IF23・Blue Sunshine


874 :Blue Sunshine:05/06/06 20:27 ID:PS/6o0Zo


 すっと通った鼻筋に前髪がかかり人差し指でそれを払った。部屋には発泡酒の空き缶が二つあったが
この部屋に誰と居る訳ではなく彼女が片付けたもので、リビングに広げられたポテトチップスの袋も空となっている。
彼女はポテトチップスを扱っていない方の手で長い髪の毛をかき上げると、床に転がり酒気を帯びて熱を持った頬を
床につけ、その冷やりとした固い感触を楽しむ。誰も居ないからこそできる事で、同居人の従姉弟には
とてもではないが見せる事などできなかった。

「はぁ、まったくこの世の天国というものだね。ポテチにビール。同居人は半分も家賃を納めてくれるし。
これでその同居人が料理の一つでもできればね、言う事無いのだが…」

 ポテチ分を補給しようと袋に手をやるが先程の一枚が最後だったようで、手首は空の袋の中でスナップをきかせるのみ。
しばらく目の前の空の袋と台所のテーブルの上にあるポテチの入っている袋を交互に見て、寝転がった体勢のまま
従姉弟が帰ってくるまで待とうとテレビへと顔を向けた。
 全く以って、だらけの化身のような彼女だったが、それも彼女の携帯が鳴るまでの事だった。長い間同じ体勢でいた事によって
すっかり痺れた手を、少し遠くに置いた携帯を取ろうとして起き上がる際の支えとして使ってしまった彼女は、うつ伏せになって
滑り込んだようになってしまっていた。携帯の着信音が部屋に響く中、丁度帰ってきた彼女の従姉弟である播磨拳児は、
リビングの床でヘッドスライディングを決めた格好の彼女を目撃してしまう。播磨が帰って来た事に気付き顔を上げた彼女と
それを発見した播磨はじっと見つめあい、播磨の爆笑でその夜の惨劇が幕を上げた。

「ぶわっはははー!! 何やってんだ、絃子ォ。最近食い過ぎだったからなー、ヨガかよ?」
「……!!」

 激しいBB弾の雨を受けてぐったりと大人しくなってしまった播磨は、先程の彼女と同じ様にうつ伏せになっていて、絃子は
彼の背中の上に座り足を組んで携帯の着信履歴に目をやっている。
 播磨はぶつぶつと文句を言いつつも強引に絃子を振り落とすことなくされるがままになっていて、絃子は無様な体勢を
見られた原因を作った相手へと回線を繋ぐ為に電話のマークのあるボタンを親指で強く押し込んでいった。




875 :Blue Sunshine:05/06/06 20:28 ID:PS/6o0Zo


 彼女の髪はご機嫌な気分と同じように浮かれている。ずんずんと進んで行く彼女を重々しい足取りで
付いて行く姿が二つあった。袖に花の刺繍のあるカッターシャツと黒のパンツの格好の絃子と、
白無地のカッターシャツにズボンの播磨は神妙な顔のまま彼女の後姿を見ていた。
 日曜の朝。
 空に広がる青空と同じく爽やかな顔の笹倉葉子と、まったく合わせる気の無い表情の従姉弟達がここに居る。
葉子のスカートは浮かれた足取り同様に左右に揺れていた。

「何でこんな事になってんだ絃子?」
「私に聞いてくれるな、拳児君。昔から葉子に敵わない事くらい知っているだろう?」
「けどよ、何で俺まで誘ってきたんだ?」
「葉子の考えることまで分からんよ。拳児君も来たくなければ来なくても良かったのだぞ」
「……絃子も同じ事言えるのかよ」
「言えんな」

 二人がそんな会話をしながら悩みの原因の後ろを歩いていくと、いつもと同じ駐車場の前で止まった。
絃子と播磨は、葉子が鍵を差し込んで開けようとしている乗用車を眺めながら違和感に包まれていた。どこか違う。
色も車体も同じように見えるが、どこまでも拭えない違和感。絃子は葉子の上機嫌な原因がそこにあるのではと予想し、
播磨はエンブレムに目がいった。
 葉子はニコニコとした顔で怪しがる従姉弟達を見ている。絃子に比べ薄い胸に手をやって「早く正解を教えてくださいなー」
と替え歌を歌っていたりする。

