第 十 三 巻

聖護院無品親王(静恵)御違例の時、医療術をつくさるといへども、しるしなかりければ、門徒の上総宰相僧正行舜、大弐僧正公胤以下の人々、信読の大般若経を転読して、祈祷をいたさる、この人々はみな、佛家の鸞鳳、僧中の竜象なりき。しかれども、すでにあやうくおはしましければ、この人々をさしをかれて上人を招請せられしに、御使二度まではかたく辞退してまいりたまはず。第三度の御使に宰相律師実昌と云人来臨して、理をまげて一度まいりたまひて、念佛の事申きかさせ給へとて、引立る様にせしかば、まことに往生しましますべき人にてもや御坐すらんとて、やがて律師の車にのり具してまいりたまひぬ。親王御対面ありて、いかゞしてこのたび生死をはなれ侍るべき。後生たすけ給ふと仰られければ、上人臨終の行儀を談じ申され、彌陀本願のおもむきをのべ給ふに、親王感涙しきりにくだりたまひ、帰敬のたなこころをぞ合せられける。上人はやがてかへり給にければ次の日御往生ありけるに、最後に念佛一万五千遍申させ給て、念佛とゝもに、御息とゞまり給にけり。諸人隨喜の掌を合せ、上人の徳をぞほめ申ける。実昌律師、後に御往生のやうを上人に語申されければ、上人もよろこび申さりけり。延暦寺東塔、竹林房静厳法印、吉水の善房にいたりていかゞして此たび生死をはなれ候べきとの給ければ、源空こそ尋申たく侍れと答申されけるに、法印又決択門はさる事にて、出離の道にをきては、智徳いたり道心ふかくましませば、定めて安立の義候らんと申さるれば、源空は彌陀の本願に乗じて、極楽の往生を期する外は、またく知ことなしと。法印申さるゝやう、所存もかくのごとし、美言をうけたまはりて、愚案をかたくせんがために尋申す所なり。但妄念のきをひおこり侍るをば、いかがし候べきと。上人の給はく、是煩悩の所為なれば、凡夫の力及べからず。たゞ本願を頼て名号を唱ふれば、佛の願力に乗じて往生をうと知れりと。法印信心決定し、疑念たちまちにとけぬ。往生さらにうたがひなしとて、退出し給けり。
上人清水寺にして、説戒のつゐでに、罪悪の凡夫なれども、本願をたのみて念佛すれば、往生うたがひなきむね、ねんごろにすゝめたまひければ、寺家の大勧進沙彌印蔵、ふかく本願を信じ、ひとへに念佛に帰す。是によりて文治四年五月十五日、滝山寺を道場として、不断常行念佛三昧をはじめしに、能信といへる僧、香爐をとりて、開白発願して行道するに、願主印蔵寺僧等、ならびに、比丘比丘尼その数をしらず、結縁しけり。その行いまに退転なし。阿彌陀堂の常行念佛と号する是也。抑清水寺の霊像は、極楽浄土には一生補処の薩■、娑婆穢国には施無畏者の大士なり。仁和寺入道親王の御夢想に、観音みづからのたまはく、清水寺の滝は過去にもこれありき。現在れもこれあり。未来にも又これあるべし是即大日如来の鑁字の智水なりとて一首を詠じ給ふ。
 清水の滝へまいればをのつから現世安穏後生極楽
としめし給ければ、大威儀師俊縁を御使として、寺家へ迎送られけるとかや。まことにそのたのみ深かるべきものなり。上人の勧化によりて、この砌にして不断念佛をはじめけるも、よしある事にや侍らん。
南都興福寺の古年童は、上人清水寺にて説戒の時、念佛をすゝめ給を聞て、帰敬渇仰のあまり、やがて発心出家して、松苑寺のほとりに、菴を結て念佛しけるが、つゐに霊瑞を感じ、高声念佛して往生をとぐ。能信といふ僧、如法経のかうぞをうへながら、往生人に縁を結ばんために、棺のさきの火の役をつとめてかへるに異香衣のうへに薫ず。人人奇特の思ひをなし、信心をます者おほかりけり。
