IF19・Home,Sweet home
574 :Home, Sweet home :05/02/10 00:01 ID:Im/1wCzo
刑部絃子の人生は、今のところおおむね順調だ。
少々の問題はありながらも、可愛い教え子たちのいるやりがいある職場。
やや性格に難はあるものの、信頼出来る同僚。
一人暮らしにしてはいささか広すぎるとさえ言える自分の城。
彼女を彩るそんな事柄を見れば、なるほど確かに順調である。
ただしそれは『おおむね』であって――
「あのお店、おいしかったんですけど、なんだか物足りないんですよね」
「……葉子、その酒癖はいい加減直した方がいいと思うぞ」
「なに言ってるんですか。まだまだ大丈夫ですよ」
そんな彼女――笹倉葉子が提げたビニール袋の中では、かこんかこんと缶ビールが音を立てている。
「君の場合、どれだけ飲んでも大丈夫なのが問題なんだよ……」
どのみち言うだけ無駄とは思っていたが、あらためて絃子は嘆息。それでも、同僚にして後輩、なにより
親友たる彼女の嬉しそうな顔を見るのは嫌いではなく、自宅で飲み直すことを了承したのもまた絃子自身で
あるわけなのだが。
まあ明日は休みだからいいか、そんなことを考えながら最後の角を曲がり、マンションの入り口、そして
『それ』が視界に入ると同時。
「うわあ」
およそ日常的に出るはずもない、情けない声が彼女の口からもれていた。
「絃子さん?」
「……あー、悪い葉子。今ちょっと用事を思い出してね、悪いんだけどまた今度に出来ないかな」
「こんな時間に用事ですか……?」
突然のことにきょとんとする葉子に、火急の用なんだ、となんとも言えない表情で告げる。その様子は
ただならないとさえ言える。
「はあ、仕方ないですね。それじゃまた今度、ちゃんと覚えてて下さいね」
「すまないね。分かったよ、君との約束を破るとろくなことにならないし、な」
冗談めかした絃子の言葉に小さく笑みを見せてから、手を振ってその場を去っていく葉子。その足音と
ビール缶の立てる音、それが聞こえなくなるのを確認してから大きく溜息をつく絃子。
575 :Home, Sweet home :05/02/10 00:02 ID:Im/1wCzo
そして。
「……さて」
大きく天を仰いで歩き出す。その足取りは行軍、否、突進や突撃という表現が相応しいようなそれ。
「で、」
ものの一呼吸の間にマンションの入り口、『それ』の目の前にたどりつき。
「君は一体こんなところでなにをしているのかな」
播磨拳児君、と。その名を呼んだ。
「○×△□ッ!?」
形容しがたい反応を見せる彼に、ああ自分は今ずいぶんとステキな表情をしているんだろうな、と。
絃子は思った。
Home, Sweet home
「まったく、こんな時間に非常識だとは思わなかったのか?」
立ち話ですむようなことなら、わざわざ尋ねてくることもないだろうと部屋にあげた絃子。その目の前で、
実に珍しいことにかしこまった様子で正座をしている拳児。
「……すぐ帰ってくると思ったんだよ」
それでも言葉遣いは相変わらずで、まあその態度で大目に見てやるか、とそこまで考えてから気がつく。
「すぐに……ということはあれか、もしかするとずっと待っていたんじゃないだろうな。外で」
おう、と短い返事。わずかに頭痛を覚える絃子。
「なら出直すなりなんなりすればよかったじゃないか。大体ウチはオートロックなんだから中にさえ入れ
ないんだぞ……まあ、部屋の前で待たれるよりはマシだが」
変なところで融通が利かないよな、君は。ぼやいてから、で、とあらためて訊く。
「そこまでしたということは、それなりの用事なんだろう? 一応聞いてあげよう」
「……あー、その、だな」
「なんだ、早く言え。私だって鬼じゃないしな、事と次第と天気と今日の運勢と気分辺りがよければ相談に
乗ってやらないこともないような気がするぞ。少し」
「……帰る」
「冗談だ。で?」
576 :Home, Sweet home :05/02/10 00:02 ID:Im/1wCzo
あまりといえばあまりの対応に、思わず立ち上がりかける拳児だったが、なんとかこらえる。その様子に、
これはさすがに大事な用なのかな、と絃子も考え直す。
が。
「――――ほしいんだけど」
「…………へ?」
その彼女も、彼が口にした言葉の意味が即座には理解出来なかった。
「悪い、もう一度言ってくれないか。なんかこう、ひどく信じられないようなことを言われた気がするんだが」
沈黙。
ごくり、と唾を飲み込む音が聞こえたような気さえして。
「ここに住ませてほし……ってぇ!?」
抜き撃ちだった。
少なくとも拳児にはなにが起きたかまったく分からず、当の絃子さえ自分がいつ動いたのか正確には把握
出来なかった。
ただ、結果として。
彼女の手には愛用のモデルガンが握られていたし、彼の額にはありったけの弾丸が撃ち込まれていた。ちなみに、
銃は絃子のカスタマイズにより、絶妙に殺傷能力は持たないセッティングになっている。別の言い方をするなら、
怪我はしないけれど痛い。とても痛い。絶妙に。
「……ん? ああ悪い、つい」
「つい、じゃねぇっ!」
さすがにキレた。それでも手を出しはしない辺り、本能的に勝てないことを理解しているらしい。