「まさかだと思うが……葉子」
「何です、絃子さん?」
「君はまた…」



876 :Blue Sunshine:05/06/06 20:28 ID:PS/6o0Zo

 播磨も絃子の言いたい事を察したようで、自分達人間とは違う生命体を見るような目で葉子を見ていた。

「車を換えたね」
「正解です、絃子さん。正解した絃子さんと拳児君には、私と一緒にドライブに行く権利が――」
「帰るか、絃子」
「そうだね。それと拳児君、さんをつけないか」

 息のあった従姉弟達のやり取りに臆することなく葉子は笑顔を止めない。絃子も播磨もそんな彼女の顔を見ずに
足早に駐車場から遠ざかろうとして、やはり彼女には勝てず、車に乗ってしまうのだった。
 


 信号停止のために止まった車の車内。絃子は助手席で、播磨は後部座席でわざとらしく欠伸をするが、葉子は
横断歩道を渡っている小学生に手を振ってやっていた。小学生は黄色の帽子をかぶって一生懸命歩いていて、
葉子の笑顔ににっこりと返してきた。

「ほらほら、絃子さん。手を振ってますよ、可愛いですねー」
「ああ、そうだね」

 投げやりに返してやりながらも小さく子供達に手を振ってやっている絃子は、どうやっても上手い事手の上で
踊らされてしまう長年来の親友に頭を悩ませていた。高校は同じで大学に入って別れてからも懐いてきて、
挙句の果てには同じ高校で教師をやっているのだ。休日には時々思いついたように遊びに誘われ、絃子は
特別言い訳も無く葉子に付いて行く。特定の男がいない事に対して何とも思ったことなど無いが、居ませんよ
と答える年齢でもないのだがなぁと考える事もあった。
 バックミラーに従姉弟である播磨の退屈そうな顔がある。絃子も葉子も同じようにクラスメートと遊んでくれば
いいのにと思ってみてから、彼にはそんな友達はいないのだろうなとも思い返してみる。基本的に一匹狼な
性格の彼が、自分から積極的に誰かと仲良く付き合う訳が無いのだ。日曜の午前中。車内から見た感じでは、
道を歩く人はまばらだった。



877 :Blue Sunshine:05/06/06 20:29 ID:PS/6o0Zo

「ねえ、拳児君」
「…ん? なんだよ、笹倉センセ」
「んもぅ、学校じゃないんだから葉子お姉ちゃんでいいのよ?」
「……」
「お昼も近いからどこかでお弁当でも買っていきましょうか。絃子さんも拳児君もそれでいいよね?」
「待て、葉子。君はこれからどこに行くんだい? それすらもまだ聞いていないのだが」

 葉子はハンドルを右手で持っていて、もう片方の手で膝の上に置いていた鞄を絃子に渡してくる。

「鞄の中に写真とカメラがあるでしょう」
「ああ、あるね。……下書きかい、これは?」
「新しく描いているんですけれど……これがなかなか難産なんですよ」
「……何を描いてんだ?」

 播磨が興味を示してくれた事が思いのほか葉子のツボにはまったらしく、声を上げた。

「あはっ、拳児君も興味あるんだ」
「…い、いや。別にキョーミって程じゃないんだけどよ」
「見たいなら……ほらっ」

 絃子は鞄ごと後部座席の播磨へ渡し、播磨は受け取った鞄の中を探ろうと手を突っ込む。

「あらあら拳児君。あんまり女性の鞄の中を詮索するものじゃないわよ?」
「まったくスケベだな、拳児君は。色気づいてきたか、このガキンチョも」

 播磨が真っ赤になって鞄を横の座席に投げる様を見て二人の姉があははと笑っている。してやられたと
思った時にはすで遅い事を昔から身をもって体験してきた播磨だったが、この時は美術教師のデッサンが
見られると思って油断をしていたのだった。



