BBSPINKちゃんねる内で発表されたチャングムの誓いのSS(二次小説)を収集した保管庫です

   チャングム×ハン尚宮×チェ尚宮 (10)  −闕望−       壱参弐様


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 季節の変わり目というのか。朝に雲一つ無い空が急に薄暗くなり、突然の雨に
見舞われることもしばしばだ。

 冬明けの晴れた日には、お盆や食膳などの木製品を、倉庫から出して風に当てる。
それは厨房だけでなく他の係の者も、それぞれが管理する本や書画、布団や衣類を
庭や軒下に並べ、籠もった湿気を追い出していた。

 けれど今年は、特に天気が定まらない。雨は降るでもなし止むでもなし。安心して
虫干しにかかることができない。
 ハン尚宮は諦めて、チャングムと共にしばらく読書をして過ごすことにした。

 今ハン尚宮が読んでいるのは、ミン尚宮から譲り受けた本である。地方に伝わる物語を
集めたもので、中身は他愛も無い話しがほとんどだった。けれど、言い回しが面白い
というか、読んでいると絵が浮かび上がり、あるいは朗々とした歌声すらも聞こえてくる
気がするほど……。ハン尚宮はこの本を読むたびに、幼かった頃を思い浮かべた。

 子供の頃、ペギョンとミョンイは、それぞれが付いた尚宮に、よく御伽噺を聞かせて
もらったものだった。
 ペギョンの尚宮だったチョン尚宮の語り口は、独特の節と共に、深く心に染み入った。
 ミョンイの尚宮は絵を描くのも得意だったから、物語を何枚かの絵に仕立て、それを
見せながら大げさに面白く語ってくれた。
 聞いていた見習いたちは、その頓狂な話にわくわくし、時には真顔での話に釣り込まれ、
思わず真面目に聞き入ると、またぱっと滑稽な口調に切り替える。そうしてすっかり
騙されては、皆でカラカラと大笑いをしたものだった。
 宮は厳しい暮らしとは言え、暴君の先代となるまでは、こうして過ごす楽しい時も
あったのだ。
 あの時代の後は人の心もずいぶん窮屈になり、何より多くの才能溢れた尚宮や内人が
宮からいなくなった。
 ハン尚宮も、まさか自分が王に語る日が来るとは思って見なかったから、最高尚宮に
なってから、見習い時代にもっとよく聞いておけばよかったと、少し後悔もした。

 ところでミョンイの尚宮は、彼女が内人となった後はミン尚宮を暫らく教え、それを
最後に引退したが、退くにあたってミン尚宮に数冊の本を渡した。それが、今ハン尚宮が
目を通している本であり、子供時代に聞いた物語の元となった本である。

 ミン尚宮はこの本を、なかなかハン尚宮に渡そうとはしなかった。最高尚宮であった
ハン尚宮に差し上げる話の種本として、手離したくなかったのだ。
 けれどミン尚宮は知らなかった。その話は、ずっと昔にハン尚宮も聞いていたものだと
いうことを。なぜならミョンイとミン尚宮が付いた尚宮は、ミョンイのいきさつについて
誰にも、決して語ろうとはしなかったから。
 話の中身よりもハン元最高尚宮にとって必要なのは、語り口を上手にすることだった。
 だからもう新しい話を持ってこなくていい、逆に話し方の指南をして欲しいと言って、やっと
貰うことができた。
 だからそれ以後のミン尚宮とのひとときは、ハン尚宮が話して聞かせる形を取っていた。
 ミン尚宮は元来話しがうまかったし、付いた尚宮の口調を見事に受け継いでいて、
同じ物語をしても、ハラハラドキドキさせた。そしてまた絶えず笑いを感じさせた。

 どうしたらあなたのように話せるのかとハン尚宮が尋ねると、ミン尚宮はこう言った。
「ハン尚宮様は、相手の方のお気持ちをお汲み取りになるのはお上手ですけれど……
もちろんそれも大切です……けれど尚宮様もお話しされている時だけは、心の中で大声で
笑ったり泣いたり、怒ったりそして恥ずかしがったりしてください。時には我をお忘れに
なるぐらいに」

 なるほど、そういうものかも知れないと、ハン尚宮は思った。
 そうして何度もミン尚宮相手に練習をして、王に聞かせたものだった。
 しかしそれから後、語る相手は変わり……チェ尚宮には、そこまで感情を込めて話を
したことはなかった。