「いや、君があまりにおかしなことを言うもんだから……と言うか頭の方は大丈夫か?」
「今のでおかしくなった」
「じゃあもう一度叩き込めば元に戻るかな」
「ちょっ、ま、やめっ、ぐあっ!」
再びの発射音。
ただ一音を以て無数の弾丸を叩き込むその技は、いったいいかなる技巧を用いたものか。
ともあれ、一瞬の後にはのたうち回ることさえ出来ずに大の字になる彼の姿があって。
「……やりすぎたか」
へんじはない。ただのしかばねのようだ。
577 :Home, Sweet home :05/02/10 00:03 ID:Im/1wCzo
「少しは手加減しやがれ……」
数分後、どうにか灰になることもなく蘇生を成功させたただのしかばねは、仏頂面で悪態をついていた。
「いや、君があまりにおかしなことを言うもんだから……と言うか頭の方は大丈夫か?」
「今ので……っつーかそれはもういいんだよ」
「そうか、残念だな」
既に構えられていた銃口から顔を背ける相手に、心底残念そうに呟く絃子。勘弁してくれと思いながら、でさっきの、
と話を戻そうとする拳児だったが。
「却下だ」
「少しは考えてくれてもいいだろ?」
「どこにそんな必要があるんだ。だいたい一人暮らしだろ、君は。……あれか、金か」
「おう」
「そこで胸を張るな……」
げんなりしつつも、さしあたっての事情は察する絃子。そもそも、中学生が一人暮らしをしていること自体がうまく
いくはずもなかったのである。よく保った方ではある、と一応の敬意を表する。あくまで心の中で。
「だったら家に戻ればいいだろう。別に天涯孤独の身の上じゃあるまいし」
「いまさら情けなくて帰れっかよ。オトコにゃ引けねぇときがあるんだ」
やおら立ち上がりポーズを決める。
ざっぱーん、と岩場に打ち寄せる波が背景に見えた(ような気がした。拳児的には)。
「挫折してオンナのところに転がり込むのがオトコなのか? それはそれは」
場が凍る。
砕けた波は空中で動きを止めて力なく消え、書き割りの背景はぱたんと後ろに倒れた(ような気がした。拳児的には)。
正座に座り直し、こほんと一つ咳払い。
「……ダメ?」
「却下だと言っている」
三度銃弾の雨が降る。しかも今度は両手に一つずつの二挺拳銃。嵐のような一瞬が過ぎ去り、遺されたのは。
「灰にでもなんでもなってしまえ」
そんな呟き。
当然ながら、返事はない。
578 :Home, Sweet home :05/02/10 00:04 ID:Im/1wCzo
それから一週間。
ただのしかばねこと播磨拳児は学校を休んでいた。これにはさすがにちょっとやりすぎたか、とも思った絃子だったが、
彼の場合さぼりなのかどうかが今一つ判別しにくい。結局、若干みすぼらしくなりながらも登校してきた姿を見て、一応の
安心を覚える。
「今日は欠席なし、と。それじゃ始めようか」
「……」
もちろん、だからといって言葉を交わすわけでもなく、むしろ目線を合わせることさえない。あくまで学校においては
単なる一生徒と一教師。互いに干渉しない、それは拳児が高校に合格した際に取り決めたことである。
とはいえ。
今回は事が事だけに少々気にもなっていた絃子、様子見に行こうとは思っていた。身内と言えば言えなくもない間柄、
彼女とて釈然としない気持ちを抱えながらもそれなりに考えてはいたのだ。
そして次の休み。
「……だからって菓子折持って行く必要もないんだけどね」
どうせろくなもの食べてなさそうだからな、などと誰に対してか言い訳を呟きつつ、拳児のアパートへと向かう。思えば
こうしてそこに向かうのもずいぶんと久しぶりで、それは特に用事もないのだから当然のことで、などと適当に思考を
遊ばせているうちに、目的地に到着する。
古ぼけた建物。それでも学生がやりくり出来ていたのだから、破格の代物には違いない。歩くたびにぎしぎしときしんだ
音を立てる廊下を中ほどまで進み、その部屋の前で立ち止まる。相変わらず表札はない。確かに、郵便受けが一階にまとめて
設置してある都合上、必要ないのは事実なんだが、となんとなく考えてから呼び鈴を鳴らす。
が。
「はい」
「……え?」
部屋の中から顔を出したのは、見知らぬ青年だった。間違っても拳児が変装しているだとか、そういう類のことではない。
「……あの?」
青年も青年で、突然尋ねてきた見覚えのない女性に怪訝そうな顔をする。それを見て、慌てて申し訳ないと頭を下げる絃子。
「以前ここに住んでいた人を訪ねてきたんですが……引っ越されたようですね」
「ああ、そうなんですか。僕も一週間ほど前にここに来たばかりで」
社交辞令もかねた、たあいのない世間話を二、三してその場を辞する絃子。階下に降りて郵便受けを見てみれば、そこには
既に播磨の文字はない。
579 :Home, Sweet home :05/02/10 00:04 ID:Im/1wCzo
「家に戻って……るわけはないか」
変なところで頑固なヤツだからな、そう思いながらも携帯で彼の実家に連絡を入れる。
「もしもし、刑部ですが。どうも、ご無沙汰してます。ええ、ええ。はい、そうですね、近いうちに機会があれば。ところで
