BBSPINKちゃんねる内で発表されたチャングムの誓いのSS(二次小説)を収集した保管庫です

   チャングム×ハン尚宮×チェ尚宮 (9)  −顧望−       壱参弐様


 その頃、宮。

「チェ尚宮様。昼の御膳の支度が終わりました」
「お入り。あなたに大妃殿に届けて欲しいものがあるの。着替え終わるまで待っていて」
 クミョンは入り口近くに立ったまま、見るとはなしにチェ尚宮の背中を見た。
 この頃お疲れになられて。それなのになぜハン尚宮様を太平館へ遷されたのか。
 ハン尚宮様が今までどれだけ気を配ってこられたか、あちらに行かれてから改めて
判った。
 最近は水剌間も行き届かなくなった感じがする。
 叔母様も、随分おやつれになって……。

「暫らく外に出るから、後のことをよろしくね」
 お仕着せから余所行きに着替え終え、振り返りざま両の手で襟元を調え直したその時。
「チェ尚宮様! 一体どうなさったのですか?」
 クミョンはチェ尚宮の許へ歩み寄った。
「え?」
「お見せくださいませ」
「お待ち」
「それは……何か付いています」
「何でもないわ」
 もしかして御病気? なのに隠しておられるのかも。大切な最高尚宮様のお身体、
放ってはおけない。
 そう思い、嫌がるチェ尚宮に構わず襟元を寛げる。
 紫色の痣……。腫れ物かしら? 触っても特に熱っぽくもないけれど。
「いいのよこれは。心配しないで」
 やっとクミョンの手から解放され、改めて衿を合わせ直した。
「診ていただかないと、病の前触れかも知れません」
「そうじゃないの」
「伯父様にお願いして、塗り薬でもいただいた方が」
「いいって言っているでしょ」
「この頃の叔母様は、お体が優れないようにお見受けしております。私も心配でなりません」
「別に何でもないのよ」
「今ご健康を損ねては、水剌間はどうなるのです。この頃気苦労が絶えないご様子ですし」
「心配してくれるのはありがたいけど……」
 チェ尚宮がそっと伺うと、クミョンは心配顔でじっと見ていた。
「ちょっと虫にね」
 ますます不安げにしている。
 確かに虫っていってもこんなに残るほど毒が入ったとしたら、それはそれで深刻だし
……また例えば、腹に居座る虫が首にまで上がってきたとしたら、それも重大な病
ではある……。かといって、今さら他の言い訳を考えるのも……。
 いずれにせよこの痣のことを……兄上に相談されたら……もっとまずい……仕方ない
……この子なら胸に納めてくれるだろう……。

「実はね……お前も知っていると思うけど……この前、ハン尚宮の隣で寝ていたときに、
その……寝返りをうったときに、腕がちょーっと、当っちゃって」
 全然納得してくれない。どころかハン尚宮と聞いた途端、目に不審がありありと……。

「あの、はずみでね」
「打ち身には見えません。所々ぷつぷつと跡があります」
「……」
「お話しください」
「あのね、あのー、あの、言い辛いけど。あの、その、ちょっと噛まれて」
「え?」
「いえ、ぐっと。あ、まあ成り行きでね」

 成り行き……ですか。
 溜息…。

 しばしば叔母とハン尚宮が遅くまで共に過ごしている。
 そんなありさまを、夜、チェ尚宮の部屋に立ち入ることを許されていたクミョンだけは、
何度か目にしていた。もちろんその多くは、真剣な顔で打ち合わせをしているか、書き物を
している姿だった。
 けれど、最初の頃はよそよそしい雰囲気だったハン尚宮が、いつとはなしに部屋の中で
寛いでいる様子に驚いたことがあった。
 そしていつの頃からか、水剌間で料理をするハン尚宮の背中や手元に、叔母が目線を
預けていると感じることも度々あった。
 だからクミョンも、薄々気付いていた。

 しかしそれがどの程度のものなのかまでは、知る由もなかった。さすがに夜中に呼ばれ
ることはなかったし、クミョンも妙な好奇心はない。用も無いのにあの部屋に近付きたい
などとは思わなかった。

 女官同士の結び付き、それは人によって濃淡がある。
 そもそも話すだけで、触れ合いなど求めない者もいる。また触れたとて、ただ手を繋い
で眠ったり、抱き締め合ったり。あるいは唇を寄せるぐらいで満たされる者も。
 その程度ならよくある話し、いちいち咎め立てされることはない。

