IF14・If...sepia 4
わずかに緊張をしながら、だがそれ以上に優しさに溢れている。それは八雲だけでなく、側で成り行きを見ていた天満や美琴をすら、はっとさせる笑顔だった。
迷いながら自分を見てきた妹に、天満は大きく頷いて見せる。
それでもしばし惑った後、八雲はゆっくり、播磨に頷いて言った。
「は、はい……」
二人が並んで、病院の廊下の角を曲がっていくのを見送った後、天満は大きな溜息と共に、肩を落とす。
「はぁぁぁ」
「どうしたんだよ、塚本。そんな溜息ついて」
我が子を胸に抱きかかえて立ち上がった美琴が、落ち込む天満に尋ねる。
「私って、本当、バカだなぁって。何であんなこと、しちゃったのかなぁ……」
「まあ、自分がバカだってことに気付いたのは、いいことだろ」
突き放したような彼女の言葉に、天満は恨みがましい目で見つめてくるが、美琴は意に介さない。
「美琴ちゃん、冷たい……」
「そりゃ悪かった。けど、事実だろ」
ずばっと指摘され、また激しく落ち込む少女に、彼女は苦笑しながら、助け舟を出した。
「ま、それでも、あの二人にとっては、結果オーライだったみたいだけどな」
美琴は、二人が醸し出していた空気を、懐かしく感じたのだ。
それは自分達――――美琴と花井が、お互いの気持ちを知った頃のものと似ていたから。
私達も不器用だったもんな――――思った後、彼女は小さく胸の内で笑う。だった、じゃないか。今でも変わらないだろう、それは。
もう一度美琴は、二人が去った後の病院の廊下を見る。
まだそこには、冷め切らない熱と、ぎこちない沈黙が残っているような。それは決して不快なものでなく、青臭いまでに純粋な、想いの交換。
「うん……そうだといいんだけれど……」
「元気出しなって。そんな風にしてるの、塚本らしくないよ?」
バンッ。赤ん坊を抱いていない方の手で、天満の背中を強く叩いた美琴は、とびっきりの笑顔を見せる。
「お姉ちゃんがしっかりしてりゃ、あの子に何があったって、大丈夫だろう?」
「うん――――そうだね」
「そうそう。だからあんたは、笑ってな」
渡されたヘルメットを被り、八雲はタンデムシートに乗って、播磨の体に強くしがみついた。
高校生の頃も、こうして彼の後ろに乗せてもらったことがあったことを、八雲は思い出す。その時との違いは、二つ。
以前は遠慮がちに腕を回していたことが一つ。己の中の恋心に、気付いていなかったからなのだが、何よりも気恥ずかしかったから。
二つ目は、播磨がヘルメットを被るようになったこと。高校の頃は、絶対に被ろうとしなかった。これは八雲には嬉しい変化だった。
この人を失いたくない。その気持ちは八雲の中で、常に膨らみ続けている。心から溢れ出て、胸の大半を占めるほどに。
動き出したバイクも、後ろに座る彼女のことを考えてか、スピードはそれほど出ていない。
通いなれた、そんな風に播磨が行く道は、彼女の知らない道。
この風景は、いつも彼が見ている景色。それを今、私は共有している。
ふと生まれた感慨に、八雲は彼を抱きしめた腕に込めた力を強くする。
ギュッ。
播磨の大きな背は、そんな彼女の体を優しく受け止めた。
街を出て、道は続く。後ろへと走り抜けていく風の中に、潮の香りが混じり始める。空を滑るはカモメか。
そして遠くに海が見え始める。綺羅綺羅と弾かれて、跳ねる陽光。すでにかなり傾きけた太陽を横目に見ながら、バイクは走る。
どこへ行くのだろう。疑問はあるが、八雲は口には出さない。聞こえないだろうし、聞いても仕方がない、そう思ったから。
今日は、どこへでも付いていく。そう決めたのだ。
ヘルメットを被った頭を、彼の背に預ける。聞こえるはずのない鼓動が、感じられたような気がした。
