IF20・悲恋の花

894 :Classical名無しさん :05/03/16 21:36 ID:9vevsbRM
矢神市。この町にはかつて外国人居留地があった。その一角に大きな屋敷がある。
その大きな屋敷が沢近邸である。ここには一人の執事がいる。名前はナカムラ。これは彼のお話です。

「お嬢様 本日の予定は?」
ナカムラが玄関先で足を靴に滑り込ませている沢近に聞く
「う〜ん 今日は天満達とお茶してくるから少し遅くなるかも」
「かしこまりました お迎えに上がりましょうか?」
玄関のドアを開けながらナカムラに向かってにっこり微笑みながら沢近はこう言った
「迎えに来て欲しいときは電話をかけるわ それじゃ行ってきます」
「行ってらっしゃいませ お嬢様」
ナカムラはいつものように沢近を送り出した後、毎日欠かさず防弾装甲リムジンや邸内警備ロボの手入れを行う。
それらの手入れが終わった後に少し遅めの昼食を取り、電話の応対やその日のニュースをチェックする。
庭ではスプリンクラーが「かたん かたん」と子気味よいリズムで音を立てながら水を撒いている。
秘書室の窓からは暖かな春の日差しが差込み、部屋を心地よい温度にしている。
ふと何かを思い出し、引き出しを開けた。そこにあったのは軍隊の認識票と2枚の小さな写真。
ナカムラは目を細めて写真を見た後こう呟いた。
「…そうか あれからもう20年も経ってしまったのか」


895 :Classical名無しさん :05/03/16 21:36 ID:9vevsbRM
遡る事 二十年前ナカムラは軍に所属していたと同時に南米の小さな国である作戦に参加していた。
当時その小さな国は政府軍の将校や民衆によるクーデターが発生し、首都が孤立化していた。ナカムラに
与えられたのは「政府軍の支援と大統領の救出」という任務と、大統領救出部隊隊長の地位だった。
ナカムラは以前、同じく南米のとある国で発生したクーデター事件の際に大統領のみならず官邸に
取り残されていたメイドの息子を救出するという実績があり、その実績を評価して司令部はナカムラを隊長の
座に就かせたのだった。

川は数日前まで続いていた大雨のお陰でココア色になっており流れは早かった。
そのココア色の川をなぞるような形をした国道をナカムラの部隊を乗せた輸送部隊が走っていた。
その輸送部隊のトラックの荷台でさっきまで他の隊員達とポーカーをしていた隊員がナカムラにこう尋ねた。
「隊長 この仕事ってこんなに楽でいいんですか? 訓練のほうがキツイくらいですよ」
豆のカンヅメをナイフですくいながら食べていたナカムラはこう言った
「楽な仕事もあれば 難しい仕事もある どの世界も同じさ しかしこの豆のカンヅメはマズイな」
隊員が笑いながらナカムラに相槌を打とうとした時、タイヤを軋ませてトラックが止まった。
ナカムラが運転手に話を聞こうとしたその瞬間 シュシュシュという聞きなれない音の後に
前を走っていた装甲車が粉々に吹き飛んだ。そして装甲車が吹き飛んだのを皮切りに激しい銃撃が始まった。


896 :Classical名無しさん :05/03/16 21:37 ID:9vevsbRM
「敵襲!!」と叫ぶや否やトラックの荷台から飛び出すナカムラと隊員達。ナカムラはガードレールにもたれながら
銃声の聞こえる草の茂みに向けて5,56ミリ弾をたっぷりとお見舞いした。飛び散る木の葉や小枝、それにまじる短いヒトの悲鳴。
他の隊員達や政府軍の面々も茂みに向けて機関銃や自動小銃を乱射した。わずか5分間の交戦で敵からの銃撃はぱったりと止み
聞こえる音は荒い息遣いとごうごうと音を立てて流れる川の音だけになった。
(首都まであと数十キロだというのに 敵はまるでやる気がないな)
と思ったその時だった。クーデター軍の残党の放ったロケット弾がナカムラの足元に着弾し、ガードレールのそばに立っていた
ナカムラに爆風が容赦なく襲い掛かった。爆風は軽々とナカムラの体を持ち上げココア色の川の中に叩き込んだ。

