IF23・nature and nurture

777 :nature and nurture:05/05/30 19:29 ID:ZZtKChDE

 その日、この広々とした大きな退屈な屋敷に変化がおきていた。
朝から使用人たちが慌しく動いていて、私は自分の髪を梳いてくれるメイドに尋ねようとしたのだが、
それでは面白くない。これから大きくなる予定の体を精一杯動かして、この慌しさの原因を突き止めることにしたのだ。



 使用人たちの部屋はすでに誰も居なくなっていて、閑散として広々とした部屋の様子があった。
いつも遊んでいるメイドもいない。共用の化粧台の椅子の蓋が開いていて、その隙間から
メイド達が衣類のほつれに使う裁縫箱が見え隠れしている。
 私も、私のお母様も裁縫は苦手である。
 学校で裁縫の時間が来るのが、唯一憂鬱になる時間だ。家ではメイドが全てやってくれるから
習っていてもしょうがないのだが、お母様は自分の事を棚に上げては私にこう言ってくるのである。

「いい? 好きな人のジャージくらい縫えないとね」

 お母様の言葉に私が、「お母様は縫えたの?」って聞くと決まって、「ええ、もちろんよ。綺麗に縫えたわ」って。
 私は知っているもの、お母様は裁縫が苦手だって。
 ナカムラは私が引き下がらないものだから、「いいですかな、お嬢様。愛理様にはこのナカムラめが言ったとは……」
とか言って教えてくれたもの。ナカムラも結局言うのなら始めから教えてくれればいいのに。

 私がそんなことを思い返していると大きな鏡のあるダンスホールにやってきていた。
 自分の家だもの、目をつぶったって走り回れるわ。
 鏡の前に立ち、服に乱れが無いかチェックする。こういう普段からの身だしなみが大切だっておじい様から言われるけれど、
それには私も頷くしかない。私は、自分で自分が美しく整った顔立ちとスタイルをしていると思っている。
 それにこの美しさはお母様が私にくれたものだもの。当然といえば、当然よね。



778 :nature and nurture:05/05/30 19:31 ID:ZZtKChDE


 私にお父様は、いない。


 そうお母様は仰っていた。
 悲しそうに、そしてそれを私に知られないように。
 お母様は美しいと思う。子供の私から見ても、時々この人の子供なのかしらと思う時がある。
昔の写真を眺めている時の、遠く日本という国の方角の空を眺めている時の横顔。
肖像画の中のお母様は優しく微笑んでいるが、本当の実体あるお母様のお顔には敵わない。
私はよく色々な人に『お母様にそっくりだね』だと言われるが、それはおかしい。
だって私はまだ、お母様ほど背も高くないし、手足も長くない。髪の色と顔の造形が同じくらいだ。

「瞳は、お父様の……」

 鏡に近づいてじっと自分の瞳を見る。
私の瞳の色はお父様譲りの黒。お母様の愛した、ただ一人の男性。
今でもお母様にはたくさんの男に言い寄られているし、私が始めてパーティーに出席した時には、
私がいるにも関わらずお母様を口説いてきた男もいたほどだ。
 もちろん、お母様はそんな男に引っかかるような女性ではないので、お母様なりの丁重なお断りを入れていたけれど。
 お母様のお父様に対する愛情は美しいとは思う。けれど、私を産んでもまだ美しく若いお母様は素敵な人を
探せばいいのではないか、そう思う事が度々ある。
 おじい様が帰っていくのを見送る時、昔のお友達が尋ねてきた時、お母様の何ともいえないような寂しそうな笑顔を見ると、
思わず抱きしめてあげたくなってしまう。
 そんな顔をしないで、お母様!
 何度、そう心の中で叫んだだろう。
 この瞳はお父様の残してくれた大切なモノで、お母様を苦しめる嫌なモノでもあった。



779 :nature and nurture:05/05/30 19:31 ID:ZZtKChDE


「如何なされました、お嬢様」

 ナカムラが遠くに見える。すでに私は食堂までやってきていた。
 ナカムラは、お母様が日本のハイスクールに通う前から仕えている有能な執事なの。
少し怪しいのが惜しまれるけれど、私もお母様もナカムラの事は好きだわ。
 背の高いナカムラはわざわざ膝をついて私の目線に合わせてくれる。クラスメートの男子達は
この気配りが無いのよね。私を一人前のレディーとして扱ってくれるナカムラだからこそ、私も気が許せるもの。

