NHKの大罪 NHKスペシャル「JAPANデビュー・第一回 アジアの“一等国”」についての情報をまとめるWikiです。

「台湾は日本の生命線!」4月11日の記事より一部転載

■朝鮮の「創氏改名」と同じものが台湾で・・・

番組はこうアナウンスした。「皇民化政策は人の名前の変更にまで及んだ」
「同じ時期、朝鮮半島では新たに氏を創る創氏改名が行われ、台湾では改姓名が始まった」と。
これにより視聴者には、あの悪名高い創氏改名と同じような強制が、
台湾でも行われ、人々を苦しめたのか」と考えた人が少なくなかっただろう。

朝鮮で法の改正に創氏改名が始まったのは皇紀二六〇〇年の紀元節に当たった一
九四〇年二月十一日。その日台湾でも同じように改姓名が実施されたのは事実だ
(原住民=高砂族の改姓名はそれより早い)。

もっとも創氏改名に関しては、韓国人一般だけでなく、日本人の間でも「日本名
の強制だった」と認識されているが、実際にはその政策は少なくても、強制を予
定したものではなかった。なぜなら強制ではなく、届出によって行われたからだ


当時は朝鮮人人口の八割以上が、わずか半年との短い届出期間中に届出を行った
ことからも、強制されたものとの印象が持たれているが、千、万単位の一族が一
斉に届け出たケースがほとんどだったことを見れば、これは必ずしも不自然のこ
とではない。

「姓」は持っても、日本のように家の単位である「氏」を持たない朝鮮で、「姓
」とは別に「氏」の設定が義務付けられたのは確かだ(もっとも「姓」は戸籍か
ら抹殺されず、その「氏」と並存)。創氏を届けなかった者は、従来の「姓」が
そのまま「氏」となったが、改名は義務付けられなかった。

日本名は朝鮮人の側から求められたものでもあった。満洲に移民した朝鮮人は漢
人からの迫害を逃れるため、創氏改名を要求、朝鮮総督府を困惑させていた。日
本国民である以上、内地人との格差を嫌い、新時代に適用しようとした人々も法
律上「氏」の設定を望んだ。戦後の日本人が聞けば耳を疑うような話だが、当時
はそう言う時代だったのだ。総督府による創氏改名には、そうした要望に応える
との動機もあった。

いずれにせよ朝鮮の創氏改名は、強引な日本名の押し付けなどでなかったことは
明らかなのだ。南次郎総督は官吏に対し、絶対に強制しないように三度にわたっ
て訓示した事実もある。

その一方で、下層の管理が創氏改名を競い合い、そこで「強制」性が見られたこ
とはしばしば指摘されるところだが、もしそのレベルでの強制ならば、今日の韓
国人の主張とは大きく異なってくる。

では台湾での改姓名はどのようなものだったのか。

■台湾の「改姓名」は条件付の許可制だった

改姓名が実施された四〇年二月十一日、その理由について台湾総督府の森岡二郎
総務長官は「本島人も日本臣民として実質、形式共に内地人と毫も異なる所のな
いものにしなければならない。之が本島統治の方針と合致するものである。之れ
経済的搾取を目的とする欧米諸国の植民地政策と根本的に異なり、同化政策を採
る所以である」と述べている。

また「第二の理由として、本島人中姓名変更を欲する人々の希望を達成せしむる為である」とも強調、
「姓名を内地人式に強いるものでは勿論ない。之は許可制度としたことで明瞭である」と付け加えた。

もちろんそこには他の理由もあったようだ。支那事変中である当時、急進的な同
化政策である皇民化運動の目的には、敵に通じかねない台湾人の漢民族意識を抑
止し、日本国民としての自覚を強化させることがあったが、人々の漢民族式の名
前は、中国への心理的な繋がりを残すものと見られていたのだ。

しかしだからとして改姓名に期待しながらも、それを強制的に行わせたわけでは
ない。森岡長官が述べるように、それは「許可制」だったのだ。

■日本は台湾人改名の弊害を恐れていた

「許可制」が採用されたのは台湾人の反撥を恐れたからではなく、改姓名がもた
らす弊害を懸念したからである。

一言で言えば歴史文化の違いから、台湾人は日本人への同化の上で、朝鮮人より
遅れていた。たとえば同化の基準の大きな一つは日本語の常用率だが、その点で
台湾人は朝鮮人より低かった。やはり重要な基準となる「国民」としての意識に
おいてもそうだった。

そこで改姓名を許可する条件として掲げられたのが「国語常用の家庭であること
」「皇国民としての資源涵養に努むる念厚く、且つ公共的精神に富める者たるこ
と」などである。台湾出身の歴史学者、黄文雄氏は「一族三代から犯罪者を出し
ていないこと」も条件だったと証言している。

そもそも台湾人との文化の異なりが、国民の同一性を求める日本人をして台湾人
を疑わせ、警戒させ、それが差別待遇の淵源の一つともなっていたほどだ。その
ような状況の中で台湾人に、朝鮮におけるように届出だけで日本名を許可するよ
うな措置は採れなかったのである。

司馬遼太郎の『台湾紀行』で「老台北」ニックネームで登場したことでも知られ
る蔡焜燦氏(一九二七年生まれ)は改姓名をしていない。そこでご本人に当時の
状況を聞いてみたところ、「許可制だった。強制は一切なかった」として、次の
ような話をしてくれた。

「私は昭和二十年一月、岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に入隊した。台湾人は
三万人が志願したが、入隊したのは四十名だった。その内改姓名していたのはわ
ずか四、五人。それに対して朝鮮人はみんな日本名だった。私は上官から、あく
までも『さいこんさん』と呼ばれ、可愛がられた。日本名でなくても、私は銀時
計組だった」

本当に強制はなかったのか。許可制ではあったが、「なかば強制するものであっ
た」(戴国輝『台湾と台湾人』)、「地域によっては厳しく強制するところもあ
った」(富沢繁『台湾終戦秘史』)と言った指摘も少なくない。申請を行わない
「国語家庭」に対し、警察官(住民の生活指導を担当)が強く指示し、あるいは
教員が奨励したことを指しているようだ。

その一方で多くの台湾人が改姓名を望んでいたとする政府側の記録も少なくない
。それは食糧の配給が内地人並みに優遇されるなどの理由もあったからも知れな
いが、それよりも台湾人も朝鮮人と同様、内地人との格差撤廃を熱望していたこ
とに注目したい。

日本統治下で日本国民として生まれ育ち、それでありながら内地人との間に格差
を設けられるなか、志願兵制度の施行で志願に殺到し、正真正銘の国民と認めら
れようとした当時の人々の感情に照らせば、そのような願望から改姓名を希望し
たとしても不思議ではない。

■「良し悪し」では語ってならない歴史がある

改姓名が許されて三年後の四三年の段階で、許可された者の数は約十万人。六百
十万人の台湾人人口の一・六%にしか達していない。朝鮮の人口の約八割が創氏
改名を行ったことに比較すれば、わずかな数値である。差別撤廃が進んだ終戦直
前には一〇〜二〇%に増加したとの見方もあるが、それでもはるかに低い。

〜〜後略〜〜

【主な参考文献】
伊原吉之助「台湾の皇民化運動」(中村孝志編『日本の南方関与と台湾』所収、
天理教同友社、昭和63年)
黄文雄『台湾・朝鮮・満州―日本の植民地の真実』(扶桑社、平成15年)
名越二荒之助編著『日韓2000年の真実』(国際企画、平成9年)

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