 ところでチャングムの方はといえば、相変わらず明国の料理の本や、どこからか借りて
きた古書などを読み耽っていた。
 そして時々庭先に出ては、じっと空を見上げていた。


 ある朝、今日は特に用事もない。二人は夜が明けるとすぐに、裏手の山まで出かける
ことにした。一昨日チャングムが、どうしても見せたいものがあると言ったからである。

 太平館は接待の場に相応しく、風光明媚な所にある。
 少し足を伸ばせば丘や小さな山がいくつも並ぶ。近くに清流もあった。そして狩りも
できるほどの広さの森も含め、その一帯全てが庭である。

 山々は手前から奥へ行くほど高くそびえ、冬でも緑に覆われている。
 春には、至る所に桜の花が彩りを添え、秋山は特に圧巻である。紅葉の盛りには山が
燃えると見えるほど、赤や黄色が織り成す錦が鮮やかに迫る。
 もちろん晴れた日の眺めも麗しいが、小雨の日も霧がまた、山間に煙るごとく立ち上り、
えも言われぬ風情を醸し出す。この地に足を運んだ人々は、雨中に足元の悪さも忘れて、
山に見蕩れるのが常だった。

 チャングムは肩に弁当を結わえ、そして大きな籠をぶら下げている。ここに来てから
暇を見つけては、こうやって辺りをうろうろしてたという。
 前任の尚宮の、さぞ困惑していたであろう顔がハン尚宮の目に浮かぶ。
 ―――言い出したら聞かないやんちゃな娘を抱えて、本当に気苦労が絶えなかった
   だろう。帰ったら謝っておこう。

 荷物を持とうかと言うハン尚宮に、チャングムは首を振って答えた。

 この辺りは窪地であり、また川も水気を運んでくるのか、よく霧がかかる。今朝も、
外に出たときから霧が立ち込めていた。そのせいか、春だというのに少し寒い。
 山に近付くにつれ、風も無いのに、更にひんやりとした重い空気が頬を撫でた。

 山道に入り少し昇ると、クマ笹の葉が腰の高さで刃のような葉を四方に伸ばしている。
 それが途切れたあたりで、チャングムは言った。
「ここで蕗の薹(ふきのとう)を沢山取りました。ヨモギとかも」
 嬉しそうに指す山脇の蕗は、しかしもう、どれもこれも丸い葉が広がっている。
「水辺の方がもっと大きいのが取れるのですけど」
 下には沢が見えた。けれどその行く手は、根元から流された木々が折り重なっている。

「お前、あんなところに降りて行ったの?」
「前は簡単に降りられたんですけど。あの木は冬の初めにすごい雨が降って、その時に
流されてきたのです。あの晩は太平館の近くの小川でも、夜中に大きな石がごろんごろん
と音を立てて転がっていました。さすがに怖くなりました」

 ―――ああ、そんなことがあった。雨は止まず、雷が一晩中鳴り続けていた。ちょうど
   その頃、私はチェ尚宮の部屋で……。

 嫌な思い出である。
 気を取り直してチャングムに語りかける。
「私もあんなに強い風の音を聞いたことはないわ」
「実はちょっと部屋を出て、外を眺めたりしていました。」
「あの中で? 雨に濡れたでしょう」
「はい。軒に入っていても、水しぶきが顔まで吹き付けてきました」
「あらあら、風邪を引かなかった?」
「でも、山の方がぴかっと光ると、辺りは一瞬、昼間のように明るくなって」
「雷は怖くないの?」
「はい。稲光がカクカクと折れながら地面にぶつかるのが、とても面白かったです」
「あの時の嵐は凄かったわね」
「屋根が吹き飛ばされた家もあったそうです」
「ここに来る時も、道々に木の枝や岩が落ちていたわ。前ほどは降っていなかったのにね」
「この山道も、端っことかが崩れているところがあるんですよ」

 そう言うとまた歩き出しては止まり、かがんで山菜をもぎ取っていく。

 普通の山辺なら、山菜を摘むために他にも人が入ってくる。
 けれどここは御料地、好きに立ち入ることは許されない。だからほとんど手付かずで
ある。僅かに歩くだけで、チャングムの籠には蕗の小山ができている。
 そして山の中は、どこまで行っても二人きりだった。
 伸びた山蕗を次々集める後ろ姿を眺めながら、ハン尚宮も足元に気を配りながら山路を
辿った。実のところ、打ち据えられた古傷が残っているようで、昔は平気だった山道を
少し辛く感じていた。
 ―――けれど、せっかくお前と来たのだから。