ちょっとお訊きしたいんですが、最近拳児君はどうされてます?」
返ってくるのは予想通りの言葉。
「そうですか。いえ学校には来てますよ、はい。そちらにも帰るなり顔を出すなりするようには言ってるんですが。ああいえ、
ただちょっと気になっただけですので。では、はい」
ふう、と息をつく。
「さあ、考えろ」
自分に言い聞かせる。
新たな住人が引っ越してきて一週間ほど。
彼が姿を見せなくなったのも一週間前。
「……あの時点で追い出されてたんじゃないか」
いくらなんでも、そこまで切羽詰まっていたなら少しばかり面倒をみることくらいはやぶさかではなかった。なんだかんだと
いって、ギリギリまで他人を頼ろうとしないその性格を忘れていた、と悔やむ絃子。
けれど、後悔したところでどうにもならない。そして次の問題は、今どこでどうしているのか、だ。
「住み込みのバイトが妥当な線だが……」
だが、それなら最初から頼ってくるだろうか。もちろん、そのあとで仕事を見つけた可能性もあるが、こればかりは判断の
しようもない。ただ、肝心なところで抜けている部分がある彼のこと。
「野宿、なんて馬鹿げたことも考えられる、か」
もしそうならば、早急になんらかの手を打つべきなのだが、現状では判断材料が少なすぎる。加えて、そこまで面倒をみて
やるべきなのか、という思いもある。
「どっちにしても、やってくれるね、拳児君」
晴れわたる青空の下、喧騒に満ちた休日の街。
その中で。
手にした菓子折が、ずしりと重い。
「今日はここまで。あー、ちょっとはり……ったく」
「どうかしたんですか? 先生」
なにかを言いかけたことに気づいた生徒が声をかけてくるが、なんでもないよ、とそれをかわして廊下に出る。けれど、
目当ての後ろ姿はすでにもうない。
580 :Home, Sweet home :05/02/10 00:05 ID:Im/1wCzo
「また逃げたか」
学校では干渉しない。
そんな取り決めを律儀に守るように、授業が終わるやいなや拳児はすぐに姿を消す。どうやってもつかまらない。呼び出しを
かけてみたところであっさりすっぽかされる。いろいろと忙しい教師という身の上、これでは絃子の方からは打つ手なしである。
「……やれやれ今日も進展なし、か」
ぼやいたところで逃げた相手は戻ってこず、こうしている時間も惜しいほどに仕事はある。仕方なしに職員室に戻って机に
向かうが、気分は晴れない。どうでもいいことがいちいち気になり、ささやかなミスが量産されていく。らちがあかない、と
気分転換に外を見ようとすれば、いつのまにやらどんよりした雲が空一面を覆い隠し、その上。
「……雨」
しばらく降っていなかった雨がぽつぽつと落ちてきていた。それは次第に強さを増していく。
ますます思考が乱れる。まさかいくらなんでも屋根のないところにいるわけはないよな、でももしかしたら、いやそこまでは。
「絃子さん」
加速から暴走にギアチェンジしかけた思考を止めたのは、肩を叩く手の感触とその声だった。相手は見るまでもなく分かる。
むしろ、『絃子さん』と彼女を呼ぶ相手など一人しか存在しない。
学校では刑部先生ですよ、笹倉先生。
そう言って振り返ろうとしたとき。
むに。
「な……」
頬に指の当たる感覚。見れば、肩に置かれた手は、人差し指だけがまっすぐ伸ばされている。とんでもなく古典的なイタズラ。
「……学校では刑部先生ですよ、笹倉先生」
「あらあら」
それでもどうにか気を取り直し、無理矢理に振り向いてその言葉を口にすると、わざとらしく驚く葉子の姿。
「ふふ、少しは落ち着きました?」
「……ええ、まあ」
そう答えると、よかった、とやわらかく微笑む葉子。
「なんだか最近、ずっとなにか迷ってるみたいですけど、そういうの刑部先生らしくないです。もっと動いてこそ、だと思うん
ですけど、どうですか?」
晴れ間が見えた。
刑部絃子は思い出す、かつて自分がどうしていたか。
迷ったら動く、動いてから考える、そうやってなにもかもを乗り越えてきたのではなかったか、と。
581 :Home, Sweet home :05/02/10 00:05 ID:Im/1wCzo
そして、それさえ思い出してしまえばやることは他にない。
「ちょっと出てくる。……ありがとう、葉子」
「学校では笹倉先生ですよ」
笑顔のままでそう言う彼女に頭を下げ、傘を手にした絃子は昇降口へと向かう。
「あの馬鹿、絶対見つけてやる」
そうやって雨の中飛び出して、さて、と考え始める絃子。
まず当たるべきは繁華街、日の高い間なら時間の潰しようなどいくらでも存在する。それが空振りなら次は屋根のある場所。
最後は手当たり次第、だ。決めてしまえば動くのみ、足下ではねる水溜まりも気にすることなく、ただ探し歩く。
やるべきことは、他にない。
「……あとはどこだ」
繁華街はあらかた回り終え、公園から橋の下まで、思いつく場所を探すもすべて空振り。それでも足を止めずに考え続ける
絃子は、学校をまだ探していないことを思い出す。
「灯台もと暗し、か……?」
正解かどうかは分からないが、だとしても候補の一つに違いはない。ならばと即座に引き返そうとした矢先、長い石段が
視界に飛び込んでくる。
矢神神社。
