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Q 在日一世はみんな強制連行(=徴用)されてきたの?

A いいえ、在日一世のほとんどが自由渡航や出稼ぎで日本に来ました。朝鮮半島における『徴用』は1944年9月から始まりましたが、これは法によって広く国民一般に義務付けられたもので、当時日本の一部であった朝鮮半島で徴用を行ったことは法的になんらとして問題はありません。また、特定民族だけを狙い誘拐同然に連行したとする『強制連行』と『徴用』は全く違います。『強制連行』で日本に来た朝鮮人は一人も存在しません。 (10分でわかる在日特権Q&A 目次 より)


たしかに、在日一世の中には自由渡航や出稼ぎで日本に来た人も多くいますが、戦時中、「国家総動員法」「国民徴用令」の名のもとに『強制連行』で日本に連れてこられた人も多くいました。ここで争点になるのが、当時日本の法的執行による『徴用』を『強制連行』と言えるのか否かです。

ここで言われている「当時日本の一部であった朝鮮半島で徴用を行ったことは法的になんらとして問題はありません」と言うことを、当時の朝鮮人にとってそれが正当であったのか不当であったのかを、今を生きる私たちが検証しなくてはなりません。

戦時中の朝鮮人動員形態は様々で、その中でどれを「強制連行」と呼ぶかは論者・研究者によって異なりますが、「徴用(1944年9月〜1945年3月※注1)」の他、「募集(1939年9月〜1942年2月)」とそれを引き継ぐ形で導入された「官斡旋(1942年2月〜1945年3月)」を「強制連行」とする点ではおおむね一致しています。

民間の事業主が朝鮮における労働者の募集を申請し、それを朝鮮総督府が認可する、という形式を取っていましたが、その実態は畑仕事や就寝中に無理矢理トラックに乗せて連れて行く、という場合も多くありました。※注2 また、行く先や仕事の内容も知らされなかった例も多くあり※注3、一般の日本国民に対する「徴用」とは明らかに異なる性質のものでした。

とはいえ、当時の朝鮮人に対する「徴用・強制連行」は、大日本帝国の法律の執行という根拠を持って行われた合法的なものです。だからこそ、そこに大きな問題があるわけです。それは、日本国家としてはいかに合法であろうが、あくまでも朝鮮人の立場から言えば、上記の例を挙げるまでもなく強制的に連行されたわけです。

また、その徴用先で当時の朝鮮人と日本人の関係性から推測するに、同じ労働条件で働かされたとは思えません。(※注4

合法でありさえすれば、全ての正当を担保できるわけではありません。

また「『強制連行』という言葉は戦後に政治的意図をもって作られた言葉だ」という主張がありますが、当時の朝鮮人動員に携わる立場の人にもその「“強制”性」は認識されていました※注5

成田空港建設に当たって「土地の強制収用」が「合法的な手続き」によって行われましたが、このことに対して後に国側は謝罪しています。つまり「合法ではあったが問題があった」と言うことですね。

かつて、ドイツはユダヤ人を多く虐殺しました。しかしそれは当時のドイツ国における正当な法の執行であると言えます。それをもって「アウシュビッツのガス室は法的になんら問題はありません」「法の執行は虐殺ではありません。虐殺を受けたユダヤ人は一人も存在しません」などと言う人は世界中どこを探してもいないでしょう。※注6

*「朝鮮人強制連行」に関する調査はいまだ十分と言えず(戦前の未公開の資料や政府関係文書が外務省などに存在すると言われています)、現在もなお研究者のなかでも進行中であることも添えておきます



注1

ただし、朝鮮に対する徴用令施行自体はは1939年に行われており、実質的に始まったのが1944年9月以降と言われています。また当時の朝鮮人からは「徴用」も「募集」も「官斡旋」も同質のものと思われていたようです。戦後、一世が1944年よりも前に動員されたことに関して「徴用された」と証言しているのはこのためと思われます。

注2

…戦争が次第に苛烈になるに従って、朝鮮にも志願兵制度が敷かれる一方、労務徴用者の割当が相当厳しくなって来た。   納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果すといふ乱暴なことをした。
鎌田沢一郎「朝鮮新話」創元社、1950年
半島労務者の労務管理には幾多の問題が存してゐる。先ず労務管理は募集の時から始まるものと謂はれる。蓋し言語風習を異にする場合其の労務管理は朝鮮にゐる時から始ってゐると知るべきだとの信念を有する人(石炭統制会の田中勤労部長の如き)すらある。何となれば朝鮮に於ける募集状況を見るに、曽ては野良で仕事最中の者を集め、或は寝込みを襲ふて連れて来る様な例も中にはあって其の誤れるや甚しい。
「半島人問題」思想対策係、1944年8月
徴用は別として其の他如何なる方式に依るも出動は全く拉致同様な状態である 其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其の他各種の方策を講じて人質的略奪拉致の事例が多くなるのである、何故に事前に知らせれば彼等は逃亡するか、要するにそこには彼等を精神的に惹付ける何物もなかったことから生ずるものと思はれる
内務省嘱託小暮泰用から内務省管理局長竹内徳治に提出された復命書、1944年7月31日付

注3

B炭鉱の労務課調べによれば、仕事先及び炭鉱について完全に理解を以て渡航する者は約10%程度にして50%以上が行先は勿論、勤務先及仕事について知らずにやって来るという
「炭礦における半島人勞務者」(労働科学研究所1943年9月)

注4

彼らについて新聞は「下関警察署の調査に依れば、同地を通過する鮮人労働者は一箇月五百名を超ゆるといふ。・・・女では紡績工女がその大部分を占め、男は土工、雑役、仲仕、炭坑夫等比較的熟練を要せざる作業全般に亘つてゐる。・・・・・・之等鮮人は後に述べる様に多少の欠点はあるが貰金の安い割合には能率も些しも劣つていゐとは云へない。職工払底の声の無くならない限り、今後共に鮮人労働者の移入は益々増加することであらう・・・」と報じ、これら朝鮮人労働者の賃金についで「築港の富栄組では通常内地人仲仕が一円二、三十銭の日収あるとき、鮮人仲仕には九十銭を与へてゐる」と報道している。
(原注)『大阪毎日新聞』1917年(大正6)年8月17日付
『在日、激動の百年』(朝日選書) 金賛汀 p21

注5

為に民衆をして当局の施策の真義、重大性等を認識せしむることなく民衆に対して義と涙なきは固より無理強制暴竹(ママ)(食糧供出に於ける殴打、家宅捜査、呼出拷問労務供出に於ける不意打的人質的拉致等)乃至稀には傷害致死事件等の発生を見るが如き不詳事件すらある。斯くて供出は時に掠奪性を帯び志願報国は強制となり寄附は徴収なる場合が多いと謂ふ
「炭礦における半島人勞務者」(労働科学研究所1943年9月)

注6

戦前のドイツ・日本は法治主義を採用する法治国家であったとされるが、それは、々駝韻慮⇒自由を制約する法律の内容を国民自身が決定することができるという民主主義と結びついて構成されたものではなく、∨[Г合理的で正義に基づいていなければならないという、法律の内容に対する要請は問題とはならず、内容とは関係のない専ら形式的な法律による統治を採用するものであった点に注意されたい。少なくとも戦前のドイツ・日本では法律に基づいた統治が、必ずしも正義に基づいた統治を意味するわけではなかったのである(芦辺信喜『憲法』(岩波書店、2004年、14〜15頁))。

太字は引用者
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