878 :Blue Sunshine:05/06/06 20:30 ID:PS/6o0Zo

「拳児君も大人になったんですねー絃子さん」
「まったく体ばかり大きくなってしまって、肝心の頭の方は入学当時の方がいいんじゃないのか?
私の努力を……まったく」
「うっ、うるせーな絃子!」

 播磨は窓を全開にして風を浴びて顔を冷やしている。そんな弟を見て、二人はケラケラと笑った。
葉子の新しく買い換えたらしい車は三人を乗せ日曜の矢神の街を走っていくのだった。



 夏の熱を失った寂しさを感じさせる風が葉を揺らしている。
 播磨が二人の姉の後を、お菓子やらサンドイッチやらジュースのペットボトルで一杯になっているビニル袋を
持って歩いていた。文句など言っても口で敵う訳も無い姉達に無駄な抵抗など見せず、従順な姿を見せて
着いて行っていた。
 三人がやってきた公園は中央に大きな池があって、その周りをウオーキングコースが囲んでいる。
ところどころ芝生が広がっていて、家族連れがボール遊びをしていたり恋人が手をつないで座っていたり、
休憩所のベンチには文庫本を読んでいる老人の姿が見える。
 教室くらいの広さの芝生の上で葉子が止まり絃子となにやら話している。播磨はようやく休めると、彼女達の
下まで早足で行った。

「この辺で食べましょうか」
「そうだな。拳児君、準備を」
「わーってる。ったく、人使いの荒い……」
「聞こえているよ。ちゃんとシートを敷き忘れないように」
「へいへい」

 播磨に指示を出す絃子。葉子は池の方へと顔を向けると日光に光る水面があった。芸術家の端くれでもある
葉子は堪らず鞄の中からデッサンの写真を取り出した。



879 :Blue Sunshine:05/06/06 20:30 ID:PS/6o0Zo

「何をやっているんだい?」
「ん……なんか違うんですよねー」

 葉子の言っている傍で用意を進めていた播磨も水面の方を見ている。「手が止まっているよ」
そう言いながらも絃子は袋の中からお菓子の袋を取り出していた。
 昼食の準備ができはしたが、三人はすぐに食べ始めなかった。播磨と絃子が池をバックに並んで
座らされているからだ。葉子は手帳ほどのサイズのノートにペンでざっくりとしたデッサンを取っている。
風が吹き絃子と葉子の長い髪が揺れて、播磨はサングラス越しにそんな二人を見ている。従姉弟である
自分から見ても絃子は美人であるし、葉子も絃子と同じ位の女性であると播磨は考えた。

「はーい、いいですよー。お疲れ様でした」
「……どうした、拳児君」

 コンビニで買った小さなシートの上に広げられた軽食に手をやる絃子は、腹が減っているのだろうと
卵サンドの袋を投げてくる。葉子からお茶のペットボトルを渡された播磨は思いっきり足を伸ばして
芝生の上に投げ出した。葉子も同じように伸ばすが、どこか格好がつかない。絃子は犬の散歩をしている
お婆さんを見ていて、葉子は二人の様子を見て微笑んでいる。
 風は冷たくも無く熱くも無く公園に植えられた木々を揺らしていて、色が変わろうとしている葉はさわさわと
歌っていた。あちらこちらから話し声が聞こえてくるが、それは不快ではなく、公園に流れる自然の音楽の一部
として播磨達に受け止められた。

 小さなシート一杯に広げられた軽食も葉子が片付けてしまい、ビニル袋の中に押し込められていた。満腹には程遠い
物足りなさと昼食自体の満足感の中でゆっくりと時間が過ぎていく。絃子も葉子も播磨も特にこれと言って
話すことなど無かったが、無理に話す事が必要なのではない。
 ごろんと寝転んだ播磨を見て絃子も葉子も続く。一つ二つと薄い雲が漂っていて、夏の色を残した空が青かった。
日差しは強くなく僅かに肌を焼くのみ。三人はしばらくの間、そんなゆっくりとした時間に身を委ねるのだった。



