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respuesta

(訳:唐崎、坂本、等々力)
印刷用ページ(暫定版)はこちら→http://www.geocities.jp/miyamaguitarfes/respuesta....
(一応完訳です、誤訳等手直しOKです)

 

Respuesta(返答)

今回のレコーディングに冠している題名は、ミゲル・リョベート(1878-1938)の即興曲の題名にちなんでいる。この謎のような題名は、リョベートのソロ・ギター曲の全てを収めた、このショーケースにふさわしい名前である。また、より大きな音楽的な計画の中ですでに私が発表したリョベート作品のレコーディングやこれから発表するであろうものにもふさわしい名前である。これは、未出版を含めリョベートが残した作品の初めての全集である。この現代ギターの巨人は歴史から当然与えられるべき尊敬をいまだに待っているのである。

これは別のところで書いたことだが[訳注:前アルバム"Homenaje"ブックレット]、リョベートの晩年はスペイン内戦の悲劇と重なっている。スペイン内戦は彼の故郷であるカタルーニャ地方、特にバルセロナに致命的な結果をもたらした。フランコ政権は内戦ののち、スペイン文化を中央に集約させた。これはカタルーニャなどの地方文化を、徹底的には破壊しなかったものの、無視と無知は確かにその文化に被害をもたらした。第二次世界大戦は、最後のくぎを棺おけのふたに打ち込み、リョベートの名声は他の多くのものとともに葬られた。残された彼の足跡は、カタルーニャの音楽的・芸術的文化において彼が果たした役割と立ち位置を示すのには不十分なものであった。―といっても、カタルーニャの文化も多くは残らなかったのだが―。そして、その残された数少ない足跡も、アンドレス・セゴビアの名声という旋風の上昇に巻き込まれ、消されてしまった。アンドレス・セゴビアは、彼をギターの化身と見た世界中の聴衆から、ギターの新たなる神として迎えられた。この種のことは、ヴァイオリンにおけるパガニーニやピアノにおけるリスト以来、起こらなかったことである。セゴビア現象の勢いはとどまることを知らず、リョベートのようなセゴビアの出現の土台をしいた人たちの名声や仕事を隠してしまった。革新者や創始者が調査すらされないことはことさら驚くべきことではない。しかし、パイオニアたちは完全に忘れ去られることはなく、知識をひけらかしたがる目利きたちにとっての崇拝の対象へと変わっていくことがしばしばである。このことはリョベートの場合においてもある程度当てはまる。しかし、リョベートの芸術における重要な点は、彼の芸術には本物の何かがあるということであり、その文化的音楽的価値を拾い上げるスポークスマンを必要としているということである。このことが、今回のレコーディングとそのためになされた努力の原点なのである。単なる目新しさの価値を越えて、この音楽はギターの新たなレパートリーとなり、演奏家や愛好家はもう一度この楽器と恋に落ちることになるだろう。これは、一人のギタリスト作曲家の創造力の頂点における感情豊かで偉大な音楽である。さて、どうしてリョベートはこんなにも長く、こんなにもきれいさっぱり忘れられてしまっていたのだろうか?

アルバムのページたち:ある流星の痕跡

「返答」(即興曲)はリョベートの生徒であるマリア・ルイサ・アニード(1907-1996)にささげられた。この題の由来は公的な資料からはわかっていない。高齢のアニードが主張したところによると、1920年代初めにアニードがリョベートに何をつくっているのかを尋ねたことに対する"返答"であるらしい。リョベート音楽アーカイブにあるリョベート自身の手書き譜には"Por copia del original. Miguel Llobet:En alta mar a bordo del vapor ‘Reina Victoria Eugenia' con rumbo hacia Espana, 12 De.bre 1922"("オリジナルのコピー。ミゲル・リョベート。スペイン行きの蒸気船'Reina Victoria Eugenia'の海原の上にて 1922年12月12日")と表記されている。残存する彼の個人資産の中のコンサートプログラムからは彼が人前でこの曲を演奏したかどうかわからない。アニードは演奏し、老齢まで弾き続けたけれども。彼女はこの曲の録音も残したが、序奏部はなく、タイトルは"Moto perpetuo"(無窮動)であった。この曲は非常に速いテンポで演奏されるトレモロとアルペジオを併用し、めまぐるしく技巧的な曲を装っている。だが実際は表情豊かな "andante affettuoso"(情感豊かなアンダンテ)であり、問いかけと答えの対話のような構造をしている。しかし、求められる奏者の理解と配慮は、技巧の渦に飲み込まれ、奏者は皆容易に渦の餌食となってしまいがちである。ともすれば、連なった速い音句が二人が会話するように連なっていく演奏ではなく、全体的なアルペジオ構造の細分された一部分が矢継ぎ早に繰り出されてくるような演奏になってしまう。そのような事態になれば問いかけも答えも浮かび上がらない。−そして偶然にも、”答え”の韻は”Maria Luisa”の名前とちょうど一致している。こうして曲全体は、多義的多義性そのものとなり、奏者は技巧のひけらかしと作品の深い味わいの狭間を綱渡りすることになる。その綱渡りは、通常ギタリストが求められる水準をはるかに超えるものである。そしてこれは紛れもなくマリア・ルイサ・アニードへの最上の贈り物である。

