IF26・Cream 前編

283 :Cream:06/02/13 11:52 ID:f2IZUm2k

 夜の校舎は一概に不気味なものとしてその名をあげられる。
 理由は明確だ。
 学舎とは人がいて初めて機能するもの。その内部に人間がいることは条件でもなく前提で
もなく、然るが故の帰結。
 だからこそ、その例外である「人がいない」という状況は異質なものとして人々に受け入
れられることとなるのだ。

 みしり、みしりと小さな軋みを上げさせながら彼女は無人の廊下歩いていく。
 片手には小さなLEDライト、残る手は上着のダウンジャケットへ。
 その足取りは決して速いものではないが、かといって迷いがあるそれでもない。見る人が
見れば重いとも言えるが、別の人が見れば緩やかと言い表すだろう。
 それらの言葉はどれも的を射ている。なぜなら、ゆっくりと歩いている彼女には目的地が
ないからだ。
 目的であった場所から歩いてきたのだ、行く当てなど特に決まっているわけではない。
 それでもふらふらと足の向くまま、気の向くままに歩いてみた場所がここ、旧校舎。
 強いて言えば人のいない場所を求めていたのかもしれない。熱を帯びない彼女の頭は他人
事のようにそう結論づけた。



284 :Cream:06/02/13 11:53 ID:f2IZUm2k

 青白い光が歩調とシンクロしてゆらゆらと足下を照らす。
 目の前で揺れる弱々しい光源はその実、かなりの光度であることを彼女は最近知った。光
線が一カ所に集中しているため計測上は高い数値が出ると言うことだ。
 まるで私みたいだな。
 そんなことをふと考える。掌にすっぽりと収まる本体の小ささや、単4電池一本で20時
間も連続で照らし続けることができる低コスト性、そして狭い範囲を無駄に明るく人工的な
光で照らす照明器具としての不十分さ。
 一度思いついた想像は、まるで最初からそうであったかのように次々と彼女自身を形容し
ているように思えてくる。
 はぁと大きく息をついて彼女、結城つむぎは足を止めた。

「なんだかなぁ……」

 その一言こそ今の彼女の万感の思いを余すことなく表現していた。
 今日は国教のないこの国ならではのイベントデー、お祭り騒ぎのクリスマスイヴ。多くの
人々が笑顔で親しい人たちと一夜を過ごすロマンチックな日だ。
 様々な光で彩られた街路、慎ましく、時には喧しいほどに鳴り渡るクリスマスソング。赤
と白と緑が街中に溢れかえる聖なる夜。
 しかし、彼女はそんな浮き足立つ街の中で数少ないデッドスポットとなる校舎にいた。
 敬虔な信者というわけでもないのに宗教祭に参加するわけにはいかない、お祭りを一緒に
楽しむ友人、家族がいない、仕事や用事など優先順位の高いものがある。そういうありきた
りな理由などはなかった。



285 :Cream:06/02/13 11:53 ID:f2IZUm2k

 ただなんとなく星が見たい。
 かねてから冬休み中に一度はじっくりと天体を観測するつもりだったが、思い立ったが吉
日と言えばいいのか、とにかく今日の夜、大地がイルミネーションで瞬くこのクリスマスイ
ヴに星を見たくなったのだ。

 ゆっくりと暗闇に浮かぶ小さな楕円を動かす。
 空気までもざわついている繁華街とは違い、海底の砂のように沈殿した周囲の雰囲気は不
思議と心を落ち着かせていく。

「音と光の中で渦巻いている……か」

 そんな曰く付きを貼られた心が、この何もない空間に拡散していっているのかもしれな
い。熱量が高い方から低い方へと流れ込むように。
 見えるはずのない、形を伴うはずもないそんな心の残滓を惜しむかのように、つむぎは
ぼんやりと周囲を視界に収めた。
 目を引くものは特にない。よく言えば趣深い、悪く言えば古くさい木造の内壁はそこかし
こに痛みや汚れなどがあるだろうが、こう暗くては何も見えない。
 当然いちいちライトを向けて確認するほどのものでもない。立ち止まりかけた足を僅かに
加速させて、再び歩み始めた。



