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Homenajeブックレット和訳

(訳:唐崎。一応完訳です、誤訳等手直しOKです)
(あと他のディスクを訳したい人がいたら勝手に始めてください。全ディスク、訳することを許可されていますので。)



HOMENAJE(讃歌) by Stefano Grondona

マヌエル・デ・ファリャの「ドビュッシーの墓への讃歌(Homenaje pour Le Tombeau de Debussy)」は1920年に作曲されたが、この曲は20世紀のソロ・ギター曲の中で最も偉大な作品だと見なされている、と言っても過言ではないだろう。この曲の歴史的意義は、その内容や形式の成果のすばらしさだけではなく―たしかにこれらも重要であるが―、この曲が、重要なギター作品のなかで、ギタープレイヤーではない作曲家が作った初めての作品だということだ。それまでは、ギタリストでなければギター曲は作れないと思われていた。であるから、この曲をもって、「ギタリスト作曲家」から遠ざかっていくギターレパートリー発展の始まりだと見なすのは間違ってはいないであろう。(「ギタリスト作曲家」か「作曲家ギタリスト」かは読者の視点次第であるが。)その発展は、いままでギターを弾いたことがある、ないに関わらず、ギターのための曲を書きたいと思っていたすべての作曲家へと向かっていった。ファリャは、ある伝統に風穴をあけたのだ。ソル、アグアド、ジュリアーニ、コスト、メルツ、レゴンディ、アルカス、タレガ、リョベートと受け継がれてきた伝統に風穴をあけたのだ。このファリャの作曲は驚くべき完成度であり、もう元に戻ること(訳注:ギタリスト作曲家だけがギター曲をつくる伝統)はできないことを証明するものだった。「Homenaje(讃歌)」はたった2ページの曲であるが、それは明らかにマスターピースであった。ファリャは、古いスペインとそのムーア的遺産を、ドビュッシーを想起させるような抽象的で現代印象派的なやりかたで、魔術のように曲にふりかけることに成功した。まるでドビュッシー本人が、過去の自分の時間に広がる音楽的ランドスケープをながめているかのように。

カタルーニャのギタリスト、ミゲル・リョベートがこの曲を初演したのは1921年2月13日、Burgosでのことだった。彼はまたこの曲の出版にも携わった。リョベートとファリャの友情は、ファリャが他にもギターのために曲を書いたかもしれないと考えるのに十分なほどのだった。実際、1925年に、アルゼンチンの雑誌「ラ・ギターラ(La Guitarra)」はファリャが今新たなギター曲にとりかかっているところだと報じている。しかしながら、何が起ったのか、ファリャはもう二度とギターのために曲を書くことはなかった。アンドレス・セゴビアのエネルギーと情熱をもってしても、ファリャをギターという楽器に戻らせるのに十分ではなかったのである。

どんなギタリストにとっても、どんな世代のギタリストにとっても、Homenaje(ドビュッシー讃歌)を弾くというのは一つのチャレンジである。だから、この曲をCDに収めると約束することは、ある特別な責任を負うということを暗に意味するのだ。責任とは、大変な尊敬を払って曲を取り扱うべき責任である。だから、この曲の題名("Homenaje")が、このミゲル・リョベートの仕事に対するトリビュートであるアルバムの題名にも用いられているのは、偶然ではない。ミゲル・リョベートの名声は時とともに忘れ去られていき、今やっと正当に再評価されつつある。このアルバムがリョベートに捧げられている理由は、彼が"Homenaje"(ドビュッシー讃歌)を弾いた初めての声("original voice")だからだ、という理由のみではない。それは、彼がまるでファリャ自身が書いているかのように(virtual extension of Falla)、ファリャの作品をギターソロやギターデュオのために編曲したからである。しかもそれは疑問の余地なく、「天才の仕事」なのである。これらの編曲は失われたと思われていたが、再発見されたため、ファリャの多彩な作品コレクションの一部として今回ここに初めて録音された。また、このギター編曲は、リョベート時代当時のギター音楽のありかたがどのようであったかについてのよい説明を与えてくれてもいる。

