IF6・Dark Blur Moon

515 名前:Dark Blue Moon :04/04/09 21:03 ID:iCNttC6U

 画材というものは思っていたよりも高かった。
 慰みに書き始めた漫画に私財をつっこむのは、自分でもどうかしているとは思う。
 ましてや常に貧困にあえぐ苦学生の身であるというのにだ。
 やらねばならないことはあるし、このまま描き続けるつもりなのかも分からない。
 最近は自分でもどうして漫画を描いているのかと自問してしまう。
 だが、面白いと言ってくれる人がいる。
 才があるといってくれる人がいる。
 ならばもう少し描き続けてもいい。
 自答は決まってそれに落ち着く。

 画材を専門的に扱う店、そのバーゲンセールのトーンを睨みながらそこまで考え終わると
いくつか見繕ったものと消耗品を手に彼はレジで会計を済ませた。
 長身で筋骨も隆々、いかにも不良のレッテルを貼られている風貌でドアからくぐってきた男。
 播磨拳児はぐずつく曇天をサングラス越しに見上げた。
(チッ、こりゃ一雨降ってきそうだゼ)
 店にはいるまでは割と天気は良かったはずだと思い返す。
 つまり自分はそれだけ長時間、店にいたということだろうか?
 店に入った時間など確認していないが、滞在時間は精々十五分から三十分といったところだろう。
 ポケットから携帯電話をとりだし時刻を確認してみる。
(やっぱ、そんぐらいだな。しゃーね、さっさと帰るか)
 家を出たときの天気から傘を持っていない拳児は、そう判断すると少々早足で帰路についた。




516 名前:Dark Blue Moon :04/04/09 21:05 ID:iCNttC6U


 住宅街はこの天気を見てか、洗濯物なども見られず行き交う人も少ない。
 歩いている人たちもいるにはいるが、皆どこか急ぎ足のように見える。
 暗雲といえるまでに日を遮り始めた雲は今にも落ちてきそうな気配だ。
 紙袋を片手に歩く拳児もその例に漏れずそそくさと道を行く。
 そこで突然、くっと抵抗を感じた。
 まるで枝に服が引っかかったかのように後ろに引っ張られる。
「おっ」
 疑問に思いながら拳児は振り返った。
(………………)
 だが、振り返ったその先には何もない。
 服が引っかかるような突起物も、漫画のように誰かが引っかけた釣り針や糸も存在しない。
(……気のせいか?)
 腑には落ちないが、ないものはない。
 拳児は気を取り直して再び歩き出す。

 くいっ

 足を止める。
 再度振り返ってみる。
 やはり何もない。
(そういや、最近徹夜を続けたりしたなー)
 インスピレーションに任せて書き殴った自分の漫画を思い出す。
 そのせいで疲れでも溜まっているのだろうか、どうにもさっきから視線も感じている。
 その場で一つ深呼吸をする。
 うし、と一息つくと拳児は帰投を再開した。



517 名前:Dark Blue Moon :04/04/09 21:07 ID:iCNttC6U

 くいっ

(………………)
 僅かに感じる抵抗と視線。
 それは無視できないものではない程度の微弱さだ。
 拳児は振り返ることもなく、歩み続けた。

 くいっ

(………………)

 くいっ

(………………)

 くいっ



518 名前:Dark Blue Moon :04/04/09 21:07 ID:iCNttC6U

「だぁぁぁっ!」
 辛抱と無視の限界を超えた拳児はその場で急反転、フィギアスケートも真っ青な高速回転を
してみせた。
 しかし目の前にはやはり何もない。
 歩いてきた道が繁華街へと続いているだけだ。
 いや、違う。
 目の前には確かにないが、腰のあたりに何かいる。
 黒髪に褐色の肌、黒いワンピースにスパッツ、目鼻立ちは整っているが前髪が少々長い女の子。
 そんな全身真っ黒な女の子がチョットおびえた表情でこちらを窺っている。
「……あー、さっきから引っ張っていたのはオマエか?」
「……(コクリ」
「………………」
 当然だが見覚えのない子供だ。
 年の頃は弟の修治に近いとは思うが、言うまでもなく拳児にそんな知り合いなどいない。
「で、何の用だ、嬢ちゃん」
「………………」
 よく見れば、顔の造形が日本人離れしている。どちらかといえばあの金髪女、沢近愛理のような
欧米型の顔作りだ。手荷物も見あたらない、空手のようだ。
 表情はよく見えないが先程の怯えているような、驚いたような気配は既にかき消されている。
 しばらく待ってみたが、女の子はいっこうに喋り出す気配がない。
 やれやれと頭を掻きながら、女の子に目線を合わせるため拳児はしゃがみ込んだ。
「迷子か?誰かとはぐれたのか?」
「……(フルフル」
「んじゃ、友達の家でも行くのか?それで道が分かんなくなったとか」
「……(フルフル」