やがてバイクが止まったのは、緑に覆われた小高い丘の麓だった。
バイクを降りた播磨は、薄闇の落ち始めた野原を、ゆっくりと登っていく。
振り返ることなく進む彼の後を、八雲は何も言わず付いていく。
遠くの空の紅が、播磨の背中を染めていた。
唐突に、海と、夕焼けが、彼女の目の前に広がった。
大きく、真っ赤な太陽が、隠れようとしている。大海原に。
「すごい……」
八雲が溜息交じりに漏らした言葉を受けて、彼は言った。
「これをよ、見せたかったんだ。妹さんに」
ちらりと、隣に並んで立つ播磨の顔を盗み見た後、八雲はまた、空に踊る朱の光に目を奪われる。
「綺麗ですね……」
吹く風になびく髪を、手で抑えながら言う八雲。
ポケットに手を突っ込んだまま、無言のままの播磨。
二人はしばし、たたずむ。同じ景色を共有しながら。
時間の経つのを忘れるかのように、その夕を見ていた少女に、播磨は想いを告げた。
「妹さん……俺はよ……ずっと、今になっても、まだ……天満ちゃんのことを好きだ」
「………………」
八雲は答えず、俯いた。
播磨は、彼女を見ようとせず、続ける。
「妹さんのことは、とっても大事に思ってる。天満ちゃんと、変わらねぇぐらいに」
「…………ありがとうございます」
間の抜けた返事だ。言ってから、八雲は小さく笑う。哀しく。
大事、か。
大事と好きの間には、とてつもなく高い壁がある。
彼女の言ったことを聞いているのか、どうか。播磨は続ける。どんな表情をしているのか、見上げる勇気は、今の八雲にはなかった。
「妹さんが危ねぇ。そう聞いた時は、ホント、目の前が真っ暗になるかと思ったぜ。だから、かなり焦ったし、飛ばしたなぁ」
「それは――――播磨さんが優しいからですよ」
きっと、私でなくても。その認識に、胸の奥を締め付けられながらも、八雲は何とか表情を取り繕おうとして。
微かに、笑って見せる。ぎこちなく。だがその目は、太陽へと吸いつけられていた。
「――――そう見えるのか?」
「はい……例えば、刑部先生が事故に遭ったって聞かれたら……?」
「絃子が、か?うーん……まあ確かに、そうかもなぁ」
「そうですよ」
優しい彼に惹かれた。
その優しさが、今は、少女の心を痛めつける。
「けど、よ。天満ちゃんに手を上げたのは……それが妹さんだったからだぜ?」
「……え?」
振り向き、彼の顔を仰いだ八雲の目に飛び込んできたのは、我と我が右手を睨むようにしている播磨の、厳しい顔だった。
「女をブッたのは初めてだぜ……しかもそれが、好きな女だってんだからな」
その右手にはまだ、微かに痛みと熱が残っている。播磨はその手を、強く握り締めた。振り払うためにか、逃がさないためにか。彼自身にもわからなかった。
「他の誰よりも大事で――――どんなことをされても許せる……そう思ってたのによ」
「――――すいません」
「妹さんが謝ることじゃねぇよ」
辛そうな彼の声に、思わず八雲が口にした言葉は、一蹴されてしまった。
風が草原を走る音だけが、二人を包む。冷たく、ただ冷たく。
「何でだろう……って考えてたんだ」
呟きは、はっきりと八雲の耳に届いた。
顔だけを横に向け、少女は隣に立つ男の横顔を盗み見る。
「あん時、俺は、天満ちゃんのことを許せなかった。好きだってことも、忘れてた」
「それは――――姉さんが……」
「けど、俺は忘れてたんだ。好きだってことを」
八雲の反論は、彼の声に遮られる。沈む日の朱に染まる彼の姿を見ていて、八雲は気付く。
これは、独白なのだ、と。
自らの心を、口にして形にすることで、ひもとこうとしている。
「俺の好きって気持ちは、こんなものだったのか……ってな」
苦笑する播磨の、想いが向かい、たどり着く場所がどこなのか。八雲にはわからなかった。