1924年には、二人の有名なギタリストのキャリアは別方向をたどり始めていた。この年、32歳のセゴビアはパリでデビューを飾り、世界中を旅行しはじめ、ギターのイノベーターとしてまた最高の技巧を持つギタリストとして世界に知られるようになった。一方、リョベートは、ちょうどこの年が成功の最頂点であったが、すぐに下り坂が始まり、早すぎる死が1938年に訪れた。そのため、彼の名声は一気に忘却の淵へと追いやられてしまった。スペイン内戦がこの頃起こり状況はさらに悪くなった――常に人々の前にいないかぎり覚えていてもらえる余裕などなくなってしまったのだ。こうやってリョベートの名前はすぐに皆から忘れ去られてしまった―ごく少数のスペシャリストと熱狂的なファンを除いては。そのため、このアルバム"Homenaje"は、その価値に本当に相応しい、リョベートへの「讃歌」であり、彼の演奏と編曲の両方に捧げられる。さらに、彼が1900年ごろ創作した、リラ・オルフェオのためのレパートリーにも捧げられる。(リラ・オルフェオはバルセロナのミュージックソサエティであり、リョベートはその創設者であり音楽監督でもあった。)

SIETE CANCIONES POPULARES ESPANOLAS

1914年、マヌエル・デ・ファリャは、この曲を歌とピアノのために作曲し、1930年、リョベートが歌とギターのために編曲した。その編曲は、1931年4月24日、ワシントンでリョベート自身と Nina Kochitz によって初演された。リョベートの他の作品と同じく、この作品もまた忘却の淵へ追いやられ、最終的に出版されたのは、1950年代後半、彼の友人のギタリスト、Emilio Pujol(1886-1980)の手によってである。その出版は、このCDでも聴かれる「オペラEl Amor Brujoからの二つの歌(ギターソロ編曲)」とともに出版された。Pujolはスコアを改訂し、ギターソロの編曲の公式の責任を自分が負う形になるようにした(?)。また、7つの歌に関しても、リョベートの名の横に自分の名前を載せた。これらの歌は伝統的な古いスペイン民謡であり(1曲目"Pano Moruno"はファリャ以前の作曲家、たとえばフリアン・アルカスの曲の主題にも用いられている)、この曲はクラシックのトレーニングを受けた歌手のレパートリーの一部となった。そしてここに問題があった。それは、スペイン人が"cante jondo"と呼ぶ素朴な土俗性が、あまりにしばしば、現代の歌手にスムーズに歌い流されてしまうことであった。つまり、すべてベルカントで、おそらく上手にコントロールされた、またスペイン語をほとんどカリカチュアといっていいぐらいに強調して歌うようなやり方で歌われるのであった。であるから、これらの歌の本質を聴きたいと願う者は、これらの歌の内容とそれに適切な唱法のスタイルについて、本物の理解をもつ歌手に向かわねばならない。それは、(時代をさかのぼっていくと)、ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレス Victoria de los Angeles (1923-2005)であり、Conchita Badia(1897-1975)であり、Maria Barrientos(1883-1946) (ファリャ自身のピアノと共演した)であり、なによりもConchita Supervia(1895-1936)のことである―私は彼女(Conchita Supevia)の演奏が、先ほど述べた素朴な土俗性(rough earthiness)に最も真に迫ったものだと思っている。さて、私が今回の録音に際して、これら過去の偉大な歌手たち全員に共通して沁み渡っている精神と同じ精神を持った演奏をしようと決意した。そこで私は幸福だったことに、自発性溢れた情熱的なパートナーとして、Maria Jose Montielを見つけることができた。彼女の感受性豊かなアプローチは、これらの歌の"cante jondo"の本質と完全にチューニングが合ったものである。

THE DUO OF WIZARDRY(魔法のようなデュオ)

