IF4・Pure soul

けたたましい目覚まし時計のアラーム音が、朝の到来を告げる。
「う・・・ん」
時計の針は五時四十分を少し過ぎた辺りを指していた。一般的な女子高生であれば、そのまま
布団をかぶってもう一度まどろみの世界へと旅立つところであるが、毎朝姉の天満と自分二人分の
朝食をこしらえるのが日課の塚本八雲にとっては、すでに起床しなくてはならない時刻である。
八雲は目覚ましのアラームを止めると、もそもそと布団から這い出し、洗面所へと向かった。
早朝の爽やかな空気が肌をくすぐる。寝起きの頭の中に立ちこめた靄が、次第に晴れていくのを
八雲は感じた。
「・・・今日も、いい天気」
そう言って、何気なく髪に手をやる。そして、彼女は自分の身体に起こった異変へと気づいた。
―――おかしい。
自分の髪の毛は、こんなに長かっただろうか?
急いで洗面所に向かい、鏡へと目をやる。そこで突きつけられた現実は、八雲の想像を遙かに
超えたものだった。
「・・・そんな」
鏡に映し出されていた姿は、塚本八雲のそれではなく、彼女の姉――――塚本天満のものだった。

あまりのことに、意識が遠のく。
八雲は必死に平常心を保ち、何とか目の前で起きている出来事を理解しようとした。
まだ寝ぼけているのかと思い、急いで顔を洗ってみる。しかし、鏡に八雲の姿が映ることはなかった。
―――これは夢なのか、それとも幻?
そうも考えたが、水道から流れる水は、確かに冷たい。信じがたいことだが、これは夢でも幻でも
ないらしい。理由は全くわからないが、自分は姉の姿になってしまった―――それが現実。そこまで
考えた時、八雲の頭に一つの疑問が浮かんだ。
「・・・姉さんは?」
自分が姉の姿になってしまったのなら、一体姉はどうなってしまったのだろう。急いで八雲は
天満の寝室に向かった。
「姉さん!」
ベッドに天満の姿はなかった。それどころか、ベッドはまるで誰も寝ていなかったかのように
整っている。先に出てしまったという可能性も八雲は考えたが、極端に朝に弱く、常に遅刻寸前で
家を飛び出していく天満が、自分より早起きするとはとうてい思えなかった。
「姉さん・・・」
八雲は、そのまま天満のベッドに倒れ込んだ。寂しさとも悲しさともつかない感情が、心の中に
溢れる。

―――どうして、こんなことになってしまったのだろう?

右手に感じる違和感が、八雲を現実へと引き戻した。体を起こし、右手のあった方へと目を向ける。
「伊織」
そこには一匹の黒猫が鎮座していた。少しの間だったが、自分は眠り込んでしまっていたらしい。
「ありがとう、伊織」
すり寄ってきた伊織を抱き上げ、背中を撫でる。八雲の心中を察してか、いつもよりも伊織は
大人しく、素直に甘えてきた。
「・・・あれ?」
八雲の耳に、玄関のチャイムの音が届いた。かけっぱなしになっていた目覚ましを止め、玄関へと
向かう。
「おはよう八雲・・・っと、塚本先輩?」
玄関の戸を開けると、そこにはサラ・アディエマスの姿があった。

「珍しいですね、先輩が早起きしてるなんて。えっと、八雲いますか?」
八雲は、そう言われて今の状況を実感した。今の自分は、塚本八雲ではなく塚本天満なのだ。
「え、えっと・・・や、八雲はその・・・風邪で」
何とか誤魔化そうと試みたが、それがいけなかった。
「えっ?なら看病手伝いますよ。上がらせてもらいますね」
「で、でも悪いし、学校行っていいよ」
「何言ってるんですか。八雲は私の友達ですし、顔見せるくらい・・」
家に上がり込もうとするサラを、八雲は必死で止めようとした。家の中に自分以外誰もいないことを
知られれば、騒ぎになることは間違いない。
「や、八雲はちょっと熱があるだけだから!看病はいらないって言ってるから!だから、 学校行って
構わないから!」
しどろもどろになりながら、八雲は必死でサラを静止する。彼女の涙ぐましい努力は何とか実り、
サラは訝しげな表情をしながらも引き下がった。しかしながら、物事というものは時に当事者たちでさえ
思いもよらないような方向に進展していくものである。