ここもまだだったか、そう思い石段を登り始める絃子。降りしきる雨に濡れたそれは、一段ごとに神経を使わせる。
「ったく、余計な手間ばかりかけさせる」
呟いた口調とは裏腹に、彼女の表情は明るい。楽しんでいるのだ、この状況を。ここまで来てしまえば後戻りは出来ず、
ならば全力でもって突き進む。それが刑部絃子の生き方に他ならない。
そしてたどりついた境内、雨音だけが響くそこに人影はない。もしそこに誰かがいるとするなら。
「……この中しかないんだが」
いくらなんでもなあ、さすがにそんなぼやきが出る。目の前にあるのは本殿、そこしかないのは確かだが、罰当たりにも
ほどがある、というものである。
「一応、ね」
申し訳ない、と手を合わせてから扉を開ける。
「……………………」
いた。
大馬鹿者で愚か者で、おまけに罰当たりなんてオプションまでついたヤツが。
582 :Home, Sweet home :05/02/10 00:06 ID:Im/1wCzo
しかもこんな時間から寝ている。
堂々と。
それを見ていると、なんだか無性に腹の立ってきた絃子。
「起きろ馬鹿者」
とりあえず軽く蹴りをいれてみた。鈍いうめき声とともに目を開ける大馬鹿者。寝ぼけているのか周囲をきょろきょろと
見回すが、すぐさま状況を理解して逃げ出そうとする。
「待て」
「んがっ!?」
その首根っこを捕まえて、自分の方を向かせる。
「こんなところにいたのか」
「……いや、けっこうどうにかなるもんだぜ?」
引きつった笑いを浮かべる拳児に、馬鹿者、ともう一度言ってから。
「条件についてはあとでちゃんと話し合うからな。とりあえず一旦帰るぞ、荷物をまとめろ」
目を白黒させながら、どこへだよ、と問う彼に。
「決まってるだろう」
有無を言わさず。
「私と君の家だ」
そう告げた。
「……絃子?」
「ああもううるさいな、しばらくは面倒みてやると言ってるんだ。何度も言わせるな」
「お、おう」
やれやれ、と一つ背伸びの絃子。ここにきて今日一日の疲れがどっと出た、というその背中に。
「なるほど、そういうことでしたか」
「っ!?」
聞き覚えのある声、振り向けばそこに。
「よう、こ」
「ついて来ちゃいました」
いや来ちゃいましたじゃないだろう、そんな絃子の内心の動揺にはお構いなしに、そっちは播磨拳児君ですよね、と葉子。
「なんだか見覚えがあるな、とは思ってたんですけど、ようやく思い出せました」
「……いや思い出さなくていい」
「へ? いや、つーかなにがどうなって……ってかこの状況はマズイだろ!?」
ひとりテンパっている拳児を余所に、にこにこ顔の葉子とすべてを諦めた様子の絃子。
583 :Home, Sweet home :05/02/10 00:07 ID:Im/1wCzo
「君にだけは知られたくなかった……」
「それは残念でした。拳児君の方は……覚えてないかな、昔絃子さんのところによく遊びに行ってたんだけど、私」
「昔……? 確か笹倉、だよな……?」
「絃子さんは名字で呼ばないからね。笹倉葉子、いつも葉子って呼ばれてたんだけど、どう?」
「ようこ……って葉子姉ちゃん!?」
「そう。よかった、覚えててくれたんだ。それに、姉ちゃん、だなんて」
「あ、いや、その、今のはだな、つい口が滑ったっつーかだな……」
「……やめとけ、君が口で敵う相手じゃない」
げんなりした絃子の、これまたげんなりした口調に、同様に拳児もげんなりした様子になる。
「葉子、分かってるとは思うんだが……」
「大丈夫ですよ、しっかり秘密にしておきますから」
その代わり、ちゃんと事情の説明して下さいね。
そう言った葉子は、晴々したような満面の笑顔で――
「……うわあ」
そんないつかと同じ情けない声とともに、絃子は目を覚ました。
最悪の目覚めだ。
嫌な夢を見たと思いながらも、とりあえず起き上がってカーテンを開けてみる。嫌がらせのように青い空。自分の境遇に
関係なしに、今日も世界は平和らしい。自嘲と溜息。
そうはいってもふて寝をしても始まらず、地球は今日も回っているし当然ながら学校もある。さっさと着替えをすませ、
毎度のようにまだ起き出してこない同居人の部屋へと向かう。
「入るぞと言うかさっさと起きろ」
気怠げな声とともに踏み込むが、案の定起きてくる気配はない。豪快ないびきの音が聞こえる。
「まったく……」
カーテンを開けると朝日が射し込む。照らし出されるのは、意外なほどにあどけない寝顔。その顔を眺めながら、今朝
見た夢の続きを思い起こす。
584 :Home, Sweet home :05/02/10 00:07 ID:Im/1wCzo
一週間ほっつき歩いて見つけたのがあそこだったとか。
家財道具は売りに出して生活費にしてただとか。
葉子には結局本当に根掘り葉掘り訊かれただとか。
どうにもこうにもろくでもない。
だとしても。
「あれから退屈だけはしてない気がするよ」
させてもらえない、かもしれないけどね。そう苦笑にも似た表情を浮かべて。
「――起きろ馬鹿者」
モデルガンの発射音、そして悲鳴。
のどかな朝の空気に似つかわしくないにもほどがある、そんな騒音が辺りに響く。
よくある光景だ。
とまあ、そういうわけで。
刑部絃子の人生は、今日も順風満帆である。