前に触れたアルゼンチンの雑誌「ラ・ギターラ(La Guitarra)」の1925年6月号には、ミゲル・リョベートとその生徒マリア・ルイサ・アニド(彼女はアルゼンチン人である)のデュオ・コンサートを絶賛するレビューが掲載されている。このデュオは、リョベート編曲作品をレパートリーとし、1930年ごろまで活動した。彼らのレコードも残っているが、これを聴くと、いかに彼らのデュオが表現豊かで息が合っていたかがよく分かる。リョベート編曲の楽譜はそのほとんどが1960年代初等に出版されたが、そのうちのいくつかはデュオ曲のレパートリーの記念塔とも言うべきものであり、最近再版されたことがそのことを証明している。一方、少数ではあるが重要な編曲スコアが出版されないままに残り(ちなみにこれらはデュオ編曲である)、ほとんど言及もされなかったが、すばらしい例外として、イタリアのギタリスト、Bruno Tonazziによる記事 "Miguel Llobet,Chitarrista dell'Impressionismo"(ミゲル・リョベート、印象主義のギタリスト)が1966年に書かれている。私は、ファリャが"Homenaje"のような素晴らしい曲をリョベートのために書いたなら、リョベートの失われた編曲も同じくハイ・スタンダードなものであるに違いなく、ぜひとも救い出されるべきだと考え、リョベートの編曲を探し出すことに決めた。なんといっても、ファリャの"El Amor Brujo"がスペイン精神のマジックとミステリーをあれほど完璧に描き出したのだから、そのリョベートの編曲作品現代ギターにとって巨大なる歴史的価値があるはずだと私は感じていた。そして、1924年と記された手稿(原注1)を手にしたとき、私は失望させられなかったのである。1924年―これは前述したとおりセゴビアのパリデビューの年である。私の期待通り、リョベートのここでの編曲は(ほかの編曲よりも、とすら言ってもいい)、彼のギターのためのオーケストレーションの能力を、完璧な形で示している。おそらくそれは、ここでのファリャのオリジナル曲が、他のリョベート編曲のオリジナル曲に比べて、並外れているためであろう。ここで我々が聴く事ができるのは、間違いなくファリャの音である。しかしそれは、リョベートが、ギターで弾かれても非常に自然に聴こえるように編曲したためである。これは、明らかに、彼がギターによってなにが可能かということと、そのための技術について完全に理解していたために可能となったことである。リョベートの巨大な知識と、広範なイマジネーションと、情熱的な創造力は、全ての小節に明らかである。フィンガリングはすみからすみまで細かく記されており、なぜ彼がファリャの曲を他の方法ではなくこの方法で編曲したかを明確に示している(←意訳。英訳文を忠実に訳すと、「フィンガリングはすみからすみまで細かく記されており、これは次のことを証明している。それは、リョベートが、ファリャの作品に対して特にこのアプローチを好んだということを。他の、可能であったであろう面白いアプローチよりも、特にこのアプローチを」)。これらの作品は、芸術家として、知識人としてのリョベート像に、新たな光を当て、そして、リョベートが、人生最後の不幸な十年や死後の忘却に反して、後世の人々にとってあまりにも重要な存在であるということを示した、と言っても言いすぎではない。最後に、ラウラ・モンディエッロのギターのWizardry(妙技/魔術)が、リョベート編曲にしみわたっているリョベート=アニド・デュオの精神に我々が答えることを可能にしたということを記しておく。

