IF7・Dear Jessie

421 名前:Dear Jessie :04/05/04 17:55 ID:DSxhjImQ
「やれやれ、だ」
 そうぼやいた絃子がいるのは、シンとした空気が支配する早朝の美術室。時計の針が示す時刻はまだ六時台、
普通に考えれば学校に来るような時刻ではない。実際、校舎の中にも人の気配は他になく、静寂を遮るのは
時折聞こえる鳥の鳴き声程度のものである。
 さて、そんな時間から彼女がこの場所にいる理由はといえば――
「……まったく、仕様がないね」
 恨むよ拳児君、呟く表情は自嘲めいたそれ。
 ――そう、事の発端は『播磨拳児による保健教諭押し倒し事件』である。
 無論絃子としては、そんなことがあるはずもない、という確信にも近い思いはある。そもそもそんな甲斐性が
あるとはとてもではないが思えるわけもなく、なにより今の播磨が見ているのは塚本天満ただ一人。所詮は噂に
尾ヒレが――しかも面白おかしく、泳ぐ魚より遙かに大きなそれが付いた、そんなところだろう、というのが
目下のところ彼女の見解になっている。
 ……とは言ったものの。
 人の心というものはそんなロジックだけで割り切れるものではなく、昨夜は昨夜でふらりと夜の街を飲み歩いて
顔を合わせることのない時間にひっそりと帰宅、今朝も今朝で顔を合わせないよう早くから、という有様。もっとも、
この場所を選んだのは厄介な――別段、彼女自身が言及されることなどありはしないのだが――職員会議をボイコット
する、というもう一つの目的もある。
「これじゃあ居場所も何もあったものじゃ……ん?」
 誰にともなくぼやいてみせた彼女の目に留まったのは、イーゼルに立てかけられた一枚のキャンバス。生徒の
作品を放り出しておく、ということはあまり考えられないところから、同僚にして友人たる笹倉のものだろう、
とあたりをつけてから、もう一度じっくりとその絵を見つめる。


422 名前:Dear Jessie :04/05/04 17:56 ID:DSxhjImQ
 キュビズムを始め、どちらかといえば抽象画を得意とする笹倉にしては珍しく、そこにあるのは印象派――
それもどこかゴッホを彷彿とさせるようなタッチで描かれた、一軒の家と太陽の姿。大きく空いた左隅の空間、
そしてその荒々しささえ感じさせる筆遣いから、未完成の習作、といった様子を示している。
 しばらく黙ってその絵を眺めていた絃子だったが、やがて思いついたように絵筆とパレットを手に取り、その
前に腰を下ろす。他人の作品に手を加える、というのはどう考えたところで褒められた行為ではないのだが、
長年の付き合いから、少なくともこの絵に関してはそう厄介なことにはなるまい、という判断で筆を走らせ始める。
 ……もっとも、どこかもやもやとした自分の気持ちであるとか、それ以外の理由もなかったといえば嘘になって
しまう、というところではあるのだけれども。
「……」
 黙ったまま、いつになく真剣な表情で、けれど迷うことなく筆を動かしていく。やがて空白を埋めるようにして
キャンバスの上に現れたのは、二つの人影。未だ描き込まれていないその姿からは、それが二人の人間である、と
いうこと以上の情報を読み取ることは出来ない。
 ――と。
「ん……?」
 ふと覚えた奇妙な感覚に絵筆を止める絃子。
 人の気配は感じない、けれど確かに感じられる視線。
 言葉にしてしまえば首を捻るしかないその状況に、違和感と同時に訪れる既視感。
 自分はこの感覚を知っている――
「……ふむ」
 そう小さく呟いて、どこか懐かしいその感覚に、さてなんだったか、と思いを巡らせ記憶を遡る。初めて教壇に
立ったときのこと、播磨が居候することになったときのこと、そんな幾つかのターニングポイントを経て、学生時代
にまで巻き戻った記憶の中で。
「――ああ、そうか」
 ようやくその正体に思い当たり、成程、と呟いてから振り返る。
「まだここにいたのか。随分と久しぶりだ」
 部室ならお茶の一つも出すところなんだが、と肩をすくめて見せた絃子に。
「結構よ。どうせ飲めるわけでもないわ」
 久しぶり、と。
 中空に浮かぶ少女は、相も変わらぬ無表情でそう言った。