519 名前:Dark Blue Moon :04/04/09 21:09 ID:iCNttC6U

 どうにも要領を得ない。
 あれやこれやとこちらから質問しても、答えは全部「NO」または「?」
 かといって具体的に聞くと口を閉ざして喋ろうとしない。
 そのくせ彼女の顔は拳児に向けられたまま、反らさない。
 元々我慢強い方ではない拳児はついに切れた。
「うがぁぁ!いい加減何か喋れ!それとも何か?喋れねーとでも言うのか!?」
 その怒声に一瞬ビクッとするものの女の子は、暫し間をおき
「……(コクリ」
 しっかりと頷いた。




520 名前:Dark Blue Moon :04/04/09 21:11 ID:iCNttC6U

 挑発じみた大声は、発した本人も予想外の肯定を得ていた。
 てっきり怯えて逃げ出すかも、と考えてた拳児には、それこそ声も出なくなるような結果だ。
 しかし、この肯いはまた納得できるものでもあった。
 こちらからの質問には是か非か、はたまた疑問符を浮かべるしかしなかった女の子。
 その理由が口が利けないことにあるというのなら理解できる。
「わりぃ、悪気はなかった。……怒鳴っちまってすまねーな」
「……(フルフル」
 幸い女の子は気を悪くしていないようだ。
 女という生き物はとりわけ扱いが難しい、と日々痛感させられている拳児にとって
この場で泣き崩れられるようなことになれば、一体どう繕えばいいのか悲嘆にくれてしまうだろう。
(しっかし、どーすっかなーこの状況……)
 道には自分と腰元の女の子、二人だけ。
 頭上で停滞している雨雲は進行形で濃度増加中。
 意志の疎通は一方通行。
 そして、何故か女の子は未だ自分の服を掴み、離していなかった。
 数多の選択肢が脳裏を駆けぬける。拳児はその中で最も妥当なものを選んだ。
「いいか、嬢ちゃん。この道を真っ直ぐ行ったところに交番がある。わかるか?お巡りさんだ。
そこに行けば嬢ちゃんの悩みも解決する。なんてったって国家公務員だからな。いや、地方公務員
になるのか?ま、どっちでもいい。とにかく向こうへ行けばオールOKだ」
 掴んでいた手を離させて、女の子を180度方向転換させる。
 何かもの言いたげな表情でこちらを見つめる女の子をよそに、拳児は話を進めていく。
「雲行きも何か怪しいし、急いだ方がいいぞ。俺も帰るしな」
「………………」



521 名前:Dark Blue Moon :04/04/09 21:11 ID:iCNttC6U

 話し終えた空間に漂うものは(当然といえばそうだが)沈黙だった。
 拳児の言っていることを理解はしているようだが、その言に対する同意はない。
 女の子は一向に動き出す気配がなかった。
「……じゃ、俺は行くぞ」
 短くそう言い残し、拳児は歩き出した。
 もう、服に抵抗感は感じない。
 視線は感じるものの、そこの角を曲がればそれも解決するだろう。
 背後に動く気配は感じられない。おそらくこちらをじっと凝視しているのだろう。
 それが気にならないと言えば嘘になるが、これ以上他人である自分がとやかく言うことでもない。
 拳児はそう自分に言い聞かせ、これまでのように足早に帰途に戻った。



