IF14・If...fire red

「あ、ここ。10番を貼ってくれ」
「あ、ハイ」
 夜の空に走った稲妻、轟く雷鳴、降り始めた雨。カーテンを開け放したままの窓から見える外の闇と光の競演に、一瞬、気を取られていた八雲は、播磨の声に再び作業に戻った。


 If... fire red


 ぐう。
 唐突に、播磨の腹が鳴った。
「腹、減ったな……」
「あ……そうですね」
 苦笑交じりに言う播磨に、八雲は微笑を返す。
 考えてみれば夕方、学校から直接、播磨邸に来て以降、二人とも何も口にしていない。お腹も減ろうというものだ。
「ハイ。晩飯」
「…………」
 ゴソゴソと播磨が取り出してきたのは、ビーフジャーキーだった。思わず八雲は、その場に固まってしまう。日頃から塚本家の家事全般を取り仕切る彼女にとって、その言葉は冗談にしか思えなかったのだが、しかし、どうやら彼は本気のようだ。
「ワリーな、こんなんしかなくて。でも美味いぜ」
「……………………」
 もりもりとそれを食べる姿に、一瞬、眩暈を覚えるが、すぐに気を取り直す。
「あの……何か作りましょうか」
「え!?作れるの!?」
 カップラーメンないぞ!?と続ける播磨に、八雲は普段の彼の食生活の一端を垣間見た気がした。そして思う。よくこれで、ここまで大きく、強くなれたものだ、と。
「えっと……もうすこし栄養のあるものを……」
 せめて出来合いのものでない何かを作ってあげたい、そう思って八雲は立ち上がり、キッチンへと向かう。
「冷蔵庫、お借りします」
 サスガ天満ちゃんの妹さん……出来た妹さんだぜ!
 背中の向こうで播磨がそんなことを思っているとは知らぬまま、彼女は冷蔵庫を開けた。
「つっても、ツマミぐらいしかないんですが……ムリしなくても……」
「あ……なんとかなると思います」
 播磨の言う通り、冷蔵庫の中はビール等のアルコール類とおつまみばかりだったが、そこは普段から家事に親しんできた彼女のこと、頭の引き出しから、ここにあるもので作れる料理を見つけ出してくる。
 他人の家の台所に立つのは初めてだったので、少々慣れない思いを感じたが、料理を始めてしまえば、そんなことなど忘れてしまう。髪を束ねてゴムで止め、八雲は播磨のための食事を作ることに没頭した。
「枝豆とソーセージのパスタです」
「スゲエ!!」
 一先ず原稿をどかし、ランチョンマットを敷いて、八雲が出した料理に、播磨は感嘆の声を挙げた。そしてフォークを握り締め、ガツガツと食べ始める。
「こりゃ美味え!!こんな美味えパスタ食ったのは初めてだぜ!」
 その食べっぷりの良さに、八雲は思わず見とれてしまう。その姿が誰かに似ている、そんな風に感じた彼女は、すぐに気付く。
 姉さんが、美味しいものを食べる時と一緒なんだ……
「あんたとつきあえて、俺は幸せモンだ!」
「そうですか……?」
 思わぬ播磨の言葉に、八雲は頬を染める。当の播磨はと言えば、それほど意識して言った言葉ではなかったのだろう、変わらぬ勢いでパスタを口に運んでいた。
「……………………」
 今なら、聞けるかもしれない。八雲はフォークを置いて、播磨を見つめた。
「あの……播磨さん……」
「ん?」
 顔を上げた彼の瞳は、サングラスに隠れて見えない。
 だがその奥に、優しい光が宿っていることに、八雲は気付いていた。
 否。
 知って、いた。
「少し訊いても良いですか?」
「お……おお!」
 その光に近づきたくて、八雲は想いを口にする。
「つきあうって…………どういうことでしょう……」