423 名前:Dear Jessie :04/05/04 17:56 ID:DSxhjImQ
「さて、今日は何の用かな。君のことだからただ挨拶に、なんていうわけでもないんだろう?」
「もしそれだけだと言ったら?」
 仏頂面のそんな答が返ってきたことに軽い驚きを覚える絃子。少なくとも彼女の記憶の中のでは、こういった類の
軽口はあっさりと切って捨てるタイプだった。実際のところは、彼女と初めて出会った当時の絃子自身もそういった
タイプだったために、それこそ真剣で渡り合うような会話が繰り広げられたのではあるが。
「……何かしら、その表情は」
 そんな絃子に対してわずかに半眼になる少女。その様子さえ、絃子から見れば微笑ましいとさえ思えるようなもの
だったが、折角なのだから、とあえて口にはせず首を振って見せる。
「いや、私も歳をとったと思ってね」
 光陰矢のごとし、だ――そう笑って見せた絃子に、そうね、と少女は一言。
「……参った、降参だよ。以前の君とはまるで違う、一体何があったのかな?」
「さあ、何かしらね。ただ、私にも時間が流れている……それだけのこと」
 両手を上げておどけて見せた態度にもさらりとした受け答え。それを聞いてこれは確実に何かがあった、との思い
を強くする絃子。世界の全てを敵に回して、それでもなおそこに向かって手を差し伸べていた、そんな少女の姿は
もうどこにもない。
「どうやらあのときの問には答を得たようだね」
 そう言って、先刻手をかけた記憶の扉を開け放つ。
『――友達ってどういうこと?』
 それが当時絃子に向かって投げかけられた問だった。
 何故その質問をよりにもよって友達のいない自分にしてきたのか――今ならば、だからこそ自分が選ばれたのだと
絃子は思う――分からなかった彼女は、
『自分で考えなさい』
 あっさりと切って捨てて見せた。おかげで最後まで二人の会話は剣呑極まりない雰囲気のままであり、しかしどこか
好敵手とも言えるような、そんな印象を持ったままで別れることとなった。要は似たもの同士だった――そういうこと
なのだろう。


424 名前:Dear Jessie :04/05/04 17:57 ID:DSxhjImQ
 結局その後彼女と再び会うことのなかった絃子は、けれど笹倉葉子という『友人』と出会い、彼女との日々の中で
問に対する答――言葉にしろと言われたならば、いささか難しいと言う他ないものの――を得ていくことになった。
「君も誰かに出会った、ということかな」
 漫然と時を過ごしているだけでは解けるはずもない問題。彼女のその変貌ぶり、そして自分の前に再び現れたことから
そんな推測を立てる絃子。
 けれど。
「半分正解、というところかしら」
 彼女にしては珍しく、視線を外した少女からははぐらかすような答が返ってくる。そうか、と返事をしながらも心の
中で首を捻る絃子。とは言え、こういった場合の追求は藪蛇になりかねない、とひとまず状況を保留する。
「……それで、だ。本題の方は何なのかな?」
 絃子の言葉に逸らしていた視線をまっすぐに絃子の瞳に据える少女。
 その口から紡がれたのは、あの日と同じように、一つの問いかけ。
「――人を好きになるってどういうことなのかしら」
「……」
 普段とは違う真剣な表情で、その視線を正面から受け止める絃子。
 粘性を帯びたような、そんなどこか重苦しい空気が場を流れ、そして――
「答が分かっていることを人に訊くのはあまりお勧め出来ないな」
「……イトコ」
 やがて口を開いた絃子は、フン、と表情を崩して小さく笑う。
「これでも昔と違って一応教師でね、生徒には自分で考えてもらいたいと思ってるんだ」
 それに君の様子を見てるとな、もう答は得ているか、さもなきゃそのすぐそばにいる、そうとしか見えないよ、と結ぶ。
根拠も何もない、直感から出したような考えだったが、彼女には不思議とそれしかない、という自信があった。


425 名前:Dear Jessie :04/05/04 17:57 ID:DSxhjImQ
「そうね……そうかもしれない」
 応えるように、少女の返事も肯定。あの子ならそれを見せてくれるかもしれない、と歌うように呟く。それを聞いて、
いい友人を見つけたようだ、と微笑む絃子。
「ええ、確かに彼女はとても面白いわ」
 でもね、と思わせぶりに少女の言葉はさらに続く。
「私にその『友人』というものがどういうものなのかを教えてくれた人も同じくらい面白いわ」
「ふむ、君が面白いと言うとはね。それは会ってみたいものだな」
 心なしか早口になった少女の様子に不審を抱きつつも話に乗って見せる絃子に、あら、そんなの簡単よ、とわずかに
表情を動かす少女。
「簡単……?それは私が知っている相手、ということかな」
「知ってるも何もないわ。私が言ってるのはね――イトコ、あなたとヨウコのことよ」
「……何?」
 予想外の展開にあっけにとられた、という様子の絃子を見て、あなたのその顔が見たかったの、それが本題、と大きく
表情を動かして、してやったりの様相を見せる少女。さらに、我に返った絃子が口を開く前に一気に別れを告げる。
「それじゃ縁があったらまた会いましょう」
 どこか得意気な口振り、そして――
「     、イトコ」
 ――初めて見せる笑顔とともに彼女は消えた。
「……」
 一方、完全に主導権を握られたまま取り残された絃子は、つい今しがたまで少女がいた空間を黙って見つめる。一分ほど
そうしていたか、ふう、と一つ溜息をついてから再び絵筆を手に取り、キャンバスに向き直る。
「……参ったな」
 やがて、心底やられた、というように呟く絃子。よもや彼女がそんな言葉を口にするとは思いもよらず、ましてそれが
自分に向けられた、という事実に驚きを禁じ得ない。完全に不意打ちだぞ――出てくる言葉は悪態にも似たものだが、
その表情はいつにもまして明るいもの。
「まったく――」
 噛み締めるように、そして嬉しそうに、絃子はその言葉を呟く。
「――ありがとう、か」