「そうですか・・・なら、一緒に学校行きません?」

ある意味、さらに状況が悪化してしまったことを八雲は悟った。

「そういえば初めてですね、こうやって先輩と話すの」
「う・・・うん、そうだね」
結局、八雲は学校へ向かうことにした。いっそのことすべてを打ち明けてしまおうかとも思ったが、
思案の末、自分が八雲であるということは黙っていることに決めた。話してもとても信じて
もらえるとは思えなかったし、何よりサラに迷惑をかけたくなかったのだ。このあたりが、八雲が
八雲である所以なのかもしれない。
目の前には、すでに矢神坂が見えてきていた。ちらほらとではあるが、学生らしき人影も認められる。
サラの人懐こい性格のおかげか、これまでのところ二人の間の会話が途切れることはなかった。
「―――それで、八雲に新婦役をやってもらったんですけど、それがもう、すっごいきれいで。写真見たら、
きっとびっくりすると思いますよ?あとで焼き増しして渡しますから」
「そ、そう。ありがとう」
サラは、目の前にいるのが八雲だと言うことを知らない。それでも、サラは楽しそうに笑っている。
サラが、誰とでも気兼ねなく話す人間だと言うことはわかっていた。わかっていたが、つらかった。
相手が八雲であろうが他の誰かであろうが、サラは笑って話しかける。自分はサラにとって、
たくさんいる友達の中の一人でしかないのだろうか。そんな思いが、八雲の心を支配した。
「・・・どうしたんですか?ぼーっとしちゃって」
「え?あ、うん、ちょっと」
サラの言葉によって、八雲の思考は中断された。彼女の屈託のない笑顔が、今の八雲には余計に
つらく感じられる。何も言えないでいる八雲に、サラが言葉をかけた。
「でも、残念です」
「え?」
「本当なら、今ここに八雲もいたんだなーって思って」

サラは、少しうつむいて話を続けた。
「日本に留学してきて、私、最初は不安でした。周りに知ってる人は誰もいないし、聞こえて
くるのは日本語ばかり。伊織に話しかけても逃げられちゃうし」
「・・・」
「そんな私にできた、初めての友達が八雲なんです。八雲は、ちょっと変わってるけど、心の優しい
すごくいい娘で。八雲の、何て言うかこう、純粋なところに、私はずいぶん助けてもらいました」
「・・・」
「すみません、何か湿っぽくなっちゃいましたね。そうそう、八雲って普段は無表情ですけど、
先輩の話をする時だけは、すごく楽しそうなんですよ。ちょっと嫉妬しちゃうな」
「・・・サラ」
「いつか、私も先輩ぐらい八雲に大事に思われるような存在になりたいですね。八雲は、私にとって
 一番大事な友達だから。・・・あっと、部室に用事があるんで、ここで失礼します。それじゃ!
 八雲にお大事にって伝えておいてくださいね!」
サラは笑顔で手を振り、校門の向こうへと走り去っていった。八雲は、しばしの間立ちつくし、
小さくなっていくサラの姿を見つめていた。