880 :Blue Sunshine:05/06/06 20:31 ID:PS/6o0Zo

「いいですねぇ、こういうのも」
「……ああ」
「忘れてしまいますねぇ、日頃の嫌な事も」
「君にあるのかい、嫌な事なんて」
「ありますよ、たっくさん。誰も言いませんよ、相手まで嫌な気分にさせてしまいますから」
「顔に出す者もいるけどね」
「いろんな人がいますから。拳児君は、どう?」
「どうって、何が」
「嫌な事、悩み事があったら聞いてあげるわよ?」
「別に……ねーべ。相談したってしょうがない事だしよ」

 絃子も葉子も黙ったままでいて、播磨は寝転んだまま腕を頭の方にやり、足を組んだ格好で空を
見上げている。どこかで鳥が飛び立つ音がしたが、それは遠く、池の対岸の方からだろうか。その鳥は
絃子の目には見えなかった。



 絃子と共に住んでいるマンションの前で播磨は車を降りた。
 慎ましい努力の甲斐も無く、財布の中は一足早く冬に入っているのだから仕方が無い。公園近くの駅で
車を無理やり降りた播磨が切符を買おうとした瞬間、切符代で何日間の昼飯が食べられるのかと思い返し、
播磨は財布とプライドとで三者会談を開き、悩んだ末に財布と結託しプライドを打ち倒したのだ。
 絃子も葉子も車を発進させずに播磨が悩んでいる姿を酒の肴にして昔話に花を咲かせていて、恥ずかしげに
帰ってきた播磨を拍手で迎えた。播磨はこの姉達に対して、また一つ逆らえない手札を与えてしまった事に
すっかりいじけてしまっていた。



881 :Blue Sunshine:05/06/06 20:32 ID:PS/6o0Zo

「今日は付き合ってくれてありがとう。バイト頑張ってね」
「家賃のためだ拳児君。私も応援しているよー」
「うっせえな、早く行けよ!!」
「……怪我や事故には気をつけるのよ?」
「おう、分かった」

 車のサイドミラーに映る播磨がどんどん小さくなっていく。車内にはラジオが流れていて、渋滞情報の
時間らしくこれから入っていこうとしている道が渋滞になっていると教えてくれている。そのまま裏通りへと
ハンドルを切りながら葉子は鼻歌を歌っていた。

「夜はどこで食べましょうか?」
「任せるよ。それに聞きたい事があるのだが」
「何でしょう、絃子さん」

 歩行者と車の通るタイミングがずれている信号で車を止めるとラジオは次のコーナーに入っていて、DJがやたらと
早口で喋っている。葉子の趣味ではない車内のインテリアに絃子は鼻を鳴らした。車からやけに柔らかな感じを受けたのだ。

「この車は本当に買ったのかい? 葉子にしてはずいぶん大人しいものじゃないか」
「これ、私のじゃないんです。少し事故っちゃって、今は修理に」
「事故か、葉子らしくないな」
「私だけしっかりしていても事故は起こるものですよ。向こうが不注意だったみたいで、すごく謝ってくれたんですけど…。
しっかりと警察に届けさせてもらいました」
「それがいい。個人でやると後々不安だからね。しかし……なるほど、他人の車に乗せれば君は大人しくなるんだね」

 信号機はなかなか青に変わらず、歩行者のいない横断歩道を目の前にしていた。



882 :Blue Sunshine:05/06/06 20:32 ID:PS/6o0Zo

「あーそういえば、よく言われたなぁ。葉子さんを独り占めにしないでくださいって」
「なんです、それ」
「葉子は人気があったと言ったろ? 私はお邪魔虫だったんだよ」
「そんな事無いですよ、絃子さん。子供には判らないんです、絃子さんの魅力は」
「結婚式の時も、結局は学生のノリで。どれだけ大人のフリをしてもそんなものだと思ったよ」
「私達も子供だって言うんですか?」
「子供がどうやって大人になると思うんだ…私には分からないよ。私らよりずっと年上の人間でも子供だと
思うことはあるし、生徒の中にも大人だなと思うヤツもいる」
「拳児君は大人になっていっていると思いますよ、私は」
「どんな所がそう思わせるんだい? あれは子供も子供だと思うのだが」