今回の録音は、現在知られているリョベートが作曲した曲の全てを含み、18のときに書かれたロマンサ(1896)から、プレリュード(1935)に及ぶ。彼の全ての作品は紛れもなく個人的な性格をもっている。そしてギター演奏の新しい方向性と、彼以前のどんな作曲家兼ギタリストをも困惑させるような種類の和声を追求している。とりわけ彼が一流の成功した演奏家であった時に書かれた作品は、比類ない創造性にみちた生命力をみせる。そしてその作品の自信に満ち熱狂的な性格は、ややもすると、陰鬱なこの男が喜びを経験、表現することができ、スケルツオとカプリッチョを好んでいたことを示している。その曲調は暖かさとユーモアで聴衆を引き込んだことだろう。

練習曲と練習曲=奇想曲(ショパンの最初のバラードに基づいている。)は1899年に書かれ、リョベートの作品のうちで最も魅力的なものである。マズルカ(1901)はショパンの半音階主義にいっそう影響をうけており、奏者はギタリストにとって弾きにくい調―B flat, F and E flat―で演奏することになるが、ギターから出る音に魔法をかけてその調性をとても表情豊かに響かせている。ようやくギターは豊かな和声の世界に連れて行ってくれるオリジナル曲を得たのである。そこはかつてアルカス、タレガ、そしてリョベート自身による編曲作品のみが到達した場所である。(ソルはもちろんモーツァルトの編曲でこの種の試みを始めていた。)もはや誰もそんな偉大な作品が元はギターのために書かれていないことを悔やみはしないだろう。ソルの主題による変奏曲(1908)は構成、内容が独特である。冒頭はソルのop15、スペインのフォリアによる変奏曲からソルの版のテーマを借用している。リョベートはテーマに加えて最初の2つの変奏も借用した後で、一連のリョベート自身の独自のスケッチと世界を表現している。彼が追求するギターの最大限の可能性を、アルペジオ、ハンマーオン、プルオフ、ハーモニクスなどギターに特有の知る限りの技巧的仕掛けを用いて示している。リョベートは高速トレモロアルペジオを使っている。これは彼が考案したもので、15年ほど後に「返答」でも使用している。リョベートの天賦の才はテクニックを使って指板のさらなるフロンティアを探求することに長けており、その音句は真のヴィルトゥオーゾの作品である。しかしリョベートは明確に、通常のギターの範疇を超越する響きを成し遂げんとしていた。たとえば、第7変奏は一見して、左手ですばやく的確にハンマーオンとプルオフする技巧の正確さが全てだ。しかし実際はその秘密はリョベートが示した独特の右手の運指だ。すなわち、交互に用いる中指と薬指である。これは響きをより繊細なものとしており、ヴァイオリンのミュートか、ピアノの消音ペダルに似ている。このことが皆に自明でないのは、もちろんこの曲では左手が派手に動き回るからであるしかし[訳注:この右手の指使いのような]細かな点こそが、リョベートの類まれな内向性と繊細さを我々に示すのである。表層的な証拠にとどまらない者だけが、リョベートの芸術を有意義なやり方で理解しようと望みうる。めまいがするような変奏はハンマーオン、プルオフ、ハーモニクスをもちいた素早いパッセージに彩られた跳躍する和音の息をのむようなフィナーレをむかえる。奏者の手は指板上を上から下へと踊る。この曲は、演奏家が楽器全体と結びつき、楽器自体が行き着けるよりももっと広い世界へとギターを連れ出していくというリョベートの演奏家像を提示している。

短い、シューマンのような”間奏曲”は、好対照をなしており、私は今までギターのために作曲された最も霊感に満ちinvolvingなもののひとつだと思う。リョベートが1909年にサン=サーンス以来のフランスの流儀でかの驚くべきスケルツォ=ワルツを書いたのは、パリ滞在中のことであった。

今回のレコーディングの柱はリョベートがギターのために不朽の傑作へと編曲した曲集「13のカタルーニャ民謡」である。これら13の民謡は2つの時期にかかれ、大半は1900年頃に書かれた。それは、リョベートの器楽グループ リラ・オルフェのための3曲を含んでいるが、「哀歌」、「商人の娘」、「糸を紡ぐ娘(始めの版)」、「アメリアの遺言」、「うぐいす」、「王子」、「あとつぎのリエラ」である。残りの「凍える12月」、「糸を紡ぐ娘(最終版)」、「リエダの囚人」、「聖母の御子」は1918年頃に完成された。3つは他の時期に書かれた。「羊飼いの娘」は1905年に2つの版に編曲されている。最初の版は4月パリにて、2番目の版は8月28日バルセロナにて。1910年パリにてリョベートは有名な歌、「先生」を編曲している。この曲はそれ以降、20世紀の最も美しく大胆な曲の1つとして世界中で支持されている。「盗賊の歌」は、独立に書かれたもうひとつの傑作の例である。1927年にリョベートのコンサートに登場するようになっており、おそらくその直前に書かれている。