(原注1)マリア・ルイサ・アニド(1907-1996)の遺品の中にもう一つのコピーがあるかもしれない。

LIRA ORFEO

前述したとおり、Lira Orfeoは20世紀の変わり目の頃、リョベートが20歳のとき創設し音楽監督を務めたバルセロナのミュージック・ソサエティである。Domingo Prat(1886-1944)は、1934年に彼のDiccionario(略注:「辞書」《研究社西和辞書》)で、メンバーについて触れている。たとえば、ギタリストのDomingo Bonet、Prat自身、Mario Palmes、それにリョベートの兄弟であるFedericoの参加が掲載されている。これ以外にはLira Orfeoについてほとんど何も知られていなかった。しかし、リョベートの遺品が再発見され、多くの価値ある品々のなかから、我々はLira Orfeoと題された撥弦楽器アンサンブルのための楽譜のコレクションを発見したのである。Lira Orfeoにおいて、リョベートはレパートリーとコンサート・パフォーマンスの両方の責任者であった。楽器の点から言うと、Lira Orfeoは主にギターで成り立っており、さらにスパニッシュ・マンドリン、リュート、アーチリュートといった、それぞれ形と音の高さは違うものの、ギターに近い親類とも言うべき楽器からなっていた。実際のところ、6弦のスパニッシュマンドリンは普通のギターのサイズの半分のサイズであり、ピッチは1オクターブ高く、本体の形はマンドリンに似ているが、後ろが平らであった。これにリュートとマンドリンを加えたら、アンサンブルの音程の広さはギターだけのアンサンブルと比べて低音部と高音部が広がることになる。Lira Orfeoのメンバーはスペイン人が言うところのaficionados(訳注:「熱烈な愛好家」)であった。この言葉は、次のようなことを意味している:彼らは普通のアマチュア奏者なら楽器を弾きこなすときに経験したであろうテクニカルな難しさにも動じなかった。また、おそらくこれらの楽器はLira Orfeoのメンバーのために、グループとして弾くために特別に作られたものであり、そのうちのいくつかは彼らのひ孫の手に残っている。(その幾つかはビッグネームな楽器作家の手によるものだ―たとえば、最近私はEnrique Garciaによるリュートに出くわした)これらの楽器の主な作者のひとりはBaldomero Cateura(1856-1929)である(?)。Cateuraは「Escuela de Mandolina Espanola(1896)(訳注:Escuelaは「学校」)」として知られるメソッドの著者である。そしてまた、Cateuraは彼自身の創案による仕組みのピアノのメーカーであった。Lira Orfeoのピアノコンサートには彼のピアノが用いられ、典型的なスペインの大型マンドリンも披露された(?)(also showcased the typically Spanish bandurria)。これらの事実は、リョベートが保持していたコンサートプログラムと新聞の切り抜きや、ここに示したグループの写真によって明らかにされている。

この団体のレパートリーについて述べよう。1900年のリョベートの手稿には、"3つのカタロニア民謡"の編曲が含まれている。"La Filla del Marxant(商人の娘)"は世界中のギタリストによく知られた曲であり、おそらく人々がリョベートの名を知る唯一の理由となっている。次の曲は、全てのカタロニア人が"L'anunciacio(訳注:受胎告知、と思われる)"という題名で知っているだろう。"La Mare de Deu"という題名でかもしれないが。三番目は"L'Hostal de la Peyra"だ。これらの手稿は、リョベートの音楽的思考がソロ・ギターという楽器上の制限を超えており、ギターが率いるアンサンブルがオーケストラ並みの働きをするに至ることを証明している。オーケストラ並みの驚くべきものを創造しているとは、たとえば2つ目の歌の終結部の完璧な一瞬だ。さて、手稿は二つの著しくスペイン的な曲の編曲も含んでいる。アルベニス(1860-1909)の「グラナダ」とRafael Mitjana(1869-1921)のCollection of Seguidillas(セギディーリャ集、訳注:セギディーリャはスペインの3拍子の舞踏曲)だ。Pratの「辞書」のMitjanaの項によると(Mitjanaは、作曲家としてよりもむしろ音楽学者として載せられているのだが)、セギディーリャ集は元来オーケストラ曲であったはずであると示唆されている(?)。Lira Orfeoが古典派からロマン派までのレパートリーを取り組んでいたことは明らかである。たとえば、モーツァルトの"ドン・ジョヴァンニ"。これは、リョベートがとても好きだった曲であり、彼は他の方法でも編曲している。(そして―これは本当に個人的なノートなのだが―リョベートが"ドン・ジョヴァンニ"を非常に好んでいたという事実は、私を喜ばせる。なぜなら、私自身が少年時代、音楽への根本的な興味に目覚めたのは、"ドン・ジョヴァンニ"のおかげであるからだ。しかもそれは私がギターの魅力に惹かれるよりも前のことであった。)他にも、古典派、ロマン派のレパートリーとして、ここに演奏されている作品たち、ベートーベン、メンデルスゾーン、ショパン、シューマンがある。(リョベートがシューマンの作品に"Romancas senze paraules《無言歌》"とタイトルをつけたものは、歌曲集「ミルテの花」op.25の"Die Lotosblume(はすの花)"の編曲である。)これらの編曲のスコープと、正真正銘の情熱的なアレンジは、その演奏を永らく待っていたが、ここに聴かれる演奏はその期間が無駄ではなかったことを示すだろう。

