IF25・夜空は確かに、そこにある。


4 :Classical名無しさん:05/08/28 23:38 ID:ZG8QeBU2
 ――雨が、降っている。
 厚い雲と水滴の向こう、青空は、見えない。
 


 終令の鐘が鳴り、緊としていた空気が穏やかな、けれど同時に騒がしいそれへと変化する教室。
授業が終わった開放感と、これから始まる『放課後』というもう一つの日常への期待。加えて
翌日は休日ともなれば、そこにあふれる活気はいつも以上だ。たとえ降り止まない雨の下でも。
 もっとも、雨だから憂鬱になる、というのは必ずしも成立する命題でもない。雨の中無邪気に
駆け回る、などというのは、さすがに高校生ともなればまずお目にかかることのない光景だが、
さりとて曇天を憂うだけが選択肢ではない。四十日四十夜降り続き、世界は哀れ水底に――などと
いう未来が待っているならまだしも、そうでなければ雨はただの雨。所詮すべては気の持ちようだ。
『気の持ちよう』――だからこそ、そこに憂いを見いだす者がいるのも確かな事実。
「……」
 そしてここに、ぼう、とした様子で、窓の外を眺めている少女が一人。
 俵屋さつき――それが彼女の名前である。
 その視線はどこか遠くを眺めているような、あるいはガラスに映り込む自身の姿を見つめている
ような、ともかく彼女にしては珍しい、どこか寂しげなもの。
 ――大丈夫だと、思ったんだけどな。
 心の中でそっと呟かれる、そんな言葉。
 自分の想いがそんなに安いものではないことは、他の誰より自分自身が一番よく知っていて、
だからこそきれいさっぱりすべてを諦める決意を、それこそ一銭だってまけない覚悟でしたと
いうのに。
 窓際の席、誰からも覗き込まれることのないその瞳がそっと閉じられ、ほんの少しうつむいた
口元から溜息がこぼれ――
「さーつーき」
「……え?」
 ――そうになったところで、隣から声をかけられる。慌ててまぶたを跳ね上げれば、意外なほど
至近距離――覗き込まれそうなほど――にあったのは友人たるサラ・アディエマスの顔。おかしな
ところ見られちゃったかな、そんな動揺を隠しつつ、どうしたのと聞き返せば。


5 :Classical名無しさん:05/08/28 23:38 ID:ZG8QeBU2
「今日ヒマある?」
 戻ってくるのはそんな問。
 普段ならこの時間部活に奔走しているさつきだが、今日は諸々の巡り合わせでそれがない。だから
そう、つまりはヒマがあるのだ。とはいえ、あまりどこかに遊びに行きたいという気分でもない。
ないのだが、ここで断るのもやっぱりあれかな、などと気を使ってしまうのが彼女である。気が回る、
面倒見がよい、その評はいくらでもあるが、つまるところ自分より他人のことを考える、それが
俵屋さつきの本質である。
「うん。どこか行くの?」
 だから、返事は肯定。沈みがちな心にもひっそり発破をかけ、少女は確かに立ち上がる。



「サラっていろんなところ知ってるんだね」
 そろそろと暮れ始めた――といっても、しとどに降る雨と雲の向こう、空の色は変わらず見え
ないのだが――街並を歩きながら、さつきは素直な感想を口にする。そんなことないよ、そう
サラは笑って返すが、それこそそんなことないんじゃないか、とこの数時間を振り返る。
 一見すると普通の家にしか見えない、けれど入ってみれば落ち着いた雰囲気の喫茶店、路地の
奥まった先にある洒落た小物屋、えとせとらえとせとら。つい半年ほど前に、まだ日本には不慣れ
だからと言っていた彼女が、今では自分よりこの街に詳しいんじゃないか、そんな気さえしてくる
さつき。
 ――でも、そうかもしれない。
 部活のために奔走することの多かった自分の半年を振り返れば、それは当然の結果かもしれない。
別に後悔しているというわけではなかったが、そう考えると少しだけ寂しいような、
「……あ」
「ん? どうしたの?」
 ううん、なんでも。動揺を隠すようにして答えながら、たどりついた可能性について思いを巡らす。
 つまり、この異国の友人が、当たり前のように日本語を操り、当たり前のように隣にいる、という
ことについて。