教室のスピーカーから、三時限目の終了を告げるチャイムが鳴り響く。
「では、今回の授業はここまで。各自復習を怠らないように」
物理教師の刑部絃子が教室を出ていき、昼休みが始まった。生徒達は、各々気の合う者どうしで
集まり、昼食を取り始める。
「天満、ご飯にするわよ。早くしなさい」
「は、はい」
沢近愛理にせっつかれ、八雲は急いで席を移った。
「・・・あら、あなたお弁当は?」
「え、えっと・・・忘れ・・・て」
朝のごたごたで、弁当を作る時間がなかったのだ。もっと言えば、サラの来訪により、八雲は
朝食すら食べることができていなかった。
「仕方ないわね。ほら、私のを分けてあげるから食べなさいな」
「え?で、でも、そんな・・・」
「いいから食べなさい。持たないわよ」
「で、でも・・・」
その時、派手な音を立てて八雲のお腹が鳴った。一瞬、辺りの時間が止まる。
「・・・ぷっ」
少しの時間をおいて、周りにいた人間が一斉に吹き出した。

「あはははははははは!」
周防美琴が、大笑いして八雲の肩を叩く。
「塚本、無理すんなって。ほら、あたしのもやるから」
美琴は、自分の弁当箱から唐揚げを取り出すと、八雲に差し出した。
「・・・」
続いて、高野晶が無言で卵焼きを差し出す。
「あ、あの・・・」
「さっさと食べなさい。次は移動教室なんだから」
「え、えっと・・・」
「それから、少し落ち着きなさい。顔が真っ赤よ。はい、お茶」
慌てて八雲はお茶を飲み、心を落ち着ける。晶に指摘された通り、八雲の顔は真っ赤だった。
しかし、本当のことを言えば、それは恥ずかしさからのみくるものではなかった。
姉さんの周りには、いつも笑顔があって。
姉さんは、みんなのことが大好きで。
みんなも、姉さんのことが大好きで。
心は視えないけど、それだけはわかる。
「あ、あの!」
「?」
「皆さん、ありがとうございました!」
八雲は、いきなり立ち上がってぺこりと頭を下げた。またも、一瞬辺りの時間が止まる。
「・・・ふん。お礼を言われるようなことじゃないわよ」
「あーあ、照れちゃって。素直じゃないねー」
「な、何よ!何で私が照れる必要があるのよ!」
「・・・ムキになって否定するところが、余計怪しい」
「・・・あーもう!さっさと行くわよ!天満、早く食べちゃいなさい!」
「は、はい」
八雲は、慌てて目の前の食べ物を口に放り込んだ。空腹とは違う、何かが満たされた気がした。

放課後となり、八雲は家路へとついた。今日あったことを考えながら歩いていると、いつの間にか
家の前まで来ていた。鍵を取り出し、玄関のドアを開ける。
「・・・あれ?」
玄関の鍵は開いていた。八雲の他に、この家の玄関の合い鍵を持っているのは一人しかいない。
「・・・姉さん?」
八雲は急いで家の中に入り、そこら中を探し回った。しかし、天満の姿は見えない。そして、八雲は
最後に居間へとたどり着いた。
「姉さん!」
ドアを開けた、八雲の表情がこわばる。
「あなたは・・・」
そこにいたのは、放課後の美術室で出会った、あの長い黒髪の少女だった。

「・・・久しぶりね、ヤクモ」
「何で、あなたがここに・・・?」
少女は、八雲の質問には答えず話を続けた。
「表情が浮かないわね。どうしたの?あなたの願いを叶えてあげたのに」
「!」
八雲の表情が、驚愕のそれに変わる。
「・・・じゃあ、これはあなたが・・・」
「そう、私がやったの」
「姉さん!姉さんはどこ!?」
「身体はあなたが使ってるわ。魂の方は、近くにいた猫に入ってもらったけど」
「猫!?伊織に!?」
八雲は、足下にいた伊織に視線を落とした。伊織は、二人のことなど全く無視してすやすやと
寝息を立てている。
「お願い、元に戻して!」
八雲が懇願する。少女は、静かに口を開いた。
「どうして?テンマみたいになりたかったんでしょ?たくさんの友達と、あなたを一生懸命に
想ってくれる人、あなたはその両方を手に入れたのよ。いったい何が不満なの?」
今度は、少女が八雲に問いかける。何秒かの沈黙の後、八雲は少女を見据え、答えた。
「私は、姉さんじゃないもの」

