IF23・ある日の茶道部


760 :Classical名無しさん:05/05/29 21:47 ID:ffSim82c
 一歩踏み出すと、ぎしぎしとわずかに軋む床。気にしなければどうということもない、
しかし気にしてしまえばどこか気のめいるような、そんな音を引き連れて愛理は木目の続く
廊下を歩いていた。
 引き返そうか、という思考がほんの一瞬その脳裏をかすめ、
「……どうしてよ」
 呟きとともに即座に打ち消される。自分は用事があってここに来ているのだから、どこに
逃げるようなまねをする必要があるのか、と。
 逃げる。
 そう、逃げる。
 今この場で百八十度向きを変え、元来た方へと歩き出すのは、彼女にとって敗北にも似た
ものに感じられるのだ。だからこそ、なにを馬鹿なと彼女は進む。その程度にお嬢様は負けず
嫌いで、そして臆病だ。
 だから。
「……」
 目的の部屋の前で扉に手をかけようとして、わずかにためらった。臆することなどない、
自分はただ友人を訪ねてきただけなのだから、問題なんてどこにもない。
 ――ない、はずなのに。
 もしもまた、あのときのようにそこに『彼女』しかいなかったら。
「ああ、もう」
 考えないようにしようと思うあまりに考えてしまう、そんな光景がことここに及んで像を
結ぶのを頭を振って追いやって、ようやく手を伸ばしかけたその矢先。
「どちらさまですか……っと、沢近先輩」
 機先を制するように部屋の中から顔を出してきたのはサラだった。珍しいですね、とちょっと
笑ってみせてから、高野先輩ですか、と訊いてくる。
「ええ、そうだけど……」
「ごめんなさい、今日は私一人なんです」
 あの子はいないのね――安堵にも似た感情に、虚をつかれたような恰好も重なって、思わず
表情をゆるめてしまいそうになるのを慌てて押し止める。
「そう。それじゃ仕方ないわね」
 あてが外れたのだからここは残念がるところ、思い直して取り繕い、その場を立ち去ろうと
したのだが。


761 :Classical名無しさん:05/05/29 21:47 ID:ffSim82c
「あ、先輩。わざわざこんなところまでいらっしゃったんですし、せっかくですから少し
 寄っていきませんか?」
 予想もしていなかった提案に、え、と聞き返してしまう。確かにここまで足を伸ばして
おいて、空振りですませるのは骨折り損といえないこともない……などと迷っているうちに。
「私も一人でちょっと退屈だったんです。お茶もお菓子もありますよ」
 どうですか、と。にこやかに、けれどどこか畳みかけるようなその雰囲気に飲まれ。
「うん」
 そう、彼女は頷いていた。


「……ホント、用意がいいのよね」
 愛理の目の前にあるのは、断られたらどうしようなんて思っちゃいました、と笑いながら
サラが並べた菓子の数々。よりどりみどりのそれは、一介の部室にあるものとしてはいささか
限度を超している気がしないでもない。
「いつ誰が来てもいいように、っていうことらしいんですけど」
 そこで少し声をひそめて。
「刑部先生のおかげじゃないかな、なんて私は思ってます」
「なるほど、ね」
 あの人ならそういうこともあるかもしれない、と思う愛理。授業中はさておき、それ以外の
場面で絃子がときおり見せる態度は、教師としての節度を守りつつもその枠にとらわれていない
ように受け取れるからだ。
「甘いものがいっぱいあるのも、女の子としてはちょっと困りものですけどね」
 そんなことを言いつつ、ひょいと手近なクッキーを口に放り込むサラの姿に小さく苦笑してから、
ところで、と切り出す愛理。
「お邪魔させてもらっておいてなんだけど、なにをすればいいのかしら」
「別にこれといってなにを、っていうことじゃないです。お話でもなんでも、ちょっと付き合って
 もらえたらいいかな、って思っただけですから」
「お話、ねえ……」


762 :Classical名無しさん:05/05/29 21:48 ID:ffSim82c
 そうはいったところで、互いの間に共通する話題はあまりない。
 たとえば。
「そうですね。たとえばほら、高野先輩の話とか、」
「――それにしましょう」
「はい?」
 ほとんど即答に近いその返事に、あっけにとられた、という様子のサラ。彼女からしてみれば
さっぱり理由の分からないところだが、愛理からすれば当然である。
 何故なら、そのあとに続くだろう名前が容易に連想出来たからだ。
 そう、たとえばあのいろいろと――本当にいろいろといけ好かないヒゲの名前だとか、こちらも
なにかと気になる友人の妹の名前だとか。
 晶の話ならどんなものでも構わない、などというわけでもないが、どう考えたところでその二人の
話をするよりははるかにまし、そんな判断の結果が先の即答。とはいえ、さすがに不自然すぎたかと
内心戦々恐々の愛理。けれど、一拍の間を置いてから気を取り直したらしいサラは、すぐにいい
ですよと頷く。
「でも高野先輩の話、っていうのもなかなか難しいですね」
「あら、どうして?」
「面倒見もいいし、言うことはちゃんと言ってくれるし、いい人です。でも……」
 うーん、と苦笑い。
「よく分からない人です。こういう言い方しちゃうのもあれなんですけど」
 申し訳なさそうなサラの様子に、しかし愛理はそれでいいのよと肩をすくめる。
「私だって未だに分からないもの、晶のこと」
「そう……なんですか?」
 そうよ、と答える愛理もまた苦笑い。
「つきあいももうずいぶんになるけど、じゃああの子がなに考えてるか分かるか、って訊かれたら
 さっぱりよ、実際。ああ見えて、他人にそういうトコ見せるの苦手なのよ、きっと」
 悪いヤツじゃないんだけどね――そう口にしてから、ん、と首を捻る愛理。はて自分はどうして
こんなことを話してしまっているのだろう、という思い。今まで誰にも言ったことはなかったのに。