……おおむねのところ。
刑部絃子の人生は、今のところおおむね順調だ。
少々の問題はありながらも、可愛い教え子たちのいるやりがいある職場。
やや性格に難はあるものの、信頼出来る同僚。
一人暮らしにしてはいささか広すぎるとさえ言える自分の城。
彼女を彩るそんな事柄を見れば、なるほど確かに順調である。
ただしそれは『おおむね』であって――
「あのお店、おいしかったんですけど、なんだか物足りないんですよね」
「……葉子、その酒癖はいい加減直した方がいいと思うぞ」
「なに言ってるんですか。まだまだ大丈夫ですよ」
そんな彼女――笹倉葉子が提げたビニール袋の中では、かこんかこんと缶ビールが音を立てている。
「君の場合、どれだけ飲んでも大丈夫なのが問題なんだよ……」
どのみち言うだけ無駄とは思っていたが、あらためて絃子は嘆息。それでも、同僚にして後輩、なにより
親友たる彼女の嬉しそうな顔を見るのは嫌いではなく、自宅で飲み直すことを了承したのもまた絃子自身で
あるわけなのだが。
まあ明日は休みだからいいか、そんなことを考えながら最後の角を曲がり、マンションの入り口、そして
『それ』が視界に入ると同時。
「うわあ」
およそ日常的に出るはずもない、情けない声が彼女の口からもれていた。
「絃子さん?」
「……あー、悪い葉子。今ちょっと用事を思い出してね、悪いんだけどまた今度に出来ないかな」
「こんな時間に用事ですか……?」
突然のことにきょとんとする葉子に、火急の用なんだ、となんとも言えない表情で告げる。その様子は
ただならないとさえ言える。
「はあ、仕方ないですね。それじゃまた今度、ちゃんと覚えてて下さいね」
「すまないね。分かったよ、君との約束を破るとろくなことにならないし、な」
冗談めかした絃子の言葉に小さく笑みを見せてから、手を振ってその場を去っていく葉子。その足音と
ビール缶の立てる音、それが聞こえなくなるのを確認してから大きく溜息をつく絃子。
575 :Home, Sweet home :05/02/10 00:02 ID:Im/1wCzo
そして。
「……さて」
大きく天を仰いで歩き出す。その足取りは行軍、否、突進や突撃という表現が相応しいようなそれ。
「で、」
ものの一呼吸の間にマンションの入り口、『それ』の目の前にたどりつき。
「君は一体こんなところでなにをしているのかな」
播磨拳児君、と。その名を呼んだ。
「○×△□ッ!?」
形容しがたい反応を見せる彼に、ああ自分は今ずいぶんとステキな表情をしているんだろうな、と。
絃子は思った。
Home, Sweet home
「まったく、こんな時間に非常識だとは思わなかったのか?」
立ち話ですむようなことなら、わざわざ尋ねてくることもないだろうと部屋にあげた絃子。その目の前で、
実に珍しいことにかしこまった様子で正座をしている拳児。
「……すぐ帰ってくると思ったんだよ」
それでも言葉遣いは相変わらずで、まあその態度で大目に見てやるか、とそこまで考えてから気がつく。
「すぐに……ということはあれか、もしかするとずっと待っていたんじゃないだろうな。外で」
おう、と短い返事。わずかに頭痛を覚える絃子。
「なら出直すなりなんなりすればよかったじゃないか。大体ウチはオートロックなんだから中にさえ入れ
ないんだぞ……まあ、部屋の前で待たれるよりはマシだが」
変なところで融通が利かないよな、君は。ぼやいてから、で、とあらためて訊く。
「そこまでしたということは、それなりの用事なんだろう? 一応聞いてあげよう」
「……あー、その、だな」
「なんだ、早く言え。私だって鬼じゃないしな、事と次第と天気と今日の運勢と気分辺りがよければ相談に
乗ってやらないこともないような気がするぞ。少し」
「……帰る」
「冗談だ。で?」
576 :Home, Sweet home :05/02/10 00:02 ID:Im/1wCzo
あまりといえばあまりの対応に、思わず立ち上がりかける拳児だったが、なんとかこらえる。その様子に、
これはさすがに大事な用なのかな、と絃子も考え直す。
が。
「――――ほしいんだけど」
「…………へ?」
その彼女も、彼が口にした言葉の意味が即座には理解出来なかった。
「悪い、もう一度言ってくれないか。なんかこう、ひどく信じられないようなことを言われた気がするんだが」
沈黙。
ごくり、と唾を飲み込む音が聞こえたような気さえして。
「ここに住ませてほし……ってぇ!?」
抜き撃ちだった。
少なくとも拳児にはなにが起きたかまったく分からず、当の絃子さえ自分がいつ動いたのか正確には把握
出来なかった。
ただ、結果として。
彼女の手には愛用のモデルガンが握られていたし、彼の額にはありったけの弾丸が撃ち込まれていた。ちなみに、
銃は絃子のカスタマイズにより、絶妙に殺傷能力は持たないセッティングになっている。別の言い方をするなら、
怪我はしないけれど痛い。とても痛い。絶妙に。
「……ん? ああ悪い、つい」
「つい、じゃねぇっ!」
さすがにキレた。それでも手を出しはしない辺り、本能的に勝てないことを理解しているらしい。
「いや、君があまりにおかしなことを言うもんだから……と言うか頭の方は大丈夫か?」