5つのプレリュードは今回の録音では一緒に演奏されている。実際はそれらは独立に作曲されたけれども。ニ長調のものは1916年にさかのぼりまだ若かったアニードに捧げられた。短いホ長調のプレリュードは1928年ごろ、簡素なニ長調のものは1935 年にRosa Lloretに捧げられた。その年は、リョベートがより長いホ長調とイ長調の2つのプレリュードをつくっただけでなく、曲をつくった最後の年でもあった。これら最後の作品はリョベートの無比の創造性の成熟を示している。また、憂鬱を振りまく活気のない退廃的な雰囲気とともに悲劇的で内向的な人間の生存の危機も見て取れる。これらの曲から1922年の「返答」以来作曲をやめたわけではないことがわかる。1922年から1935年に書かれたものが12小節のプレリュードと「盗賊の歌」以外に何も私達に受け継がれていないのはとても残念である。(これらの曲が作られた日がいまだに論争の的となっていることを付け加えておくべきである。)

全てはこの時期の創造的なブロックを指摘している。リョベートは偉人である。彼の全部の作品は75分の録音に収まってしまい、彼の潜在能力が更なる進化を遂げなかったことが残念である。つぎのような主張は無駄な推量などではない。すなわち、リョベートは小さなスケールの形式で作曲したが、そこで彼がしたことのすべてがずっと大きなスケールで作曲する才能を暗示している。とはいえ、今回の録音に聴かれる優れた作品は間違いなくこの比類の作曲家に新しい友人とファンを勝ち取るだろう。

確かな事実がないために、リョベートの晩年に何が起こったかは憶測の的となっている。彼が作曲をしていない年はコンサート活動と編曲(ギターデュオのための彼自身のレパートリーなど)に絶えず忙しかったのだろうけれども。コンサート活動と他人の音楽の編曲作品にも彼の天才ぶりははっきりと見えている。とはいえそのエネルギーがもはや彼自身の作品へと注がれなかったことは残念である。リョベートが作曲家としてよりはギター奏者としての道を歩んだために(成功したために)人々はこう思うかもしれない。リョベートはこの楽器に対してのみ慧眼を備えていたのか?と。―たしかに彼の作品のうち圧倒的多数がギターのために書かれている。しかし若い頃はヴァイオリン、チェロ、ピアノとハーモニウムのための”Preludio y aria de tiple op 6” を作曲したことがある。これはホセ・マルティネスのサルスエラ[訳注:スペインのオペレッタ”Las dos Estrellas”のためのものである。リョベートは素描家、画家の才能もあり、師のタレガの1905年パリでのスケッチや、若き日のマリア・ルイサ・アニードの美しい肖像をのこしている。これら全ては極めて多岐にわたる創造性を示唆しており、この創造性でもってこの並外れて繊細で想像力に富んだ男は自分自身を表現しえたのだ。しかし時が経つにつれ、彼は自分の才能をどこへ向けるか決めるために精神的葛藤を経験したにちがいない。彼がより自己主張が強く、必要なら自己防衛をいとわない人間だったら悪いことなどなかったであろう。しかし、そのいずれも、スペイン内戦とその余波で衰退するカタルーニャに住む自己不信で内向的なリョベートに助力することはなかった。これらのできことはカタルーニャとともに彼が破綻に向かっていると信じさせ、それにつれて精神的葛藤をよりいっそう鋭いものとしたに違いないからである。この宿命的な自己不信を背景に、彼の芸術家の才能は喪失されていくことになる。その様はまるで自身の天性の才能と感受性の重みに押しつぶされるようであった。そして1938年、彼の故郷で死が確認された。

音楽の話題に戻る。今回のカタルーニャの作品を高く引き立てるものとして、リョベートによるいくつかの重要なギターのための編曲作品がある。彼は各地の音楽へ興味を示している。カタルーニャ以外のスペインの作品はビリャールによるレオン地方の歌、アンダルシア風のスペイン舞曲、そしてバルベルデによるクラベリートス。キジャーノによるアルゼンチン民謡エスティロ第1〜3番はリョベートが引き受けた長いアルゼンチンツアーの回想である。ブファレッティによるセビーリャのマズルカはリョベートとイタリアのつながりを示しており[訳注:ブファレッティはイタリアのピアニスト/作曲家]、イタリア人として私はこの曲を録音できたことをもちろんうれしく思っている。ちょうど私がリョベートに敬意を表し、カタルーニャに賛辞を送ることを光栄に思っているように。私はカタルーニャへいつも特別な感情を抱いている。

注.

