波浪、again 〜昔からある場所〜

風がようやく暖かくなるこの時期は訪れる客も少なく、のびのびと乗るにはもってこいな季節なのである。
 舞う飛沫こそ未だ冷たいものの、ウェットスーツさえ着ていればそれを感じることもない。
 顔ばかりはさすがに防ぎようもないけれど、
 碧空の間隙より陽光降り掛かる日中ならば終日波際で興じていても大事ないことだ。
 浜は本日も日照り良く、風爽やかにして波はそれに似合わぬ荒々しさを垣間見せており、
 三原梢はゴールデン・ウィークのとっかかりを聞き慣れた波砕の音に囲まれて過ごすと決めたことを、
 漂う潮の香りに細く整った鼻を膨らませながら改めて正解だったなと思っていた。



      波浪、again 〜昔からある場所〜



 休みの前に冴子達と相談した時は、小旅行にでも行こうかという話にもなっていた。
 しかし意気揚々と掲げられたその提案にしばらく長考した後、
 冬の間はボディーボードはおろか海辺へ向かうことさえも殆ど無かったので、
 久しぶりに全身と愛用板で波を満喫しようと思い断った。
 何しろ真冬の海に対応できるような装備など持っていないのだ。
 フル装備一式揃えようなどと思ったら高校生の小遣いでは到底足りはしない。
 バイト代二ヶ月分を全面的につぎこんでようやく、といった形だ。
 プロになる気などさらさらないので、波乗りは精々春から秋までで十分であり、
 反して春から秋までしか活動できないのである。

 梢が左脇に抱えるボードは使い始めてからとうとう四年目に入ろうとしていた。
 それは即ち自身のボード歴も四年目に突入したことを意味している。
 初めは兄に半ば強引に薦められてのことで、そしてこの板は兄の彼女から譲り受けたものであった。
 これがなければ今の自分は、外見のみならず内面に関してもなかったと梢は思う。
 梢の一切の青春はこれによってもたらされたと言ってもよかった。
 たった一枚の板が人生の衝立てとなり、新たな違う路を示すに至った。
 そんなことを振り返れば振り返るほど、水にぷかぷか浮いてしまうこんな一メートル足らずの板きれが、
 まるでスイス銀行の貸金庫の扉を成す鉄板のように重厚なもののような気がしてくる。
 実際、それぐらいの役割はきっと果たしてきてくれたのだろう。

 感傷に浸りにきたわけではない。
 気を取り直して波打ち際に目を向けてみると、一人の先客が既に波を前にして水を掻いていた。
 梢は一瞬狼狽えた。遠目にもわかるかなりの巨躯だったからだ。
 本当に水に浮くのかどうかも疑わしいほどで、おまけに見事なスキンヘッドである。
 彼はどうやらサーファーらしく、ひとつふたつと先に見える大波を目標としているようだ。
 腕前がどれほどのものか見てみようと、
 梢は暖まった砂をしゃりしゃりと蹴飛ばしつつ砂浜に足跡を残しながら海へと駆ける。
 狙いの波が頂を白く崩壊させ始めたその瞬間、その巨体はしっかとボードの上に立ち上がり、
 端から彼を飲み込まんとする半弧を力強く滑り抜けていった。
 梢はひょう、と軽い風に口笛を吹いた。
 サーフボードは専門とは違うながら、それでも感心できるほどの見事なライディングだった。
 筋骨隆々を通り越して膨れ上がったあの上半身ではさぞバランスを取り辛いだろうとも思ったのだが、
 なかなかどうして重心移動が巧みであり、器用な印象だ。
 ただ、黒いスプリングのウェットスーツに包まれたその姿は何と言うか、
 黒いゴム風船が口から空気を漏らしながら海上を疾走しているようにも見えて、
 悪いとは思いつつもついつい笑いがこみ上げてきてしまう。