だから黙って、彼を見守る。痛いほどに、心臓が脈打つのを、胸の奥で感じながら。
「けどよ、理屈で答えが出るもんじゃないんだよな、そういうのって。人を好きになるってのは、頭じゃなくて、ハートだと思うしよぉ」
らしくねえ台詞だよな、そう言って照れ臭そうに頬をかき、それでも播磨は言葉を繋げる。
「だからな、俺がこの、とっておきで一番好きな光景を、誰と見たいか……って考えたらよ」
播磨が、振り向いた。
「妹さんに見せてやりてぇ、って思ったんだ。自然と」
八雲は、息を、飲んだ。
「妹さん……俺はよ、鈍感だし、馬鹿だからな。うっとうしいぐらいに周りから言われねぇと、自分の気持ちにすら気付くことができねぇ」
夕焼けが、消えていく。太陽が沈み、海が色を失っていく。
二人の距離は、ほんの数歩。それでも、闇にまだ慣れない目には、少しずつ顔が見えづらくなっ
てくる。
だから、だろうか。
播磨は自分でも驚くほどに、平静と、己の心を押し出すことが出来た。
「イヤってほど、周りの人間にケツを蹴り飛ばされて、やっとこさ、答えを見つけられたぜ」
彼の脳裏に浮かぶ、少女達の言葉と、もらった思い。
沢近愛理の涙に、自分以外の人の想いの存在に気付かされ。
刑部絃子の弱さに、ささえてくれていた存在のことを知り。
塚本天満の詰問に、誰が大事かを思い知らされ。
周防――――花井美琴の母性に許されることを覚えた。
逃げていたんだな。
播磨は、顔には出さず自嘲する。
塚本天満への想いが届かなかったことを認められず。
傷ついた自分を守るために、か。それとも、そんな自分に酔っていたのか。
想いにこだわって、忘れることを拒み、思い出に生きて。
一人の世界に閉じこもっていた。
だがそんな彼にも、思いは寄せられていたのだ。
見捨てられることなく、孤独から引きずり出してくれたことに、彼は心の底から、感謝をする。
播磨はわずかに、歩を進めた。間近に見る彼女の瞳に浮かぶ光は、複雑だ。
怯えているようにも、期待に揺れているようにも見える。
こんな綺麗な目を、してたんだな。
初めて間近に見つめた彼女に、播磨の心に自然と湧き上がる想い。
頬を染めた八雲は、しかし顔をうつむかせようとはしなかった。ぎゅっと体の前で強く組んだ手が、微かに震えていて、少女の緊張を表している。
彼女の瞳は、真っ直ぐに、播磨を見つめていた。見つめ続けていた。
そして播磨は決意する。
もう、逃げない。
「妹さん。俺は妹さんのことが、好きだ。誰よりも――――天満ちゃんよりも。誰よりも、必要な
んだと思ってる」
その時、八雲には、彼の心の声が視えた。
揺さぶられる胸、全身が心臓になったかのように熱く、心の奥底が弾けた。
そしてこぼれる涙。
「い、妹さん?」
突然の彼女の変化にあたふたとする播磨を見て、初めて八雲は自分が泣いていることに気付く。
「ど、どうしたんだよ?」
「違うんです……違うんです」
声が喉にからむ。それでも必死に、八雲は想いを告げる。
「――――嬉しいんです。嬉し涙なんです。嬉しくて――――仕方ないんです」
顔を手で隠すこともせず、ただうつむいて泣き続ける八雲。
その体を、おずおずと伸ばした手で、播磨は抱きしめた。
優しく。背中に手を回して。
さからわず、八雲は彼に体を寄せて、そのぬくもりを全身で感じる。
彼の胸の奥の、鼓動が聞こえた。バクバクと大きく鳴り響くその音が、とても心地よくて。
八雲は目を閉じる。そして思う。
この瞬間を忘れない。私の居場所はここなのだと、決めたこの瞬間のことを。
いつか全てがセピア色の思い出になっても、このときめきだけは、絶対に。
艶づいた唇を割って、八雲の中から想いが溢れ出る。