川の流れは激しくナカムラの肉体を水が弄んだ。「酸素が欲しい!!息を吸いたい!!」その一心でナカムラは微かに見える光に向かって
必死に泳いだ。顔を出す事になんとか成功したナカムラだったが次の瞬間、目の前にはまるで奈落の底へと通じているかのような滝があった。
「うわあああああ!!」それっきりナカムラは気絶してしまった。
全身に走る痛みでナカムラは目を覚ました。何故ベットに横たわっているのか、なぜ包帯が巻いてあるのか、ナカムラには分からない事だらけだったが
助かった事だけは理解できた。ベッドの脇には、離すまいと一生懸命握っていた拳銃と持っていた無線機が置いてあった。無線機を手にとって
いろいろいじくったがウンともスンとも言わない。悪態をついていると部屋に女性が入ってきた。女性は信じられないといった顔をし
「よかったわ、助かったのね!!あなた私が水浴びしてる横にいきなり流れてきたのよ。びっくりしたわ。」
「ここは…どこだ?俺は何日眠っていた?そうだ!!部隊は!!部隊はどうなった?」
「あなたは2日も眠っていたのよ 部隊ってクーデターの事?クーデターなら成功したわ 大統領は昨日外国の軍隊がヘリコプターで
救出して大統領はアメリカに亡命したのよ さっきからラジオでガンガンニュースを流しているわ」
クーデターは成功か…だが大統領は救出された…よかった。一息つくとナカムラは再び睡魔に襲われた。抗う事もできず深い眠りについてしまった。


897 :Classical名無しさん :05/03/16 21:38 ID:9vevsbRM
翌日再び目を覚ました頃には体の痛みも取れて普通に動けるようになっていた。女性は目を丸くさせながら
「まぁ…普通の人とは思えない回復力ね!!それより何も食べていないでしょう?ミルク粥を作ったから食べて頂戴」
ナカムラはそう言われて初めて自分がひどく空腹なのに気がついた。「それではご馳走になるとしよう、でもその前に貴女の名前は?」
彼女は微笑みながらナカムラに「カレンよ、私は貴方に名前を教えたんだから私にも名前を教えてね。」と言った。
ナカムラは自分が最初に名乗るべきだった事に気づき少し自分の言動を恥ずかしく思いつつ答えた。「私の名前はナカムラ。」
「そう ナカムラって言うのね。じゃあ ナックって呼んでも構わないかしら?」
「一向にかまわないよ」
「ありがとう。ナック さぁ食べましょ ミルク粥が冷めちゃうわ」

ナカムラがカレンの家に世話になり始めて一月が経った。二人はすっかり仲が良くなり傍目から見れば夫婦のようだった。
「このまま ここで暮らすのも悪くないかも知れない…」ナカムラはそう考え始めていた矢先の出来事だった。
壊れていた筈の無線機から沢近の父親の声が入ってきたのだ。ナカムラの捜索を打ち切り撤退するという情報を聞いた沢近の父が
「一月だけ」と司令部に懇願し、その努力が実った瞬間だった。ナカムラは自分の恩人がそこまでしてくれる事に感動し
カレンに帰国する事を告げた。カレンは泣き、怒り、ここに残ってくれと懇願した。しかしナカムラの真剣さにカレンはとうとう折れ
せめてナカムラを見送らせてくれと頼んだ。そして帰国の日。ナカムラとカレンは彼女の家の牧草地に着陸したヘリの前で抱き合って別れた。
離陸する時にキャビンは空いていたから降りようと思えば降りる事が出来た。カレンが泣きながらヘリを追う姿を見てナカムラは心が揺らいだ。
だが降りようとしなかった。いや、出来なかった。何故だかはナカムラ自身にも分からなかった。


898 :Classical名無しさん :05/03/16 21:38 ID:9vevsbRM
帰国して軍を除隊した後沢近邸に勤務するようになってから、ナカムラはカレンに3回会いに行った。だがナカムラが介抱された家は
取り壊されて跡形もなく、徒労に終わった。ナカムラが分かったのは彼女はメキシコに行ってペドロ・ゴンザレスというルチャの選手と結婚した事
そのルチャの選手との間に「ララ」という子が生まれた事だけだった。ナカムラは今でも時折夢に見る。あそこでヘリから飛び降り
カレンとあの家で一緒に暮らすという夢を。

―――――はっと時計を見る。居眠りをしていたようだ。そろそろお嬢様が帰ってこられる。曲がってしまった蝶ネクタイを戻し部屋の外へと
ナカムラは出て行った。傾きかけた陽に照らされた机の上には軍の認識票と2枚の写真。1枚は、沢近の父親と肩を組んでいるナカムラと部下達の写真。
もう1枚は、大きな花畑で両手を広げて体一杯で楽しさを表現しているカレンの写真だった
2010年11月21日(日) 12:34:37 Modified by ID:/AHkjZedow




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