522 名前:Dark Blue Moon :04/04/09 21:12 ID:iCNttC6U

 我が家がそろそろ視界に入るかというところで、ぽたりと冷たい感触が頬を伝った。
 思わず空を睨みつける拳児。
(くそっ、振ってきやがった……)
 ぽたり、ぽたりと落ちてくる雫は大した時を経ずしてその量を増やしていく。
 買ってきた画材を懐に忍ばせ、拳児は走り出した。
 せっかくなけなしの金で買ってきたというのに、雨でおじゃんはあんまりだ。
 自然現象に悪態をついても仕方がないが、間の悪い降水に怒りをぶつけずにはいられない。
 リズミカルな呼吸で四肢を動かし、足音に水気が含まれる寸前で拳児はマンションへ到着した。
「ふー、もう少し早く降り始めていたらやばかったな」
 画材を懐から取り出し、濡れていないことを確認すると、拳児は鍵を開け玄関戸をくぐった。
 自室に紙袋を置き、雨に濡れた衣類を変えるため箪笥から適当に服を見繕う。
 ぱたんと箪笥を閉じ脱衣所へ向かおうとする拳児に、しかし強い抵抗感。
「おっ」
 体を後ろに引っ張られる、その感覚の原因は箪笥に挟まっている服の裾だった。
 箪笥を再び開けながら、ふっと先程の女の子を思い出す。
(……まさか、もうあそこにいるわけねーよな)
 外は既に結構な雨だ。天気予報などで言えば強い雨と言われる程度に降っている。
 あの場所から動いていなければ当然びしょ濡れだろう。
 加えて雨は止む気配がない。
 おそらくこれから一両日中、短くとも明日までは降り続けるに違いない。
(………………)



523 名前:Dark Blue Moon :04/04/09 21:12 ID:iCNttC6U

 着替えを片手にぼうっと窓の外を見ながら、拳児は物思いに耽っていた。
 自分が彼女に言ったことは正しい。
 交番は存在するし、仮に駐在していなくても雨を凌ぐことはできるだろう。
 それに自分以外にも誰か他の人が気にかけるかもしれない。
 客観的に考えても自分の行動は一般的で、公序良俗に反していることはない。
「……それがなんだってんだよ、俺は…不良だぜ。くだらねぇ、何がコウジョリョウゾクだ。
気になるなら見に行けばいい。それだけだ」
 自らにそう言い聞かせるように一人ごちると手に持つ着替えをベッドに投げ捨て
拳児は玄関へと向かった。
 自らの傘を持ち、鍵をかけることもなくマンションを後にする。
 ぴちゃ、ぴちゃと足音を立てて歩く人影は己のみ。
 動くものは他に見えない。驚いたことに車一台も通らない。
 黙々と拳児は目的地へ邁進していった。



524 名前:Dark Blue Moon :04/04/09 21:13 ID:iCNttC6U


 だが、そこには誰もいなかった。
 あの女の子と出会った道はざーざーと雨が降りしきるのみ。
 人影どころか猫の子一匹として見あたらない。
「……帰るか」
 くるりときびすを返し、拳児はやって来た道を戻り始めた。
 不思議と気分はそんなに悪くない。
 もやもやとしていた気持ちが無くなったからだろうか。
 予想通り道路には誰もいなかった、そう結論づけられる事実が確認できたことが重要なのだ。
 拳児はそう思うことにした。

 くいっ

 ぴたり、と足が止まる。
 この控えめながらも意志を感じさせる引っ張り方は、今のところ一つしか思い当たらない。
 ゆっくりと振り返る。
 果たしてそこには、頭のてっぺんからつま先まで水浸しの女の子の姿があった。



525 名前:Dark Blue Moon :04/04/09 21:14 ID:iCNttC6U

「………………」
 じっとこちらを見つめてくる瞳は真摯だ。
 怒りも喜びも悲しみも、その双眸からは感じられない。
「ずっと、ここにいたのか?」
「………(コクリ」
 疑う余地はなかった。
 ずぶ濡れの格好は少し前から地を潤すこの雨のせいだろうし――
「交番には行かなかったのか……」
「………(コクリ」
 ――なにより拳児自身も薄々感じていたことだ。
 あの女の子はずっとあそこにいるのではないだろうか、と。
「家は、どこだ?」
「………………」
 出会ったときからのコミュニケートで分かったことがある。
 彼女には言いたくないことを聞かれたとき、決まって視線を右下へ逸らす癖がある。
 今の彼女の視線がそれだ。
「親は?兄弟はいないのか?」
「………………」
 端から見れば幼女へ詰問している不審者に見えたかもしれない。
 拳児の声色は、お世辞にも柔らかいとは言えないものだからだ。
「………………」
「………………」
 はぁ、と誰から見ても分かるほどの大きなため息を拳児はついた。
 彼女の頑なさは、今の彼女の状態が明らかにしている。
 おそらく交番に連れて行ってもダメだろう。離してくれそうな雰囲気ではない。
「……ウチに、来るか?」
「………(コクリ」
「いっとくが、雨が止むまでだぞ?」
「………(コクリ」