「私も……播磨さんのこと……好きです……」
迷いながら自分を見てきた妹に、天満は大きく頷いて見せる。
それでもしばし惑った後、八雲はゆっくり、播磨に頷いて言った。
「は、はい……」
二人が並んで、病院の廊下の角を曲がっていくのを見送った後、天満は大きな溜息と共に、肩を落とす。
「はぁぁぁ」
「どうしたんだよ、塚本。そんな溜息ついて」
我が子を胸に抱きかかえて立ち上がった美琴が、落ち込む天満に尋ねる。
「私って、本当、バカだなぁって。何であんなこと、しちゃったのかなぁ……」
「まあ、自分がバカだってことに気付いたのは、いいことだろ」
突き放したような彼女の言葉に、天満は恨みがましい目で見つめてくるが、美琴は意に介さない。
「美琴ちゃん、冷たい……」
「そりゃ悪かった。けど、事実だろ」
ずばっと指摘され、また激しく落ち込む少女に、彼女は苦笑しながら、助け舟を出した。
「ま、それでも、あの二人にとっては、結果オーライだったみたいだけどな」
美琴は、二人が醸し出していた空気を、懐かしく感じたのだ。
それは自分達――――美琴と花井が、お互いの気持ちを知った頃のものと似ていたから。
私達も不器用だったもんな――――思った後、彼女は小さく胸の内で笑う。だった、じゃないか。今でも変わらないだろう、それは。
もう一度美琴は、二人が去った後の病院の廊下を見る。
まだそこには、冷め切らない熱と、ぎこちない沈黙が残っているような。それは決して不快なものでなく、青臭いまでに純粋な、想いの交換。
「うん……そうだといいんだけれど……」
「元気出しなって。そんな風にしてるの、塚本らしくないよ?」
バンッ。赤ん坊を抱いていない方の手で、天満の背中を強く叩いた美琴は、とびっきりの笑顔を見せる。
「お姉ちゃんがしっかりしてりゃ、あの子に何があったって、大丈夫だろう?」
「うん――――そうだね」
「そうそう。だからあんたは、笑ってな」
渡されたヘルメットを被り、八雲はタンデムシートに乗って、播磨の体に強くしがみついた。
高校生の頃も、こうして彼の後ろに乗せてもらったことがあったことを、八雲は思い出す。その時との違いは、二つ。
以前は遠慮がちに腕を回していたことが一つ。己の中の恋心に、気付いていなかったからなのだが、何よりも気恥ずかしかったから。
二つ目は、播磨がヘルメットを被るようになったこと。高校の頃は、絶対に被ろうとしなかった。これは八雲には嬉しい変化だった。
この人を失いたくない。その気持ちは八雲の中で、常に膨らみ続けている。心から溢れ出て、胸の大半を占めるほどに。
動き出したバイクも、後ろに座る彼女のことを考えてか、スピードはそれほど出ていない。
通いなれた、そんな風に播磨が行く道は、彼女の知らない道。
この風景は、いつも彼が見ている景色。それを今、私は共有している。
ふと生まれた感慨に、八雲は彼を抱きしめた腕に込めた力を強くする。
ギュッ。
播磨の大きな背は、そんな彼女の体を優しく受け止めた。
街を出て、道は続く。後ろへと走り抜けていく風の中に、潮の香りが混じり始める。空を滑るはカモメか。
そして遠くに海が見え始める。綺羅綺羅と弾かれて、跳ねる陽光。すでにかなり傾きけた太陽を横目に見ながら、バイクは走る。
どこへ行くのだろう。疑問はあるが、八雲は口には出さない。聞こえないだろうし、聞いても仕方がない、そう思ったから。
今日は、どこへでも付いていく。そう決めたのだ。
ヘルメットを被った頭を、彼の背に預ける。聞こえるはずのない鼓動が、感じられたような気がした。
やがてバイクが止まったのは、緑に覆われた小高い丘の麓だった。
バイクを降りた播磨は、薄闇の落ち始めた野原を、ゆっくりと登っていく。