 さて、どうしようか。
 最後に男が転覆するのを見届けた後、梢は今日の計画の変更を視野に入れて考えた。
 今のところここにいるのは、自分とあのサーファーの二人きりであるからだ。
 神奈川県の南西部、静岡県の県境にもほど近いこの海岸は知る人ぞ知る場所であるのだが、
 かといって取り立てて良い波を狙えるスポットでもないので、
 初心者と上級者のどちらも滅多に来ることはない。
 増してやこの時期ならば尚更に人は少なく、
 非常に気ままに乗っては休んで乗っては休んでを繰り返せる。
 ナンパする者など稀なことで、呑気に波を楽しむためだけの海岸だ。
 言わば、ここは波乗りにとっての田舎だった。
 黒く焼けた金髪のお兄ちゃん達が跳梁跋扈する湘南などは大都会にあたる。
 都会の喧噪に疲れたらたまには田舎でのんびりしたい、ということである。

 だがその平穏な田舎とやらでも、見知らぬ人間とまさに二人きりとなっては
 そう易々と気を許すわけにはいかない。
 何しろうら若き乙女とスキンヘッドの巨体という組み合わせだ。正直に言って少々怖いものがある。
 ならばとっとと踵を返してしまえばいいのだろうが、
 友人との旅行の計画を断ってまでここへ来たというのに、
 今更引き返して別の浜へ向かうのも勿体ないし、第一面倒くさい。
 それにここは梢が初めて兄に連れられた場所であって、
 どうしてもここで波を満喫したいという意地が頭の中に蔓延っている気がしてならなかった。
 それは漠然と抱いた思いであるけれど、
 ひょっとしたらある種の縄張り意識みたいなものだったのかもしれない。
 帰るということは彼に場所を譲渡するようなものだと思ったのかもしれない。
 ここは私の大事な海なんだから、と。
 別に負けん気がある方ではないのだが、こればかりは譲る気にはならなかった。
 しかし、意を決していざ行かんと思った矢先に、
「お兄ちゃーーーーん!」
 と、春の蒼天に高らかに響き渡る声が足を止める。
 若干面喰らいつつも後ろを振り向くと、そこには小学生か、
 あるいはいっても中学生になったばかりという少女が缶ジュース片手に立っていた。
 あどけなさが残るどころか十二分にまだ子供であるものの、
 それ故にさらさらのショートの黒髪とつぶらな瞳が可愛らしい。
 真新しいウェットスーツをその身に纏った彼女は小走りに浜辺へと向かう。
 横を通り抜ける際に屈託の無い笑顔で梢に会釈をし、
 纏めて置かれた荷物の傍らに缶を置いてまた小走りに、
 今度はあのスキンヘッドの大男へと駆けてゆく。
 既に海からあがっていた男は梢の存在にようやく気付いて一瞥するが、
 しかし特に興味もなさそうに向き直して少女の元へずしずしと歩いていく。
 梢は大きく驚いた。
 強面を絵に描いたようなあの男にあんな可憐な妹がいるということもそうだったが、
 何よりもその男が自分の同級生、隣のクラスの男子生徒だったからである。
「天王寺君、だよね?」
 歩を進めて問うと、特に関わるまいという態度を取っていた男が不思議そうに梢を眺めた。
 それは街中で消費者金融の広告が入ったティッシュを配る者を見るよりも他人的な視線だった。
 しかしそれもまた当然だった。梢はあたかも知った風に声をかけたが、
 別に今までに交流があったわけではないのだ。
 芸能人と一般人との関係と同じで、その面識はごく一方的なものであり、
 彼にしてみれば知り合いを装った勧誘員と本質的には何も変わらない。
「私、去年の2ーCだった三原梢……って言うんだけど」
 だから一応名乗ってはみたものの、天王寺は「2ーC」と唸るように小さく繰り返すだけだった。
 それが聞こえてしまってから初めて梢は少し後悔した。
 彼は播磨拳児──旧2ーC──に対して大きな確執を抱えているに違いないのだから、
 わざわざこんな仕方で自己紹介をするのはまずかったろうに。
 しかし気まずく思いながら天王寺の表情を窺ってみると、何やらちぐはぐな印象を受けた。
 確かに嫌悪感は抱いているのだが、妹の手前それをあからさまに顔に浮かべるわけにもいかないようで、
 愛想笑いをするでもなく、眉根を寄せるでもなくて、対処に困って仕方なく
 「まさかこんなところで顔見知りに出会うとは思わなかった」という風を装った、
 取り繕い感丸出しの微妙な面持ちをしていた。
 それは喩えるならばルービックキューブを三面だけきっちり揃えたのにも似ていた。
 一見完璧そうなのだが、視点を変えればそうでないことがすぐにわかる。
 いっそ完膚無きまでにてんでんばらばらにする方が余程簡単そうだった。

