在日のほんとうの姿を知りたいあなたへ。

Q 在日は民族教育を受けているのですか?


在日コリアンの民族教育の歩み

1.戦前


在日の民族教育の始まりは戦前にさかのぼります。当時朝鮮人に対しては同化政策がとられ、在日朝鮮人の子供も日本人と同じ教育を受けることを促されました。当時はすでに日本で生まれた、母語(朝鮮語)がおぼつかない二世の子供たちもいました。こうした子供たちに朝鮮語や朝鮮の文化を教えるため、各地で有志による私塾や夜間学校がつくられました。しかしこれは当時にあっては非合法なもので、当局による弾圧を余儀なくされました。

2.終戦直後


戦後、それまでの抑圧をはねのけるかのように在日朝鮮人の教育熱が高まりました。「知識のあるものは知識を、お金のあるものはお金を、力のあるものは力を出そう」を合言葉に日本各地に国語教習所(ここでの国語とはもちろん朝鮮語のことです)がつくられ、やがてそれは在日本朝鮮人聯盟(朝聯)のもとで学校として発展し、1947年には500以上の朝鮮学校が設立されました。一方同じ頃、後の民団の前身である在日本朝鮮民居留民団によっても50以上の民族学校がつくられました。

しかし、一度はこうした民族学校設立を認めていた日本政府は、GHQの意向により突然態度を変え、1948年1月24日に「朝鮮人学校の取り扱いについて」という文部省学校教育局長通達を出し、朝鮮人の子供たちを日本の学校に就学させることを義務付け、また、朝鮮学校を法的に認めないという方針を明らかにしました。

これに反発した学校関係者・父兄たちは各地で抗議運動・反対運動を起こしました(これを阪神教育闘争といいます)。これに対し警察と占領軍は弾圧をもって応え、一時は非常事態宣言が出されるほどでした。多くの検挙者を出したのみならず、4月26日の抗議集会では、わずか16歳の金太一少年が警察官の発砲によって亡くなるという、いたましい事件も起こりました(阪神教育事件)。

1949年、こうした運動もむなしく、朝聯は解散を命じられ、一校(大阪白頭学院)を除いた全ての朝鮮学校が閉鎖に追い込まれました。在日朝鮮人の子供たちは無認可の学校、あるいは公立分校としてわずかに残された朝鮮学校に通うか、日本の学校に通うかしかありませんでした(経済的な理由などで不就学児童となる子供も大勢いました)。一部の日本の学校では在日朝鮮人児童に対する民族学級なども設けられましたが、これも十分なものとは言えませんでした。こうして多くの在日の子供たちが、満足に民族教育を受けられない状況が生まれたのです。

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