526 名前:Dark Blue Moon :04/04/09 21:16 ID:iCNttC6U

 ぼりぼりと頭を掻きながら拳児は女の子に近づいた。
「ほれ、傘に入れ」
 ぐいっと女の子の身を寄せる。
 抗う力もなく、最初の出会いの時のように彼女は拳児にまとわりついた。
(体が、かなり冷えてやがる……)
 服の上からでも分かるほど、彼女の体は冷え切っていた。
 無理もない。夏も終わり、秋の訪れを感じる中、長時間とまでは言わないにしろ
雨中で一時濡れ続けたのだ。
 これで体が冷たくならない方がどうかしている。
 既に二人の足は動き始めていた。
 彼女と歩調を合わせるため、歩幅を小さくし速度も落として一緒に歩く。
(帰ったら、まず風呂かな)
 相変わらず服の端を掴みながらついてくる女の子を流し見て、拳児はこれからの行動を
頭に描いた。




527 名前:Dark Blue Moon :04/04/09 21:16 ID:iCNttC6U

「ちょっとそこで待ってろ!」
 そのまま風呂場へ直行しようと思っていた拳児は、玄関口で女の子を待たせて一人
脱衣所へ急いだ。
 彼女は自分が予想していた以上に濡れていた。
 それはいい。
 これから風呂へ入れるのだから、どの程度濡れていても大差はない。
 だが突然体を振り、雨滴をとばして、玄関を水びだしにされるとは思わなかった。
 途中で止めなければ、玄関はスプリンクラーでも作動したかのような有様になっていただろう。
 目的のバスタオルを掴み、玄関口へ戻った拳児は言いつけ通りぽーっと待っていた彼女に
タオルをかぶせると有無を言わさず、ごしごしと拭き始めた。
「ったく、何で俺がこんな事まで……ほら、後は自分でしろ」
 その乱暴な拭い方に文句も言わず(言えないのだが)女の子は渡されたバスタオルで
体を拭き始めた。
 靴を脱ぎ、足の先から綺麗に拭いていく姿は、幼いとはいえやはり女の子なんだな
と感心させられる。
「今、風呂沸かしてる。着替えは……乾くまで適当なものを貸してやる」
 オマエのサイズに合う物はないけどな、と続く言葉は語尾を途切れる。
 理由は目の前にあった。
 今まで出会ってから、ろくに感情らしき物を見せなかった彼女だが、ここに来てその瞳と表情に
はっきりと分かるものが浮かび上がる。
 それは厭悪。
 心なしか手に持っているバスタオルをぎゅっと掴み、自分から距離を取り始めている。
 何気なくすぅっと手を挙げると、彼女はびくっと身を緊張させる。



528 名前:Dark Blue Moon :04/04/09 21:16 ID:iCNttC6U

「……どした?俺、何かやったか?」
「………(フルフル」
「……風邪でもひいたのか?」
「………………」
 上げた手をそのまま彼女の額へ当てる。驚くほど冷たい。やはり早急に風呂へ入れる必要がある。
 しかし、こうやって直に触れても大きなリアクションは無い。
 嫌がる素振りもなければ、我慢している様子もない。
 先程のアレは何だったんだろうか?
(俺の言葉に反応したような…………着替え、か?)
 確かに着る物がないからとはいえ、異性の服を借りるのは少々抵抗があるかもしれない。
 逆の立場だったら、拳児は真っ向から異を唱えているだろう。
 じっと目の前の女の子を見つめてみる。
 女の子は色気づくのが早いというが彼女もそんな年頃なのだろうか?
「あー、服だったらウチには一応女物もある。もちろん、俺のじゃないぞ。俺の従姉妹のだ。
そいつを貸してやる。これで問題ないだろ?」
「………………」
 彼女の反応は乏しい。
 どうやら服のことではないようだ。
(つーことは…………何なんだ?)
 他に思い当たることはない。
 強いて上げるとすれば――
「風呂……か」
「――!?」
 誰に言うわけでもない呟きだったが、面白いほどに過剰反応する女の子。
 腰を引きながら小さく嫌々をする姿は、可愛い物好きの人ならば抱きしめているかもしれない。