建仁二年三月十六日、上人語てのたまはく。慈眼房は受戒の師範なるうへ、同宿して衣食の二事、一向この聖の扶持なりき。然れども法門をことごとく習たる事はなし。法門の義は、水火のごとく相違して、つねに論談せしなり。この聖と源空とは、南北に坊をならべて住したりしに、ある時聖の居たまへる坊のまへをすぐるに、聖見たまひて、あの御房やとよび給へば、とまりて縁に居て候と申に、大乗の実智をおこさで、浄土に往生してんやとの給に、往生し候ひなんと答申とき、なにゝさは見えたるぞとのたまふ間、往生要集に見えて候と申に、往生要集の中をも見給たるぞとの給間、いざたれか中を見ざるやらんと申たれば、聖腹立て、枕をもて投打にかち給へばやはらにげて我坊の方へまかりたれば、をふておはして、ははきの柄をもて肩をうちなどし給ひき。又後に文をもておはして、これはいかにいふことばとのたまふ。心の中に無益なり。事の出くれば、いまは物申さじと誓をおこして、いざいかゞ候らんと申たれば、又腹立て、それらが様なる人を同宿したるは、か様の事にもいひ合せん料にてこそあれとの給き。か様にして、つねにいさかひはせしかども、最後には、覚悟房といひし聖に二字をかかせて、かへりて弟子に成て、坊舎聖教のゆづり文をも、もとは譲渡と書れたりしをとり返して、進上を書なをしてたびて、生々世々にたがひに、師弟とならん料に申ぞとの給き。真言の師範なりし。相模阿闍梨重宴も、最後には受戒の弟子になりて、戒をうけたまひき正しく三部の灌頂をさづけたまひし。丹後の迎接房もかへりて弟子となりて、顕宗の法門、ならびに浄土の法門をば、源空に習て、つゐに往生をとげにき。当時の院主僧都円長は、重宴阿闍梨の真言の弟子なれば、源空には同朋なり。しかるに、かの円長真言の教相を、重宴阿闍梨に問ければ、心にはおぼゆれども、我は非学生にてえ云ひらかぬぞとよ。法然房に問ていはせて申さんと重宴のたまひければ、円長も後には弟子に成て物習はんと云て、やがて受戒して師弟のふるまひにてありき。最初の師範なりし美作の観覚得業も弟子になりて、源空を戒師として受戒し給き。おほくの師範みな弟子と成給し中にも、当時の碩学共の慈眼房の受戒の弟子ならぬはなきに、その師の慈眼房の、かへりて弟子に成給たることは不思議のこととこそおぼゆれなど、さまざまかたり給へば、きく人皆隨喜し、不思議のことなりとぞ申あひける。
左衛門志藤原宗貞、ならびに妻室惟宗の氏女、夫婦心を一にして、堂舎建立の発願をなし、雲居寺の北東の頬に其地をしめ、建仁元年四月十九日に上棟し、同二年春の比其功すでに終にけり。本尊は阿彌陀の像、脇士は、観音地蔵を安置したてまつる。同年の秋のころ。上人吉水の御房より、雲居寺の勝応彌陀院へ百日参詣し給し時、願主宗貞門前に蹲踞して、堂舎建立の旨趣をのべ、御供養あるべき由を望申ければ、上人堂内に入給て、佛像安置の体を御覧ぜられ、この堂は源空が供養すべき堂にあらずとて出られにけり。願主その心を得ずして、周章するところに、或人申て云、上人は勢至菩薩の垂跡にましますと云こと人口あまねし。しかるに脇士に勢至菩薩のましまさゞること、上人の御心に違する歟と申ければ、いそぎ又勢至菩薩を造立し、本の地蔵をば異所に渡したてまつり、その跡に勢至菩薩を居たてまつりて、後上人又雲居寺御参詣の時、建仁二年八月晦日、かさねて案内を申処に、相違なく供養をとげられにけり。別の御啓白なし。たゞ念佛千遍を唱へたまひ、やがて不断念佛を始行せられ、寺号を引摂寺とつけらる。この堂いまにあり。勢至菩薩のうしろにすへたてまつる地蔵これなり。
2007年07月02日(月) 22:14:15 Modified by kyoseidb




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