「何かあったの?」
「はて、何のことでしょうかな」

 知らんフリの下手なナカムラの耳元に口を当ててこう言ってやったわ。「ありがとう。または乾草を」って。
ナカムラは不意をつかれたのか鳩が豆鉄砲を食らったような顔でいて、その表情を緩めていった。

「参りましたなぁ。……では、お茶の時間と致しましょう」
「ええ、ちゃんと話してよね」
「あい分かっております」

 ナカムラの前を、胸を張って歩く。
 中村のコンパスの方が長いのだけれど、私もナカムラもそれが当然なのだから、この規律が変わる事は無い。
私が前を歩いて、ナカムラは私の後ろを歩く。コレはお客様がいらっしゃった時、
私が外へ出かける時はナカムラが前を歩くのだけれどね。



780 :nature and nurture:05/05/30 19:32 ID:ZZtKChDE

 そうこう言っている内に長いテーブルのある部屋へとやってきた。
ここは私とお母様、時々いらっしゃったおじい様と一緒に食事をする時だけに使うテーブルなの。
私が椅子に座ってナカムラは私の横に立ってお茶を入れている。
「いい香りね」そう感想を述べると何も言わずに私の前にカップを置いた。

「愛理様がお取り寄せになったものです。何でもご学友であった高野様からの勧めらしいのですが。
お気に召されたのなら愛理様もお喜びになられます」
「どうして?」
「愛理様はお嬢様のためにお取り寄せになったのですから」

 じっとカップに揺れている自分の顔を見ていると、胸の奥が暖かくなっていくようだ。
私はゆっくり味わってこの一杯の紅茶を飲み干した。

「それで、何で慌しいの?」
「はい、それではお話いたしましょうか」

 ナカムラは眼帯を少しあげてハンカチで拭くと、私に向かって穏やかな口調で話し始めた。


「お嬢様。お嬢様は愛理様のお相手。つまりお嬢様のお父様について何か知っておいででしょうかな?」
「いいえ。お父様は、ただ……死んでしまわれたと」
「愛理様は今でもお父様を愛しておいでだと?」
「……怒るわよ、お母様を侮辱するのなら」
「私は反対でございました。愛理様とあのお方が結ばれるのは」



781 :nature and nurture:05/05/30 19:32 ID:ZZtKChDE

「……」
「お嬢様のおじい様とおばあ様は、イギリス人と日本人でございました。
愛理様はなかなかおじい様とお会いになるチャンスがなく、寂しい思いをされていらっしゃいました。
日本の高校へと行かれる様になられた頃からでしょうか、愛理様はご学友の中から今でも親交のある
御友達を手に入れたのです。周防様。高野様、塚本様。愛理様はこの御三方の前では本来のご自分を出す事ができ、
私も嬉しく思っておりました」
「晶さんや美琴さんはともかく、天満さんとお母様は合わない気もするけれど」
「ああいうお方こそが一番必要とされるのですよ、お嬢様。まあ、お嬢様の仰る事も分かりますけれども」
「とにかく、話を続けて!」
「はい。高校生活を過ごされるうちに一人の男性をお嬢様は気になり始めました」
「それがお父様?」
「そうでございます。なんと言ってよいのか分かりませんが、とにかく真っ直ぐなお方でございました」
「真っ直ぐ……」
「何事にも。ご自分の夢にも、お嬢様の事にも……」

 ナカムラは再びカップに紅茶を注ぐと私の方へとやってきた。

「いらないわ、それより……」
「お嬢様、喉が渇いておいででしょう?」
「……! どうして……」
「お口を開けておいででしたもので。乾燥しておりますからな、近頃は」

 恥ずかしさなど無かった。ナカムラは私の執事なのだ。裸を見せても恥ずかしくは無い。
私と同じ世界に生きる者ではないのだ。何の感情が起こるものか。
 そのままぐっと一気に飲み干すと、私はナカムラに催促の視線を送った。