 そんな様子を見たのもあって、梢の一縷の不安はすっかり消え去っていた。
 幼い妹の目をちゃんと気にするような人間が変な行動を起こすとは思えないし、
 何より彼が天王寺だとわかったことが大きかった。
 梢だって彼がラベルのべったり張りつけられた不良であることは認識している。
 だがそのラベルがまた、街で見かけるタイプのそれとは質を異にしていた。
 梢自身もうまく言葉にはできないのだが、彼はどことなくストイックなのだ。
 邪な考えをもって不良をやっているわけではなく、ただ単に同じ不良同士ケンカに明け暮れたりなんなりで、
 一括りの『不良少年』という領地の中においてのみ不良的に活動しているのである。
 その点は播磨拳児とよく似ている。
 不良の何をわかっているのかと言われればそれまでだが、
 彼がサーファーであるという事実からくる親近感はその考えをより強固なものとしていた。

「あ、お兄ちゃんの友達?」
 興味津々、といった表情で少女が天王寺に尋ねる。
 しかし天王寺はつまらなそうに「違え」とだけ答えて、
 さきほど少女が置いた缶を摘む──それにしても大きな手だ──と
 またずしずしと海へと向かっていってしまった。
 取り残された少女はいくらか目をしばたかせた後、梢の顔を見て申し訳なさそうにはにかんだ。
「ごめんなさい、無愛想な兄で」
「別にいいよ。知り合いっていうほどでもないし、しょうがないかな」
「知り合いじゃない?」彼女は一度きょとんとしてから肩を落とした。「てっきりお兄ちゃんにも女友達ができたのかと思ったのに」
 梢は軽く吹き出しそうになったが、すんでのところで留めておいた。
 「彼女」ではなく「女友達」と言うあたり少女もわかっているようだ。
 とりあえず、彼女に天王寺との関係を互いの自己紹介を交えつつ説明することにした。
 曰く、少女の名は天王寺美緒。小学六年生だそうだ。
 美緒はどうせ兄が不良であることは知っているのだろうが、
 それでもなるべく幻滅しないようにと梢は歯に衣着せつつ話した。
 しかし体育祭での獅子奮迅の猛活躍などの話になると、
 「じゃあお兄ちゃんは学校じゃ有名人なんですね」などと素直に感心してしまい、
 若干後ろめたさを感じつつも肯定せざるを得なくなってしまった。
 傍からは他愛のないよた話に聞こえるだろうが、これでなかなか結構気を遣うもので大分苦労するのである。
「お兄ちゃん、学校のことはいくら訊いてもほとんど話してくれないんです」
 美緒が随分と嬉しそうに告げる。
 この顔は自分からの情報収集をえらく楽しみにしている顔だ。
 まずったなあ、と梢は思ったが顔には出さない。
 体育祭のことですら彼女は初耳なのだ。
 ひょっとしたら本当は不良云々のことなど知ってもいないのかもしれない。
 彼女のように素直な年下の子と話すのは嫌いではないし、
 なるべくならば期待には応えてあげたいところなのだが、
 これ以上話すとボロが出そうだ。
2007年01月29日(月) 01:23:21 Modified by jyontsuki




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