 もちろん私だって……そういう"関係"があることぐらい知っている。

「ねえねえ、すごいのを見せてあげようか?」
「なに、なに?」
 ヨンノが、チャンイやヨンセンを部屋に集めて、いかがわしい本を見せびらかして
いた。
 またその手の話し? お料理を勉強しようという気持ちは無いの? 心中苦く思い
ながらも、耳はついついそちらへ傾いてしまう。

 それにハン尚宮様のご様子では、それほどのことを――優しく抱き締めていただき、
背中を撫でていただいたぐらいだったから――なさるとは思えなかった。
 それくらいなら、私は何も言うまい。
 叔母様がお幸せでお過ごしなら、私も嬉しくない訳がない。

 しかし、叔母様。

 ヨンノはますます得意げに喋った。
「それでね、好きになるとー、自分のものだってね、相手に印を付けちゃうのよ」

 ……好きになると、ですって?……まあ、何事も知っておくのも悪くは無いわね……。

「え、どんな、どんな」
 チャンイとヨンセンが口を揃えて聞く。
「こうやってね、ちょっとヨンセン! 腕を貸しなさいよ」
「やだー。あっっやめてよ」
 じたばたもがくヨンセンに構わず、袖を捲り上げて、
  ちゅーっ
「痛ーい」
「ね、そんな風に」
「跡が付いちゃったじゃない」
「すぐ消えるから、大丈夫よ」
「あんたなんかに付けられるのが嫌なの!」
「じゃ、誰だったらいいのよ? ひょっとして、もういない子のことまだ考えてるの?」
「いないって何よ! チャングムは太平館で頑張ってるって、お戻りになった尚宮様も
おっしゃっておられたわ!」
 そしてまた取っ組み合いの喧嘩が始まるのを、横目で眺める羽目になる……。

 確かに一週間もしない内に目立たなくなったわね、"あの跡"は。
 けれど、ハン尚宮様が発たれてから数週過ぎても未だに。ということは。

 お互い、深く深く関わり合ったと、そういうことですか、叔母様?
 そして叔母様ばかりでなく、ハン尚宮様までも、なのですね?

 私はいったい……。

「お気を付けください。敏(さと)い者もおりますゆえ」
 それだけ言うと目を伏せ、クミョンはチェ尚宮の支度が整うのを静かに待った。


 それから一週間。
 太平館では、無事に第一陣の接待が終わった。次の客人が来るのはまたひと月先。
段取りも飲み込めたから、今回よりはかなり余裕を持って過ごせるはずである。

 後片付けの作業にかかりながら、チャングムは絶え間なく、太平館でのこれまで、見た
こと聞いたこと学んだことを語る。とりあえず一仕事を終えた安堵からか、口調も一層
滑らかだ。
 けれど話しても話しても、時間が足りないように思えた。
 会えなかった月日は、それまで教えを受け、時には逆に励ましもして過ごしてきた
時間からみれば、実際のところさほど長くは無い。
 でも、ハン尚宮のそばに居られないなど、考えたこともなかったチャングムである。
別離を余儀なくされ、想いが更に強まるのは当然過ぎるほど当然なのだろう。
 だからチャングムは、とにかく話したかった。昼中だけでなく夜までも、そして次の朝
までも。ハン尚宮の話しを聞くよりまず、自分のことを話した。自分はここにいて、
ずっと頑張ってきたんだと。
 そして自分を微笑みながら見てくれる、時々軽く頷いてくれる、チャングムはそんな
ハン尚宮を見るのが何より嬉しく、もっとその顔を見ていたくて、だからもっと話したく
なった。
 ハン尚宮も宮の様子を、ただしチェ尚宮との出来事だけは慎重に避けながら、少しづつ
話した。

 先日の応接の記録作りのため、チャングムは――前任の尚宮の時は、資料を揃えるだけ
だった――時には深夜までハン尚宮の部屋に籠もっていた。
 本当は……もう少しお側に近付きたかった。けれど最高尚宮へ報告する期限が迫って
いて実際忙しかったし、ハン尚宮もそのような様子を見せない。なのに無理に、などと
願うことはできない。
 作業が一段落すると、相変わらず二人は何事もなく、そのまま各々の部屋で休んだ。


 こうして二人は、太平館でのびのびと過ごした。
 全くここは、余計な者がいなくていい。仕事も使臣さえ来なければ大したことはない。
これまでの疲れを癒すにはもってこいだ。
 そしてゆっくり考えることができる。これからの……それを思うと、ハン尚宮の心は
澱のごとく沈む。
 本当にゆっくり考えたい。もう一度気持ちをまっさらにして、考え直したい。