782 :nature and nurture:05/05/30 19:33 ID:ZZtKChDE

「お嬢様のお父様は愛理様と一緒に住むつもりでおられたようですが、
高校を卒業したばかりのお父様には荷が重かったのでしょうな。無理をなされて体を壊されてしまって。
おじい様は、愛理様とすでにお腹の中におられたお嬢様を連れてここへとお戻りになられました。
すでにお腹も大きくなられておられた愛理様にもしもの事があってはならないと、そうお考えになられたのです。
おじい様はそれから、愛理様とお父様が連絡を取り合うことを禁止なされました。
大事な一人娘を奪って行かれたのですからな。愛理様の心も体も」
「……お父様は、悪い人だったの? パーティーにいるような、そんな人だったの?」
「いいえ、男性としても魅力的なお方でございましたよ。ただ、夢ばかりでは生活がなっていくはずもございません。
清貧という言葉がございますが、それは生活が成り立っていて始めて使うことのできる言葉ですから。
愛理様もおじい様からの申し出にも応えようとせず、お二人はひたすらに働かれていたようでした」
「ナカムラはどうししていたのよ」
「私めはお嬢様のお傍にはおりませんでした。お嬢様とお父様と三人で話しをして、そのようにしたのです。
また、若いお二人のお邪魔になるのも悪いと思いまして」
「……そして、私が生まれたって事ね」
「お嬢様が愛理様の生き写しのように成長なされていって、おじい様もお喜びになられております。
写真に撮ってみれば、複写したのかと思わせるほどでございますから、お嬢様と愛理様は」
「悪い気はしないわ。お母様の事は好きだもの。あんな女性になれたらって思っているわ」
「なれますとも。私めが保証いたします」
「別にナカムラの保証をもらったって何が変わるという訳ではないわ」
「これは厳しいですな」
「それで、この慌しさは何なの? 私はそれが聞きたかったのだけれど」

 ここで言いくるめられればいつもと同じではないか。私は多少苛立ちを含んだ言い方で命令した。
この行為がものすごく格好の悪い事だというのは分かっていたが、何故か私は聞いておかなければならない事だと、そう思ったのだ。



783 :nature and nurture:05/05/30 19:34 ID:ZZtKChDE


「言いなさい。なぜこんな事になっているのか」


 私の決意の変わり様も無い顔を見て、ナカムラは一息休みを入れた。ナカムラが
ポットの中の葉をスプーンで少しかき回して、葉を捨てやすくしているのをじっと見ていた。
我ながら子供っぽいと感じてしまうのだが、ナカムラは観念したように私のほうを向いて、膝まついて、
「愛理様からの言いつけでございましたが……。愛理様、申し訳ございません」
 私は勝利の美酒に酔うレーサーの如く、ナカムラの懺悔を心地よく聞いていた。私に解けない謎などあろうものか。
次のナカムラの言葉が出るまでの僅かの間、私はそれまでの私の世界で高らかに笑い声を上げていたのだ。


「今夜、いらっしゃいます。お嬢様の……お父様が」


 そして新しい私の道が出来上がっていくのを、この目ははっきりと見ていた。それは今まで感じた事の無い、
体の芯から凍えるような、沸騰するような、激しい興奮と絶望と、地響きの音と福音と。全てのものが壊れて、
新しい私の為にそれらが復元していくのが分かった。
 10年間もの私の人生は霧散していき、この時から私を取り巻く全てのものがまったく変わってしまったのだ。



784 :nature and nurture:05/05/30 19:35 ID:ZZtKChDE


 すでに夜も十一時を過ぎていた。ナカムラがお父様という男を迎えに行って、すでに四時間以上が経っている。
近くの駅ならば三十分もあれば余裕を持って往復できるのだし、空港ならば二時間が標準的なタイムだろうか。
 私はお母様の部屋の横、ウォーキングクローゼットの中に潜みこんでいた。二十畳近くあるらしいクローゼットには
色とりどりのドレスや靴やバッグがあるのだが、お母様の部屋から入ってくる光だけがあるのみなので、
暗々としていて良く分からない。明日も変わらずに授業があるのだから、さっさとこんな馬鹿げた事を終わらせてしまいたかった。
 お母様はじっと窓の外を見ている。日が落ちる前からだから、もう五・六時間になるのかと、指折り数えてみた。
お父様はこの世には居ないと仰っていたじゃない。私はまったく納得がいかないままでいて、だからこそこの様な
馬鹿らしい行為にまで手を染めたわけである。