6 :Classical名無しさん:05/08/28 23:38 ID:ZG8QeBU2
 言葉については、以前からどこかで習っていたのかもしれない。もちろんそれとて生半可な努力の
果てにあるものではないだろう。それよりも、彼女がこの街に通じているということ。こればかりは、
事前に地図を見ていたからどうにかなる問題ではない。そこに記されているのは決してリアルタイム
の情報ではなく、街並は刻々と変わっていく。自分の足で歩き、目で見なければ、その齟齬はむしろ
広がっていく一方。
 それを、彼女はこともなげに街の『今』を歩いてみせた。この場所に、不慣れと言った場所を自分
の庭にする領域に至るまでに、どれだけのものを費やしてきたのか。いつも笑顔を絶やさない友人の
隠された一面に触れたような気がして、こっそりと感嘆の息をつく。
「サラ」
「なに?」
 小さく小首を傾げ、先に自分が思っていたようなことは全部空想にしか過ぎなかった、そう言って
いるような彼女に。
「今日はありがとう」
 さつきは、ただ今日のことを今日のこととして礼を言った。彼女自身が口にするまで、余計なこと
には触れない、それが自分の取るべき態度と信じて。
「そんな、お礼を言われるようなことはしてないよ」
 その言葉にサラは答える。
「なんだかね、最近ちょっとさつきが元気ないな、って思って。こういうときはぱーっと遊んで、
 ぱーっとおいしい物でも食べないとね」
 それじゃ最後にご飯食べに行こっか、と。
 彼女は微笑む。
 いつもの笑顔で。



「……え、と」
 そして、『おいしい物』を食べに向かった先で、さつきはこれ以上ないくらいに戸惑っていた。
「ここ……なの?」
「うん。味も値段もオススメ……って言わなくてもさつきは知ってるよね」
 頷きを返す間もなく、それじゃレッツゴー、と何故だか妙なハイテンションのサラは引戸に手を
かける。講楽という名が掲げられた、その店の。


7 :Classical名無しさん:05/08/28 23:39 ID:ZG8QeBU2



「いらっしゃ――」
 もう少し愛想を、と言われることはちょくちょくある麻生広義が、別に無愛想にしているつもり
はないんだが、などと思いながら今日何度目かのその言葉を口にしかけ、
「どうも、先輩」
「……いらっしゃい」
 入ってきた客の姿を見て、わずかにトーンダウンして言い直す。サラ・アディエマス。バイト先の
同僚にして後輩……なのだが、どうにもとらえどころのないヤツだと麻生自身は思っている。どこか
ふわふわとした印象を持たせながら、時折見せる勘の鋭さは、どうにも彼の中で彼女の印象をつかませ
ない。
 ――悪いヤツじゃないんだけどな。
 そんな若干複雑な心境をぼやいていた麻生だったが、そのサラの陰に隠れてもう一つの人影がある
ことにようやく気がつく。
「俵屋もか」
「あ、はい」
 わずかにうつむき加減の彼女にも、いらっしゃいと言ってから、空いた席に二人を案内する。
「注文は?」
「まんぷく定食二つ」
「「二つ?」」
 即答に近かったさつきの返事に、思わず麻生とサラの声が重なる。一方のさつき自身も、しまった
という表情。どうにもその場の勢い――そんなものがあったとは麻生には思えなかったが――で口に
してしまったらしい。
「俵屋なら食べきれるとは思うが……本当に二つでいいのか?」
「か、かまいません」
「……そうか」
 何故か妙に鬼気迫るようなその様子に、あまり突っ込むのもなんだと視線をサラに移す。
 が。
「じゃあ私もまんぷく二つでお願いします」
「「は?」」
 今度は期せずして、麻生とさつきの声が重なる。