今回のレコーディングのヴァージョンは、リョベートのスコアのパート数どおりに演奏されている。パフォーマーの数は最小に抑えられている。しかし、これらの作品が内包しているグループスピリットを維持するために、たとえ一つの楽器が二つ以上のパートを演奏できる場合でも、私は断固として最小人数を割ることはしなかった。だが楽器に関して言うかぎり、私は、原典至上主義をいかなるコストを払っても貫くという姿勢は望まず、むしろオール・ギター・アンサンブルによる、多様な音を大切にしつつも、コンパクトで首尾一貫した演奏を好んだ。バス(最低音)音域は、(リョベートのスコアではアーチリュートが担当しているが、)通常のギターに、今回特別に作られたバス弦を張って実現した。このバス弦は我々の友人である弦メーカーのMimmo Peruffoによって我々のために特別に作られたものである。さて、今回の私がなしえたことは、ここに聴かれる素晴らしい技術を持つ音楽家達なしでは不可能であった。その皆が私の長年の近しい友人であり、このギタリストという職業の喜びや辛苦をともに分かち合ってきた人々である。このプロジェクトを実行する上で、彼ら以外のだれに頼んでいても、私はこれほど安心していなかっただろう。そして、彼らがこのNova Lira Orfeo(新・リラ・オルフェオ)への参加を承諾してくれたことは、祝福すべき理由のひとつである:もうひとつの理由は、我々がリョベートと同じ道を歩き始めたことに対する祝福である…その道は、まるで我々が「謎」への入会者になったかのようなものである…

INSTRUMENTARIUM

今回のレコーディングをとおして、ソロにおいてもアンサンブルにおいても、スペインやカタロニアのギター音楽と関係が深いヴィンテージもののギターばかりを使用した。それらは、次のギター作家の手によるものである。イノベーティブな天才・Andalusia Antonio de Torres(1817-1892)。カスティリア人Vicente Arias(1833-1914)。彼の楽器は歴史的にも芸術的にもTorresのもののライヴァルであり、今日入手するのが非常に難しい。さらに、20世紀の名カタロニア人ギター作家Enrique Garcia(1868-1922)。そして、彼の後継者たちFrancisco Simplicio(1874-1932)とMiguel Simplicio(1899-1938)とIgnacio Fleta(1897-1977)、彼らのギターの素晴らしい初期モデルがここで聴かれる。

ノートのこの時点で、今レコーディングに使用したギターのラインナップについて触れておこう。リョベートの3つのカタルーニャの歌は、ギター6重奏であるが、6台ともトーレスのギターで演奏されている。有名な1856年に作られた"La Leona"もその中に含まれている。4台のトーレスがシューマンの"Coral"で聴かれるが、このうちの一つは1864年に作られ、フランシスコ・タレガが長年愛用した有名なギターである。

Mitjanaの"Seguidillas"とAlbenizの"Granada"は先に述べた全てのギター作家によるギターで演奏されており、これを聞くと、いかにカタルーニャ地方が20世紀ギター音楽にとって重要なゆりかごであったかが分かるだろう。最後に述べておきたいことは、今回、ファリャのギターデュオ曲はすべて1887年製のシリアルナンバーSE110とSE111のトーレス製ギターによって演奏されており、このシリアルナンバーはこれらの楽器が同時に作られたことを示している。("SE"とはSegunda Epoca、つまりsecond era《第二期》に作られたということをあらわしており、第二期とは、トーレスのギター製作歴において、一度根本的にギター作りの方法を変えた後の時期を差す。)これらの楽器の違いは、側板と裏板の木材の違いである。SE110ではマホガニーが使われ、SE111ではメープル(カエデ)が使われている。木材が違うにもかかわらず、この二台のギターは両方とも疑問の余地なく、すみからすみまでのTorresモデルである。

今回のレコーディングの音楽の"乗り物"としてこれらの楽器を使用した経験は、私たちパフォーマーにとってとりわけ満足がいくものであった(?)。もちろん、その"乗り物"には私たちの友人Maria Joseのすばらしい声も含まれていることを記しておこう。

A LUCKY FIND BRINGS BACK THE FORGOTTEN PAST(忘れられた過去の幸運なる再発見)