「早く……。ナカムラ、早く帰ってきてよ」

 私は暗くて寒くて心細くて、そんなことを呟いていたりした。



ぼーん。ぼーん。



 十二時を告げる音が鳴っているのが聞こえてきた。何も音を発するものの無いお母様の部屋にそんな音がやって来て、
うとうとと仕掛けていた私は慌てて目を覚ました。
少しの惰眠が良かったのか、先程までよりも頭の中がはっきりと明瞭になっていると感じられた。



785 :nature and nurture:05/05/30 19:36 ID:ZZtKChDE


「あっ……」


 短い叫び。
 本当に短い叫びだった。
 はっきりとした頭でなければ分からない、そんな呟きだった。

 私は少しだけ開いたクローゼットの隙間から注意深く部屋の中を見ていると、お母様の様子が
慌しくなっていくのがありありと見て取れた。その様子は私達の年代と代わらないほどにキュートで、
改めてお母様に対する思いを改めたほどだ。化粧台の方に行ってはアクセサリーを選んでみたり、
髪を整えてみたり、服のしわを一生懸命伸ばしていたりする。どれだけの時間があったのだろうか。
その間に準備できたのではないのか。私はそんな思いと、お母様の知らない一面を知った事とあって、
お父様と言うらしい男の事は最早どうでもよくなってきていた。
 これほどお母様が取り乱す相手なのだ。よほど素晴らしい人なのだろう。私は少しだけ不安が取り除かれて、
クローゼットの隙間を大きくしていった。


コンコン…。


 ドアをノックする音とお母様が息をのむ音。 
 私も身を乗り出すようにして、お父様だと名乗る男の登場を待った。

「はい」

「愛理様、お連れ致しました」



786 :nature and nurture:05/05/30 19:36 ID:ZZtKChDE


「入って頂戴」

 お母様のお顔が緊張しているのが分かる。
 私も握りしめた左の手がうっすらと汗をかいていることに気付いていた。
 どんな人なのだろう。私の中でお父様だと名乗る男は、まるっきりその姿を変えていた。
お母様を騙そうとする悪い男というものから、お母様をこれほど惹きつけてしまう素敵な男性に。
きっと立派な紳士に違いない。日本で成功したからお母様を迎えに来たに違いない。私の頭の中では、
すでにお父様を何て呼ぼうかといった会議まで開かれていたのだ。

「はっ」



 ガチャリ……。



 金属の擦れ合う音と共にドアが開いていく。私の見ている範囲では分からないのだが、お母様が
顔色を変えていくのと、頭にあるこの部屋のつくりによってわかる事なのだ。
 お母様は驚いたような不思議なものを見るような顔をして、そして男へと抱きついていった。私のいる所から、
男の後姿が辛うじて見える。安物のスーツを着て、靴もそれほどいいものではない。お母様を
すっぽり包み込むほどの背の高さだけがとりえの様なこの男に、私はすっかり落ち込んでいた。
おじい様のとった行動は正しい。正義の行動でしかない。私はこの男の後姿を睨みつけていた。
 いや、待てよ。私は呪い殺さんばかりの視線を止めて、考えを改めてみる。この男はきっと偽者なのだ。
お父様はやはり死んでしまって、この男はお父様に化けてこの家の財産を奪いに来た悪人なのだ、と。
 それならばこの悪人からお母様を取り返さなければならない。私の近くの棚にあった高い所のドレスを
取るための棒を持つと、勢いよくクローゼットから飛び出していくのだった。



787 :nature and nurture:05/05/30 19:37 ID:ZZtKChDE


「お母様を放して!!」


 私の叫びに男はお母様を抱いたままゆっくりと振り返る。お母様は酷く驚いているようで
声すら出ていないようだ。ナカムラもこの男に騙されているようで動こうとしない。

「聞こえないの? お母様を放して!」

 私は震える手を何とか止めようとするけど、誰かに向かって暴力を働こうとも思った事も無く、
どうしていいのか分からない。しかし、お母様の顔に隠れていた男の顔は何故か冷静に見ることができた。
男はサングラスをしていて、私にはその感情を知る事はできない。男はお母様を解放して私と向かい合った。
横にいるお母様は私に何か言いたそうだったけれど、男が制すると押し黙ってしまう。
この男の一切の行動が、私の神経に触れてくる。