286 :Cream:06/02/13 11:54 ID:f2IZUm2k
 人の心もまた同じなのかもしれない。
 自らを包む柔らかな闇の中で彼女は曖昧な頭の中でそんなことを思いつく。
 本人でも手のつけられないごちゃごちゃとした感情は時間だけがゆっくりと処理してくれ
る。その処理法としてたとえば一人で気持ちを外へと押し出したり、誰かに相談してみたり
と人によって様々だが、皆そうやって心の平衡を取り戻す。
 ドラマなどで傷ついたヒロインが人のいないところへ走っていく心理は、そう考えてみれ
ば納得のいくものだ。

 牛歩のような歩みが再び止まる。
 ライトが浮き彫りにするその先には、利用などしたこともなければ、行こうと思ったこと
もない階上へと続く規則正しい段差があった。
 何となく振り返ってみる。
 当然そこには何もない。突き当たりまで続く老朽化の進んだ廊下がただそこにあるだけ。

 さて、とつむぎは考えた。
 彼女がここにいる理由はあてのない旅路の結果。もちろん旧校舎の二階などに用はない。
 さっきまで陣取っていた鉄筋コンクリートで作られた屋上こそ本日の目的地であり、ひょ
んな偶然と思いがけない告白から疲れた心を落ち着かせるまで、ふらふらと歩いていただけ
だ。


287 :Cream:06/02/13 11:55 ID:f2IZUm2k

「…………」

 階段の踊り場を照らしてみる。
 採光のためか、ちらりと見えた嵌め込み式の窓枠からは日中の陽射しの変わりに、遠目か
ら見てわかるほどの降雪が見て取れた。先ほどより勢いが増しているようだ。

「……戻ろ」

 トイレという言い訳が通じそうにない程度の時間は経過している。お節介な友人が連絡し
てこないところを見ると、屋上での一件は既に彼女らの知るところとなっているのかもしれ
ない。
 だが、それでもこのまま音信不通となってはもう一人の心配性の友人が、不必要にあわて

るかもしれない。幸か不幸か、ここに至るまで飲み物を買ってくると席を立った彼女たちと
は出会うことがなかったから。
 本心を言えばあまり戻りたくはないが、いつまでもここにいるわけにもいかない。
 はぁ、と一つため息をこぼし、つむぎはその場で回れ右をした。

「…………ぇ?」

 喉の奥から声が出る。
 意識しない声というものはこんなにも可愛くない音になるのか、と余計な思考が入るが今
はその余計なものほどありがたい。

「……気のせいよね」

 そう、気のせいだ。
 気の持ちようで物事なんて如何様にも受け取れる。少しばかり精神的に色々あったため、
自らの足音がそう聞こえただけだ。そう、これは絶対気のせいだ。



288 :Cream:06/02/13 11:55 ID:f2IZUm2k

「…………ぉ、……ぉお」
「――!!」

 背筋に冷たいものが走る。
 今度こそはっきりと、異音が彼女の耳朶へと直撃した。
 みしみしという何かが軋む音と低い人の声のような音。
 待って、待って、待ってと聞こえる音は彼女自身のもの。無意識のうちに口から零れる懇
願は、しかし、加速していく厭な想像を減速させるには何の役にも立たない。
 軋む音はなおも続く。
 その場から動くことも振り返ることもできなくなったつむぎは、それでも音源の場所を特
定してしまう自分の聴力に心底嫌気がさした。
 音はここから後方、教室1つか2つ分離れた場所から聞こえてくる。
 どくん、どくんと心臓が高鳴る。
 昔からこういった怪談の類は散々聞かされていたが、怖がる役は彼女ではなかった。
 怖くなかったわけではない。
 ただお婆ちゃんっ娘なだけあって妙に語り上手なその話に、恐がりすぎと言ってもいいほ
ど過敏なリアクションを取ってくれる存在が近くにあれば、不思議と残った人間は冷静にな
れるものだ。

 そう、冷静に。
 心の中で何度も呟く。
 風が少しでも吹けば、この古びた木造建築物なら多少軋んでもおかしくはない。人のよう
な声も、何か犬か獣の鳴き声かもしれない。
 幽霊の正体みたり枯れ尾花。
 そういうシチュエーションと小道具が場を盛り上げるだけであって、種が割れてしまえば
得てして大したことがないのがこういう場合の落ちなのだ。
 大丈夫、大丈夫、何もない、あるはずがない。
 言い聞かせるように声に出して呟いてみる。ポケットの中につっこんだままの左手は自然
と拳をつくり、耳は自らの心拍数のみを数えさせていく。
 その数が20にいくかいかないかで、音はぴたりと止んだ。



