入不二基義 - 時間と絶対と相対と
『時間と絶対と相対と 運命論から何を読み取るべきか(勁草書房)




2007年9月末刊行予定


以下に、「帯私案」と「まえがき」と「目次」を載せました。


「無関係という関係からも無関係であること」
 「現にあるようにあるしかない」

 過去・現在・未来は、ひと続きなのか、つながりえないのか?
 過去・現在・未来は、両立可能なのか、両立不可能なのか?
 「私たち」は絶対的なのか、相対的なのか?
 そのような思索の先で、運命論が立ち上がってくる。


【まえがき】

 ここ数年の間に考えてきたことを、一冊にまとめることができた。個人的には、『相対主義の極北』(春秋社)と『時間は実在するか』(講談社)の続編のつもりである。両書で考察した相対主義論と時間論を合流させ、多くの人たちと議論を交わし、新たに考え直し記述し直すことによって、少しだけ先へ進むことができた。その結果たどり着いたのが、「運命」という問題場面である。そういうわけで、最終章では「運命論」を扱っている。

   *

 この数年間は、山口大学から青山学院大学に異動した時期と重なっている。十年ぶりに東京に戻ってきて、生活スタイルは大きく変わった。山口では広い土地に和風の平屋の家だったのが、東京では狭い土地に洋風の三階建ての家になり、山口大学前通りが、青山通りや表参道に変わった。
 青山通りを挟んで、大学の向かいには「こどもの城」がある。大学正門から見つめるたびに、妙な感じがする。十五年ほど前、まだ大学に勤める前のオーバードクターの頃に、まだ幼かった息子たちを連れて、私はよく「こどもの城」に遊びに行った。息子たちのお気に入りは、ボールのプールや木製のアスレチックだった。私自身も、「ウルトラQ」など昔のテレビ番組を観ることのできるビデオライブラリーを、よく利用した。
 当然、「こどもの城」側からは青山学院大学の正門が見えるし、見ていたはずである。これから大学に職を得ようと考えている研究者の卵だったのだから、向こう側に見える大学に興味を示してもいいはずである。しかし、当時の私は、通りの向こうの大学を、目にはしていても、関心を持って見たことは一度もなかった。もちろん、青山通りを渡ってキャンパス内を散策することなど、考えてみることもなかったし、自分が将来そこに勤める可能性を想像してみるということも、まったくなかった。自分とは特に関係のない場所として、通りの向こうにただあっただけなのである。
 それなのに今は、その大学側から「こどもの城」を眺めている。あの時には、想像の範囲にすら登場しなかった視線によって、その「あの時」のことを振り返っている。過去は、その過去の時点ではまったく考えもしなかった仕方で、未来の方から包み込まれてしまう。過去に形が与えられるのは、未来の側からだけなのである。そういう意味では、過去は未来にけっして敵わない。
 しかし、今の視線によって包み込まれた「あの時」は、もう「あの時」それ自体ではない。そのように包み込まれることとは無縁であることが、「あの時」がまさに「あの時」である所以(ゆえん)なのだから。私と息子たちは、ただ単に「こどもの城」で遊んでいたのであって、「将来の職場の向かい側」で遊んでいたわけではないし、「こどもの城」が楽しかったのは、ただ単にそうだっただけで、楽しかったこととして振り返られるためにではない。未来と関係してしまうと、未来とは無縁だった過去は取り逃してしまう。そういう意味では、未来は過去にけっして敵わない。
 過去と未来は、繋がるしかないが決定的なところでは繋がりえない。そういう関係と無関係の交錯が、時間というものを貫いている。私の感じた「妙な感じ」は、この時間のあり方から来る眩暈(めまい)のようなものである。本書の全体が、この「関係と無関係」という問題を追究している(もちろん、「関係」が「相対」に、「無関係」が「絶対」に対応している)。