 地面に叩きつけられて跳ねる雨雫の音がひどく、耳に障る。
 洗い物を終えて戻った彼女が、ふと時計を見ると、日付が変わるまでに三十分ほどしかなかった。
 再び原稿の広げられた机、播磨は中断した作業の続きを始めていた。その前に、ゆっくりと座った八雲は、沈黙が怖くて、とりとめのない話題を振る。
「雨……強くなってきましたね……」
「ああ……そうだな」
 先ほどした質問の答えは、まだもらっていない。悩み始めた彼は何も喋らず、八雲は小さな後悔を覚えながら、それでも。
「あ、この背景。ココ、もう少しおとして」
「あ、ハイ」
 それでも、どうしても、近づきたくて。彼の側にいたくて。
「………………あの」
 また、口を開く。
「私達がつきあっているなら……」
 あの丘の上で、彼にもらった言葉を、八雲は胸に抱きしめる。

『妹さん。俺は妹さんのことが、好きだ。誰よりも――――天満ちゃんよりも。誰よりも、必要なんだと思ってる』

「私……経験ないから……どうしたらいいのか……わからないんです…………」
「……………………」
 原稿に目を落としたままの播磨は、答えない。
 構わず、八雲は続けた。
「男の人と、女の人がつきあうって…………どういうコトなんでしょうか……」
 空を覆う、黒の雲が、まるで自分の心にも染み込んで来たような、そんな錯覚を八雲は覚える。
「…………すっ、すいません……こんなコト、きいちゃって…………」
「…………………………」
 静けさが体を締め付けてきているような、そんな痛みに八雲は耐えられず、答えをもらう前に八雲は逃げてしまおうとした。
「…………………………」
 それでも、何も喋ろうとしない播磨の態度に、眉を曇らせる八雲が、落ち込みかけた気を奮い立たせようとしたその瞬間。
「……あのよ」
「あ!ハ、ハイ……」
 かけられた声に、驚くと同時に八雲は顔を挙げた。
「俺もよくわからないんだけど……」
 視線を交わらせようとはせず、原稿を見つめ、手先を止めないまま、播磨は語りかける。
 ゆっくりと、それは己の心の中の言葉を探しながらのよう。
「例えばよ……朝の海岸線をバイクでかっ飛ばしてるとさ」
「……?」
 何を語ろうとしているのか、見当が付かない八雲だが、口を挟むことはせず、黙って聞き続ける。
「一瞬、海から昇る朝陽がすげえ綺麗に見える!」
「………………」
 沈黙を守ることで、彼女は播磨の言葉を促した。
「めちゃ美味いモンを喰ったときとか、おもしれー映画なんかを観たとき!」
 一瞬だけ、彼は顔を挙げた。
 絡み合う、二つの視線。
「そういう瞬間を、いっしょに感じたい!お互いにそう思える人がいる……」
 私にとってそれは播磨さんだ。考えるまでもなく、自然と湧き上がってきた想いに、八雲の心は歓喜に震えた。
「そういう時間を積み重ねていくことが――――つきあうってコトだったりするんじゃねーのかな……よくわかんねーケド」
 ぶっきらぼうな言い方とは裏腹に、どこか優しげな言葉が、八雲の心に、ゆっくりと染み渡っていく。胸に広がる、ぬくもり。
 柄にもないことをした、とでも思ったのか、播磨は照れ隠しに豪快に笑って言った。
「ま!どーせ俺の言うコトなんて間違ってると思うけどな!」
 いいえ、播磨さん。私も、そんな気がします。
 思ったことを口にする暇を、播磨は八雲に与えなかった。わずかに赤くなった頬で、
「あ!妹さん。そこの雲型定規とってくれ!」
「あ……ハイっ」
 振り向いた場所、机の上のそれを取って渡す。
「どうぞ……」
「あんがと」

 唐突に、大きく轟く、雷鳴。

「キャッ」
 すぐ近くに落ちたのだろう。驚いて八雲は、持っていたそれを床に落としてしまう。
「す……すみません!雷に驚いて……」
「あ、いーよ。俺、拾うから……」
 二人が伸ばした手の、指先が触れ合って、重なる。