「今のでおかしくなった」
「じゃあもう一度叩き込めば元に戻るかな」
「ちょっ、ま、やめっ、ぐあっ!」
再びの発射音。
ただ一音を以て無数の弾丸を叩き込むその技は、いったいいかなる技巧を用いたものか。
ともあれ、一瞬の後にはのたうち回ることさえ出来ずに大の字になる彼の姿があって。
「……やりすぎたか」
へんじはない。ただのしかばねのようだ。
577 :Home, Sweet home :05/02/10 00:03 ID:Im/1wCzo
「少しは手加減しやがれ……」
数分後、どうにか灰になることもなく蘇生を成功させたただのしかばねは、仏頂面で悪態をついていた。
「いや、君があまりにおかしなことを言うもんだから……と言うか頭の方は大丈夫か?」
「今ので……っつーかそれはもういいんだよ」
「そうか、残念だな」
既に構えられていた銃口から顔を背ける相手に、心底残念そうに呟く絃子。勘弁してくれと思いながら、でさっきの、
と話を戻そうとする拳児だったが。
「却下だ」
「少しは考えてくれてもいいだろ?」
「どこにそんな必要があるんだ。だいたい一人暮らしだろ、君は。……あれか、金か」
「おう」
「そこで胸を張るな……」
げんなりしつつも、さしあたっての事情は察する絃子。そもそも、中学生が一人暮らしをしていること自体がうまく
いくはずもなかったのである。よく保った方ではある、と一応の敬意を表する。あくまで心の中で。
「だったら家に戻ればいいだろう。別に天涯孤独の身の上じゃあるまいし」
「いまさら情けなくて帰れっかよ。オトコにゃ引けねぇときがあるんだ」
やおら立ち上がりポーズを決める。
ざっぱーん、と岩場に打ち寄せる波が背景に見えた(ような気がした。拳児的には)。
「挫折してオンナのところに転がり込むのがオトコなのか? それはそれは」
場が凍る。
砕けた波は空中で動きを止めて力なく消え、書き割りの背景はぱたんと後ろに倒れた(ような気がした。拳児的には)。
正座に座り直し、こほんと一つ咳払い。
「……ダメ?」
「却下だと言っている」
三度銃弾の雨が降る。しかも今度は両手に一つずつの二挺拳銃。嵐のような一瞬が過ぎ去り、遺されたのは。
「灰にでもなんでもなってしまえ」
そんな呟き。
当然ながら、返事はない。
578 :Home, Sweet home :05/02/10 00:04 ID:Im/1wCzo
それから一週間。
ただのしかばねこと播磨拳児は学校を休んでいた。これにはさすがにちょっとやりすぎたか、とも思った絃子だったが、
彼の場合さぼりなのかどうかが今一つ判別しにくい。結局、若干みすぼらしくなりながらも登校してきた姿を見て、一応の
安心を覚える。
「今日は欠席なし、と。それじゃ始めようか」
「……」
もちろん、だからといって言葉を交わすわけでもなく、むしろ目線を合わせることさえない。あくまで学校においては
単なる一生徒と一教師。互いに干渉しない、それは拳児が高校に合格した際に取り決めたことである。
とはいえ。
今回は事が事だけに少々気にもなっていた絃子、様子見に行こうとは思っていた。身内と言えば言えなくもない間柄、
彼女とて釈然としない気持ちを抱えながらもそれなりに考えてはいたのだ。
そして次の休み。
「……だからって菓子折持って行く必要もないんだけどね」
どうせろくなもの食べてなさそうだからな、などと誰に対してか言い訳を呟きつつ、拳児のアパートへと向かう。思えば
こうしてそこに向かうのもずいぶんと久しぶりで、それは特に用事もないのだから当然のことで、などと適当に思考を
遊ばせているうちに、目的地に到着する。
古ぼけた建物。それでも学生がやりくり出来ていたのだから、破格の代物には違いない。歩くたびにぎしぎしときしんだ
音を立てる廊下を中ほどまで進み、その部屋の前で立ち止まる。相変わらず表札はない。確かに、郵便受けが一階にまとめて
設置してある都合上、必要ないのは事実なんだが、となんとなく考えてから呼び鈴を鳴らす。
が。
「はい」
「……え?」
部屋の中から顔を出したのは、見知らぬ青年だった。間違っても拳児が変装しているだとか、そういう類のことではない。
「……あの?」
青年も青年で、突然尋ねてきた見覚えのない女性に怪訝そうな顔をする。それを見て、慌てて申し訳ないと頭を下げる絃子。
「以前ここに住んでいた人を訪ねてきたんですが……引っ越されたようですね」
「ああ、そうなんですか。僕も一週間ほど前にここに来たばかりで」
社交辞令もかねた、たあいのない世間話を二、三してその場を辞する絃子。階下に降りて郵便受けを見てみれば、そこには
既に播磨の文字はない。
579 :Home, Sweet home :05/02/10 00:04 ID:Im/1wCzo
「家に戻って……るわけはないか」
変なところで頑固なヤツだからな、そう思いながらも携帯で彼の実家に連絡を入れる。
「もしもし、刑部ですが。どうも、ご無沙汰してます。ええ、ええ。はい、そうですね、近いうちに機会があれば。ところで
ちょっとお訊きしたいんですが、最近拳児君はどうされてます?」
返ってくるのは予想通りの言葉。