このコレクションがいかにして再発見されて、我々のもとへやってきたかという話は、話す価値のあるものだと思われる。また、そこにおいてFernando Alonsoが果たした役目の重要さについてもまた触れられるべきであろう。1987年、バルセロナで、ミゲル・リョベートの家族の最後の生き残りであった彼の娘Muguelinaが亡くなった。それはVia Layetana(Layetana通り)に面した4階建ての住居でのことであった。ミゲル・リョベートはこの住居に1920年代後半から1938年の死に至るまで住んでいた。Miguelinaが亡くなったとき、住居は銀行の所属となり、住居に残っていたミゲル・リョベートの遺品・本・楽譜の類はすべて捨てられてしまった。(彼のギターはそれより前にバルセロナの音楽美術館に移動されていた。)不可解なことに、Miguelinaは彼の父の遺品には興味がなかったらしく、これらを将来の保存計画のためにまとめておくようなことをしなかった。しかし、1970年代に、リョベートの所有物のいくつかの消息が明らかになっていた。それは、リョベートのデュオパートナーであったMaria Luisa Anidoと、Fernando Alonsoがバルセロナでリョベートを記念するコンサートを開いた時のことである。おそらく、このイヴェントによって、Alonsoは、リョベートの、ギターの歴史における役割の重要性に気づいたのであろう。Alonsoは学校も運営しているギタリストであり、あるくず物商が彼にリョベートの遺品を数点売ることを持ちかけたとき、そのすべてを買うとともに、そのくず物商にリョベートの他の遺品の消息を追ってくれるように依頼することにも金を惜しまなかった。そうしてAlonsoはたくさんの仲介者や所有者にコンタクトを取り、リョベートの遺品をまとめ始めたが、その中には、家族の記念品、写真アルバム、リョベートの旅先のポストカード、北アメリカ・南アメリカ大陸ツアーの際に用いたトランク、リョベートの芸術に対する著名人たちからの賞賛の言葉が付いた写真たち(その中にはファリャはもちろん、なんとトーマス・エジソンやアーノルド・シェーンベルクのものも含まれている)などがあった。また、リョベートが若い頃に描いた絵もあり、リョベートの才能が音楽にとどまらなかったことを示している。これら全てのものはリョベートの名誉―事実上無視されたり、戦争などによって忘れさられてきた彼の偉大さ―を回復するのに貢献しうると思われる。

しかしこのとき、楽譜は見つからなかった。しかしながら、終わることのない努力の結果、ついにAlonsoは楽譜を所有する女性に行き当たった。この女性はリョベートの家族の友人であり、Miguelinaの幼少時代からの友人でもあった。また、彼女はかつてミゲル・リョベートの妻であるAna Aguilar(Miguelinaの母である)のピアノレッスンを受けてもいた。Alonsoが彼女の家に迎えられたのは、ある嵐の日であった。そんな天気の中ではリョベートの楽譜が置いてある場所へ行くのは難しいと言われたが、Alonsoが強く催促した結果、彼女はじめじめしたガレージのドアを開けたのである。そこには、リョベートの楽譜が、屋根から落ちてくる雨から薄いビニールシートを一枚隔ててなんとか守られているような状態であった。さて、女性はことの次第を理解し、Alonsoを信用して全てを彼に任せ、楽譜は彼とその友人Carles Trepat(今日成功を収めているカタルーニャ人ギタリストである)によって運び出された。Alonsoが家で楽譜を通して見ると、そこにはGranadosのダンス曲集、カタルーニャ民謡の編曲集、そしてセゴビアが60年間にわたって弾き続けセゴビア編曲と一般に思われてきたMaja de Goya(訳注:グラナドスの歌曲集「トナディーリャス」より「ゴヤのマハ」)が含まれていた。さて、その日Alonsoが発見したものが、今日私が誇りを持ってこのレコーディングで紹介する音楽たちである(今回のレコーディングは、すべてこの日発見された楽譜の曲なのである)。私とFernando Alonsoによる共同作業は10年に及び、いままでこの楽譜に隠されてきた音楽に光を当てたのだが、我々がこの仕事をした理由は、ただリョベートがその価値に見合う尊敬をされておらず長年にわたって認知も感謝もされてこなかったということのみではないのである。これらの作品の持つエネルギーが、今日まれになってしまった種類の音楽的経験を我々に与え、また、我々自身について何かを教えてくれるような本物の感情というべきものを与えてくれたからである。我々はリョベート自身についても多くを学び、また彼が彼の時代をどう理解していたか、またこれからどうなると考えていたかについても多くを学んだ。しかしこれではまだ我々の戦いは半分まででしかない。なぜならここでのメインは、音楽そのものだからだ。