「おい、こいつは……もしかして」
「ええ、そうよ」

 男とお母様のやり取りは、一瞬誰の話題なのか分からなかった。それが私の事だと気がついた時には、
男の姿は私の視界一杯に迫ってきていたのだった。助けて、お母様。そう言いたいのに、言えない。
それは男の手が伸びてきて、私の腰を掴んで持ち上げたから。

「ひゃっ……」

 声が出たというより、漏れ出していった。



788 :nature and nurture:05/05/30 19:38 ID:ZZtKChDE

 私は男に抱えあげられてしまったのだ。男の腕を椅子にするようにして抱えられ、
子供のように扱われた。不思議と恐怖はなく、それよりも変にしっくりきてしまうその体勢に驚いていた。
私はこの男の腕に収まっている。ぴったりと。お母様が抱きしめられていたこの腕に。
知らず知らずの内に私は、この男を食い入るように見つめてしまっていた。お母様はくすくすと笑っていて、
ナカムラはドアを閉めて部屋を出て行ってしまった。

「でかくなったな、お前。ま、俺も写真でしか見てねえんだけどよ」


「……え?」


「あなたの写真送っていたのよ、この人に」
「…けど、おじい様に禁じられているって」
「……ナカムラ、それで逃げたわね。時々友達が訪ねてきていたでしょ。その時に―――」
「届けてもらってたわけだ。仕方ねえわな、俺も稼げなかったしな」
「ホントよ! 私を幸せにしなさいよって、言ったのに!」
「待てよ、お嬢が押し掛けて来たんだろ?」
「だいたいねぇ、あんたがさっさと売れる漫画を描いてればこんな事には……」
「しょっちゅう台所を散らかして、わんわん泣いてたのはどこのどいつだぁ?」
「ちょっ、あんたねぇ!」
「何だよ!」

 私はそんなやり取りをただ見ていた。何も言えなかった。だって、お母様は私の知らないような言葉使いで
この男の人と喋っているし、男の人に関しては私の頭の図書館に登録すらされていない。お母様の影響で日本語を習ってはいたが、
それは学校での話だ。私は意味が分からずに、けれど楽しそうに話す二人の様子に嬉しくなってしまっていた。



789 :nature and nurture:05/05/30 19:39 ID:ZZtKChDE

「ん、どうした?」
「どうしたの?」

 私の左右からお母様とお父様が見てくれている。泣き出さないように精一杯の笑顔で私はいた。

「……それ」

 私がサングラスを指差すと、お父様は不思議そうにしている。「それを外しなさいって言ってるのよ。まだそれを
していたなんて、私がまだ気にしていると思ってるの? 臆病な男ね」お母様の言葉にお父様は反論しているが、
私には何を言っているのか分からない。
 しぶしぶといった様子でサングラスを外すと、私と同じ真っ黒の瞳が出てきた。
その瞬間、ずっと嫌いだった自分の瞳の色が気にならなくなって、それよりもこの世で一番好きなものになった。
私の顔がお父様の瞳の中にあって、私を見ている。吸い込まれそうになるほどに真っ黒で、そんな瞳で私を見てくる。

「…どーした?」
「お父様、あのね……」

 もっと近くで私を見てもらたくて、顔を寄せてもらう。お母様は私とお父様を見守っていてくれて。でも、ごめんなさい、お母様。



 チュッ。



 お父様の唇に私の唇が触れた、それだけのキス。
 私の気持ちを精一杯込めた、キス。
 親子になるための、私からの誓いのキス。



790 :nature and nurture:05/05/30 19:40 ID:ZZtKChDE

 お父様は照れくさそうに笑っていたが、お母様はそうはいかなかった。

「あんたねえ、まさか自分の娘まで!?」
「……なんだよ、まさかって?」
「いくら私に似てこの子が美人だからって、そこまで………!」
「待てよ、お嬢。オメーは誰に嫉妬してんだ」
「嫉妬って……!!」
「あのな……!!」
「……!」
「……!!」