 昼過ぎから振り出した久しぶりの雨が、空気をしっとりと落ち着かせている、そんな夜。
 細かな雨音、それはかえって闇の深さを引き立てる。聞こえるのは、二人が資料を
めくりつつ筆を走らせる微かな音だけである。

 今日もいつものように、遅くまで書き付けに取り組んだ後のこと。
 チャングムが去った部屋で、ハン尚宮はうとうととし始めていた。

 しかし、ある気配が。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 なんだか懐かしい……墨汁から漂う幽香のような薫り……今日はとりわけ書き物が
多かった……あの子もせっせと墨を……あたってくれた………………いやこれは……
違う。

 そういえば、あの。
 ここに来た日の別れ際、私が抱えた荷物にチェ尚宮は小さな袋を押し込んだ。今さら
何をくれるのか、そう思ったけれど、また荷解きして返すのも無粋。何より一刻も早く
あの者から離れたくて、結局ここまで持って来ていた。
 くれた時、一瞬香りが鼻を掠めた。けれど道中、ぬかるんだ道取りに気を取られ、着く
なり早々打ち合わせを始めたから、部屋に戻り荷を解くまですっかり忘れていた。

 包みを開くと、錦地の色鮮やかな匂い袋がいくつか転げ、芳香が立ち込めた。持ってきた着替えも、その
香りに染まっていた。

 女官たちは衣類の虫除けとして、小さな巾着や畳紙に包まれた香木を使う。内人の間は
檜や山奈だったり、尚宮は伽羅や青木香、龍脳などそれぞれ好みのものを。衣替えの
季節になると、あちらこちらに新しい香りが翻り、気持ちも何となく改まった。

 私は落ち着いた感じの白檀が好きだった。
 ソングムは、やはり高価なものを用いているようで、たぶん麝香なども合わせてある
のだろうか。通り過ぎた後に、馥郁たる香を残した。華やで奥深く……お前の身体が
火照ると……もっと甘く深くなって。

 ……それと同じ香りをくれた……私の好みではないけれど。

 寝返りを打つ。

 けれどそのまま箪笥に直に入れるには強過ぎたし、だから紙に幾重も包んで、衣類とは
別の引き出しの奥深くに片付けておいた。今まではそれで大丈夫だったのだけれど。
 今日の雨。
 その湿り気に乗って、匂いが染み出てしまったのだろうか。

 また寝返りを打つ。

 昔まだ子供だった頃、ソングムが実家から香木を持ってきて、部屋の火鉢で焚いて
見せたことがあった。小指くらいの木切れだったのに、部屋も服も髪の毛も匂い
塗れになってしまった。慌てて扉を全部開けて、服も外に干したけれど、次の日に
なっても全然取れない。
 おかげで尚宮様からは、調理をする者が強い匂いを纏うとは何事かと、きつくお叱りを
受けて。
 ソングムは、薬にも使うとても貴重な材料なの、と言っていたっけ。

 また、まどろみへ。

 あの頃のソングム……。

 薫りは更に濃くなり、そうっと静かに揺り起す。

 そして、するすると布団の合間から滑り込んでくる。
 ふっと寒気を覚え、頭から布団を被り、隙間を手でぎゅっと握り締めた。

 けれども。

 それはゆっくり肩口から忍び込み、纏う衣を剥いでいく。
 剥き身になった背中や脚を細やかにさすられ、そして次第に前に向かい、優しく
胸全体を撫でた。動き回るそれを制したつもりだったが、お構いなしに身体全部を
這い回る。
「い、いや……」
 拒む口内に温かく侵し入り、誘われるまま己の舌が絡み取られ。
 また次第次第に、下方に位置を移し、胸を揉み、そして吸上げ、転がし、包み。
 いや……二度とあんな……いけない。身体を下に返して胸を守り、固く目を閉じる。

「ふっ」
 微かな笑い声。
 動きは背中からまた少しずつ、下へと降りていく。
「脚を開いて」
 厭わしい言葉と共に脚が割り込まれ、左右にずり広げられる。
 そしてしなやかな動きが腰のあたりにたどり着き、さらに下へ、もっと奥へ。
 中へ中へと、侵入を企てていく。

 気持ち悪い。
 歯を食い縛ったけれど。
「……ぅ」
 息が漏れてしまう。
 ぬるぬると弄られ、粘った音の響き。体奥押し広げられる感覚、内からの圧迫が喉に
まで遡り全身を満たし……かつて貪った快楽が広がって。
「いっ いぃ」
 声を殺そうと慌てて口を枕に押し付ける。