最近注目を受け始めたリョベートに関する資料が、(彼の人生の新しい詳細な知見をもたらしてくれるのだが、)たくさんの驚くべき事実をもたらす可能性がある。それはリョベートにもっと焦点をあてるよう歴史の修正をせまるだろう。とりわけ、カタルーニャ民謡が作曲された日が変わるかもしれない。さしあたってこの解説の中の情報は基本的に過去の慣習に従っている。近年の発見にあわせて部分的にいくつかの修正はされているけれども。全ての資料が完全な状態で揃い次第、リョベートの全ての音楽の産物に対してより自然な解釈がなされるべきである。さらなる作曲・編曲作品が発表され、リョベートの作品としてコンサートプログラムに含まれるようになるだろう。たとえば、編曲したことが知られていながらいまだ紛失されたままの”Els Segadors” や“L'Emigrant”などである。


革新的な音か、それとも取り戻された音か?


なんて神聖な歌だろう!今や彼の魂は連れ去られてしまっている!羊の腸が人の腹から魂を引き出すとはなんとも不思議なことではないだろうか?

(シェークスピア:空騒ぎ(第2幕第3場)より)

今回の録音は明らかに失われてしまっていたギターの音を獲得するための、私が長い間探し求めていてやっと得られた機会であり、ある一つの時代全体を生きなおすことを可能にしてくれる。生きなおす、といっても音楽において象徴的にであるが。この録音で私は、かつてセゴビアによりそれが生み出されるのを聞き私がギターを始めたいと思う最初のきっかけとなった素晴らしい音に戻ることが出来る。それは私が今まで聞いてきたあるいは演奏や音楽を学んでいる間に聞いた他のどんなものやどんな人とも違う音であった。そして私が最初に聞いたその音は、セゴビアの録音全てに存在するわけではなかった。もちろんセゴビアの録音はみな素晴らしいものであったが。私は、現在の自分に至るまでの道のりを決定したこれらの録音の中で聞いていたものは一体何であったのか幾度となく不思議に思っていた。そして答えを探し続けた30年間がついに報われた。私がレコードで聞いた当時50歳のセゴビアが使用していた楽器は、音楽がどのように演奏されるべきかについて全く新しいアプローチが生じその結果全く新しい音が生まれた現代的な第二次世界大戦以後の時代が始まる前の、まさに崩れ落ちようとしている一つの時代の頂点を示す楽器であった。私自身に大きな衝撃を与えたセゴビアによる録音は、低音にシルクの巻弦、高音にガット弦を張った1937年製のハウザーを使ってなされたのだ。当時その事に気がつく者はいなかったが、これらの録音は歴史的に重要であった。ある聞き手は私のように感情的に何かが違うとは気づいていたが、その違いの原因が、現在では圧倒的多数を占めている新しいナイロン弦が私をぞくぞくさせるような音を生み出せないことにあるとはわからなかった。セゴビアがこれらの録音を行う少し前にリョベートは死んだのだが、ただ素晴らしい音色のトーレスギターを使うだけではなくその時代の音を生み出せる弦を張って演奏することで、私は彼の時代とのつながりを作り出すことが出来ると思っている。

私は10年前にカタルーニャ民謡をスタンダードなナイロン弦で録音した。対照的に今回の録音では、前述した理由により、リョベートの時代の慣例に従って弦を張られた楽器を使っている。高音の三つの弦は、天然のガットでできたものを使っている。現在主流であるナイロン弦や、カーボンや、最近採用されたナイルガットではなく。そして低音の三つの弦は金属で巻かれたシルクの弦を使った。現代のナイロン弦やナイルガットではなく。聞き手がこの録音で聞くであろうものは、私の友人でまぎれもない弦作りの天才であるミンモ・ペルッフォとの長年にわたる研究と仕事の成果である。その成果には、単に店で手に入る自然の素材を使うということよりも、はるかに多くのことが関わっている。このことは三つのガット弦に関してとくに重要なことである。そしてガット弦がジグソーパズルの最後のピースを与える。いまや全てが場所に当てはまったのである。リョベートのフィンガリング、アントニオ・デ・トーレスのギター、そしてガット弦。しかしガット弦はそれ自身だけでは答えにはならない。それはかつて弦作家のマスターたちによって作られたとおりのやり方で作られなければならない。弦作家たちは職業上の秘密を父から子へと受け継いでいた。この伝統は何世紀も続いたのち、第二次世界大戦によって途絶えてしまった。いい弦を作る知識や、弦の質を評価する知識が失われたのである。そして技術の進歩により、ナイロン弦がそれ以前の全ての弦より素晴らしい、という判断が下された。そして、一見してその通りであった。1947年、セゴビア自身が自分の新しいナイロン弦への好みを表明している。その後の長年にわたるクラシックギター界でのセゴビアの権勢によって、ナイロン弦が他の流行遅れの弦に勝つことが確実となった。しかし今日(こんにち)の、過去の音に対する興味は、前述のシェイクスピアの引用をふさわしいものにする。ガット弦は、文字通り「腹の底から」、人間にとっても動物にとっても自然に近い。そしてまた文字通り「声を与える」ことによって人間の感情を運ぶことを可能にする。しかし、ガット弦は構造に問題があり、作るのが難しく、長持ちせず、しかも天候に左右されてしまう。演奏家は、簡単に壊れる弦や不安定なチューニングに左右されるがままである。そして、シェイクスピアの言う「神聖な歌」がその輝きを失わないためには、普通に演奏するだけで剥がれていく繊維を常に切り取らなければならなかった。

