IF14・Full moon of Phantasm


386 名前:Full moon of Phantasm :04/09/29 22:39 ID:dcs68KOQ
 夜の校舎、というものが彼女は嫌いではない。人気のない空間、日中はあれほどざわめきに満ちていた
その場所を支配するのは、しんとした静寂のみ。人によっては不安を呼び込むそれは、逆に彼女にとって
は安らぎにも似た何かに感じられる。
 それはそれで問題かもしれないけれど、というのは幾度となく胸の内で呟いた言葉。
 昼間の喧騒が嫌いなわけでも、まして友人がいないわけでもない。ただ、それでもどこか孤独を求めて
しまうのは悪い癖だと自覚はしている。
 とは言っても、とこれもまたいつもの思考。結局好きなものは好きだからしょうがない。夜間の見回りも
何もない、よく言えばのどか、悪く言えば不用心、という習慣につけ込んで、今日も彼女はそこにいる。
もっとも、今日に限って言えばもう一つ理由もあったのだが。
 ひとしきりそんな思いを巡らせてから、その目的を果たすべく教室を出る。

「あれ? 先輩何してるんですか?」
 ――と、そこに思いがけず人の姿があった。偶然残っていた、というにしてはいささか遅すぎる時間。
なればこそ、彼女も自分一人だと思っていたわけで、そのまままるきり同じ問を投げ返す。
「文化祭の準備です。ほら、もうすぐですし」
 なるほど、理由としてはおかしいものではない。今はまだそれほどではないにしても、直前ともなれば
泊まり込みに近い行為はそこかしこに見られるものになる。
 しかし、それも『直前』の話。まだ体育祭も終わったばかり、追い込みにはいささか早い。しかも、見れば
彼女の他に人影もなく、一人で作業をしていたように見受けられる。


387 名前:Full moon of Phantasm :04/09/29 22:40 ID:dcs68KOQ
「はい、そうですけど?」
 そう言ってみると、あっけらかんとした答えが返ってくる。さすがにそれは、と小さな憤りを覚える。
 が。
「無理はしてませんし、私の好きでやってることですから」
 それに楽しいですよ、と微笑んでさえ見せる。
 曇りのない、真っ直ぐな笑顔。
 自分がどうにも少し捻くれている、そんな自覚のある彼女はなんとなく目をそらしてしまう。眩しいような、
気恥ずかしいような、何とも言えない感触。

「それで、先輩は?」
 そんな素振りに気がつかなかったのか、あるいは見逃してくれたのか、再び繰り返される問。変わらない
柔らかな表情の裏にあるのは、言ってくれないと許しませんよ、という堅い意思。普段は穏やかなその後輩が、
ときに見せるその頑固な一面を知っている彼女としては、諦めるより他にない。はあ、と小さく溜息をついて、
答の代わりに、今日は何の日か知ってる?、とまず訊いてみる。
「今日、ですか? えーと……」
 誰もが知っていそうなことに限って知らない、そんなある種彼女らしい反応。予想通りのそれに少しだけ
安心感を覚えてから、こっちだよ、と先導して歩き出す。
 向かう先は。
「屋上……ですか?」
 昇降口を別とすれば、唯一校舎と外を繋ぐ扉。その前で彼女に、そう、と頷く。
 ――屋上。
 特にこれと言って何もない場所。普段ならそうだ。けれど、今夜は――正確に言えば今夜だけではないけれど、
ともかく今夜は特別。それじゃいくよ、そう言って開けた扉の向こう。そこに在ったのは――