「そうですか。いえ学校には来てますよ、はい。そちらにも帰るなり顔を出すなりするようには言ってるんですが。ああいえ、
ただちょっと気になっただけですので。では、はい」
ふう、と息をつく。
「さあ、考えろ」
自分に言い聞かせる。
新たな住人が引っ越してきて一週間ほど。
彼が姿を見せなくなったのも一週間前。
「……あの時点で追い出されてたんじゃないか」
いくらなんでも、そこまで切羽詰まっていたなら少しばかり面倒をみることくらいはやぶさかではなかった。なんだかんだと
いって、ギリギリまで他人を頼ろうとしないその性格を忘れていた、と悔やむ絃子。
けれど、後悔したところでどうにもならない。そして次の問題は、今どこでどうしているのか、だ。
「住み込みのバイトが妥当な線だが……」
だが、それなら最初から頼ってくるだろうか。もちろん、そのあとで仕事を見つけた可能性もあるが、こればかりは判断の
しようもない。ただ、肝心なところで抜けている部分がある彼のこと。
「野宿、なんて馬鹿げたことも考えられる、か」
もしそうならば、早急になんらかの手を打つべきなのだが、現状では判断材料が少なすぎる。加えて、そこまで面倒をみて
やるべきなのか、という思いもある。
「どっちにしても、やってくれるね、拳児君」
晴れわたる青空の下、喧騒に満ちた休日の街。
その中で。
手にした菓子折が、ずしりと重い。
「今日はここまで。あー、ちょっとはり……ったく」
「どうかしたんですか? 先生」
なにかを言いかけたことに気づいた生徒が声をかけてくるが、なんでもないよ、とそれをかわして廊下に出る。けれど、
目当ての後ろ姿はすでにもうない。
580 :Home, Sweet home :05/02/10 00:05 ID:Im/1wCzo
「また逃げたか」
学校では干渉しない。
そんな取り決めを律儀に守るように、授業が終わるやいなや拳児はすぐに姿を消す。どうやってもつかまらない。呼び出しを
かけてみたところであっさりすっぽかされる。いろいろと忙しい教師という身の上、これでは絃子の方からは打つ手なしである。
「……やれやれ今日も進展なし、か」
ぼやいたところで逃げた相手は戻ってこず、こうしている時間も惜しいほどに仕事はある。仕方なしに職員室に戻って机に
向かうが、気分は晴れない。どうでもいいことがいちいち気になり、ささやかなミスが量産されていく。らちがあかない、と
気分転換に外を見ようとすれば、いつのまにやらどんよりした雲が空一面を覆い隠し、その上。
「……雨」
しばらく降っていなかった雨がぽつぽつと落ちてきていた。それは次第に強さを増していく。
ますます思考が乱れる。まさかいくらなんでも屋根のないところにいるわけはないよな、でももしかしたら、いやそこまでは。
「絃子さん」
加速から暴走にギアチェンジしかけた思考を止めたのは、肩を叩く手の感触とその声だった。相手は見るまでもなく分かる。
むしろ、『絃子さん』と彼女を呼ぶ相手など一人しか存在しない。
学校では刑部先生ですよ、笹倉先生。
そう言って振り返ろうとしたとき。
むに。
「な……」
頬に指の当たる感覚。見れば、肩に置かれた手は、人差し指だけがまっすぐ伸ばされている。とんでもなく古典的なイタズラ。
「……学校では刑部先生ですよ、笹倉先生」
「あらあら」
それでもどうにか気を取り直し、無理矢理に振り向いてその言葉を口にすると、わざとらしく驚く葉子の姿。
「ふふ、少しは落ち着きました?」
「……ええ、まあ」
そう答えると、よかった、とやわらかく微笑む葉子。
「なんだか最近、ずっとなにか迷ってるみたいですけど、そういうの刑部先生らしくないです。もっと動いてこそ、だと思うん
ですけど、どうですか?」
晴れ間が見えた。
刑部絃子は思い出す、かつて自分がどうしていたか。
迷ったら動く、動いてから考える、そうやってなにもかもを乗り越えてきたのではなかったか、と。
581 :Home, Sweet home :05/02/10 00:05 ID:Im/1wCzo
そして、それさえ思い出してしまえばやることは他にない。
「ちょっと出てくる。……ありがとう、葉子」
「学校では笹倉先生ですよ」
笑顔のままでそう言う彼女に頭を下げ、傘を手にした絃子は昇降口へと向かう。
「あの馬鹿、絶対見つけてやる」
そうやって雨の中飛び出して、さて、と考え始める絃子。
まず当たるべきは繁華街、日の高い間なら時間の潰しようなどいくらでも存在する。それが空振りなら次は屋根のある場所。
最後は手当たり次第、だ。決めてしまえば動くのみ、足下ではねる水溜まりも気にすることなく、ただ探し歩く。
やるべきことは、他にない。
「……あとはどこだ」
繁華街はあらかた回り終え、公園から橋の下まで、思いつく場所を探すもすべて空振り。それでも足を止めずに考え続ける
絃子は、学校をまだ探していないことを思い出す。
「灯台もと暗し、か……?」
正解かどうかは分からないが、だとしても候補の一つに違いはない。ならばと即座に引き返そうとした矢先、長い石段が
視界に飛び込んでくる。
矢神神社。
ここもまだだったか、そう思い石段を登り始める絃子。降りしきる雨に濡れたそれは、一段ごとに神経を使わせる。
「ったく、余計な手間ばかりかけさせる」