Fernando Alonsoと私の友情が今回のパフォーマンスに結びついたことをここに記しておきたい。また、この音楽が、リョベートの楽譜や遺品がバルセロナの音楽美術館に寄贈される計画が進行中である今このときに聞かれることは、非常に喜ばしいことだと思われる。また、これらの物品が落ち着くべき場所をバルセロナというリョベートの愛した街に見つけたこともまた喜ばしいことである。そしてバルセロナは、おのれが音楽の中心地であるという、強くモダニスト的なイメージを与えるギター音楽を作曲したこの作曲家の重要性に、いま目覚めつつあるのである。

PROFILES

STEFANO GRONDONA

Stefano Grondonaは1958年生まれ。Sergio NotaroとOscar Ghigliaのもとで研鑽を積み、Julian BreamとAndres Segoviaのもとで研鑽を終えた。1985年のインタビューでSegoviaは、彼のお気に入りの弟子について述べ、John Williams, Oscar Ghilia, Alirio DiazとともにStefano Grondonaの名を挙げている。コンサート、録音、ラジオを通じてGrondona氏は世界的に活躍。ヴィチェンツァ音楽院で教鞭を取るとともに、LondonのRoyal Academy of MusicやGuild hall School等、他の音楽大学においてもマスタークラスを受け持っている。Grondona氏はギター製作とその歴史について特に関心をもち、それは最近の著書"La Chitarra di Liuteria-Masterpieces of Guitarmaking"と、歴史的楽器による一連のレコーディングに結実している。CD"La Guitarra de Torres"(1999)において彼は多くの国際的賞を受賞、そのなかには"best CD of the year"の"Golden Guitar"が含まれる。2002年、同じ賞をCD"Lo Cant dels Aucells"(Stradivariusレーベル)で受賞している。歴史的楽器と彼の深い関係により、Grondona氏は数々のコンサートに招待されている。バルセロナの音楽美術館におけるトーレス・ギターでのリサイタル(2001)、ギター文化館(茨城、2000,2001)など。また、偉大なギター作家を記念するコンサートにも招待されている。Bouchet記念(東京、1998)、Rubio記念(ケンブリッジ、2001)。グロンドーナ氏は1992年から1999年にかけてRubioとともに仕事をしている。2005年12月、グロンドーナ氏はカタロニア音楽と文化への貢献に対して、名誉あるIPECC賞をバルセロナにて受賞した。

Maria Jose Montiel(メゾソプラノ)

Maria Jose Montielはマドリッドに生まれ、そこで歌の勉強を開始し、デビューをそこで果たし、それからウィーンの移った。彼女はUAMで法律を学び、音楽学と音楽史でDEAを取得した(訳注:略語?)。次に挙げるのがMontiel氏が世界中で歌った場所である:ニューヨークのカーネギーホール、ミラノのスカラ座、ワシントンのケネディーセンター、パリのサル・プレイエル、ヘルシンキのフィンランディア・ホール、ウィーンのムジークフェライン、Konzerthaus, シュターツオーパー、オタワのNAC、Cincinnati, the Doelen in Rotterdam, the Opera in Budapest, Sydny Town Hall, the Tetro Real and Auditorio in Madrid, the Palau di Barcelona, Valencia (そして実質上全ての他のスペインのクラシックコンサートホール)、the Teatro Regio in Parma, the Malibran in Venice, ピサ、ボローニャ、トリエステの各オペラハウス、東京のNHKホール、ベルンのシュターツオーパー、Philharminic Hall in Warsaw、ブリュッセルのモネ劇場他である。Montiel氏は以下のような偉大な指揮者と共演している。Pinchas Steinberg, Gomes Martinez, Garcia Navarro, C.Dutois, N.Marriner, P.Decker, J.Tate, J.Webb, R.Gandolfi, Tortelier, Benini, その他大勢。彼女はリッカルド・シャイーがヴェルディのレクイエムを演奏するときにはふだん歌っているが、それは以下のような都市である:ミラノ、東京、フランクフルト、ウィーン、ブダペスト。Montiel氏は以下のようなオペラに出演している:(略)。彼女は幅広くスペイン音楽を取り扱っており、Pepita Jimenezや、AlbenizのMerlinの初演、そのほか現代作曲家の初演を行っている。彼女はマドリッドのTeatro Realのオペラシーズンのオープニングに登場し、Jaime Araglle(テノール)とともにファリャのオペラLa Vida Breveに出演した。Moncerrat CaballeとAlfredo KrausとともにSGAEのガラコンサートに出演した。プラシド・ドミンゴのもとでTeatro Realの150周年ガラコンサートに出演した。Montiel氏はまたプラシド・ドミンゴとともにブエノス・アイレス、マドリッドのAuditorium Nacionalで歌い、Luisa Fernandaとともにミラノのスカラ座、ワシントンのオペラ座で歌った。彼女はMiguel Zanettiとともに多くのリサイタルに出演し、そのいくつかはCDになっている。Montiel氏は12のCDを出しており、Luiz de Mouraとともに撮ったアルバム"Mondinha"は2002年のグラミー賞のファイナリストになっている。彼女は多くの賞の受賞者であり、たとえば2005年のゴールデンDVD賞をDVD"Madriena Bonita"で受賞している。