「――満月」


388 名前:Full moon of Phantasm :04/09/29 22:40 ID:dcs68KOQ

 吐息にも似たその呟きが遠く空に吸い込まれていく。
 扉の向こう、屋上の上。そこに広がるのは当然ながら漆黒の夜空。
 そして、満月。
 十五夜だよ、とまだ呆然としたように空を見上げている彼女に言う。
「いろんな場所で見たけれど」
 入り口で立ち尽くす彼女を追い越して、ゆっくりとその中央に歩を進める。
「ここで見るのが一番素敵だと思う」
 いつもの自分には似合わない言葉だ、と思いながらもそう告げる。心なしか鼓動は速まり、頬もわずかに熱い。
照れている、というそれもまたらしくない事実に、小さく苦笑いして、どうかな、と誤魔化すようにして言った言葉。
「私も素敵だと思います」
 返ってきたのは肯定の言葉とあの笑顔。
「……ありがとう」
 それを彼女は初めて正面から受け止め、そして笑みさえ返してみせた。ささやかな自分の秘密を共有することが
出来たせいなのか、その理由は分からなかったけれど。

「先輩、」
 しばらくそんな風にして穏やかに見つめ合っていた二人だったが、やがて何かを思いついたような声にその沈黙
が破られる。
「うん?」
「先輩のこと――」
 言葉が途切れ、一瞬の静寂。
「――名前で呼んでも構いませんか、」




389 名前:Full moon of Phantasm :04/09/29 22:41 ID:dcs68KOQ
『絃子さん』


「ん――」
 記憶の中のそれと現実の声が交差して、彼女――刑部絃子は我に返る。場所はあの日と同じ屋上、振り返れば、
やはり同じように微笑む後輩――笹倉葉子の姿。
「月が出てなくてもいらっしゃるんですね」
「ああ、別に雨じゃないしね。もしかしたら、だよ」
 それに、と自分も笑みを返す絃子。
「君だって来たじゃないか」
「それは約束ですから、当然です」
 約束。
 あの初めて二人で月を見た日から、一緒に十五夜の月を見るのは互いの間で約束事になっている。用事があれ
ばパスしても構わない、という取り決めもあったが、今までどちらかが欠けたことはない。場所は違えど、必ず
どこかで二人はその満月を見てきた。
「しかし、いつまで続くのかな、これは」
 ――他に誰か、一緒にそれを見たい人が出来るまで。
 あのとき交わしたそんな言葉を思い浮かべつつ、冗談めかして言ってみせる絃子。さあどうでしょう、ずっと
かもしれませんよ、葉子もそれを冗談で切り返す。
「それで、まだ待ちます? あんまり期待出来そうにないですけど……」
「もう少しだけ、ね。奇蹟の一つも起きるかもしれないよ」
「それじゃ、私も」


390 名前:Full moon of Phantasm :04/09/29 22:41 ID:dcs68KOQ
 それを最後に会話は途切れ、静寂が辺りを支配する。ゆるゆると吹く穏やかな秋の風、その中で二人が見上げる
空はやはり雲に覆われたまま。時間だけがゆっくりと過ぎていく。
 どのくらいそうしていたか、やがて大きく息をついた絃子が、帰ろうか、そう言おうとした瞬間。

「あ――」

 途切れることのなかった雲。それがほんの一瞬だけ切れ間を見せる。
 その向こう。
 金色にも似た光を放つ真円の月、その全身が現れて、そして消えた。後に残るのは、まるで何事もなかったかの
ように、雲に覆われて煙る夜空だけ。
 けれど、二人は確かにそこに月を見た。中秋の名月、そう呼ぶに値するその姿を。
「……奇蹟、か」
 起きるもんだね、と小さく肩をすくめる絃子。その口調には、まだどこか信じられない、そんな響きが残っている。
「信じていればいろんなことが起きるものですよ」
 対して、なんでもないことのようにそう言ってのける葉子。その様子に、君が言うとそれらしく聞こえるよ、と
絃子も笑顔で返事。
「それじゃ、もう少しこうしていましょうか」
「そうだな、なんだかそんな気分だ」
 再び会話が途切れ、戻ってくる静寂。
 その向こう、どこか遠くで鈴虫の鳴く声だけが、りぃん、と響いていた――
2007年03月16日(金) 21:49:23 Modified by aile_irise




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