IF26・Bitter Valentine

498 :Bitter Valentine:06/02/28 22:29 ID:J4eRGnOk
 2月14日。

 この日ほど、多くの男たちに憎悪されている日は、他にはないのではないか?
 12月24日もあるが、勝ち組負け組がくっきり色分けされる日という意味で言
えば、2月14日のほうが上だ。
 そして、負け組に組み込まれた上に、この日に生を受けたと言う皮肉な運命を背
負った男がいる。

 吉田山次郎。

 それが彼の名だ。

 その日、ふだんより遅く登校してきた彼は、一片の期待も抱かずに下駄箱をあけ
た。
 しかし、そこに一対の上履き以外の何物もないのを確認すると、やはり小さなた
め息が漏れる。
「ふん」
 小さく鼻を鳴らして乱暴に上履きをざら板に叩きつける。
 スニーカーを下駄箱に放り込んで両足を上履きに突っ込み、周りの生徒たちに意
味もなくガンを飛ばしながら肩を揺らす。
 そんな彼に畏怖の視線を送る生徒など、誰もいなかったが。
 とぼとぼと廊下を歩き始めたとき、彼は誰かに肩を突付かれる感触を覚えて怒鳴
りながら振り返った。
「んだ、ゴルァ! ほあっ!?」
 奇声とともに絶句した理由は、自分を呼び止めた相手があまりにも予想外だった
から。
 背の低い吉田山からすると見上げるほどの長身。
 惚れ惚れとするようなスタイル。
 当たり前だが日本人離れした美貌。
 そして、両肩に流れる金色の川。


499 :Bitter Valentine:06/02/28 22:29 ID:J4eRGnOk
「さ、さ、さ……」
 言葉もなくどもる吉田山を静かに見据えたまま、彼女、沢近愛理は小さく顎をし
ゃくった。
「少し、いいかしら?」
 その言葉に、吉田山がブンブンとうなずいたのは言うまでもない。
 連れて行かれたのは視聴覚室の前。
 廊下の隅にあるここは人通りも少ない。
 体の後ろで両手を組んだまま、黙り込んだ愛理にたまりかねて、吉田山は自分か
ら切り出した。
「あの……なにか?」
「えっと……」
 愛理はいつになく気恥ずかしげに視線をさまよわせ、やがて、意を決したように
それを差し出してきた。
「これを……」
「へ?」
 愛理が差し出したのはかわいらしい包装紙に包まれた長方形の小箱。
 大きさはちょうど手のひらに収まる程度。
「えっと、これは……?」
「迷惑?」
 上目遣いに言ってきた愛理を見て、吉田山の心臓はほんとうに飛び出すのではな
いかと思うぐらいに跳ね上がった。
 千切れそうなほどに激しく首を振り、震える手を差し出す。
 その手が、箱に触れる寸前だった。
 愛理が不意に手を引っ込めたのは。
「あ、あの……」
 絶句した吉田山を斜視で見て愛理は言う。
「やっぱり、いい。自分で渡すから」
「は?」
 つっときびすを返し、愛理は思い出したように振り返って言う。
「このこと、ヒゲに話したら、許さないからね」
 立ち去っていく背中が見えなくなってからようやく気付いた。
 愛理が自分に何を望んでいたのかを。


500 :Bitter Valentine:06/02/28 22:30 ID:J4eRGnOk
「ちっくしょお!!」
 吉田山は吼えながら壁に拳を叩き付けようとして。
 そして寸前でびびって手を引っ込めた。

 昼休み。

 吉田山は一方的に宿敵と決め付けている播磨拳児と、机をはさんで相対していた。
 いつも雄弁とは言いがたい彼だが、今日はいつも以上の仏頂面。
 それを見て吉田山は確信した。
 まだ愛理のチョコは彼に渡ってはいないと。
 どんなに彼が硬派を気取っていようと、あの沢近愛理からチョコを――それも見
た限りでは本命っぽい――をもらって平静でいられるわけがないのだから。
 そう思いながら恐る恐る探りを入れてみる。
「播磨さん、今日の収穫はどんな感じで?」
「ああ?」
 怪訝げにこちらを見たあと、播磨は意を察したように言ってきた。
「ああ、チョコレートか。一応一個もらったぞ。義理だけどな」
「そうなんすか? 誰から?」
「妹さんから」
「妹さん?」
 問い返して吉田山は気付いた。それが誰を指しているのかを。

 塚本八雲。

 沢近愛理と人気を二分する矢神高校のアイドル的存在にして、クラスメイトの塚
本天満の妹だ。
 吉田山は思い出す。一時期播磨と八雲のことが噂になっていたことを。
 それを考えると、ただの義理チョコではあるまい。
 不意に吉田山は思う。この男は何様のつもりなのかと。
 沢近愛理と塚本八雲。吉田山が逆立ちしようがなにしようが、指一本触れること
すら許されない美少女二人からチョコを差し出され――正確には愛理からはまだら
しいが――なおかつ不機嫌でいられるこの男はいったいなんなのかと。