 二人は何か言い争っているが、もう限界だった。
 緊張の疲れと安堵からくる睡魔に私は勝てなかった。
 ぼんやりと思い出されるのは遠くに聞こえる二人のやり取り。
 私はずっと誰かの指を握っているようで、そのごつごつした指ははっきりと覚えている。
髪はお母様の細い指が撫でていてくれて、気持ちがいいものだった。夢なのか現実なのか分からなかったけれど、
それだけははっきりと記憶に残っていた。

「今度はいつ来れるの?」
「わかんねえな、親父さんの許しがもらえて……」
「そう、お父様が。私はいつでも日本に……」
「親父さんには感謝してるんだぜ、これでも。こいつがこんなに……」
「……うん、そうね。私たちも大人に……」


 記憶があいまいだが、このような事を話していたと思う。自信はないが。
 次の日、私は学校を初めて休んだ。病欠などもしたこと無い私が、ずる休みをしたのだ。



791 :nature and nurture:05/05/30 19:41 ID:ZZtKChDE

私とお父様とお母様の三人でおじい様の経営する遊園地に行った。
すっかりお父様に夢中になっていた私はお母様とアトラクションの度に取り合いをして、
それにお父様は文句一つ言わずに付き合ってくれていた。
 観覧車に二人で乗って、私が、「大人になったらお父様と結婚する」というと、
「お、俺はお嬢がいるし……その」なんて慌てちゃって。誰かを好きになったことなど無かったが、
これほど胸が高鳴った事も無い。
 恋愛ではなくて、親愛。10歳の頃の私の言葉を借りるなら、「お父様、大好きっ」
 その日は私にとって大切な日になった。私とお父様とお母様の、三人で出かけた最初の日。
私はお父様とお母様の間を歩いて、手をつないでもらっていた。他の子がそうしているのを
覚めた目で見ていたこの私が、信じられないほどにはしゃいで。
 



 そして今、私はお母様と厨房に立っている。
 ドアの隙間からかつての私がそうしていたように、コック達が私とお母様を見ている。
私もお母様も料理はからっきしだが(この言葉はお父様に教えてもらったの)、この程度の料理は作れる。
電話でお父様に聞いたのだ。肉じゃがとカレー、どちらがいいですか? って。
もう分かっているわよね? お父様が何て言ったのか。
 
「熱っ」

 お母様の綺麗な指を水で冷やしてやりながら、私たちは笑った。
おじい様はお父様の事を認めてくれたのだけれども、お父様は一度として一緒に暮らそうとは言わなかった。
私とお母様が日本に行ってしまったら、おじい様は一人きりになってしまうからだ。



792 :nature and nurture:05/05/30 19:42 ID:ZZtKChDE

 お母様はわたしがその事について聞くと決まって、「そういう男なのよ、あいつって」と、
嬉しそうな顔を隠さずにいて、私は小さな頃から好きな琥珀色の宝石が隠れていく様をうっとりと見つめていた。

「ねえ。お母様はお父様の事、好き?」

 鍋の中のぼこぼこと浮き出てくるカレーの泡を眺めながら、私はそう尋ねてみる。

「そうねぇ。好きじゃない……かな」

 何も言わず鍋をかき回していると、お母様はじっと押し黙ったままでいる。私はお母様の代わりにこう言ってやるのが決まりだった。

「愛している、でしょ?」
「ええ、そうね」


 今夜、お父様が帰ってくる。
 だから私とお母様はカレーを作って待っているのだ。
「ただいま」そう言うお父様を、「お帰りなさい」と言って迎え入れるため。
 お母様はおじい様とこういった会話をする事が余り無かったようで、お父様を満面の笑顔で迎えるのだ。

 お父様とお母様は今でも籍を入れてはいない。
 ナカムラによれば、それはおじい様とおばあ様の関係に似ているらしい。
 お父様との親子関係は歪なのだが、今の関係を変えるつもりは無い。
 愛する両親が幸せであって、私も幸せなのだから。
『お帰りなさい』そう言って『ただいま』と返してくれるお父様がいるのだから。
 そして、おじい様とおばあ様を愛しているお母様のように、私もお父様とお母様の事を愛しているのだから。



END
2007年09月15日(土) 13:54:55 Modified by ID:LOVLpNCrSQ




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