289 :Cream:06/02/13 11:56 ID:f2IZUm2k

「…………はぁ」

 どっ、と全身から力が抜ける。
 両手にじっとりと感じる汗を不快に思いながら、それでも座り込まなかっただけでも僥倖
だったと自分を少し褒める。あそこで恐怖に屈し、座り込めば、腰が完全に抜け落ちてしま
ったかもしれない。
 さすがにこの年で、暗くて怖いから迎えに来て、等と友人に連絡はできない。自らここに
やってきたという手前もある。

 しかし、音が止んでしまえば急にさっきの恐怖体験の原因が知りたくなってきた。
 つむぎはホラー映画などで見られる登場人物の気持ちが、今はっきりと理解できた。
 映画などでは、どうしてそう怖いもの見たさで死んでしまう確率を上げるようなことをす
るのか、呆れ以上に可笑しさすら感じてしまう行動だったが、当事者となってしまうと共感
できる。
 正体のわからないものに無防備な背中を晒し続けるよりは、思い切ってそれがなんだった
のか明らかにしたい。その探求心は、今では至極当然だと思えた。
 恐ろしいという感情は未知という土壌に育つ大樹だ。
 生命力の強いその樹木を完全に朽ち倒すには、豊饒の大地そのものを変える必要がある。
 もっとも、既にその正体は大凡当たりをつけている。要はそれを確認するか否かだ。



290 :Cream:06/02/13 11:56 ID:f2IZUm2k

「……よし」

 まずは振り返る。そこから始めなければいけない。
 だが脳裏によぎるは振り返った瞬間に待ち受けるホラー映画の落ち。すぐに真っ向から否
定するが、膨らみかけた想像がしぼむことがないことはついさっき経験したばかりだ。
 振り返れば何もなく、だが次の瞬間には背後や横に何かがあったり、そのものズバリ見た
くないものがあったり、金縛りにあって体が動かせないことに気がついたり、と大して映画
を見たわけでもないのにパターンばかりが思いつく。
 沸き上がってきていた興味が、その凍てつく無尽の想像に押しつぶされていく。
 怖いものは怖いのだ。
 ごくりという音が聞こえるほど、自分自身のつばを飲み込む音がはっきりと聞こえた。
 前門にも後門にもそびえ立つ程の門扉が見える。
 進退窮まるとはこのことだろう。
 もちろんそれはつむぎのイメージに過ぎない。この旧校舎に入るため、一般的に使われて
いる通用口は何故か彼女が来たときには解錠されていた上に、すぐ近くにある玄関口はきっ
ちりと閉じてある。
 もっとも入学してから文化祭以外で開いているところを見たことがない扉だ。普段は閉め
切っているのだろう。

「……やっぱ戻ろう」

 無駄に入った思考がよかったのか、取り繕う相手もいないこんな場所でムキになって危う
きに近づいても、利潤が何もないことにようやくつむぎの思考はたどり着いた。
 そう、異常な事態には逃げの一手が鉄則。
 これこそホラー映画の状況で生存率を上げる王道の一つだ。



291 :Cream:06/02/13 11:57 ID:f2IZUm2k

 最終的な結論が下されようとしたときである。つむぎの鋭敏に研ぎ澄まされた聴覚が、
はっきりと男の声を捉えた。

「……もくん。…………にを!」

 音は微妙に遠い感じがするが、やはりというか音源箇所は件のエリアだと推測できた。
 しかし、問題はそんなことではない。

「人の……こえ?」

 暗鬼に囚われていたつむぎには、その確固たる事実が、雲間から差し込む一条の光に思え
た。
 確かに人の声だ。
 先ほどの怪奇現象は、つまりこの声の人物が起こしたものと考えるのが論理的な結論と言
える。それだけで鉛のように重かった体が、まるでカーボンフレームにでもなったようだ。

「け……がないな。たし……」

 声はなおも続く。
 先ほどより弱いそれは、どちらかといえば壁越しの声に聞こえなくもない。声の感じから
おそらく男性だろうが、相手の声が聞こえない。会話ではなく独り言なのだろうか。