501 :Bitter Valentine:06/02/28 22:30 ID:J4eRGnOk
 思いながらも怒りを押し殺して吉田山は笑顔を作る。
 まずは敵を知ることだ。
「播磨さん、隅におけないっすね。そういえば、沢近さんとも仲いいっすよね」
「ああ?」
 眉をひそめていつもの四人組で固まっている愛理のほうを見やって播磨は言う。
「仲なんざよくねえよ。あいつが勝手に絡んでくるだけでよ」
 贅沢なことをと、湧いてきた殺意を笑顔の裏に隠して吉田山はさらに言う。
「でも、話すようになったきっかけとかあるんすよね?」
「ああ……」
 天井を見上げて播磨は言う。
「あんときか。あいつが傘もなしに雨に濡れててよ。ほんの気まぐれで傘に入れて
やったんだけどな」
「それ、相合傘って言うんじゃ?」
「バカかおまえは? 傘に入れてやっただけだ」
 それを相合傘って言うんじゃねえかと内心で突っ込みながらもそれはもちろん口
には出さず。
 吉田山はそのビジュアルを想像した。悔しいが、絵になるとは思う。
 不良とお嬢様というカップリングは昔から定番でもあるし。
(そのとき、通りかかったのが俺ならよ……)
 そう思いながら吉田山は歯噛みする。と、窓の外を見ながら播磨がつぶやいた。
「なーんか雲行き怪しくなってきたな。傘持ってきてねえんだが」
「そうなんすか」
 言いながら吉田山はほくそえんだ。なぜなら、彼はしっかりと傘を用意していたから。

 結局、なんの収穫もないままに放課後がやってきた。
 下駄箱の中には、もちろん下履き以外の何もなく。
 靴を履き替えると吉田山はひとり校門をくぐる。
 いつもよりもカップルが目に付く気がして、彼は舌打ちした。
 と、そのときだった。ポツンという感触とともに頬に冷たさを感じたのは。
「お?」
 手のひらを上に向けると、そこに水滴が生まれた。
「降ってきやがったな」


502 :Bitter Valentine:06/02/28 22:31 ID:J4eRGnOk
 呟くうちにたちまち雨が勢いを増してくる。
 町行く人々がパニックになるのを横目で見ながら、吉田山は鞄から折り畳み傘を
取り出した。
「へ、負け組どもがよ」
 優越感を覚えながら傘を開き、吉田山は商店街を歩く。
 天気予報にもなかった不意の雨だけに、おのおのの店の軒先には雨宿りする人影
もちらほらと見える。
「へん。そういや播磨のやつも傘持ってねえとか言ってやがったな。今頃は慌てふ
ためいてやがんだろ」
 鼻を鳴らしたとき、車道をはさんだ向こう側に吉田山は見つけた。
 雨を逃れたのだろう。金物屋の軒先には不釣合いな美少女。
 ほっそりとした均整の取れた体躯に美しい金髪。
 だが、吉田山は気付いた。その愛らしい顔が、いつになく沈み込んでいることに。
 そして、彼女、沢近愛理が胸に抱いているのは見覚えのある包み。
「渡せなかったのか……」
 思わず吉田山は声に出して呟く。そして思った。千載一遇のチャンスではないか
と。
 唾をひとつ飲み込み、吉田山は二人をさえぎる車道へと足を踏み出した。

「沢近さん……」
「吉田山君……?」
「あの、よかったら一緒に」
 おずおずと傘を差し出すと、はにかんだように微笑んで、愛理が傘の中に滑り込
んできた。
「優しいのね」
「クラスメイトなら当然だから」
 静かに答えると、愛理が不意にあの包みを差し出してきた。
「あの……これ、受け取ってくれる?」
「え? でも、これは播磨さんの……」
「もういいの。あなたに受け取ってほしい」
「沢近さん……」
「吉田山君……」


503 :Bitter Valentine:06/02/28 22:31 ID:J4eRGnOk
 愛理と視線が絡んだ瞬間、けたたましいクラクションが響き、ようやく吉田山は
妄想の世界から帰還を果たした。
 その眼前を、青いスポーツセダンが無駄に大きな排気音を残して通り過ぎていく。
「だあ、くそ、しっかりしろ、俺」
 自らの頬を叩き気合を入れた。現実世界の愛理のほうはこちらを気にするそぶり
もなく、じっと胸に抱いた包みを見つめている。
 もう、迷いはなかった。好きな女の子が、あんな顔をしている。
 下心の有無とは無関係に、ほうっておくことはできない。
 静かに愛理に歩み寄る。目の前まで来ても、彼女はこちらに気付く様子もない。
「沢近さん」
 意を決して声をかけると、初めて愛理がこちらに視線を向けてきた。
「あ……」
 彼女が小さく声を発した瞬間、吉田山はありったけの勇気を絞り出した。
「あ、あのよかったら一緒に!」
 目をつぶって傘を全力で前方に突き出す。そして次の瞬間だった。
 ゴツンというような感触と彼女の悲鳴が聞こえてきたのは。
「あ……」
 何が起きたのかは容易に想像がついた。それだけに、まぶたを開くのが怖い。
「あんたねえ……」
 怒りを押し殺したような声が頭上から響いてくる。
 恐る恐る瞳を向けると目に入ってきた。
 赤く染まったおでこと、その両側で怒りに燃える瞳。
 そしてぐっしょりと濡れた金髪。
 全て、自分の傘が愛理のおでこを直撃した結果だというのは火を見るより明らか
だった。
「あの……」
 あとずさる吉田山に愛理が詰め寄ってくる。
 愛理のほうから自分に近づいてきてくれるなど望外のきわみだが、こんな事態は
想定範囲外だ。
 唇をゆがめ、愛理はポキポキと指を鳴らす。
「さ、沢近さん、落ち着いて……」
「なにやってんだ、おめーら?」