第二次世界大戦は無理やり、ガット弦産業を傷を縫うための糸作り産業に変換してしまい、1945年までにはほんの少しのガットしか音楽のためには残されていなかった。セゴビアは自分自身がじかにこの危機を体験し、それゆえにAlbert Augustineの手によるナイロン弦を選択した。彼Albert Augustineはこの事実とともに知られるようになった。ナイロン弦の選択は、おそらくあらゆる種類の恐るべき犯罪の原因である、「古いものに対立する新しいものへの崇拝」の一部であった。なぜガット弦に決して匹敵しないナイロン弦が、諸手を挙げて歓迎され、ガット弦にとってかわったのかということについての最低限の説明さえされないで、「古い」ものは跡形もなく沈んだ。

このようなことについて考えるには、直感だけではなく、長年にわたる経験も必要である。今日、あまりにも多くの選択が想定上の利便性という解釈しがたい理由のためになされている。このことにより、我々は、真に表現すべきことを表現するという人間的な能力をだめにされてしまっている。今回の録音は一見、過去志向に思われるかもしれないが、これは単なる流行に対する抵抗ではない。もし流行に対する抵抗であれば、それは単にひとつのものを否定して他のものを選んでいるだけであり、それはあまりにも窮屈な話だ。この録音でのアプローチは、必然に迫られたものなのである。その必然とは、今ここで表現することができるかぎりの、ひとつの新しいアプローチと新しい理解を供給することである。結局、そのような方法が、誰にとってもたった一つのやり方であり、たった一つのあり方なのである、もしこう言い切ることが不適切でないならば。



伝記のための注釈

1978年9月18日:ミゲル・リョベート、バルセロナに生まれる。木彫職人であった彼の父、カシミーロ・リョベートは、息子に絵の才能を発見し、芸術を勉強させた。また、音楽の才能も著しいものであったため、伯父がギターをプレゼントした。

1888年:10歳にしてバルセロナ市立音楽院に入学する。音楽の基礎、ピアノ、ヴァイオリンを学ぶ。ともに学んでいた生徒にはパブロ・カザルスや歌手のMaria Barrientosがいる。

1889 年:Antonio Jimenez Manjonによるコンサートに出演し、これが彼の将来の天職へのターニングポイントとなる。リョベートは完全に自分を音楽とギターのために尽くすことを決意し、まずMagin Alegreのもとで、つぎにターレガのもとでギターを学んだ。ターレガは1885年以降バルセロナ市民であり、リョベートは彼と1892年に楽器作家 Ribot y Alcanizのアトリエで出会った。

1895年:17歳のリョベートはカタルーニャの新聞で、演奏を熱狂的に褒め称えられる。

1896 年6月16日:ターレガ、前奏曲第二番イ短調をリョベートにささげる。この曲は和声的観点においてターレガのもっとも先端的な作品である。この曲は、若くエネルギーあふれるリョベートの音楽的肖像ではないかと言いたい誘惑に駆られるところだ。実際、この曲と同じような雰囲気がリョベートの知られている最初の作品である「ロマンス」(1896)にもあふれている。

1898年:ターレガのパトロンであるDona Concepcion Jacobiが、リョベートに出会い、ターレガへの関心を失う一方でリョベートのキャリアに熱狂的な支援を行う。彼女はリョベートにトーレスのギターを与え、また、もうひとつの実験的なトーレス・ギター、側板と背板が厚紙でできているモデルを与える。これはターレガが彼女の家に残しておいたものであり、ターレガとリョベートの間に嫉妬関係が生じるが、ことは紳士的に丸く収まり、二人は人生を通じて友人かつ互いの賞賛者であり続けた。

1898 年:リョベート、Lira Orfeoという名の音楽協会を創設。ギター、スパニッシュマンドリン、普通サイズと大きなサイズのリュートからなる撥弦楽器のアンサンブルを創設する。この協会のもとで、バルセロナでリョベートは多数のコンサートを開く。ソロコンサート、アンサンブルコンサートの両方である。Lira Orfeoはリョベートがバルセロナを去る1904年まで続いた。