292 :Cream:06/02/13 11:57 ID:f2IZUm2k

 気がつけばつむぎは声に向かって歩き始めていた。
 さっきまでの判断保留が嘘のように足が進む。振り返ったことも記憶にないぐらいだ。
 打算的と三つ編みお下げの友達に言われてもおかしくないかもしれない。
 すたすたとこの旧校舎に入って最も速い、つまるところ普段の歩行速度であっという間に
問題の音源だと思われる教室の前までやってきた。
 あれから声は聞こえてこない。
 当然のように、その周囲に人影らしきものは見当たらなければ、そんな気配もない。
 もう一言二言発してくれければ、場所の特定はできないではないか。
 怯えていたさっきまでの自分自身を忘れたかのように、つむぎは途絶えた声に不満を抱き
始めていた。

 けれども、待てど暮らせど声が再び聞こえてくることはない。
 とりあえず教室の中を覗いてみるかと考えるが、ここでふと声の主が不審者という可能性
もあることに思いついた。
 が、訳のわからないものに比べれば何倍もマシだ、と開き直りに近い感情で懸念を払拭す
る。賽は既に投げたれたのだ。
 それに気のせいか、耳が捉えたこの声はどこか聞き覚えのあるもののような気がしてなら
ない。

 ライトの光を窓から室内へと差し込む。
 そこは旧校舎に何部屋もある物置部屋だった。
 椅子を逆さにのせた机の群れが片隅に寄せられ、まるで大掃除の準備を思わせる空間の確
保が行われている。その中央から黒板側にかけて段ボールが所狭しと積み上げられていた。
 板張りの室内にゆっくりと光を移動させていくが特に目立ったものはない。人が隠れられ
そうな空間は机の下ぐらいだが、そこ以外は廊下側から丸見えだ。



293 :Cream:06/02/13 12:00 ID:f2IZUm2k

「やはり答えは、1しかないか」

 今度こそはっきりとつむぎは声を聞き取った。
 すぐにライトをその方向に向けるが、目に入るものは段ボールの山。
 目を細めてみても、じっと睨みつけても段ボール。
 試しに一度眼鏡を外して、肉眼で見てみる。
 やはり段ボール、らしきもの。
 スカートのポケットからハンカチを取り出し、眼鏡を綺麗にぬぐってかけ直す。
 だが段ボール。

「……?」

 声はすれども段ボール。
 この珍妙奇天烈な事態を前にして、つむぎの頭脳は酷く冷静だった。
 声が段ボールからする可能性は0ではない。
 たとえば底を全て抜いた段ボールを積み重ねて中に人を入れる、段ボールの中に音声を再
生できるプレイヤーを入れておく、伝声管を段ボールの中に設置する、等々。
 もっともこの行為にいかほどのメリットがあるか理解できないし、これだとあの床板が軋
むような音の説明ができない。あの音だけはくぐもった聞こえなかったのだから。



294 :Cream:06/02/13 12:01 ID:f2IZUm2k

「さて、どうやってこの窮地を脱するか……」

 また声がした。
 しかし音の方向に向いていてなお、その音源が特定できない。
 間違いなく声は段ボールが積み重ねられている方向から聞こえるが、よくよく見れば室内
はここ最近人が入ったような形跡が見られない。うっすらと積もった埃が段ボールから床板
へと室内に充満している。
 部屋に入らず、だが声は部屋から聞こえる。
 まるで一種のミステリーだ。
 隣にいれば水を得た魚のように推理し始めるであろう親友は今はここにいない。それに彼
女は語るのは好きなくせに、ホラーものを読もうとも見ようともしない訳のわからないヤツ
だ。結局いてもいなくても、この問題は自ずから解決しなければいけないだろう。

「……どちらにしろ壊さなければダメか」

 窮地とか壊すとか、声はこっちの都合も知らずに物騒な単語を並べ始める。
 そこで、はたと思いついた。
 窮地を脱する、そのために声の主は何かを壊そうとしているらしい。
 だがこの部屋で壊せるものとなると、それこそ無数にある。件の段ボール、むき出しのま
ま保管されている用途不明の調度品、机や椅子、窓や床、天井だって壊せないことはない。
 されど、そのどれを壊そうとも脱出するというイメージからはほど遠い。段ボールは壊す
と言うよりも破く、引き裂くという表現が妥当であるし、窓や床を壊すとなるとそれこそ家
屋倒壊で閉じこめられた住人をレスキューする救助隊のようだ。地震も火事も何も起きてい
ないこの旧校舎でそんな危機に陥ることがあるだろうか。