504 :Bitter Valentine:06/02/28 22:32 ID:J4eRGnOk
 第三者の声が割り込んできたのはそのときだった。
「ヒゲ!」
「播磨さん!」
 二人の声が重なる。愛理は胸に抱いていた包みを慌てて背中に隠し、同時に前髪
を直して赤くなったおでこもごまかす。
 傘代わりに鞄を頭上に掲げた播磨を斜めに見て、愛理はやや口ごもりながら言う。
「おまえらとか失礼ね。気が付いたらこれが、目の前にいただけなんだから」
「これって……」
 絶句した吉田山をよそに愛理は続ける。
「ヒ、ヒゲ。あんた、傘ないの?」
「見ての通りだ」
「それなら、その……入っていかない?」
 言っておずおずと傘を差し出す愛理。
「お? だけどよ……」
「なによ、私とじゃ不満?」
「そういうわけでもねえけど」
「それに、その……用事もあるのよ」
「用事? なんだそりゃ?」
「歩きながら話すわ」
「ちっ」
 舌打ちすると、播磨は乱暴に愛理の手から傘をひったくった。
「行くぜ」
「う、うん」
 はにかんだようにうなずくと、愛理が傘の下に滑り込む。
 そしてもはや吉田山のことなど眼中にもなく、二人は歩き出した。
「あんま、近づくな」
「だって、濡れちゃうじゃないの」
「仕方ねえなあ」
「ねえ、ヒゲ。私ね……」
 二人の影が雨に煙る街角に溶け込んでいく。
 それを見つめながら吉田山は呆然と考える。沢近さん、傘持ってたのかとか、あ
の傘の柄、どこかで見覚えあるなとか。


505 :Bitter Valentine:06/02/28 22:32 ID:J4eRGnOk
 二人の姿を最後まで見送ったあと、吉田山はようやく気付いた。自分の手から、
傘が消失していたことに。
 
 雨足が強さを増してきた。
 金物屋の軒先で、どれだけ立ち尽くしていたのだろうか?
 もう、吉田山は覚えてもいない。
 と、ひとりの少年が傘を差して歩み寄ってきた。
 180cmを超えそうな長身とバランスの取れた端正な顔立ち。
 吉田山が欲しいと思っている全てを持っている男。
 そして彼こそは、吉田山に傘を持っていったほうがいいと助言してくれた男。
「なにやってんだ、兄貴?」
「……別に」
 言って吉田山は弟の手にぶら下がっているトートバッグを見た。
 それは重たそうに膨らんでいて、思わず吉田山は毒づく。
「大漁だな」
「まあね」
 彼はしゃあしゃあと答えて吉田山の肩を叩いた。
「兄貴は?」
「俺だってよ……」
 吉田山は胸を張って言う。
「さっきまで、学校で一番かわいい娘と話してたんだぜ。邪魔が入らなかったら、
絶対チョコもらえてたんだ」


506 ::06/02/28 22:33 ID:J4eRGnOk
「へえ、やるなあ」
 感心する弟に胸を張ったとき、ひとりの少女がトコトコと歩み寄ってきた。
「あの……これを」
 中学生だろう。黒髪のポニーテールがよく似合う、なかなかに愛らしいその少女
がチョコを差し出した相手は……もちろん吉田山では、否、次郎ではなかった。
「ああ、ありがとう」
 にっこりと笑って彼はそれを受け取る。ペコリと頭を下げて駆け去っていく少女。
 呆然と立ち尽くす吉田山に、バツが悪そうに弟が言ってきた。
「食べる?」
「いらねえよ!」
 差し出されたチョコを押し戻して吉田山は言う。
「もう決めたんだよ。来年こそは必ずゲットしてみせんぜ」
 拳を握って、吉田山は雨空をにらみつけた。
「沢近さんから、義理チョコをよ!」
 吉田山は自分自身に誓った。

 〜Fin〜
2007年11月30日(金) 14:36:16 Modified by ID:EBvjy16zhA




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