 途中、岩や土砂が堆く積み重なり、その上を越えて行かなければならなかった。
チャングムはちょっと先に進んでは、ハン尚宮の手を掴んで懸命に支えた。下りる時も
同じようにして。
 ―――昔は小さな手が可愛かったけど、今ではこうやって、私をしっかり支えてくれる。

 岩や木に片方の手をついていたせいで、チャングムの手のひらは苔塗れになっていた。
「もう危険な場所はありません。さ、行きましょう」
 パンパンと手を払いながら言う。

 更に昇ると、羊歯ばかりになった。
「ここから先はあまり取れないので、歩くだけになります」
「あとどれぐらいかしら」
「もう、ほんの少しです。でも私一人の時は、ここから入っていくんです。近道なので」
 見ると、山肌から赤茶けた土が崩れ落ちていた。
「足跡があるわね。これ獣道じゃないの。大丈夫?」
「猪が通る道ですけど、冬の間はほとんど出ませんし。ここに来たての時は、腰に鈴を
付けていました」

 また二人で歩き出す。
「実は雪の降った日、あの近道で足を滑らせたことがあって。へへへ」
「まあ。あんまり危ないことはしないでね」

 しばらく歩くと森が途切れ、霧も薄くなって視界が開けてきた。
「見てください、尚宮様!」

 山頂から四周を望む。
 霧と見えたものは眼下に低く雲となり、太平館や小川、付近の丘を覆っている。雲が
所々盛り上がり、渦のように巻いて見えるのは、あたかもソルロンタンを煮込む時の
ような有様である。
 白い渦の合間に、山の頂がぽつりぽつりと緑を添える。それは絵に描かれた島のようで、
まさに雲の海であった。
 見上げると空は晴れ渡り、どこまでも青く広がっている。そして東の方からは、
日差しが眩しく雲の上辺を朱に染めている。
 一面、人の手で作られたものは見当たらず……いや、手前の山の頂に建てられている
物見櫓だけが唯一、白い海の間からちょこんと突き出ていた。
 青く澄む空の下、広がる白地に描かれた緑や朱の光景。目を凝らすと、その先には
月が淡く残っていた。

 ―――彼方の宮での暮らしも、霧に包まれていたようなものだった。
    私は道を見失い、手探りで彷徨っていた。
    けれどその上には、何一つ曇りのない空が、こうして広がっていたのね。

「尚宮様、御飯を戴きましょうよ」
 チャングムが声を掛けるまで、ハン尚宮は、時折吹く清々しい風を感じながら、思いに
浸っていた。

 二人は木陰に切り株を見つけ、持ってきたお弁当を広げた。太陽が昇るにつれ、
ぽかぽかとした陽気すら感じられるようになった。

 弁当と言っても、干した魚と御飯と、そして少しの味噌だけ。
 でも美しい景色こそが、最高のおかずだった。

 そしてチャングムの側に居られることが、どんな美食よりも心を満たしてくれた。
 ―――牢屋の中でお前は、母にできなかったことをしてくれると言ってくれたけれど。
   これってお前自身がお母様としたかったことじゃないのかしら。
    山に出かけて山菜を摘んだり……兎を追ったこともあるって話してくれた
   わね……。きっと山の上で、一緒に御飯を食べてみたいと思っていたのでしょうね。

 そんなことを思いながら、ハン尚宮は、竹の皮で包んだ御飯を口に運んだ。
 ―――ミョンイとお前、そのどちらとも共に過ごせた私は、幸せ者ね。

 なぜだか、こみ上げるものが口中に塩味を滲ませる。
 ―――ミョンイも、お前が立派に大きくなった姿を見たらなんと言うだろう。
    どれだけ、今のお前を見たかっただろう。そして……この子の元から離れ
   なければならなかった時……寂しかっただろう。

 ハン尚宮はチャングムの顔をじっと見つめた。
 ―――ちょうどミョンイと別れたのは、これぐらいの歳の頃だった。あれから……時は
   止まってしまった。そして私は見ることも、同じ年月を過ごすことも。
    この子のこれからの時間は、あの人が宮で歩めなかった時間なのね。

 今でも大切に思う友の面影が、チャングムの横顔に浮かんだ。
 ―――この子の幸せを願っていたミョンイの代わりに……ミョンイの分まで、私が
   お前を見てあげるから。