 あくまでも常識然としての姿勢を崩さないつむぎは、その態度への皮肉とも当てつけとも
思えるような、世にも奇妙な物体を数秒後に視界に収めることとなる。
 最初は悪趣味な冗談とも思えたそれ。
 天井から木の根のように生えて、じたばたと動く二本の足を。



295 :Cream:06/02/13 12:03 ID:f2IZUm2k
 ばん、と重々しい音が一階正面玄関口でこだまする。
 普段は12月の寒空から、内部の人間を守るかのように堅固に閉じている観音開きの門
戸も、息せき切らし走り込んできた男の手によって蝶番の限界まで開ききっていた。

 男の名前は花井春樹。見るからに不審なほど呼吸は荒いが汗はかいておらず、その荒ぶる
吐息も静かで独特な呼吸の一つを用いて平時のそれに落ち着かせていた。
 すかさず周囲を見渡す。ここは私立矢神学院高等学校、その校舎の外れに顕在する旧制
中学校時代の校舎、通称旧校舎の正面玄関口。
 春樹はそこで泣く子も黙る鬼の形相をしていた。
 新校舎と渡り廊下でつながっている裏口とは異なり、基本的に開かずの扉となっている
前時代の遺物ともいえる扉を彼がこじ開けた理由はたった一つ。
 春樹には聞こえたのだ、愛しの女神が、現世に光臨した天使が、助けを請うその声を。
 ならばどうする。
 彼にはその思考シークエンスは存在しなかった。
 職員室にいた春樹は脳裏に走った電撃ともいえる直感に従った。
 最短かつ最速のコースをもって体が、頭が、心が感じるままの道を走った。廊下から窓枠
へ、窓枠から地面へ、地面から旧校舎へ。
 常人ならば常識と生存本能が行動を抑止しそうな物だがまさに猪突猛進、いやこれぞ彼の
愛のなせる技か。
 そしてその結果がわずか数秒足らずの現地到着であった。



296 :Cream:06/02/13 12:03 ID:f2IZUm2k

「八くっ……!」

 廊下の端まで届きそうな大声で愛しの君の名を叫ぶ寸前で、ようやく彼の理性が行動に
追いついた。
 即座に自らの口を閉ざす。
 まず間違いなく春樹の最愛の女性、塚本八雲はこの旧校舎にいるだろう。
 それは直感のみならず、彼女が所属する茶道部の部室がこの旧校舎1階に存在することか
らも予想できる。
 しかし、ならばなぜ彼女は助けを求めているというのだろうか。
 助けを求めるということは、考えたくもないが彼女の身に何かあったと見て相違ないだろ
う。
 それは事故か、事件か。人災か、天災か。可能性は数多に存在する。
 だが、塚本八雲の身体能力と頭脳は並の学生以上だ。平凡な問題ならば彼女が助力を必要
とする道理はない。
 そんな気品ある、才も色も兼ね揃えた彼女が必死に助けを求めている。春樹の思考はこれ
は事件に違いないという警告音を出していた。

 長期休暇に入った学校へ学生が登校する理由は大きく二つ。
 部活動か補習だ。
 彼女はもちろん前者であり、春樹自身は後者の監督で学校へ赴いていた。
 時は12月24日、クリスマスイヴ。他に用向きがない人間がわざわざこのようなお祭り
時に人も殆どいない学校へやってくるはずもない。訝しい人間が校内に足を踏み入れること
など考えにくいことだ。



297 :Cream:06/02/13 12:04 ID:f2IZUm2k

「……いや、だが」

 春樹はここで一つの仮定を作った。
 それだけ人が来ないと分かり切っているならば、逆に何らかの咎められるような行動を起
こすことに支障が出ないと言うことではないだろうか。
 誰が見ても麗しく女性の完成型ともいえる彼女を毒牙にかけようとする不逞の輩が一人や
二人、この街にいてもさほどおかしくはない。
 たとえばあの播磨拳児のような。

「…………」

 大声を出し、八雲の身の安否と現在位置を確かめたい衝動に駆られるが、今や完全に復活
した強靱な理性でもってこれを押さえる。ここで騒げば彼女の位置は特定できるかもしれな
いが追いつめられたと逆上した悪漢が不条理な行動に出るかもしれない。
 今のところ静かなこの旧校舎。わざわざことを荒立てる必要もない。