 温かさを帯びた柔らかな滑りが首筋を捉え、ぺろぺろりと行き来する。
 自分でも判るほど、背中が反り返った。
「ああっぅ」
 喉奥で押し潰された声。
 血が沸き立ち、瞬間、身体中を駆け巡った。


 力の抜けた腰は、容易に反転させられ脚を持ち上げられる。ゆらゆら動く足指の間を
生暖かさが通り抜ける。膝の裏から腿の内側……すすーっと這う湿り気。
 それは足の先から行きつ戻りつ、少しずつ焦らすように、掲げられた脚の付け根へと
向かっていく。

 止めさせようと夢中で掴んだけれど、手のひらには何も残らず……身体を火照らせ
続ける。上気する薫りは次第に濃く淫靡になり、昂る自分の匂いと入り混じり鼻を侵して
いく。
 逆らう術を忘れた脚が、深く折り曲げられた。
 温かく滑るそれは、付け根から更に奥へ。いま中を探し当て、温かくうねり、繰り返し
波を寄せ、潮が満ち溢れて浜辺を濡らす。
 臀部から腰にかけてひやりとした冷気が伝った。雨がここまで……滴り落ちている
のだろうか。それとも与えられたものか。よもや、この身から零れているのか。
「もう、お願いよ」
 何度昇り詰めても許しを請うても止まず、ようよう力を出して跳ね除けると弱まる
どころか圧し掛かられ、豊かなふくらみに口元を塞がれて、息をするのもやっとだ。押し
潰され身動きが取れないまま更に敏感な場所を探られ、奥まで深く入り込んでいく。
「感じているの?」
 動きを緩め、囁き。
「欲しいんでしょ」
 残酷な問いかけが、耳奥、とろりと流し込まれた。

「じゃあそう言いなさい」
 いや、そんなことない。感じてなんか、そんなはずはないのよ。もういいのよ、もう。
 けれど触れるか触れないかの軽やかな動きに、震えが止まらない。
「それとも……本当にやめていいの?」
 流し目をくれ、勝ち誇ったように言う。黒髪が揺れ、頬のあたりに陰惨な笑みが刷いた。
しかしその面は青白くて……。
 訝しむ心を振り払うかのように、また柔らかく触れてくる。
 身体に再び火が放たれ……欲しい。本当は。
 けれど、自分がひどく淫らな獣に思えて極まり悪く、喉を振り絞る。
「やめて」
 けれどその蠢きは、もう燃えるものなどないと思うほど焦がし続ける。
 止められるはずもない。もっと身体でも……そして言葉でも……いっぱい、いっぱい。
「素直になりなさいよ」
 無言の抵抗は、悶える腰の前では意味をなさない。
「よがっているのよ、ほら」
 脚をさらにぐっと開かれ、片方の足首を掴んで掲げられて。
「こうしたらどうなるのかしら」
 柔らかくぬるぬるした部分が、両脚の間へ……熱く押し付けられ、鋭敏な場所同士を
ぴったり合わせ、内股共々こすり付けられる。
「いやらしい顔をして。いいって言いなさいよ」
「あぅ…いひっ…」
 くいくいと押し付けて弄る。酷い仕打ち……けれど夢中だった。
「抱かれているのよ。あなたを見ているのよ。私が気持ちよくしているのよ」
 望み通り……次々、言葉でも更に弄ばれる。心を犯される痛みにすら酔ってしまう。
 あの場所がくちゃぐちゃと音を立て、互いの熱い滴りが内股に広がっていく。
「聞こえないわよ。ほら」
 終わったはずなのに……。もう断ち切ったはずなのに……。ようやく這い出した
ぬかるみに、再びずるすると引き込まれていく。それなのにこの身は……滑り落ちる
心地良さ。

 ミョンイ? 目の前は白く歪み、思い浮かべることさえできない。
「逃げないで…」
 あてどなく逃れようと伸ばした手を掴まれ、その度、腕を相手に巻き付かせられて、
その腕ごと締め潰されて。
「いいっー」
 互いの鼓動が、一瞬高まり、そして深く重なった。

 身体中震え、べっとりと背中に汗。

「ソングム……」
 私もお前を……そう思い、髪に指を絡めようとした。けれどただ青白く、ぼやけた顔が
浮かぶだけ。
 あるのは、腰にしがみ付く肉の感触。
「ペギョン……好きよ、本当よ」
 痛々しい、切ない声が何度も繰り返す。
 それは少しずつ小さくなって、身に纏わり付く肉感も徐々に薄れる。後を追うけれど、
姿はもう見えなかった。
「ソングム! ソングム!」