763 :Classical名無しさん:05/05/29 21:49 ID:ffSim82c
「不思議ね。あなたと話してるとなんでもしゃべっちゃいそうな気がするわ」
「お話を聞くのは本職ですから」
 ふふ、といたずらっぽく笑うサラに、そういえば、と愛理も思い出す。
「教会でシスターをしてる……んだったかしら」
「まだまだマネごとですけど。高野先輩から聞いたんですか?」
「ええ。他人の話なんてそんなにしない晶が、自分にはもったいないくらいの出来すぎな後輩が
 出来た、ってね。そこまで言うなんて、本当のところはどうだろうと思ってたんだけど」
 確かにその通りね、そう返す笑みは先と同様、サラが浮かべたそれと鏡映し。
「そんな、おおげさですよ」
「あら、別に誇ったっていいと思うけど? それにこういうのは素直に受け取っておくべきよ」
 なにを当たり前のことを、とでも言いたげなその口調に、そうします、と微笑みながらサラ。
「それじゃお返しに――内緒って言われてるんですけど――高野先輩が言ってた沢近先輩のこと、
 お話しますね」
「……晶が、私のことを?」
「はい。さっき沢近先輩も言ってましたけど、高野先輩ってそういう話ほとんどしませんから、
 よーく覚えてます」
 そのまま言いますからね、そこで一度間を置いて。
「気を悪くしないで下さいね?」
 そんな不穏な前置き。そして、どういう意味、と愛理が聞き返す間は与えずすぐに続ける。
「『見栄っ張りで、ひねくれてて、負けず嫌いで、そのくせちょっと臆病で』」
 並べられるのはネガティブな単語。さすがに抗議の声をあげようとしたところを、でも、という
言葉がさえぎる。
「『でも。――そう、でも私の大切な友人よ』、だそうです。ホント、素直じゃありませんよね」
「……そう」
 どう返したものかと考えて、でも相応しい言葉は見つからず、結局小さく呟くだけ。そんな愛理の
姿を見ながら、サラはまだ言葉を紡ぐ。
「一年生の間でも、二年生にお嬢様がいる、なんて話、ときどき話題になるんですよ。いろんな話が
 聞こえてきますけど、でもやっぱりそれはその本人を知ってる人の話じゃないんです」
 だから私は、と。それこそシスターのような、慈愛の表情で告げる。
「高野先輩の言葉が一番正しい、って思います」
 見栄っ張りとかその辺は別にしてですよ、そう笑った。


764 :Classical名無しさん:05/05/29 21:49 ID:ffSim82c
「まったく……」
 しっかりとそれを最後まで聞いてから、降参よ、と肩をすくめる愛理。ありがとう、と素直な
言葉を口にする。
 それから。
「にしても、あなた、変わってるって言われない?」
 悪い意味ではなく、けれどいろいろな意味を込めた問いかけ。
 その問に。
「ええ、よく言われます」
 でもそれって。
「別に悪いことじゃないですよね」
 なんでもないようにサラは応えて見せた。
「そうね」
 予想と違わなかった答に、愛理も笑顔を返す。


 ――そこからは、それこそ他愛のない世間話に花が咲いた。
 このやりとりで打ち解けられたのか、それともサラの人柄のせいか、彼女にしては珍しく終始
笑顔で長時間話し込んだ愛理も、日が傾いてきたのを頃合に席を立つ。
「なんだかずいぶん引き留めちゃいましたね」
「いいわよ、私も楽しかったし」
「そうですか? それならよかったです」
 ほっとしたように微笑んで。
「よければまた来て下さいね。今度は高野先輩や八雲もいるときに」
 八雲、という名前。
 その響きに一瞬痛みを覚える。


765 :Classical名無しさん:05/05/29 21:49 ID:ffSim82c
 ――が。
「そうね。そうするわ」
 愛理はそう答えていた。
 すぐに折り合いがつけられるとも思えないし、思わない。
 だとしても、まだ自分はあまりに彼女自身のことを知らなすぎる、そう思ったからだ。
 サラと並べて晶が評し、そしてそのサラが友人と誇る彼女。
 なら、きっと悪い人間ではないはずなのだ。
 わだかまりはいろいろとあるとしても。
 その解決にまだ時間がかかるとしても。
 だから、そう答えていた。
「それじゃ、晶によろしく」
「はい、分かりました」
 そんな葛藤を押し込め、笑顔で別れの言葉。対するサラも気づいているのかいないのか、
どちらにせよその返事は笑顔だ。
 そして、ぱたんと音を立てて愛理の背後で扉は閉じる。廊下にあるのは静寂だけだ。
「……ふう」
 その中で、小さく一つ溜息。
 これからのなにかを変えていくかもしれない、そんな今日の会話を思い起こしつつも、
とりあえずは。
「帰ろう」
 そう呟いて。
 足下に、もう不快ではない軋む音を、口元には小さな笑みを引き連れて。
 愛理はゆっくりと、柔らかな茜色の射し込む廊下を歩き出した――
2007年09月14日(金) 22:34:44 Modified by ID:LOVLpNCrSQ




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