 信号がようやく青に変わり、葉子は慣れない感触のアクセルを踏んだ。ラジオはNHKに替えてあって、
クラシックがかかっている。ラジオの司会者は『序奏、主題と変奏』とか何だと説明しているが、ただ聞き流している
二人には関係が無かった。

「子供だっていつかは大人になるって、そう思っているわけじゃないんです。私は美術教師として生徒の絵を
見ていますけれど、上手い下手ではないんですよ見ている所は。まあ、成績を出す際には点数をつけないといけませんけれど」
「その点物理は単純なものだ。マルかバツか、それしかない」
「私は理系に明るくないので分からないですけど、絵にはその子の生きてきた歴史が反映されるんです。テーマが
単純であればあるほどに。塚本さんっているでしょう、絃子さんのクラスの。あの子と二年のお姉さんの絵、対称的なんです。
太陽と月のように。別にそれが悲劇的だなんて思いません。そんな風に表現した下地があるって事なんです。
私が言いたいのは。拳児君だって何時までも子供のような絵を描いている訳じゃないんですよ。自分の想いを込めたものを
私に見せてくれます。それが、妙に嬉しいんです」

「……彼なりに頑張っているのかもね。とても叶うような恋愛ではないように思えるが、私には」
「諦める事が大人だという訳ではないですよ。一つだけを追っかけているなんて彼らしいし。要領のいい、クールな
拳児君だなんて想像つきませんもの」



883 :Blue Sunshine:05/06/06 20:33 ID:PS/6o0Zo

「まったくだ。ああやって、馬鹿なりに突っ走っているというのも大人の一つの形なのかもな」
「ふふっ。私達がおねーさんなのに、教えられてしまいましたね」
「親だって子供と共に成長するものだと聞く。何もかも私達の方が知っていて優っているという訳ではないさ。
もちろん追い抜かせるつもりも無いがな」
「けど、拳児君の方が先に結婚しちゃったりしてー?」
「あははっ。子供も作っちゃうかもしれないな!」
「やだぁ、絃子さんったら不潔っ」
「あんまり笑わせるな葉子! この、カマトトぶりやがって!」

 対向車の運転手の若い男は笑い転げている二人を見てぎょっとした顔で通り過ぎていって、それを
気にすることなく渋滞を避けた車は並木道の通りを気持ちよく走っていく。
 涙が出るほど笑いあって、ラジオの曲も聞こえなかった。絃子は睫についた涙を手の甲で拭う。
夕方にはまだ遠く、昼間のような青空かといえばそうでもない。時間もどっちつかずの曖昧でいて、しかし二人は
気にも留めずにドライブを楽しんでいた。


「……家に戻るぞ、葉子」
「どうしてです? 美味しいお店、見つけておいたんですけど」
「また別の日に行けばいいさ、拳児君も連れて。今日は私の家で飲むぞ。明日は二限しか授業無いし」
「私は三限もあるんですよ。絃子さんはずるいでーす」
「ずるいも何も時間割に行ってくれよ、そんな事は。ほらほら、コンビニに寄って帰るぞ」
「絃子さんが負けたら、だらしなーい姿をスケッチしてあげますから」
「そういう事は勝ってから言うんだね。まあ私が勝つに決まっているが。…そうだ、負けた方が全払いにしよう。
あのゴチになりますってヤツ」
「飲み比べなんて、いつやったかしらー」
「結婚式の時やったろ? アレは、男が弱かったけどさ」
「ちょっとお冷を頂いただけなのに……お酒ダメな人達なのかしら?」
「自分に酔ったんだろ、きっと。そういえば拳児君も弱いな」
「酔わせるほどの男になったりして!」
「ならないよ、アレは。好きな女からキスでもされたら、爆発して死んでしまうよ!」