426 名前:Dear Jessie :04/05/04 17:57 ID:DSxhjImQ
「あら?何してるんです刑部先生?」
 やがて今度は美術室の本来の主である笹倉がやってくる。勝手に入って、と言いながらもその声に咎めるような響きはなく、
友人の時折見せる突飛な行動には慣れている、という様子である。対する絃子も、いや、ちょっと絵を、ね、と何でもない
ように言葉を返す。
 普段ならそれまで、という場面なのだが、いえそうじゃなくて、とさらにそれを返す笹倉。ついで、今日がいつもと異なる
理由にして、まさしく絃子がここにいる理由でもある職員会議について尋ねる。
「今朝は職員会議でしょう?」
「そ。緊急のね――だから緊急避難してきた」
 あっさりとそう答えて絵筆を走らせつつ、あまつさえ、よく描けるなこれ、などとぼやいて見せる。そんな様子に、それ
私の絵、と呟きつつも、はあ、と小さく溜息をつくだけの笹倉。そんな彼女に向けてかどうなのか、遠くを見るような視線で
絃子はぽつりと呟いた。
「……イヤ。なんかメンド臭そうなんでね」
「何か言いました?」
 聞き返した笹倉に、いや、と今度は肩をすくめて見せる絃子。聞かせるつもりがあったのかなかったのか、本人でも分からない
言葉、それをどうということはないかのように流してしまう、そんな返事。
 その空気を察し、会話の方向を変えようとして口を開く笹倉。
「あの、刑部先生」
 私の勘違いかもしれないんですけど、と自信なさそうに前置きをしてから続ける。
「――他に誰かここにいませんでした?」
「どうしてそんなことを?」
 ある意味で核心をついてきたともいえる質問を、やはりなんでもない、というように返す絃子。ただし、その返事は否定も
肯定もしていない。一方笹倉はといえば、それこそ勘に近いような、そんなわずかな違和感による問いかけであったために、
いえ、なんとなくです、と答えるのみ。
 けれど、そんな答こそが絃子にとっては愉快なものに感じられて囁いてみる。
「君も焼きが回ったな、しっかり気づかれてるじゃないか」
「……刑部さん?」
 怪訝そうな顔の笹倉に、いやなんでも、と絃子が答えようとしたその瞬間に。


427 名前:Dear Jessie :04/05/04 18:00 ID:DSxhjImQ
『――余計なお世話よ、イトコ』
 どこからともなくそんな声がする。
「ふふ、なかなかシャイな子でね、人に見られないように隠れるのが得意なんだ」
 え、とさらに困惑の色を強くした笹倉に、こんなものかな、と絵筆を置いてから、冗談とも本気ともつかないよう
な口調でおかしそうに言う絃子。
 キャンバスの上に描き上げられたのは、少女と小さな男の子の姿。二人の手はしっかりと繋がれていて、その表情
までははっきりとは見えないものの、ただ笑顔であることは一目で見て取れる。
「……もしかして、からかってます?」
「いやいや、そんなことはないさ」
 ちょっと肩をすくめてからもう一度その絵を見直し、別に出てもよかったかな、職員会議、とどこか楽しそうに
呟く絃子。少なくとも、心の何処かにあったわだかまりは既になく、今そこにあるのはキャンバスに描かれたような、
そんな郷愁めいた風景のみ。
「……?」
「あー、悪い。今のはこっちの話だ」
 少し照れたような笑みを浮かべてから、しかし、と話題を元に戻す。
「そうだな、どう説明したものか難しいんだが……」
 仮にストレートに幽霊、と説明しても、彼女ならばそれに対して自分なりの解釈を見つけて納得するだろう、と
思う絃子。笹倉葉子、というのは彼女にとってそういう人物である。しかし、それではあまり面白くはないし、
何より少女自身がまだこの場にいる以上、もう少し気の利いた言い方はないものかと考える。
「あの、そんなに無理に説明してくれなくてもいいですよ」
「いや、そういうわけにはいかないさ。なんたって、この私の――」
 申し訳なさそうな笹倉の言葉に返事をする途中で、ああ、と悟る絃子。これならば何の問題もなければ、先ほどの
不意打ちへのお返しにもなる。そんな十全にも近いような答を胸に口を開く。
「――私の古い友人さ」
 笹倉、そして名も知らない少女に向けてそう言って。
 絃子は柔らかく微笑んだ。


428 名前:Dear Jessie :04/05/04 18:01 ID:DSxhjImQ
……とりあえず。
ネ タ が か ぶ っ た _| ̄|〇
申し訳ない次第です。
2007年02月02日(金) 17:57:08 Modified by ID:BeCH9J8Tiw




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