1899年6月16日:リョベート、バルセロナで演奏する。

1899 年9月7日:リョベート、再びバルセロナで演奏。Circulo Artistico(芸術サークル)の開幕式にて。"...planta baja de la suntuosa casa numerada con el 315 de Calle de las Cortes(Gran Via)..."(このイヴェントの写真はここ(?)にはじめて出版され、コンサートにおけるリョベートをとった唯一の現存する写真である。

1900年5月11日:リョベート、Centro MusicalのSabadellにてコンサートを開く。ピアニストTeresa Bartolomeとステージを共にする。

1901年:リョベート、Valencia, Seville, Malagaの各地の大学で演奏。MalagaではProfessor Honoris Causaの称号を得る。スペインのほかの都市、Bilbao, Toledoでも演奏。

1902年:リョベート、マドリッドのTeatro de la Comediaにて演奏。このコンサートでBretonが彼を皇室ファミリーに紹介する。リョベートは3年連続で皇室のためにPalacio Realにてコンサートを開く。

1904年:リョベート、パリへ移り、イサーク・アルベニスとリカルド・ビニェスによって音楽サークルに紹介される。フォーレ、ラヴェル、ダンディ、デュカス、ドビュッシーらが、彼の演奏を聴いて賞賛する。

1905年:リョベート、パリにてコンサート。1月26日にWashinton Palaceにて演奏。6月8日にVersaillesのSchola Cantorumにて演奏。

1906年:リョベート、パリにてさらにコンサート。La Trompete、国立音楽協会、またその他の協会のために。

1906年9月16日 リョベート、イサーク・アルベニスのような重鎮とスペインのTianaでコンサートを開く。

1907年 リョベート、バルセロナにてすばらしいピアニストAna Dura Battle(ステージネーム:Anita Aguilar)と結婚する。彼女はMalatsとグラナドスの弟子であった。彼らは一人の娘を残した。Miguelinaである。

1909年12月15日 ターレガ没。

1910年 リョベートはパリに住み続け、ブリュッセルやオランダでコンサートを開く。

1910 年 1月20日にパリにて、リョベートはかつての先生[略注:タレガのことか]について感動的な記事を書く。それはカタルーニャ語で"Butlleti del 'Orfeo Catala'"に、スペイン語でアルゼンチンの雑誌"La Guitarra"に掲載される。

1910年1月 「先生」を編曲。この傑作は死したターレガへの私的なトリビュートであったかもしれない。

1910 年3月 かつてのリョベートの弟子でありLira OrfeoのメンバーでもあったDomingo Pratが、在地アルゼンチンにてリョベートの(最初の)コンサートツアーを企画する。リョベートは8月にツアーを行い、大いなる賞賛を得る。(3月にコンサートをしたのではないのか、ただ企画が始まったということをいっているのか)←たぶんそういう意味じゃないでしょうか。この訳でOKだと思いますよ

1912年 アメリカでのツアー。ボストンと、フィラデルフィア(9月29日)にて演奏。

1913年 リョベート、チリを旅行する

1913 年-1914年 ドイツでのコンサートツアーが大成功に終わる。当時ドイツ国中で誕生していた、多くのギターソサエティでのコンサートであった。リョベートはギター製作家ヘルマン・ハウザーと出会う。この出会いは大きな何かのために運命付けられていたとしか思えない。ハウザーはリョベート所有のトーレス製ギターを研究。それによりインスパイヤされていくつかの楽器をリョベートのために作る。

1914年 第一次世界大戦勃発:リョベートはパリを発つ。リョベートが戦時中をバルセロナで暮らしたのか南アメリカで暮らしたのかは今もなお論争中である。たしかにリョベートはコンサートしながら旅行を続けていた。

1915 年 リョベートはバルセロナにおり、若きアンドレス・セゴビアもバルセロナにやってくる。その後セゴビアはリョベートの家に訪れるようになり、またカタルーニャのギター社会や芸術サークルで知られた存在となる。ギターを持ったリョベートを囲んだ有名なグループ写真がある。ギターは1912年のラミレス製であり、セゴビアが所有していたものだ。セゴビアには、当時の2人のギタリストとの写真も残っている

1915年12月19日 バルセロナにて、セゴビア、Pedrell、ギター製作家Garcia他が、ターレガの墓の発掘に立会う。ターレガの遺体は彼の故郷Vila Realに移された。このイベントのときの写真が残っている。リョベートはそこにはいない。なぜなら12月1日に彼はCadizからニューヨークに向かって船出したからである。このとき彼は友人グラナドスとともにいたが、グラナドスは彼の傑作「ゴイェスカス」の初演に臨んでいた。リョベートは半年間バルセロナを離れる。

