IF13・Mr Summer Time 中編
218 名前:たれはんだ :04/09/03 14:09 ID:jTRZAn6w
***
繁華街と住宅街の境目くらいにある、ごく普通のマンション。ここに
今沢近さんが住んでいる。以前は自宅である豪邸に住んでいたのだけれ
ど、高校を卒業してから<すでに決まっていた名門大学への進学を止め
て、半ば家出同然でこのマンションに引っ越して来た、と高野先輩が教
えてくれた。姉さん達には海外に留学していると伝えているそうで、こ
の場所を知っているのは私と高野先輩だけとも聞いた。
本当は、後で沢近さんに聞くと、実際には私以外には言っていないそ
うで、高野先輩にも留学中と嘘を伝えてた、と。
『本当に何を考えてんのかしら。ったく』
沢近さんはとても迷惑そうに、そう呟いていた事を覚えている。でも、
本当はとても心配しているのだと、沢近さん自身気付いてはいると思う。
姉さんも本当の事を知れば、とても心配すると思うから。
誰も居ない玄関ホールを通り、ふと壁に目をやる、刺さったままの新
聞が数本、目に止まった。707号室。沢近さんの部屋の番号。中には
3日分の新聞と請求書、領収書などの手紙や封書が入っていた。
(?)
いくつかの封書の中に一回り大きく、綺麗な模様の入った封筒が混じ
っていた。住所は沢近さんの実家になっていたけれど、誰かがここに転
送してくれたらしい。封書の裏には「今鳥」と「一条」の名前が書かれ
ていた。確か姉さんの友人だったと思う。
(披露宴?の招待状・・・)
少し気にはなったけど、そのまま持って行くことにした。
220 名前:たれはんだ :04/09/03 14:18 ID:jTRZAn6w
たった独りエレベーターに乗り7階へ。そして、誰に会う事もなく部
屋の前に着いた。
ピンポーン
チャイムの音。ドアの向こうからは微かな音のようなものを感じる。
テレビか何かが点いている、そんな感じ。
ピンポーン
しばらく間を置いて、もう一度鳴らしてみる。
(もしかしたら、出かけているかも)
そう思った時、中から「開いてるわよ」との声。多分作業中だと思う。
ドアノブをひねると確かに開いていて、そのまま私は部屋の中に入って行
った。
玄関にはサンダルとスニーカーが一足ずつ。沢近さんのものだと思う。
部屋の中は静かで暗く、奥に入るとカーテンが半分だけあいたままの薄暗
い部屋がひとつ。真中に小さなテーブルと時代の古いテレビ、いろいろな
本が無造作に詰められた本棚にその上に置かれた小さなラジカセがあるだ
け。今はテーブルの周りに、丸められたたくさんの紙と何冊かの本が散乱
し、テーブルの前に座り黙々と原稿を書いている沢近さんの姿がある。
221 名前:たれはんだ :04/09/03 14:24 ID:jTRZAn6w
「あの」
持ってきたバックと新聞や手紙を抱えたまま、声をかけてみた。
「何?」
沢近さんはテーブルに向かい背を向けて俯いたまま、まるで独り言のよ
うにそう聞いてきた。私は抱えていた新聞などを部屋の隅に静かに置き、
散らかった部屋を片付けることにした。
「片付け、ます」
「いいわよ、別に」
まるで興味がないような短い返事だけ。でもそれはいつもの事だから、
そのまま気にせず片付けを続けることにした。邪魔にならないよう、部屋
を片付けた後、台所へ。案の定、使ったままのいくつかの食器と、ごみ箱
に溜まったコンビニのお弁当のゴミが残っていた。私は普段通り食器とゴ
ミを片付け、台所を使えるようにすると、食器棚の中にある、場違いのよ
うに綺麗に収められたティーカップとティーポットを取り出した。
(まだ、残ってる?)