529 名前:Dark Blue Moon :04/04/09 21:17 ID:iCNttC6U

「風呂、嫌いなのか?」
「………(コクコクッ」
 今度もじっと彼女を見つめてみる。
 先程までの彼女とはうって変わって真剣な瞳だ。真に迫っている。
 よほど嫌いなのだろうか、流れる蛇口の音にすら反応しているように見える。
「あー、でも風呂入らねーと風邪ひくぞ?」
「………(フルフル」
 謎の否定。
 彼女の体温が下がっていることは、彼女自身が一番よく分かっていることだろう。
 それならば体を温めなくてはいけないこと理解しているはず。
 なのに「大丈夫です。問題ありません」と言わんばかりの否定は自信満々だ。
 疑問に思う拳児をよそに、てててっと女の子は傍によってくると、おもむろに腰元に
抱きついてきた。
 ぴたりと体を密着させ、濡れた服同士を重ね合わせる。
「……何やってんだ?離れろ」
「………………」
「離れろ」
「………………」
 ひっついた方の足をぶんぶん振っても一向に離れる様子はない。
 それどころか離されまいとますますしっかりと抱きついてくる。
「……まさか、引っ付いていたら暖かい、とか考えてんじゃねーだろーな?」
「………(コクリ」
「………………」



530 名前:Dark Blue Moon :04/04/09 21:18 ID:iCNttC6U

 本人は悪気はないのだろう。
 むしろグッドアイディアと思っている節がある。
 笑みこそ浮かべていないが、その瞳には自身が満ちあふれていた。
 だんだんとこういう事には疎い拳児にも、この女の子の扱い方がが見えてきた。
(こいつは甘くしてたらどんどんつけあがるタイプだな)
 ならば接し方を変える必要がある。
「じゃ、このまま風呂へ行くかな」
 ばっとそれまでしがみついていた拳児の足を突き放し、咄嗟に距離を稼ぐ女の子。
 先程までの態度は豹変して瞳に不安の色を織り交ぜ、こちらを見ている。
「……そんなに風呂がイヤか?」
「………(コクコクッ」
「そうか、だったら仕方ねーな……」
 ほっと女の子は安堵の気配を漂わせた。
 フラットな胸をなで下ろす姿は、これから拳児が行おうとしていることに
少しだけ罪悪感を感じさせる。
 とはいえ、他に方法も思い浮かばない。
「仕方ねー……」
 そう言いながら拳児は彼女へと近づいていく。
 むんずっと襟首を捕まえると、疑問顔の彼女に告げた。
「無理矢理にでも入れる」
「――!?」
 その言葉を聞くや否や、女の子は途端に暴れ出した。
 襟首が捕まれてはいるが動ける範囲でポクポクと拳児の腕や足、胸を叩く。
 けれどもその肉体には一向にダメージらしき物を与えられない。
「暴れるなって、おい。湯船にドボーンとつかるだけじゃねーか」
 制止の言葉はその力を発揮せず、逆に彼女の勢いを増すだけとなった。
 手数も増え、足までばたばたさせている。
 もちろん、喧嘩無敗は伊達じゃない。拳児には全く通用しない。
 ある一蹴を除いて。



531 名前:Dark Blue Moon :04/04/09 21:18 ID:iCNttC6U

 キーンッ

「――!!っぉぉお!そ、そこは…、そこだけは……ぐっ!」
 がくりと膝をつく拳児。
 と、同時に掴んでいた襟首も放してしまう。
 男という生き物なら避けることのできない弱点を両手で押さえ、突如訪れた痛みの波を
どうにかこうにかやり過ごそうとする。
 女の子の方はというと、解放された瞬間は間合いをとったものの、拳児のあまりの痛がりように
おずおずと近づいてきて様子を窺っている。
「………(?」
「『?』じゃねぇ!くそっ!このガキ……絶対風呂に入れてやる!」
 ぶんっと振り回す手もむなしく空を切る。
 まだ回復しきってない体では、今の発言で再び距離をとった彼女が遠すぎたのだ。
 痛みにこらえながら拳児はゆっくりと立ち上がった。
 対して女の子はじりじりと後ずさりを始める。
「待て!テメエ、逃げんじゃねぇ!」
「――!」
 剣呑な雰囲気を感じたのか、女の子は廊下の奥へと逃げ出した。
 それを追う形で、拳児も続く。
 まるで狡猾なネズミと、愚直なネコの追い駆けっこのような騒ぎがこの家で始まった。
2007年02月02日(金) 00:10:26 Modified by ID:BeCH9J8Tiw




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