1916年1月26日 ゴイェスカスがメトロポリタン・オペラハウスにて初演される。聴衆には多くのカタルーニャ人がいた。リョベート、パブロ・カザルス、Paquita Madriguera(のちにアンドレス・セゴビアの二番目の妻になる《1938年》)などである。1月17日、リョベートはプリンセス・シアターにてコンサートを開き、Paquita Madrigueraとステージを共にする[訳注:Paquitaはピアニスト]。リョベートはグラナドスのいる前で彼のスペイン舞曲第五番(アンダルーサ)のギター編曲を初演する。この編曲は歴史を作った。

1916年12月28日 リョベート、マラガを通り抜ける。

1916年12月-1917年1月 リョベート、米国ツアー再び。今回は歌手Nina Varesaとともに。リョベートはプログラムの一番最後に、Ninaと共演する。

1918年 リョベート、南米ツアー:ウルグアイ、チリ、ボリビア、アルゼンチンをめぐる。(Maria Luisa Anidoとのデュオの最初の写真が残っている)

1921年-1929年 リョベート、スペインとドイツで演奏。ドイツでは、ミュンヘン、ライプツィヒ、ドレスデン、ベルリン、コローニュ、シュトゥットガルト、その他で演奏。

1921年2月13日 リョベート、ブルゴスにて、マヌエル・デ・ファリャのHomenaje(讃歌)の世界初演を行う。

1922年 リョベートアルゼンチンに戻る。12月に蒸気船Reina Eugenia Sofiaに乗りヨーロッパへと向かう。航海中彼は「返答」の手稿譜を書く。

1924年 ミュンヘンのguitar societyがリョベート、セゴヴィア、ギター製作家のハウザーを一緒に写真にとり、讃える。

1925年 南北アメリカを回るさらなる演奏旅行。

1926年 リョベートはファリャとチューリヒに向かい、現代音楽団体の音楽祭に参加するが、演奏会はひらかず。彼は友人のエミリオ・プジョールにイベントの様子を書いた手紙を送っている。

1929年 アルゼンチン最後のツアー。さらにリョベート=アニード・デュオによる演奏。

1929-1930 年 リョベート、マリア・ルイサ・アニードとのデュオとして幾つかのレコードを作る。ギターの最初のエレクトリック録音はこれより2,3年早く作られたと推定される。1912-1917年の間にリョベートのアコースティック録音がアメリカで試みられたが、リョベートが満足せず録音は破壊されたという記録がある。

1930-1931年リョベートは、ロンドン、ベルリン、ハンブルグ、ミュンヘン、ウィーン、ブダテストで演奏。下記の日程でイタリアにてコンサート。ボローニャ(1930/12/5,6)、モデーナ(1930/12/7)、ミラン(1930/12/9)、クレーマ (1931/1/24)、アドリア (1931/1/26)、レッジョ・カラブリア(1931/1/29)、メッシーナ(1931/1/31)、タラント(1931/2/2)、レッチェ (1931/2/5)

1931年4月24日 アメリカ合衆国最後のツアー。ワシントンにて、リョベートと著名な歌手Nina Kochitz がデュオでファリャ作曲、歌とギターのためのリョベートによる編曲「7つのスペイン民謡」を初演。

1933年 ドイツ最後の演奏旅行。

1932-1934年 生徒であるホセ・レイ・デ・ラ・トーレが リョベートは疲れ果て、演奏旅行の中止を検討していると述べている。彼は1ヶ月間スウェーデンで演奏するけれども。

1934 年 リョベート、バルセロナに居住。時々カタルーニャで演奏するのみ。程度を増すうつと生まれ持った繊細さが結びつき、外界と遮断して閉じこもってしまう。カタルーニャの地に歴史上の暗雲が覆いかぶさるのと同様に。当時の数少ないギターのための作品から、彼の芸術的な成熟が見て取れる。

1935 年 リョベート、彼が行ってきた最小限の教授活動を続ける。彼の最初の生徒は、ドミンゴ・プラト、マリア・ルイサ・アニード、ロシータ・ロデスで、後の生徒はホセ・レイ・デ・ラ・トーレ、ローサ・リョベート、メルセデス・クレウエートだった。もともとあからさまにおしえたがるわけではなかったが、セゴビアとの関係も続いている。セゴビアは回顧録で、リョベートがそのすばらしい編曲を楽譜なしで聞き覚えで演奏するようにセゴビアに指導したこと、そしてその楽譜は存在しなかったことを語っている。

1936年7月18日スペイン市民戦争が勃発。リョベートは決定的影響をうける。彼の最後の演奏会はフィゲラスで行われ、戦争が終わるまで演奏しないことを決めた、と後に彼の妻が記している。リョベートはカタルーニャの事件に直面し、肉体的にも精神的にも落ち込む。彼はしばしば自宅のテラスで孤独に座っていた。この位置は宿命的なものとなった。市民戦争2日目7月19日、ここから彼は Santa Maria Del Marの教会が炎に包まれるのを見た。彼の妻は後にこう語った。リョベートはその芸術家気質と過度の繊細さにより、抉り取られる眼のように破壊される教会の映像にさいなまれた、と。

