動が,1871‐72年ころから興ったことは注目される。いわゆる仏教近代化の運動である。東・西本願寺は,この時期,早くも宗内の青年僧を欧米に派遣し,西洋市民社会で果たすキリスト教の役割を参考に,近代仏教のあるべき姿を研鑽させた。国内では各宗とも,キリスト教の活動にも刺激されて,女子教育や宗門高等教育機関の設置に乗り出した。これが今日,いわゆる宗門系大学と呼ばれる竜谷・大谷・仏教・花園・京都女子・光華・立正・駒沢・大正大学などとなり,教育文化の発展に寄与する基礎となったのである。さらに明治末年には諸宗の海外仏教布教が行われ出し,1913年には世界仏教大会も開催された。
 日露戦争から第2次大戦に至る戦争期,諸宗派の戦争への協調的態度は,戦後の仏教界に深い反省を生み,今日の仏教界では人類の平和と幸福を求め,世界仏教徒会議を開くなど,世界仏教への成長発展をめざす動きが着実に進んでいる。                       藤井 学
2005年08月19日(金) 05:26:08 Modified by inaoka15




スマートフォン版で見る