以前来た時に置いておいたフォッションのオレンジペコーの缶を開けて
見ると、中身が前に来たときより少しだけ減っていた。多分、あれからも
少しずつ飲んでいるんだと思う。そう思うと、少しだけ安心したような気
持ちになった。
222 名前:たれはんだ :04/09/03 14:26 ID:jTRZAn6w
紅茶を淹れて戻ると、沢近さんはまだテーブルに向い、原稿を書きつづ
けている。
「あの、紅茶、淹れました」
そっと、声をかけると、小さく「いらない」の一言だけ。
「でも、飲んで一息入れたほうが、落ち着いていいと思います」
しばらくペンの音だけが響いた後、小さな溜息がひとつ。
「分かったわよ」
と、ペンを置き、沢近さんはこちらへゆっくりと振り向いた。
「悪かったわね。いつもの事だけど」
少しだけ怒ったような、もしくは呆れたような顔を向けて、そして体全
体をゆっくりと私のほうへ回した。私はティーセットを床に置き、沢近さ
んと私用に用意したティーカップに紅茶を注いだ。
「・・・」
私と沢近さんは無言で、ただ静かに紅茶を飲んだ。その間、目を合わせ
ることもなく、お互い俯いたままで。
223 名前:たれはんだ :04/09/03 14:26 ID:jTRZAn6w
「受験勉強中でしょ。悪かったわね」
そう、小さな声で呟いた。多分、俯いたままだと思う。
「いえ、私は大丈夫、です」
私もまた、俯いたままそう答えた。
「今度こそ、絶対に賞を取りたいの。取ってアイツ−」
最後のほうは聞き取れなかったけれど、とても力が入っているように感
じる。
そっと顔を上げると、沢近さんはまだ少し俯いたまま、空のティーカッ
プを前にして、考え事をしているように、身動き一つなく、じっとしてい
た。髪は私と反対に短く切り、まるで寝起きのままの状態で、シワになっ
た白いタンクトップとショートパンツを身に着けている。昔から見ると考
えられない姿だと思う。
しばらく時間が経ったと思う。いきなり沢近さんはテーブルへと体を反
転させると、勢いがついたように再び原稿を書き始めた。
「手伝って!」
先ほどまでとは打って変わった大きな声に私は驚いたけど、すぐにティ
ーセットをそのまま端に寄せて、テーブルの向かい側に座り直して手伝い
の準備を始めた。
224 名前:たれはんだ :04/09/03 14:28 ID:jTRZAn6w
原稿を書き始めてから数時間が経った。
「テレビ、点けて」
いきなりの声。私はすぐにテレビに向かうとスイッチをオンにした。旧
式のためリモコンが無く、スイッチを入れるのにテレビの前まで行かない
といけない。面倒と思われるかも知れないけど、私はこんなテレビも良い
と思う。姉さんならきっと「面倒臭い」と言うと思う。『あの人』ならど
うだろう、『あの人』ならきっと気に入ってくれる。
『−先日、アメリカで行われた、空手の国際大会で初優勝を遂げた、T
大の花井春樹選手が昨日帰国し、空港には大勢のファンが詰め掛けました』
(花井、先輩・・・)
テレビからは今日のニュースとして、海外の大会で優勝した、花井先輩
の事が報じられていた。あの頃より少しだけ背が伸びたように見え、顔つ
きも「大人の人」になったような、そのような感じがした。
『あの人』が亡くなってしまった後、しばらくは先輩も力が抜けてしま
ったように日々を過ごしていたけれど、幼馴染である周防さんのおかげで
立ち直ることができたと聞いた。それに対して私は、未だにあの頃を引き
ずったままで。
『いいか! 八雲君! 今はまだ僕は『あの男』に勝つことは出来ない
だろう! だがっ! いつかきっと! 僕は君をあの男から取り戻してみ
せる! きっとだ!』
卒業式の日、花井先輩はそう私に告げた。私はその言葉の意味に気付い
たけれど、何も答えることが出来ずにただ見送るだけしか出来なかった。
なぜなら、今でもずっと、『あの人』のことが・・・
225 名前:たれはんだ :04/09/03 14:29 ID:jTRZAn6w
「何? どうかした?」
沢近さんの声で気が付くと、すでにニュースは変わり、ローカルの話題
になっていた。私は「いえ」とただ一言だけ言って、テーブルへ戻り作業
を続けることにした。
「ねぇ、ここのカットだけど、トーンはどうしたらいい?」