1937年 作曲家Jaume Pahissaは、鬱のあまり錯乱してバルセロナの街をさまようリョベートに遭遇したと述べている。

1938年1月 リョベートは 胸膜炎の病態が悪化した。それはまるで、彼の個人的な悲劇と時代の悲劇からの逃避を提供する口実のようであった。

1938年1月29日 バルセロナは最初にして最悪の空襲に見舞われる。

1938年2月22日 リョベート、バルセロナの自宅で死去。

1938年2月24日 リョベート、Cementerio del Este(Poble Nou):Dep2°,Isa 2a, Interior,piso 5°,nicho n°495に埋葬される。

1988 年9月16日リョベートの墓を見つけようと試みている間、バルセロナの共同墓地の記録室にてこの日私は既にリョベートの遺物が納骨堂に保管されていて、権威者や親族は一切存在しない(彼の唯一の親族であった娘は1987年の1月14日に亡くなっている)ということが記された書類を発見した。確認書は2003年の6月になってようやく到着した。私はリョベート編曲によるアルベニスとグラナドス作品集のCDに付随するライナーノーツに遺憾の意を表した。絶望的なことにそれからより多くの知らせが到着した。

2006年7月 幾人かのカタロニアのギタリスト達の断固たる決心によって、リョベートの遺物が今どこに眠っているのかについて記されたより多くの歓迎すべき文書が発掘された。彼の妻が亡くなった1948年に彼女はリョベート家の墓に埋葬されたのだがその時にリョベートの遺物は掘り出され、妻の遺物のそばに置かれた。第一の文書はリョベートの最初の墓における1988年の復元作業について書かれていて、誤解を生み出した。今では第二の文書により、現在リョベートの遺物は Dep1,Isla 1a Exterior,piso3,nicho n.19のCementerio del Esteの中にあるということがはっきりしている。

2006年11月5日 リョベートの墓は、彼の思い出に対する賛辞を示す式典と共に公に認められている。

(*)

この伝記は過去出版されたリョベートに関するすべての書物に基づいている。たとえば、"La Guitarra"(ブエノスアイレス、1923-1926)、Domingo Pratによる"Dicionario"、プジョール編による"ターレガ伝"、Bruno Tonazziによる本"ミゲル・リョベート、印象派のギタリスト"、"Revista Musical Catalana"におけるFernando AlonsoとCarles Trepetによる綿密な記事、Ronald Purcellによるリョベート作品の最近の再編集に伴った記事、それにJosep M. Mangadoによる本"La guitarra en Cataluna"などである。私はこれらすべての出版物に恩義があり、また、このような偉大な人物への関心を共有できることを大変うれしく思う。私自身の過去10年の調査からわかった幾つかの細かい点も付け加えてある。

(**)

"Cercle guitarristic de Catalunya"はJosep M. Mangado、 Eulogio Davalos、 Jordi CodinaそしてJordi Pizzarroを中心としたリョベートの墓を見つけるという責務を負ったグループである。

Note 1

1938 年1月29日のバルセロナ爆撃を、Galeazzo Ciano率いるイタリア軍がフランコ・ファシスト党と組んでおこなったという事実を知って以来、わたしはイタリア人として、わたしの国民が、わたしの第二のふるさとと呼んでいい場所―音楽やギターや芸術一般を通して影響を受けた場所―に対しておこなったことに対して、深い悲しみの念を覚えている。それが、今回の録音の題名を"Respuesta"、返答とした理由である。リョベートの音楽を演奏することを通じて被害を修復し、戦争によってもたらされた苦しみをいまここにあるかのようにしのぶためである。

Note 2

読者は1938年の爆撃の傷跡の残った「商人の娘」のスコアを(訳注:ブックレットの1ページ目に)見ることができる。この焼け跡は、まるで暗示的に、リョベートの名声がこうむったダメージと、その後数年で彼が忘れ去られたという事実を示しているかのようだ。わたしはこのスコアを友人Maria Mercedes Crehuetからもらった。彼女は1936年7月にリョベートのもとで夏の間のレッスンを受けるためにバルセロナに一時的に立ち寄った。結果的にこれが彼女が受けた最後のレッスンになったのだが。そして7月18日に内戦が勃発すると彼女は家族とともにバルセロナから逃げた。このスコアはコルトゥス・カタラーネス通り(グラン・ビア)620番地の家族の家に残っていた。1938年の空襲の間に、いくつかの爆弾が引火性の物質を運んでいたトラックに当たり、それが爆発し、Mercedes家の音楽関係のものに当たった、そしてほとんどすべてを破壊してしまった。しかし、今あなたが見るように、いくつかのものは確かに生き残っているのだ!
2008年09月22日(月) 21:46:06 Modified by kzkara




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