 落雷のせいか。
 突然に、電気が消えた。

 稲光に浮かび上がる、動けなくなってしまった、二人の姿。

 大きな手。ごつごつとしたそれが、繊細な絵を描き出しているとは、とても信じられない。
 太い腕。力持ちだということは知っている。喧嘩をよくしていたということも。

 八雲の視線は、繋がった指先から、ゆっくりと上がっていく。
 跳ね打つ心臓は、胸から飛び出しそうだった。

 雨の音が。雷鳴が。
 消えた。聞こえなくなった。
 闇にまだ慣れない瞳には、間近にいる播磨しか見えず。
 ただ二人の息の音だけが、やけに大きく聞こえた。

 顔。精悍な、顔。滅多に見せてくれないサングラスの下の瞳は鋭い。だが八雲を見つめる時、その眦は微かに下がって、ぬくもりをくれる。

 彼の顔が少しずつ、近づいてくる。
 八雲の頭の芯は焼かれて、熱くなる。
 だがすぐに気付く。彼だけが近づいているのではなくて、自分からも近づいているのだ。
 何も考えられない頭。
 心は逆に震えて、どこか冷静で、だが歓喜の一色に染まっていて。

 瞳を閉じる直前、左の手で、八雲は彼の顔から、サングラスを外した。
 間近に、播磨の目を見て。
 その中に映る自分の顔を見て。
 奥深くに視える想いを見て。
 全てを心に刻みこむ。
 八雲は微笑んで、目を閉じた。

 近づく唇。

 そして。

 重なる、唇。


 目を覚ましてすぐに、体の芯に響く鈍痛が、八雲の意識を現実へと浮かび上がらせる。
 上半身を起こすと、真っ白なシーツが彼女の滑らかな肌を滑り落ちようとし、八雲は慌てて手で押さえて形の良い胸を隠した。
 薄絹一枚すら身にまとわない自分の姿、そして隣には、同じように何も着ていない彼が、心地良さそうに寝息をたてている。
 夢じゃ、なかった。
 安堵の溜息をついた後、改めて八雲は播磨の顔を見つめる。
 瞳を隠す長い前髪を、彼女は手でかきあげる。
 その下に現れたのは、穏やかな寝顔。
 サングラスを外した彼の素顔、その唇を八雲は指先でそっと撫でる。

 そして思い出す。
 播磨に何度も、キスをされたことを。
 彼女の唇を捧げたことを。
 無骨な手で、たどたどしく、力強く、だが優しく、体中を抱かれたことを。
 付き合い始めても、照れてなのか呼び方を変えなかった彼に、何度も、何度も名前を呼ばれたことを。
 自分もまた、応えるように、彼の名を呼んだことを。

 そして――――そして。


 一つに、なったことを。


 彼のものになったという喜びと。
 彼を手に入れたという喜びと。
 痛みは激しく、泣きそうになったけれど、それでも心は満たされた。
 彼に髪を撫でられながら、キスを交わし、最後まで達した。
 その後も、痛みの残る体を、彼は優しく抱きしめていてくれた。
 腕枕で、彼女が眠りにつくまで、柔らかく抱きしめてくれていた。
 
 それが全て、一晩の出来事だったのだと、八雲はすぐには信じられなかった。
 しかし、現にこうして残る痛み、そしてまだ体の中に残っているかのような播磨の存在感が、彼女の心に幸せを運んでくる。
 未だ眠りこける播磨の唇に、八雲はそっと、自分の唇を重ねた。
 満たされた笑みを浮かべた後、もう一度、彼の胸に体を預けて、八雲は目を閉じた。

 そして思い出す。
 初めて、はもう一つあった。

 お互いに、確かに胸にその想いを抱いていたのに、言葉にするのを恥ずかしがっていた言葉、それを八雲は、もう一度、口にした。

「愛してます……拳児さん」
2007年02月01日(木) 12:41:13 Modified by ID:BeCH9J8Tiw




スマートフォン版で見る