   *

 「やはり東京で暮らす方がいいですか」と、山口から戻ってきてから、何度も聞かれた。相手に応じて答えてはいたが、よく考えると答えられなくなって、困惑する。現に東京にいるならば、もちろん山口にはいない。そうすると、両者を対等に並べて比較することができない。現実には東京にいるわけだから、もし仮にそのまま山口で暮らしているとしたらという反実仮想をして、現実の東京生活と反実仮想の山口生活を比較するしかない。ということは、一方は現実で他方は仮想なのだから、対等ではない。現実どうしや仮想どうしを、比較しているわけではないのだから。そして、現実と仮想とは、明らかに非対称である。反実仮想は、現実があって初めてそれに依拠してなされるものであるし、どんな仮想であっても現実の中でなされるしかない。そういう意味で、現実は、つねに仮想より上位の水準にある。はじめからこれほど落差のあるものを、どうやったら正当に比較できるのだろうか。
 さらに、その反実仮想は、次のようなものでなければならない。「もし仮にそのまま山口で暮らしているとしたら」という仮想なのだから、現実のこの東京生活は、その仮想においてはまったく「ない」ことになっていなければならない。現実に東京にいることを踏まえて、その上で山口生活を仮想するだけでは、不十分なのである。現実の東京生活という前提を、まったくなきものにした上で、仮想されねばならない。ということは仮想が仮想ではないものとして、仮想されなければならないということである。
 たしかに、そのような迂遠な操作を経ると、仮想は少しだけ現実に似てくるだろう。そうすると、現実と仮想は、対等に近い形で比較できるかのように思えるかもしれない。しかし、そうではない。仮想を現実に似せれば似せるほど、むしろ対等な比較は不可能になっていくはずである。なぜならば、現実(東京生活)の方をなきものにした上で、仮想(山口生活)の方を現実として扱うということは、比較相手の現実(東京生活)はまったく起こってないことにして、一つの現実(山口生活)だけが残るようにすることだからである。一つの現実しか残らないならば、やはり比較などできない。
 現実と仮想とは、比較できるときには対等ではありえず、対等にしようとすると比較そのものが成り立たなくなる。どちらにしても、対等に並べて比較することなどできない。このことは、現在の現実がただ一つしかありえないことに由来する。
 ならば、現在の現実(東京生活)と過去の現実(山口生活)を比較すれば、対等な比較になるだろうか。それもやはり無理である。なぜならば、現在の現実と過去の現実を比較しようとすると、先述の「こどもの城」状態―過去と未来(現在)との無関係―が、浮かび上がるからである。現実を「現在の現実と過去の現実」のように二つ設定しようとすると、両者は無関係で比較不能なものになるし、両者を関係させようとすると、一方が他方を包摂して、対等な二つのものの比較ではありえなくなる。どちらにしても、対等に並べて比較することなどできない。このことは、そもそも現実がただ一つだけしかありえないことに由来する。
 このようにして、「やはり東京で暮らす方がいいですか」という問いに答えられないことの困惑は、最終章の「運命論」の問題へとつながっていく。

【目次】

まえがき

序 章 時間と相対主義

第一章 非時間的な時間 ― 第三の<今> ―
 一 同時性としての<今>
 二 動く<今>
 三 A系列/B系列、そして第三の<今>
 四 「同時性としての<今> 」から失われているもの
 五 「動く<今> 」の誤解
 六 時間の要

第二章 「未来はない」とはどのようなことか
 一 はじめに
 二 過去化した未来
 三 無としての未来
 四 欠如としての未来
 五 欠如でさえない未来
 六 「欠如でさえない未来」の再-過去化と再-欠如化
 七 「無」でさえない未来

第三章 過去の過去性
 一 はじめに
 二 ラッセルの「五分前世界創造説」
 三 勝守真の「想起逸脱過去説」
 四 「想起逸脱過去」のさらにかなた−想起阻却過去−
 五 再び「五分前世界創造説」
 六 重層性と受動相

第四章 時間と矛盾−マクタガートの「矛盾」を書き換える−
 一 「時間と矛盾」という問題
 二 マクタガートの証明と本章の論点
 三 A系列とB系列は、二つの別個の系列か
 四 時間系列外のXは、どのように働くか
 五 時間特有の変化は、どのように特異か
 六 矛盾は、どこに見いだされるべきか

第五章 時間の推移と記述の固定−マクタガートの「矛盾」に対する第一の書き換え−
 一 はじめに
 二 「なる(時間の推移)」の時制逸脱性
 三 「矛盾(両立不可能かつ両立可能)」の実相
 四 「時間の流れ」に含まれるマクタガート的な「矛盾」
 五 「矛盾」の回帰と全面化
 六 「逃去性」と「理解済み」

第六章 相対主義と時間差と無関係
 一 相対主義は自己矛盾には陥らない
 二 相対主義は複数的な平等主義ではない
 三 相対主義と時間差
 四 夢の懐疑と時間差
 五 無関係と関係との無関係、あるいは「飛び越されてしまった実在」

第七章 「寛容/不寛容の悪循環」とそれからの「脱出の方途」について
 一 はじめに
 二 寛容をめぐる「循環のアポリア」
 三 「循環のアポリア」の検討
  1 B・ウィリアムズの議論に関連して
  2 「循環」の捉え直し
  3 「循環のアポリア」の診断
 四 「脱出の方途」、そして「収斂」について
 五 おわりに

第八章 プロタゴラス説のあるべき姿
 一 はじめに
 二 人間尺度説は「各人の現れ=各人の真理」説か
 三 中間項としての「現れ」
 四 「現れ」と「真理」
 五 「現れ」から「各自性」へ
 六 「各自性」以後
 七 「私たち」が召喚される
 八 「私たち」の相対化

第九章 運命論から何を読み取るべきか
 一 はじめに
 二 論理的な運命論(I)
  1 アリストテレスの議論
  2 時制移動と汎時間化
  3 喪失と補填
 三 論理的な運命論(II)
  1 テイラーの議論(海戦命令の話)
  2 テイラーの議論(オズモの物語)
  3 排中律の二様相
 四 形而上学的な運命論
  1 全一性
  2 強い必然性

註/あとがき/索引