テーブルに着くと、沢近さんは自身が書いていた原稿を指し、私に訊ね
てきた。
「私は、これがいいと思います」
私の側にあった、トーンの見本の中からひとつ選んで見せると「そうね」
とだけ言って、そのトーンを貼り付け始めた。
「ここはあの、ベタで良いですか?」
私が尋ねると、トーンを貼り付けながら「任せるから」の一言だけ。
『関東地方はこの後も晴天に恵まれ−』
テレヒの音だけが聞こえるだけの部屋で、黙々と作業を続ける。
226 名前:たれはんだ :04/09/03 14:30 ID:jTRZAn6w
(・・・)
沢近さんが漫画を書き始めた訳。それは多分『あの人』のせいだと思う。
今から1年位前、突然沢近さんから「二人きりで逢いたい」と呼ばれ、待ち
合わせた喫茶店での最初の言葉が「マンガの書き方を教えて」だった。
私自身、良く知らなかったけれど、本人の強い希望と誰にも言わないでほ
しいということ、何よりも『あの人』への思いを感じすぎてしまったから、
私は沢近さんに少しでも手伝うことが出来るならばと思い、協力することに
した。例えそれが無意味だったとしても、お互いが『あの人』を忘れたくな
いから。
「あの」
今も戸惑いながらGペンで背景を書きながら、向かい側にいる沢近さんに
話し掛けてみた。
「何? テレビの音が気になるなら切」
「いえ、そうではなく、・・・ごめんなさい」
私は作業を続けながら、何度も伝えようとしていた言葉を言うのをやめた。
「もしかして、ミスったの?」
「そうじゃないんです。ただ、その、ティーセットを」
つい、その場しのぎの言葉でごまかし、部屋の端でそのままにしていたテ
ィーセットを片付けることにした。
227 名前:たれはんだ :04/09/03 14:31 ID:jTRZAn6w
(また、言えなかった)
実は沢近さんには、いえ、その他の誰にも言っていないことがある。
(『あの人』の原稿の事、言えなかった)
『あの人』が書いた、最後の原稿。『あの人』が最後まで命をかけて守っ
た原稿の事。
(やっぱり、言うのは止そう)
今日もまた伝えないまま、ティーセットを片付けると再び部屋に戻ること
にした。
228 名前:たれはんだ :04/09/03 14:32 ID:jTRZAn6w
気が付くと腕時計の針が7時を回っていた。
テレビは何時からか音も無く、黒い画面のままになり、代わりに古いラジ
カセから曲が流れている。
(「カギのかかる天国」)
それは沢近さんのお気に入りの曲だった。初めてこの曲を聴いたときはま
るで、自分の首をしめられているような気がして、とてもこの場にいること
が出来ない、そんな気分がした。この曲を聴きながら、沢近さんが呟いた言
葉は
『参っちゃうわよね』
ただ、それだけだった。
「んーっとっ。これで何とか目処は付いたわね」
沢近さんは背伸びをすると、肩を動かし私へと顔を向けた。
「今日は本当に助かったわ。ありがと」
疲れながらも、沢近さんはそう言って笑ってくれた。私は笑顔を作ろうと
してやっぱり出来ないまま、
「いえ、そんな。この位しか出来ませんから」
と道具を片付ける振りをして誤魔化した。
229 名前:たれはんだ :04/09/03 14:33 ID:jTRZAn6w
「そろそろ帰ったほうがいいわね。天満が心配してるでしょうし、夜は物
騒だから」
と言って、ゆっくりと立ち上がり、私を玄関まで見送ってくれた。
「そろそろ、私は帰ります」
私は来たときと同じく、靴を履きバックを持って玄関へ向かう。
「あ、そうだ」
玄関まで出たところで、急に沢近さんは奥へ戻ると1枚のCDを私に差し
出した。村下孝蔵の「林檎と檸檬」。それは以前、高野先輩に頼まれて渡し
たものだったと思う。
「これ、晶に返しておいてもらえる? 流石に私が返すのも、ね」
「はい。分かりました」
私はCDを受け取ると、そのまま手に持ったバックへと収めた。
「それじゃ、気をつけてね」
そのまま、沢近さんに見送られながら部屋を後にした。廊下には誰もいな
かったけれど、エレベーターに乗るまでずっと、沢近さんが見送ってくれた。
2007年03月02日(金) 20:43:42 Modified by aile_irise