    けれどミョンイ。あなたは私に何を委ねたの? どうしてこの子を私に託そうと
   思ったの?
    チャングム……私はお前にとって、どうあるべきなのだろう。

    私はこの子のことを……。いつまでも、ずっとずっと、この子をだけを見て
   いたいし、この子だけに見ていて欲しい。でも……。

 愛しい顔を見ながら考える。
 ―――思えば……最初に出会った時は、利発な子だと思ったわ。そして元気一杯で、
   お転婆な子だった。
    私は師匠として、一人前の女官にしようと厳しく接してきた。けれどいつしか、
   教え諭す弟子から、私を励まし、支えとなってくれたわね。
    そんなお前を見て、弟子に対する気持ちから、あたかも友といるような気持ちへ
   と変わっていった。いや、それ以上だったかも知れない。
    どうしても手放したくない、失いたくないとまで思うようになって。

 ハン尚宮は心に仕舞っていた決意が二つあった。どう話そうか。チャングムと過ごす
時には、いつも考えていた。
 そのどちらも、聞けば衝撃を受けることは容易に予想された。だからきちんと伝え
なければ、心を無闇に惑わせてしまう。
 ―――ミョンイ……きっと、空の上から見守ってくれているのでしょうね。できること
   なら、あなたに直に聞いてみたい。私はどうしたらいいのって。
    あなたなら、きっと一番いい答えをくれるはずよ。
    そしてチャングム、お前にも聞いてみたい。私のやろうとしていることは、
   間違ってはいないのかと。

    ああ、だけど……ねえチャングム。いつまでもお前に甘えていてはいけないと
   思うの。頼り過ぎていると……私はいいけれど、お前のぐんぐん伸びる芽を摘み
   取ってしまいそうで。

    ミョンイが私を信じて、この子を託してくれたのなら、いや、ミョンイの生まれ
   変わりだとしたら。私は……お前とミョンイを信じてみたい。

    私はもう一度、お前の師匠に戻って、お前を導きたいと思う……。

 ハン尚宮がずっと自分を見つめているのに気が付いて、チャングムはニコッと微笑んだ。
 ―――今一度、お前は私を受け止めてくれると、そう信じて、もう一度あの雲海の中に
   下りていこう。たとえ見通しが悪くても、その上にはきっとこのような、晴れ渡る
   空が広がっていることを思い出して。そしてそこから、ミョンイが見守っている
   ことを願って。


 その夜。
 ハン尚宮はチャングムを部屋に呼んだ。もうそろそろ、休まねばならぬ時刻である。
 久しぶりの招きに、チャングムの心は浮き立つ。

「尚宮様」
 座るなり重ねてくるチャングムの手を、手の甲に乗せたままにして、ハン尚宮は静かに
語りかけた。
「私はお前のことを愛おしく思う」
 その手を、どれほど握り返したかったか。けれど懸命に堪えて続けた。
「けれど、もう前と同じではいられない」
 チャングムは落胆し、手を自分の膝の上に戻した。
「なぜですか。もう安心だと手紙に書かれていたではありませんか?」
「チェ尚宮が、私たちをこれ以上追いやることはない。それは確かよ。
 けれど、私も最高尚宮に戻れる訳でもない。理由はどうあれ、王様がお倒れになった
ことは事実だし。皇后様も私を再任させることは難しいでしょう。
 ……女官長も他の尚宮を推すでしょうから」
「そんな。水剌を担える尚宮様は、ハン尚宮様以外にはおられないと思います」
「それは違うわ。お前は私しか見ていないから。目立ちはしないけれど、他にも立派な
方がおられると思う。
 ……それに……チェ尚宮だって、しっかりやってくれるでしょう」
「ではこのまま? ……何も……どうしてチェ尚宮様がこれから先も、最高尚宮でと
言われるのですか」
「お前は到底承服できないでしょうね。私もそれは……けれど。
 いずれにしても、以前のように好きにはできない。そして何もかも庇ったりもできない。
 私たちを妬む者、追い落とそうとする者、それはチェ尚宮たちに限らないけれど、
どんなところにいて目を光らせているか判らない。何しろお前は才能がありすぎるから」
「でも……」
「だからここでも、好きに振舞えるわけではないの。料理に打ち込むためにしていること
なら、守っていくわ。でもそれ以上のことは」
 そう言いながらハン尚宮は思わず、愛しい頬を両手で撫でさする。
「もう戻りなさい」