8 :Classical名無しさん:05/08/28 23:39 ID:ZG8QeBU2
「あの、サラ? 私が言うのもなんだけど、やめておいた方が……」
「俵屋なら大丈夫だと思うけどな、お前は……」
 そんな二人の言葉にも、けれどサラは怯まない。
「こう見えても私、すごいんですよ?」
「……なにがだ」
「それはですね、ほら、その……いろいろ?」
「……だからなにがだ」
「いろいろはいろいろです」
 やたらと気合の入った表情で答えるサラに、分かったもうなにも言わん、と事務的に伝票に書き込む。
 まんぷく四つ。
 なんとなく溜息。
「少し時間かかるぞ」
「分かってます」
 それじゃ、と厨房に戻ろうとするその背に、サラから声がかけられる。
「がんばってくださいね」
「……」
 返事は、ない。



「あのさ、サラ」
 さて、そんなやりとりの後で。
「ん、なに?」
 麻生がまだ戻ってくる様子がないのを確認して、さつきが口を開く。
「サラってさ……その、麻生先輩と仲いいんだね」
「うん、バイト先が同じだからそのせい、かな」
「そうなんだ」
 じゃあ、男女の違いはあっても同じ部活の自分も仲がいいんだろうか、そう考える。悪くはない、
それは確か。でも、さっきの二人のような会話は、性格のことを差し引いても自分にはとても出来ない。


9 :Classical名無しさん:05/08/28 23:39 ID:ZG8QeBU2
 なら。
「あの、さ」
 声が震える。
 だけど訊きたい。
 どうしても、訊いておきたい。
「――サラにとって、麻生先輩ってなんなのかな」
 だから訊いた。
 なんだかものすごくおかしな訊き方になってしまったけれど、それでも。
「うーん」
 そして、そんなさつきの姿を笑うことなく、サラは瞳を閉じてしばらく考える。やがて、その口から
静かに紡がれた答は。
「先輩、かな」
 ひどくシンプルな物だった。
「先輩……」
「友達とはちょっと違うし……うん、やっぱり先輩は先輩、だな」
 そういう関係っていうのもありだよね、と。柔らかく微笑む。
「先輩、か」
 シンプルなその答は、だからこそさつきの中で響く。付き合っているわけじゃないから、恋人なんか
じゃないから、距離を置く必要なんてない。友達と呼べるような間柄じゃないから、遠慮する必要もない。
 先輩と後輩。
 別にそれだけの関係でもいいじゃないか、と。
「うん、そうだね」
 だから、笑顔で返事が出来た。



「「ごちそうさまでした」」
「……どうも」
 テーブルにつく二人の前にあるのは、綺麗に平らげられた四人前のまんぷく定食。有言実行、サラも
きっちりと二人前を片付けていた。


10 :Classical名無しさん:05/08/28 23:40 ID:ZG8QeBU2
「まだまだいけますよ?」
「……いや、いけるかどうかはともかく止めとけ」
「あれ? 五人前からタダになるとか」
「ない。そんなものはない」
 どこか漫才じみた二人の会話に、小さく笑みのこぼれるさつき。おいしかったです、とお代を置いて
立ち上がり、
「そうだ、先輩」
「ん?」
「……今度また、練習見てもらえますか?」
 ほんの少し勇気を出し、訊いてみた。
「ああ、別に構わない」
「ありがとうございます!」
 返ってきたのは、当然のように肯定の言葉。内心胸をなで下ろすと同時、すっとつかえが取れたような
気がするさつき。
 ――そっか。それだけのことなんだ。
 構える必要も、怯える必要も、戸惑う必要もなかった。二人の距離は近づかなかったかもしれないけれど、
決して遠ざかったわけでもなかったんだ、そんな単純なことにあらためて気づかされる。
「よかったね、さつき」
 見れば、微笑むサラの表情も心なしかいつも以上に穏やかに見える。
 ――どこまで気づいてたのかな。
 そんな思いがふとよぎるが、言葉にすることなくただ頷く。たとえ彼女がすべてを知っていたとしても、
それだけでいいはずだから、と。
「それじゃ先輩、また来週」
「気をつけて帰れよ」
「はい!」
 元気よく返事をして、店の外へと足を踏み出す。
 その顔はうつむいてはいない。
 ただ前を、見つめている。


11 :Classical名無しさん:05/08/28 23:42 ID:ZG8QeBU2



 ――雨はもう、降り止んだ。
 星空は見えなくとも、夜空は確かに、そこにある。
2007年10月29日(月) 23:52:59 Modified by ID:LOVLpNCrSQ




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