884 :Blue Sunshine:05/06/06 20:34 ID:PS/6o0Zo

「爆発って、そんな事。ふふふっ、お腹が……イタイ」
「しっかり運転してくれ。借り物だろう、この車は」
「ちょっと脇に止めますね。あはははっ。あー、お腹が痛い」
「葉子っ、笑いすぎだよ。拳児君に失礼だろう……あははっ」



 結局何とか家まで戻った絃子達は、疲れ果てた体をリビングの床に投げ出した。一度つぼに入った笑いは
なかなか取れず、浮かれた気分のまま左手でビールを煽り右手で甘栗をパクつく。テレビもつけずに
ひたすら昔の話に明け暮れて空き缶の数を増やしていった。
 ようやく帰ってきた播磨はバイトの疲れをとる事も許されず、絡まれてしまう。少しだからと飲まされた
最初の一缶で酔ってしまった播磨から天満への思いを根掘り葉掘り聞き出し、これはいい酒の肴が
出来たモノだと二人はペースを上げて残りの缶ビールを開けていくのだった。
 ふと葉子が目を覚ますとリビングの明かりも落ちていた。自分や播磨の体には毛布がかけられていて、
リビングには残り一人の姿が見えなかった。葉子は皺にならないようにと畳んで脇に寄せていた上着を
肩にかけると、開いたカーテンと窓の向こう、ベランダへと歩いていく。
 ベランダにはすでに先客がいて、葉子を迎える。長年来の親友達は並んで夜が明ける様を見ていた。
 空は黒く、そして頭を出した陽に向かってミッドナイトブルーからバーミエアーへと色を明るくしていった。
青のグラデーションは刻々と変わっていって思わず魅入られてしまうようである。絃子も葉子もそうしていると
欠伸をしながら彼女達の弟もやってきた。

「何やってんだ、朝っぱらから……」

 その言葉の途中で播磨も朝日が昇り始める様を見た。播磨は葉子と違い詳しく技法や知識を
習った訳でもない漫画描きなれど、その風景に心を奪われる。昨日の葉子の言葉が絃子の中で思い返され、
その裏付けるような様子に素直に感心した。

「綺麗ね、拳児君」
「ああ、そうだな」



885 :Blue Sunshine:05/06/06 20:34 ID:PS/6o0Zo

「こういう感動が解る様になったんだね、嬉しいよ拳児君」
「大人に近づいたのかなー?」
「子供だ、葉子。拳児君はこんなものだよ」
「いちいち棒読みするくらいなら、初めから言うな!」
「あははっ。二人とも子供なんだからー」
「一緒にするな!」

 口を揃えた播磨と絃子は気分が悪そうに咳をした。
 いっそう陽は昇り、空はこのまま真っ白になってしまうのではないかと三人に思わせた。

「で、なんだよ。その……大人とか子供とかってよ」
「拳児君は私達のこと大人だって思う?」
「そりゃあ、まぁ」
「自分の事は?」
「……ワカンネェよ」
「私も絃子さんも分からないよ、自分が大人だなんて事」
「別に分かったから大人って訳でもないし、分からないから大人じゃないって事も無いがね」
「この空のグラデーションみたいなのかもね、案外。いつまでもその色を保てる訳じゃなく、
気がついたら同じ色に戻っていたりしていて。見上げる場所が違えばその色もまた違うし」
「……シャワー浴びてくる。むずかしー事考えたら頭が痛くなっちまった」

 そう言ってさっさと話を切り上げた播磨が部屋の中に入っていく。
 葉子はマンションから見える景色全てに陽の光が落ちていく様を眺めていた。絃子は光線の屈折によって
色が変わっていくのを知っていた。二人が空の青さについて考える内容は決して相容れぬものではなかった。
しかし長年にわたって培われた理解はそれを越えていく。

「こうやって何時までもいられるのかな」
「分からないよ。結婚で変わるかもしれないしなァ。葉子の天然も」
「それより、拳児君が包容力のある男になっているかもしれませんよ?」