298 :Cream:06/02/13 12:04 ID:f2IZUm2k

「まずは……」

 焦る気持ちを抑えて春樹は最初に茶道部部室へ足を向けた。
 確かではない視界ではあるが通い慣れた部屋ならば、荒らされているかどうかなど一目瞭
然。
 そしてあの部室であれば誰かと争う羽目になっても地の利――以前、うっかり強く叩いた
戸棚から拳銃らしき物が射出された時は驚いた――がある。
 なによりあの高野昌の管轄下だ。
 たどり着いた扉の前で徐々に熱を帯びてくる指先をぐっと握りしめ、静かにそして最大限
素早くドアを開けた。

「……やはり誰もいないか」

 扉の前に立ったとき、室内の人気のなさは伝わってきた。それでも少ない可能性を期待し
て広げた空間の先には無人の伽藍。弱々しい視力に活を入れ、部屋を凝視するも別に変わっ
た様子などこれ一つない。
 テーブルと椅子にかけられた二組のコートと鞄を除いて。

「まだ暖かいな。そしてこっちはサラ君のものか」

 じっくりと慎重に春樹はコートを検分する。手がかりになる物は特になかったが残ってい
た彼女たちの体温がまだ近くにいることを示している。
 次いでそれぞれの鞄に視線を移す。緊急を要するとはいえ、さすがに他人の、それも女性
の鞄をあさることは、空気の読めないこの男でも幾ばくかの逡巡があった。



299 :Cream:06/02/13 12:06 ID:f2IZUm2k

「…………」

 しかし、それとて大事の前の小事。
 万に一つでも彼女たちの身に何かあったとき、できうる行動をあえて制限したことに春樹
はきっと後悔をしてもしきれない程の自責の念に押しつぶされることになるだろう。
 それは自らの精神的な保身だけではない。決してただの自己満足だけではない。
 「義を見てせざるは勇なきなり」
 春樹自身が座右の銘としているその論語は、彼のアイデンティティとも言える。助けられ
る者がいれば助ける。それが花井春樹という男の核心なのだ。
 いらぬ苦労まで背負い込む、という幼なじみの評価は実に的を射ている。

 ゆっくりと口内の唾液を嚥下し、鞄に歩み寄る。緊張のため震える指先を叱咤し、意を決
して春樹は秘密の花園へ指をかけた。
 そのとき、突如異変が起きた。
 破壊音ともいえる木々の割れる音。
 決して風などによる軋みではなく、明らかに人為的に発生したであろう何かが壊れる音。
 鋭敏になっていた春樹の聴覚はすぐさま音源の箇所を特定した。

「上かっ!」



300 :Cream:06/02/13 12:10 ID:f2IZUm2k

 やもすれば厭な想像しか思い浮かばない頭をクリアーにし、スピーディーかつサイレント
に春樹は無人の廊下を走る。
 せつかれる体の手綱をしっかりと握り、なるだけいるかもしれない第三者に存在を知らし
めることなく両の足を動かす。
 事態は思ったより緊迫しているかもしれない。
 もしかすると彼女たちの身を守るために暴力を用いて事に当たらなければならない可能性
もある。
 そのときどのような行動が望ましいか。
 じわりじわりと熱を帯びてくる春樹の頭脳は一つの単語に思い当たる。
 迅速。
 彼女たちに危害が加えられるより早く、闖入者がこちらの存在に気がつくより速く、状況
が取り返しのつかないことになるより疾く、何もかもを終わらせる。
 この場合の速さは純粋な力。そして日々の鍛錬はこのような時こそ力となる。