 ハン尚宮の手に包まれたチャングムの頭は、少しも頷かない。
 チャングムは納得できなかった。以前のようにおねだりすれば……。
「尚宮様、せめてもう暫らく、この部屋に居させてください」
「駄目です」
 手を離し、心を鬼にして言った。
「内人としての分を弁えることも覚えなさい」
「どうしてですか」
「話しは終わったわ。早く帰りなさい。私は寝るから」

 それでも座り続けるチャングムを放っておいて、ハン尚宮は布団を敷き始めた。
「自分の部屋にお戻り」
 チャングムは動けなかったのだ。ハン尚宮様から、ひどく突き放されたように思えて
身がすくんでいた。
「おやすみなさい」
 そう言うと、ハン尚宮は布団に入りくるりと背を向け……本当に寝てしまった。
 ―――やっぱり全部は、言えなかった。
    でも話し始めないと、ただ日が経っていくだけ。だからこんな夜に伝えて、
   それ以上言葉が続かなくなって。
    チャングム、ごめんなさい。
 ハン尚宮は心の中で詫びた。

 尚宮様はお話しに詰まられると、いつもこうして布団をお被りになっていた。だから
今日だって、きっとまた、何かお思いに違いない。
「尚宮様、失礼します」
 お話しはできなくても、せめてお体を寛げて差し上げたい。今日は山道を昇られて、
足も張っておられるはず。
 そう思い布団を少しめくって、肩や腰を擦りだした。
 尚宮の身体に触れること。それは牢屋の時以来である。この日が来るまでの時間は、
チャングムにとっては永遠のように思われた。そして今触れないと、また手の中から
逃げてしまうような気がした。
 だから本当は、ぎゅっと抱き締めたかった。いや、抱き締めて欲しかった。
 けれど、肩を揉んでもずっと黙ったままだ。

 ひとしきり擦り終わると、チャングムはやむなく自室に戻った。

 次の日。
 今日も特にすることはない。ハン尚宮は次回の接待の献立をあれこれ考え、隣では
チャングムが食器を磨いている。
「ハン尚宮様」
「なに?」
「このままこちらで、お過ごしになられるおつもりですか?」
 手紙では、チェ尚宮は脅威ではなくなったこと、その内太平館に行って一緒に過ごす
こと、けれどそれまでは変わらず真面目に精進するようにとしか書かれていなかった。
ここに来ても詳しくは言わなかった。

 ハン尚宮はミョンイの手紙を取り返した当初、もちろんすぐにでもチェ尚宮を追い払い、
チャングムを呼び戻すつもりでいた。周りの者たちにも、そう伝えるべく考えてもいた。
 けれどその後、迷いが心を捉えて。
 だから今日初めて、自分とチャングムがこれからどうするのか、話すことになったのだ。

「いいえ。もうしばらくしたら、水剌間に戻るわ。もちろんお前も」
「私も帰れるのですか? チェ尚宮様は一生ここにいろと」
「それは私から言います。あとひと月ほど過ぎたら、一緒に帰りましょう。
 それともずっとここがいい?」
「いえ。いろいろ勉強になりましたが、やっぱり水剌間で御膳をお出ししたいです。
それにハン尚宮様がお帰りになられるのでしたら……。ハン尚宮様がいらっしゃるところ
でしたら、どこへでもご一緒いたします」

 その夜。
 ハン尚宮は蝋燭を吹き消し、床に就いた。

 ひたひたと忍ばせた足音が、廊下を渡ってくる。それは尚宮の部屋の前で、ぴたりと
やんだ。
「入らせていただきます」
 小声で言うと障子を静かに開け、チャングムは部屋の中へ身体を滑り込ませた。
 気候は緩み、夜に寝巻き姿でいてもあまり寒くはない。
 それでもチャングムは、暖かい空気がなるべく逃げないように、小さな隙間から
手だけを潜らせると、昨日と同じようにハン尚宮の背中を擦りはじめた。ほんの少しでも
いいから触れていたかったのだ。

 何も言わないハン尚宮を撫で続ける。手のひらという小さな接点だけれど、こうする
ことで、長い間の別離を取り戻せるような気がして……。
 たまらなくなり、身体ごと布団に潜り込んだ。

 ハン尚宮は、それでも身動き一つせずに寝息をたてていた。
 それをいいことに、もっと身体をくっつけてみる。背越し、伝わる胸の鼓動に
耳を当てる。
 久しぶりに感じる温もりと、尚宮様が確かにここにいるという安心感に、急激な
睡魔がチャングムを襲った。
                                ―――終―――


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