886 :Blue Sunshine:05/06/06 20:36 ID:PS/6o0Zo

 二人は笑い声をかみ殺しながらを見ると朝のランニングをしている学生がいた。隣のマンションにも
明かりが灯り始めている。信号で止まっているのは新聞配達のバイクだろうか。すでに矢神の街が
動き始めていた。
 昨日ほどの濃さも無い青空が現れていた。絃子も葉子も大きく欠伸をする。二人の中にこのまま部屋に
戻ってしまうのは勿体無いという気持ちと、早く入って支度をしないといけないといった気持ちとが交錯する。

「…準備をするかなぁ。葉子は帰って着替えて来ないといけないだろう?」
「そうですね。それじゃあ、また学校で」
「私らも結局のところ、何も分かっていないんだな」
「いいんですよ、きっとそれで。絃子さんがいて、拳児君がいて。何時でもそこにいるのに、忘れやすいんですね、私達」

 葉子は両手の親指と人差し指で枠を作り朝の空を切り取り、絃子もそれに習って同じようにやってみる。

「また思い出せばいいさ。けれど…あいつの従姉弟をやるのも骨が折れるんだが」
「でも、嫌じゃないから一緒に住んでいるんでしょ?」
「そうだといいがね」
「またー照れちゃって!」
「あー、そーだよ。照れてるよ!」
「あははっ」

 葉子は手早く荷物をまとめると玄関へと向かった。シャワーを浴びて湯気の上がる拳児とその隣に絃子が並んで
立ってそれを見送る。「それじゃあ、学校でね」と言うと、葉子は振り返ることなく出て行ってしまった。

「なんか飲むか?」
「コーヒー入れておいてくれ。シャワー浴びてくるから」
「笹倉センセ、間に合うのか?」
「今日の一限、授業なんだろ拳児君は。間に合えば居るし、間に合わなかったら居ないよ」
「そーだな」



887 :Blue Sunshine:05/06/06 20:37 ID:PS/6o0Zo

「何か上に着たまえ。風邪引くよ」
「うるせぇな。着ればいいんだろーが」

 そのまま播磨は自分の部屋に戻り、絃子はシャワーへと向かった。いつもと変わらない風景だった。


 一階の駐車場へ降りてみると、思ったより陽は昇っていなかった。代わりに使ってくれと言われた車は
一晩中葉子を待ち、それに近づくと昨日と変らずに違和感を与えてくるが構わずに鍵を差し込む。葉子は開けたドアを
軽く開けたり閉じたりして遊んでみた。
 絃子の住んでいる部屋のベランダを見上げてみて、そこにいた自分を思い返してみる。車が小さく震えた気がして
葉子はドアから手を離し、鞄を助手席にやった。

「急かさないで。分かっているわ、遅れちゃうものね」

 走り出した車は、まだ仕事に向かう車で賑わう前の道路を行く。事故にあった現実は無くならないけど
怪我も無かったし、お金も保険でなんとかなるし。そう考えると、急に思った通りに動いてくれるようになった車と
同じように心も軽快になっていった。
 他に友人がいないわけではない。それでも絃子と播磨を選んだ事は良い判断だと葉子は思った。
ラジオは朝の渋滞を知らせていて、葉子が今通ってきた道は渋滞が起きているらしかった。ハンドルを一度叩いてやって
ありがとうと労いの言葉をかけると、それに答えるように車は進んでいく。
 ラジオが言うには今日は一日晴れらしい。天気が崩れる事は無いだろう、と。
 葉子は水面に使う青の色が決まらなかったのだが、今の空の色にしようと思った。播磨が昨日やっていたように
窓を全開にすると風が思いっきり吹きつける。髪が乱れるのかもしれないが、それでも良かった。
 水面の色について美術家の頭では、相応しくないのではないのかと疑問を呈してくるが、それが一番なのだと思ったのだ。
 違うのならいくらでも変えればいい。目の前の大きなパレットには無限の色彩が広がっている。
 そこには絃子と播磨と共に見た空が広がっていた。



 END
2007年09月15日(土) 14:23:13 Modified by ID:LOVLpNCrSQ




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