 慌てて辺りを見回す。布団の隙間から逃げ行く自分の体温。入れ替わりに甘美で、今は
爽やかにも思える匂いが、胸の奥を満たす。
 消えて行った方向に手を伸ばし、温もりの痕跡を捜し求めた。けれど固い床が、指先を
弾き返しただけだった。

 冷たさに驚いて……本当に目が覚めた。
 まさか何か? もしや、償うために自らの……まさか。
 あの者の無事を確かめたいと何度も思ったが、腰がひどくだるく、力が出ない。

 そうよ。遠く離れた場所では、駆けつけるわけにもいかないのだから。今は眠るしか
ないのよ。

 思いを振り切り、もう一度布団に潜り込んだ。
 耳を澄ますと雨音が聞こえる。こんな夜は……。
 ぼんやり浮かぶ愛しみの記憶。

 細かな雨の音と甘い薫り、そして柔らかな感触に包まれて、いつしか深い眠りに落ちて
いった。


 一週間ほど経ち、記録も全て書き終えた。

 こうなると太平館はいよいよ暇、いや余裕が生まれる。
 多くの女官は、溜まっていた裁縫をしたり、市場に行きたがったりする。しかし
チャングムは、料理の研究と山菜の探索ばかりしている。

 その上、チャングムはちゃっかりと、前のお遣いの方々に料理の本などをおねだりして
――あの使臣様が、あの子の望みを聞いてやるようにと言われていたそうで――読み
耽っていたらしい。前任の尚宮が呆れたように伝えてくれた。
 だいたい、お料理をお出しするのはお前の役割ではないのに。あまりいい気になって
いるとその内痛い目に合うだろう。何より、お遣いの方々はそれほど強くは出られない
ものの、あなたのような綺麗な子を目の前にしてどのようにお感じになるか。
 私ですら時折、触れてみたくなるのに……。危なっかしいったりゃありゃしない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 前任の尚宮はチャングムの、いわばお目付け役としてチェ尚宮から派遣された。しかし
完全にチェ尚宮側の人間というわけでもない。ごく普通の中人の家に生まれ、多くの
女官と同様に、家計の助けとして宮に入れられた。宮では目立つことも無かったが、
東宮殿で真面目に務めを果たしてきた、平凡な女官だった。
 チェ尚宮のことは素直に凄いと思っていたし、ハン尚宮の腕も出自に対する偏見なく
評価していた。だから今度の事件やその後のいきさつには驚きながらも、ハン尚宮に
同情する気持ちもあった。

 けれどチャングムを押し付けられた時は、さすがにいい気はしなかった。
 それでも送られて間もなく、チャングムの身体が弱りきっていた時には何も用事を言い
つけず、ゆっくり休ませてくれた。そしてしばらくして回復した後は遠慮なく、つまりは
こき使った。

 チャングムはよく働いたし、噂通り料理は上手かったし、そうこうする内に次第に
良さとあしらい方も判ってきた。だからチャングムがほぼ願う通り、研究も山菜採りも
認めてくれたのである。
 ただハン尚宮に関わることは、チェ尚宮を慮って一切口にさせなかった。あらゆる
ことは、チェ尚宮に報告せねばならない。機嫌を損ねるようなことを告げると、自分も
良くは思われない。それにハン尚宮の立場も悪くなるだろう。
 だからチャングムが門前で出迎えるのも、まだ引継ぎが終わるまでは自分の配下なのだ
からと、渋ったのである。

 ところで今度のお遣いの客人も沢山の、決して高価ではないけれど珍しい食材を残して
いってくれた。チャングムは早速あれこれ、蒸したり搗いたり挽いたりして試している。
 あれらの食材がいつも手に入る訳ではないが、機会があれば御膳にお出ししてみたい
ものだ。異国の珍味に、王様にもお喜び戴けるだろう。
 それと……あの者にも。

 ハン尚宮の脳裏に幽鬼のような姿が浮かんだ。けれど宮からは、特段の知らせは
無かった。
 あれは夢だったのね……。

 あのチェ尚宮にも……これらの食材を教えてやることとしようか。あと、本も読ま
なければ。それも約束していたことだった。
                                ―――終―――


  * (1)−宿望− (2)−渇望− (3)−企望− (4)−想望− (5)−非望− (6)−観望− (7)−思望− (8)−翹望− (10)−闕望− (11)−属望− (12)−競望− (13) −星望− 1/3 2/3 3/3


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