振り返ることなく進む彼の後を、八雲は何も言わず付いていく。
遠くの空の紅が、播磨の背中を染めていた。
唐突に、海と、夕焼けが、彼女の目の前に広がった。
大きく、真っ赤な太陽が、隠れようとしている。大海原に。
「すごい……」
八雲が溜息交じりに漏らした言葉を受けて、彼は言った。
「これをよ、見せたかったんだ。妹さんに」
ちらりと、隣に並んで立つ播磨の顔を盗み見た後、八雲はまた、空に踊る朱の光に目を奪われる。
「綺麗ですね……」
吹く風になびく髪を、手で抑えながら言う八雲。
ポケットに手を突っ込んだまま、無言のままの播磨。
二人はしばし、たたずむ。同じ景色を共有しながら。
時間の経つのを忘れるかのように、その夕を見ていた少女に、播磨は想いを告げた。
「妹さん……俺はよ……ずっと、今になっても、まだ……天満ちゃんのことを好きだ」
「………………」
八雲は答えず、俯いた。
播磨は、彼女を見ようとせず、続ける。
「妹さんのことは、とっても大事に思ってる。天満ちゃんと、変わらねぇぐらいに」
「…………ありがとうございます」
間の抜けた返事だ。言ってから、八雲は小さく笑う。哀しく。
大事、か。
大事と好きの間には、とてつもなく高い壁がある。
彼女の言ったことを聞いているのか、どうか。播磨は続ける。どんな表情をしているのか、見上げる勇気は、今の八雲にはなかった。
「妹さんが危ねぇ。そう聞いた時は、ホント、目の前が真っ暗になるかと思ったぜ。だから、かなり焦ったし、飛ばしたなぁ」
「それは――――播磨さんが優しいからですよ」
きっと、私でなくても。その認識に、胸の奥を締め付けられながらも、八雲は何とか表情を取り繕おうとして。
微かに、笑って見せる。ぎこちなく。だがその目は、太陽へと吸いつけられていた。
「――――そう見えるのか?」
「はい……例えば、刑部先生が事故に遭ったって聞かれたら……?」
「絃子が、か?うーん……まあ確かに、そうかもなぁ」
「そうですよ」
優しい彼に惹かれた。
その優しさが、今は、少女の心を痛めつける。
「けど、よ。天満ちゃんに手を上げたのは……それが妹さんだったからだぜ?」
「……え?」
振り向き、彼の顔を仰いだ八雲の目に飛び込んできたのは、我と我が右手を睨むようにしている播磨の、厳しい顔だった。
「女をブッたのは初めてだぜ……しかもそれが、好きな女だってんだからな」
その右手にはまだ、微かに痛みと熱が残っている。播磨はその手を、強く握り締めた。振り払うためにか、逃がさないためにか。彼自身にもわからなかった。
「他の誰よりも大事で――――どんなことをされても許せる……そう思ってたのによ」
「――――すいません」
「妹さんが謝ることじゃねぇよ」
辛そうな彼の声に、思わず八雲が口にした言葉は、一蹴されてしまった。
風が草原を走る音だけが、二人を包む。冷たく、ただ冷たく。
「何でだろう……って考えてたんだ」
呟きは、はっきりと八雲の耳に届いた。
顔だけを横に向け、少女は隣に立つ男の横顔を盗み見る。
「あん時、俺は、天満ちゃんのことを許せなかった。好きだってことも、忘れてた」
「それは――――姉さんが……」
「けど、俺は忘れてたんだ。好きだってことを」
八雲の反論は、彼の声に遮られる。沈む日の朱に染まる彼の姿を見ていて、八雲は気付く。
これは、独白なのだ、と。
自らの心を、口にして形にすることで、ひもとこうとしている。
「俺の好きって気持ちは、こんなものだったのか……ってな」
苦笑する播磨の、想いが向かい、たどり着く場所がどこなのか。八雲にはわからなかった。
だから黙って、彼を見守る。痛いほどに、心臓が脈打つのを、胸の奥で感じながら。