Laura Mondiello

Benevento音楽院でディプロマを得たのち、Laura Mondielloはバーゼルへ移り、institute for advanced students of music, the Musik-Akademieをソロ・パフォーマーとして卒業した。彼女はイタリアやヨーロッパの他の場所で次の人々のマスタークラスを受けた:ジュリアン・ブリーム、オスカー・ギリア、Angelo Gilardino, ホセ・トマス、ステファノ・グロンドーナ、Hopkinson Smith, Manuel Barrueco, ポール・ガルブレイス。キジアーナ音楽院において3年連続でディプロマ・ディ・メリト(最優秀ディプロマ)を受賞、その結果"Emma Contestabile"と"Saverio Boccardi"特別賞を受賞した。それから彼女は招待されてキジアーナ音楽院でAlessandro PinzautiのもとでOrchestra Citta Liricaとともにworkした。またGianluigi Gelmettiによるシエナ室内オーケストラの指揮コースを受けた(?)。Mondiello氏はFinale Ligureでの国際コンクールで"Palma d'oro"賞を受賞、また第25回国際コンクール"Incontri chitarristici di Gargnano"にて2位。1990年より教え始め、Mondiello氏は音楽を追求している、たとえばセルジュ・チェリビダッケ・アソシエーション(Association des musiciens pour la perennite et l'heritage musical in Gy, France)でKonrad Von Abelのもとで音楽現象学(Phenomenology of Music)を修めている。Mondiello氏はパーカショニストGuido FacchinとイタリアのDynamicレーベルからアメリカの作曲家Lou Harrisonの曲をレコーディングしている。

Nova Lira Orfeo

2002年、ステファノ・グロンドーナは、ミゲル・リョベートの未出版アンサンブルコレクションを世に知らしめるため、Nova Lira Orfeo(新リラオルフェオ)を設立した。元の名前であるLira Orfeoはリョベートによって1898年に設立された撥弦楽器のアンサンブルグループである(20世紀初頭、バルセロナ)。このグループは、ギターのほかに、スパニッシュマンドリン、リュート、アーチリュートからなっていた(これらすべては一般的なスパニッシュギターの親類である)。このアマチュアグループについてと、そのレパートリーについては、最近になって明るみに出つつある。新リラ・オルフェオはスコアが要求する最小限数の楽器で、またギターのみで、このレパートリーを演奏している。つまり、3台、4台、5台、6台のアンサンブルで。過去のコンサートやレコーディングは、その使われたギターメイカーによって、ルビオ・ギターアンサンブルや、ロマニリョス・ギターアンサンブル、トーレス・ギターアンサンブルなどの名前を用いてきたが、最近の決意によりNova Lira Orfeoの名前を使用することにした。このことにより、オリジナルグループ(訳注:リョベートのリラ・オルフェオ)の情熱へ立ち戻り、音楽をする楽しみが我々に訪れ、オリジナルグループと同じ情熱と献身で演奏することのインスパイヤが我々にあたえられたのである。
2008年09月22日(月) 21:47:31 Modified by kzkara




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