「姉さんは、いつも私のことを守ってくれた。泣いてる私の手を引いて、ここまで連れてきてくれた。
 私は姉さんの強さがうらやましくて、姉さんみたいになりたかった」
「・・・」
「でも、こういうのは違うと思う。私は、自分の力で変わっていきたい」
少女は、一言も発しないまま八雲を見つめている。
「・・・それに、姉さんになってみてわかったの。私は、やっぱり姉さんのことが好き。今まで
守ってもらってたから、今度は私が姉さんを守りたい。姉さんを好きでいてくれる人たちを、
悲しませたくないから」
「―――!」
少女は、糸の切れた操り人形のように、がっくりと膝をついた。
「・・・どうして、どうしてなの?あなたはずっと人間の一番汚いところを見てきたじゃない。
なのに、どうして!?どうしてあなたは人間を嫌いにならないの!?」
「・・・私には、姉さんがいてくれたから。ううん、姉さんだけじゃない。サラ、高野先輩、
 播磨さん、修治くん、それから花井先輩も。私は、もう泣きながら姉さんの後ろを追いかけてた
 あの頃の私じゃない。私を大事に思ってくれるヒトがいる限り、私はヒトを嫌いにならないで
いようと思うの」
そう言うと八雲は、少女をそっと自分の方へと抱き寄せた。
「姉さんが私にしてくれたように、私があなたを守ってあげる。だから、もう悲しまないで。
 あなたは、もう一人じゃないから」
少女の瞳から、涙が溢れる。
「うわあああああああああん!」
少女は八雲の胸に頭を埋め、しばらくの間泣き続けた。

けたたましい目覚まし時計のアラーム音が、朝の到来を告げる。
「ん〜八雲、おはよ〜」
珍しく一人で起きてきた天満が、目をこすりながらテーブルへと着いた。
「姉さん、おはよう」
「何か変な夢見ちゃったよ〜。私が八雲でね、伊織が私なの」
「・・・そう、姉さん」
「あれ?今日の朝ご飯、いつもより多いね。どうしたの?」
天満は、こういう時だけ妙にカンが鋭い。不思議そうな目で、彼女はテーブルの上の朝食を
見つめている。
「私、こんなに食べられないよ?もったいない」
「・・・いいの、これで」
「うーん、何だかよくわからないけど、八雲がいいって言うならいいや。それじゃ着替えて
くるね〜」
目の前のご飯をあっという間に平らげると、天満はさっさと自分の部屋へと戻ってしまった。
それを見た八雲も、エプロンを外して学校へ向かう準備を始める。
「お待たせ!学校行こ!」
「うん、姉さん」
「あれ?朝ご飯のお片づけ、もう終わったの?」
「・・・うん」
天満は一瞬怪訝そうな目をしたが、すぐにいつもの表情に戻ると、そのまま走っていってしまった。
「八雲、早く早く!」
「待って、姉さん。戸締まりをしないと」
ポケットから玄関の鍵を取り出すと、八雲は誰にも聞こえないような声で小さくつぶやいた。
「・・・行ってくるね」
八雲は玄関の鍵がきちんとかかったのを確認すると、カバンを手に、天満のもとへと走っていった。




作者さまあとがき

というわけでスレの復興を願ってTSモノを一つ。八雲の台詞は、自分なりの思い入れを込めて
書いてみたつもりです。
自分としては、やっぱり今のところ八雲の一番は天満なのかなーなどと思っています。
あと、本当は天満(中身は八雲)が答えを即答して驚く絃子先生や美琴にどつかれる今鳥などの
ネタも用意していたんですが、あまりに長くなりすぎてしまうので泣く泣くカット。
短くまとめる技術は大事だなと感じました。
次は誰も書いてない(たぶん)イマイチコンビで一本書きたいです。
2007年02月01日(木) 11:29:49 Modified by ID:BeCH9J8Tiw




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