「けどよ、理屈で答えが出るもんじゃないんだよな、そういうのって。人を好きになるってのは、頭じゃなくて、ハートだと思うしよぉ」
らしくねえ台詞だよな、そう言って照れ臭そうに頬をかき、それでも播磨は言葉を繋げる。
「だからな、俺がこの、とっておきで一番好きな光景を、誰と見たいか……って考えたらよ」
播磨が、振り向いた。
「妹さんに見せてやりてぇ、って思ったんだ。自然と」
八雲は、息を、飲んだ。
「妹さん……俺はよ、鈍感だし、馬鹿だからな。うっとうしいぐらいに周りから言われねぇと、自分の気持ちにすら気付くことができねぇ」
夕焼けが、消えていく。太陽が沈み、海が色を失っていく。
二人の距離は、ほんの数歩。それでも、闇にまだ慣れない目には、少しずつ顔が見えづらくなっ
てくる。
だから、だろうか。
播磨は自分でも驚くほどに、平静と、己の心を押し出すことが出来た。
「イヤってほど、周りの人間にケツを蹴り飛ばされて、やっとこさ、答えを見つけられたぜ」
彼の脳裏に浮かぶ、少女達の言葉と、もらった思い。
沢近愛理の涙に、自分以外の人の想いの存在に気付かされ。
刑部絃子の弱さに、ささえてくれていた存在のことを知り。
塚本天満の詰問に、誰が大事かを思い知らされ。
周防――――花井美琴の母性に許されることを覚えた。
逃げていたんだな。
播磨は、顔には出さず自嘲する。
塚本天満への想いが届かなかったことを認められず。
傷ついた自分を守るために、か。それとも、そんな自分に酔っていたのか。
想いにこだわって、忘れることを拒み、思い出に生きて。
一人の世界に閉じこもっていた。
だがそんな彼にも、思いは寄せられていたのだ。
見捨てられることなく、孤独から引きずり出してくれたことに、彼は心の底から、感謝をする。
播磨はわずかに、歩を進めた。間近に見る彼女の瞳に浮かぶ光は、複雑だ。
怯えているようにも、期待に揺れているようにも見える。
こんな綺麗な目を、してたんだな。
初めて間近に見つめた彼女に、播磨の心に自然と湧き上がる想い。
頬を染めた八雲は、しかし顔をうつむかせようとはしなかった。ぎゅっと体の前で強く組んだ手が、微かに震えていて、少女の緊張を表している。
彼女の瞳は、真っ直ぐに、播磨を見つめていた。見つめ続けていた。
そして播磨は決意する。
もう、逃げない。
「妹さん。俺は妹さんのことが、好きだ。誰よりも――――天満ちゃんよりも。誰よりも、必要な
んだと思ってる」
その時、八雲には、彼の心の声が視えた。
揺さぶられる胸、全身が心臓になったかのように熱く、心の奥底が弾けた。
そしてこぼれる涙。
「い、妹さん?」
突然の彼女の変化にあたふたとする播磨を見て、初めて八雲は自分が泣いていることに気付く。
「ど、どうしたんだよ?」
「違うんです……違うんです」
声が喉にからむ。それでも必死に、八雲は想いを告げる。
「――――嬉しいんです。嬉し涙なんです。嬉しくて――――仕方ないんです」
顔を手で隠すこともせず、ただうつむいて泣き続ける八雲。
その体を、おずおずと伸ばした手で、播磨は抱きしめた。
優しく。背中に手を回して。
さからわず、八雲は彼に体を寄せて、そのぬくもりを全身で感じる。
彼の胸の奥の、鼓動が聞こえた。バクバクと大きく鳴り響くその音が、とても心地よくて。
八雲は目を閉じる。そして思う。
この瞬間を忘れない。私の居場所はここなのだと、決めたこの瞬間のことを。
いつか全てがセピア色の思い出になっても、このときめきだけは、絶対に。
艶づいた唇を割って、八雲の中から想いが溢れ出る。
「私も……播磨さんのこと……好きです……」
2007年02月01日(木) 12:36:43 Modified by ID:BeCH9J8Tiw