呟いた口調とは裏腹に、彼女の表情は明るい。楽しんでいるのだ、この状況を。ここまで来てしまえば後戻りは出来ず、
ならば全力でもって突き進む。それが刑部絃子の生き方に他ならない。
そしてたどりついた境内、雨音だけが響くそこに人影はない。もしそこに誰かがいるとするなら。
「……この中しかないんだが」
いくらなんでもなあ、さすがにそんなぼやきが出る。目の前にあるのは本殿、そこしかないのは確かだが、罰当たりにも
ほどがある、というものである。
「一応、ね」
申し訳ない、と手を合わせてから扉を開ける。
「……………………」
いた。
大馬鹿者で愚か者で、おまけに罰当たりなんてオプションまでついたヤツが。
582 :Home, Sweet home :05/02/10 00:06 ID:Im/1wCzo
しかもこんな時間から寝ている。
堂々と。
それを見ていると、なんだか無性に腹の立ってきた絃子。
「起きろ馬鹿者」
とりあえず軽く蹴りをいれてみた。鈍いうめき声とともに目を開ける大馬鹿者。寝ぼけているのか周囲をきょろきょろと
見回すが、すぐさま状況を理解して逃げ出そうとする。
「待て」
「んがっ!?」
その首根っこを捕まえて、自分の方を向かせる。
「こんなところにいたのか」
「……いや、けっこうどうにかなるもんだぜ?」
引きつった笑いを浮かべる拳児に、馬鹿者、ともう一度言ってから。
「条件についてはあとでちゃんと話し合うからな。とりあえず一旦帰るぞ、荷物をまとめろ」
目を白黒させながら、どこへだよ、と問う彼に。
「決まってるだろう」
有無を言わさず。
「私と君の家だ」
そう告げた。
「……絃子?」
「ああもううるさいな、しばらくは面倒みてやると言ってるんだ。何度も言わせるな」
「お、おう」
やれやれ、と一つ背伸びの絃子。ここにきて今日一日の疲れがどっと出た、というその背中に。
「なるほど、そういうことでしたか」
「っ!?」
聞き覚えのある声、振り向けばそこに。
「よう、こ」
「ついて来ちゃいました」
いや来ちゃいましたじゃないだろう、そんな絃子の内心の動揺にはお構いなしに、そっちは播磨拳児君ですよね、と葉子。
「なんだか見覚えがあるな、とは思ってたんですけど、ようやく思い出せました」
「……いや思い出さなくていい」
「へ? いや、つーかなにがどうなって……ってかこの状況はマズイだろ!?」
ひとりテンパっている拳児を余所に、にこにこ顔の葉子とすべてを諦めた様子の絃子。
583 :Home, Sweet home :05/02/10 00:07 ID:Im/1wCzo
「君にだけは知られたくなかった……」
「それは残念でした。拳児君の方は……覚えてないかな、昔絃子さんのところによく遊びに行ってたんだけど、私」
「昔……? 確か笹倉、だよな……?」
「絃子さんは名字で呼ばないからね。笹倉葉子、いつも葉子って呼ばれてたんだけど、どう?」
「ようこ……って葉子姉ちゃん!?」
「そう。よかった、覚えててくれたんだ。それに、姉ちゃん、だなんて」
「あ、いや、その、今のはだな、つい口が滑ったっつーかだな……」
「……やめとけ、君が口で敵う相手じゃない」
げんなりした絃子の、これまたげんなりした口調に、同様に拳児もげんなりした様子になる。
「葉子、分かってるとは思うんだが……」
「大丈夫ですよ、しっかり秘密にしておきますから」
その代わり、ちゃんと事情の説明して下さいね。
そう言った葉子は、晴々したような満面の笑顔で――
「……うわあ」
そんないつかと同じ情けない声とともに、絃子は目を覚ました。
最悪の目覚めだ。
嫌な夢を見たと思いながらも、とりあえず起き上がってカーテンを開けてみる。嫌がらせのように青い空。自分の境遇に
関係なしに、今日も世界は平和らしい。自嘲と溜息。
そうはいってもふて寝をしても始まらず、地球は今日も回っているし当然ながら学校もある。さっさと着替えをすませ、
毎度のようにまだ起き出してこない同居人の部屋へと向かう。
「入るぞと言うかさっさと起きろ」
気怠げな声とともに踏み込むが、案の定起きてくる気配はない。豪快ないびきの音が聞こえる。
「まったく……」
カーテンを開けると朝日が射し込む。照らし出されるのは、意外なほどにあどけない寝顔。その顔を眺めながら、今朝
見た夢の続きを思い起こす。
584 :Home, Sweet home :05/02/10 00:07 ID:Im/1wCzo
一週間ほっつき歩いて見つけたのがあそこだったとか。
家財道具は売りに出して生活費にしてただとか。
葉子には結局本当に根掘り葉掘り訊かれただとか。
どうにもこうにもろくでもない。
だとしても。
「あれから退屈だけはしてない気がするよ」
させてもらえない、かもしれないけどね。そう苦笑にも似た表情を浮かべて。
「――起きろ馬鹿者」
モデルガンの発射音、そして悲鳴。
のどかな朝の空気に似つかわしくないにもほどがある、そんな騒音が辺りに響く。
よくある光景だ。
とまあ、そういうわけで。
刑部絃子の人生は、今日も順風満帆である。
……おおむねのところ。
2010年11月17日(水) 13:37:11 Modified by ID:/AHkjZedow