301 :Cream:06/02/13 12:11 ID:f2IZUm2k

 普段から人気のない二階にまで歩を進め一時停止、全周警戒。
 人が存在している屋内というものは独特の気配がある。一階で感じなかったそれを春樹は
二階に来て確かに感じていた。
 静まりかえった廊下は人気などかけらもないが、隣接する教室は複数ある。おそらくその
どれかに彼女たちは軟禁されていることだろう。
 視界を閉ざし、全神経を聴覚と嗅覚に集中させる。
 冷え冷えとしながらも緩やかな空気に伝わってくる僅かな音も聞き逃さずに、また漂う女
性の特有の匂いも一欠片も残さず吸い込み、春樹は分析し続ける。特に後者に力を注いだ。
 鼻という器官は非常に曖昧なものでありながら、未だもって機械化が効かない特殊な器官
でもある。鼻という器官が顔面から突出しているのは、感知能力の質が耳や目よりも即断で
きるためだとも言われているからだ。
 それが塚本八雲のものであればなおのこと。
 念のためにサラ・アディエマスのコートからも春樹は匂いを覚えたつもりだったが、一つ
の匂いに集中した方がいいだろうと判断する。あの茶道部部室の状態から鑑みれば二人が行
動を共にしていると考えて問題はないからだ。
 瞬く間の思考とスキャニング。次の瞬間、春樹の鼻と耳はほぼ同時に八雲の場所を探り当
てた。

 自然と足が動く。
 極力冷静を保とうとすればするほど体の芯は熱くなり、視野は狭まる。
 いてもたってもいられない。がんがんと頭の中の警鐘は鳴りやまず、握り込んだ拳はじわ
りとかき始めた汗を包み込んでいる。

「このまま……かも……ね」
「……んな」



302 :Cream:06/02/13 12:11 ID:f2IZUm2k

 目標座標と睨んだ地点に近づくにつれ、声ははっきりと聞き取れるようになってくる。
今の声は確かに一年生二人のもの。はやる気持ちを抑えつけ、しかし速度を落とすことなく
等速をもって春樹は近づく。およそ目的地まで教室一つ分。
 断片的な会話から推測するにやはり彼女たちは身動きがとれないようだ。つまりそれは彼
女たちをそのような状況に追い込んだ何者かが――

 ぞくり、と不意に鳥肌が立った。
 それは感知したためだ。前ばかりを見ていた春樹へ突き刺さる視線が、一つあることを。
 位置は後方、距離はこれも教室一つ分といったところ。
 とっさに春樹は近くの教室へ飛び込んだ。どっとわき出てくる汗を肌に感じ、駆け抜けた
悪寒で自らの醜態を叱りつける。
 あれだけ第三者の存在を予期しておきながら彼女たちの所在が明らかになったやいなや、
すっかり周囲への警戒を怠り、相手の不意をつくどころか無様にも背後を取られる始末。
 穴があったら入りたいとはこのことだった。

 床板をきしませ、誰かが歩いてくる気配が徐々に彼我の距離を詰めてくる。
 春樹がこの部屋に入ったことは間違いなく相手も気がついているだろう。故に奇襲は事実
上不可能になったということだ。
 しかし、結果的に直接対決になったことに今は安堵すべきなのかもしれない。自己嫌悪と
混乱が収まった春樹の思考はそう結論づける。
 この不審者の目的が何であれ、自力で身動きがとれない彼女たちを人質にとられるよりは
もう暫くすればやってくるであろう闘争を一対一で行える方が勝算は高い。



303 :Cream:06/02/13 12:14 ID:f2IZUm2k

 規則正しかった足音が不意に止まる。
 隣の教室からは2-Cの教室で聞き慣れた、一年生の彼女たちとはまた異なる声色が聞こ
えてくるが今の春樹にそんな音を聞き分けている余裕はない。
 ここに来て彼の頭脳はただただ相手を打倒することのみに動いていた。
 足音から賊の数は一名、もしかすると別の場所にまだいるかもしれないがそれは追々倒し
た人物から聞いていけば済むこと。
 あとはこの教室に転がり込みながら、ちらりと見えた武器らしきものを携行している相手
にどう立ち回るか。
 再び、みしりという音が聞こえ始める。
 飛躍していく思考を中断して深呼吸を一つ。後は出たとこ勝負。肝を据える。

 先の先。
 相手の姿が教室からの可視範囲に入ったその瞬間、春樹は力強く踏み込んだ。
 全身を弾丸のように射出させ、向こうの想像以上の速度をもって肉薄し近接戦闘へと移行
する。
 正体のわからない相手には正攻法こそが王道。
 だが、ここ最近で一番と確信できる踏み込みは爆発的な加速を生み出すことがなかった。
 肉体に感じたものは踏み抜く感触と一瞬の浮遊感。
 まずいと思うのもつかの間、春樹の視界は暗転した。
2007年11月29日(木) 13:04:20 Modified by ID:EBvjy16zhA




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