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(1)排斥力

 最初に暗い話から入るのは恐縮ですが、笑いを扱ううえでは避けては通れない話題なので、早めに済ませておきましょう。
 何度も説明してきた通り、笑いとは基準状態からのズレが生じたときに起こるものです。この基準状態がどのように形成されるかは、はっきりと説明することはできませんが、いわゆる「何が普通か」という一般人の観念に依存している部分が大きいです。そして、笑いが基準状態からの乖離を指すものである以上、あるズレを「笑う」ことは、そのズレを作出した者に対して、「お前は普通ではない」というスティグマ(メッセージ)を与える効果を不可避的に伴います。この烙印を押された者は、そのことを肯定的に捉える場合もありますが、否定的に捉える場合もあります。笑いは、「普通の状態」から乖離している者を笑い、「普通の状態」から遠ざけ、排斥する力を持っているのです。
 笑いが有するこの作用を、「排斥力」と呼ぶことにします。チビ・デブ・ハゲ・ブス・バカ・ビッチ・童貞・性的マイノリティ・宗教的マイノリティ・民族的マイノリティ・人種的マイノリティなどの、「普通ではない」とされる人たちは、これらの属性を笑われることにより、「普通の状態」を有する者たちとの隔離を感じ、憤り・悲しみ・羞恥などを覚えるのです。簡単に言えば、笑われることによって「馬鹿にされた」と感じるということです。この「普通ではない」状態は、部分社会で部分的に生じるものも含みます。女性は世界全体で比べれば男性と同じくらいの数がいますが、男性が多い部分社会(笑いも世界もそのひとつです)では「普通ではない」人たちになり、笑われることによって排斥力が生じるのです。
 なおここでは、基本的に人を笑う場合を問題にしています。動物やロボットを笑う場合も排斥力は生じますが、人じゃないのでとりたてて問題にする必要はありません。ただし動物やロボットを笑う場合も、間接的に人(飼い主やロボットの作製者)に対して排斥力が生じることはあり、この場合は人に直接排斥力が及ぶ場合と同様の注意が必要です。

 問題は、この排斥力というマイナス作用のために、笑いが禁止される場合があるかということです。
 本項は、これを明らかにすることを試みるものです。難しい問題なので、軽々に結論を出すことはできません。
 以下のような例を考えてみましょう。あるボケによって、笑う人と、馬鹿にされたと感じて不快感を覚える人がいたとします。笑う人が笑うことによって得る効用の合計をα、馬鹿にされたと感じた人が奪われた効用の合計をβとしましょう。このとき、αがβより大きければ、世界全体としては効用が増えているから、その笑いは禁止されるべきでないというのがミクロ経済学的な考え方です。でも、αは笑う人が多ければ多いほど大きくなるわけで、馬鹿にされたと感じる人が一人しかいない場合、その人を大勢で笑うことは常に許されることになりかねません。このような結論を許していいのでしょうか。
 ただまあ、このミクロ経済学的な分析からも、最低限、次のことが言えるでしょう。
 まず、全ての笑われる人が笑われることを許容している場合は、笑われない、馬鹿にされないという利益は放棄されているといえるので、笑ってやるべきです。なぜこの人たちが笑われることを許容しているかと言えば、笑われることによってむしろ効用を得ることができるからだと考えられます。例えば、「笑われることを許容している人」の典型例は、笑われることのプロ、すなわちお笑い芸人ですが、この人たちは、笑われることによって、自らの「笑いの技能」について自尊心を増すことができる、他者から自身の存在を承認されている実感を得ることができる、といった精神的な効用を得ることができます。これに加えて、お笑い芸人は笑われることによってギャランティーという給金を得ることもできます。これらのプラスの効用が、笑われることによって失われる効用を凌駕し、結果としてはプラスになるからこそ、この人たちは、笑われることを許容しているのです(なお、ギャランティーについては、笑われることによって失われる効用に対する、笑い手からの補償と評価することもできるでしょう)。
 このような人たちがズレを作出した場合は、笑うことで社会全体の効用は疑いなく増進していくので、こちらとしても大いに笑ってやるべきです。まして、「この人たちは本当は笑われたくないのに笑われている」などと勘違いして、その人たちが自ら進んでやっている「笑われ」を禁止するなどもっての他です。
 この問題を考える好例として、ミゼットプロレスというエンターテインメントがあります。なお、以下の考察についてはウィキペディアで得た知識をもとにしているので、ウラはとりきれていませんが、嘘だったとしても思索の材料にはなると思われます。
 ミゼットプロレスは、小人症などのために平均的な成人よりも身長の低い人がレスラーとして行っているプロレスです。このプロレスは、いわゆる「チビ」の人たちによって行われるプロレスであるため、「『チビ』がプロレスをやっている」というズレを笑うものとして、コミカルな側面が強いです。
 このような特質のために、人権団体などから「小人症の人を笑い物にするものである」として、非難や抗議があるとされています。しかし、ミゼットプロレスのレスラーたちは、「自分たちはお客さんを笑わせているんだ」という強いプロ意識を持っているとされています。ゆえに、レスラー達は、「笑われる」ことを嫌がるところかむしろ許容しており、更に進んで、笑われることによって先述のような精神的な効用を得ている者も少なくないと考えられます。これに加えて、レスラー達はミゼットプロレスの興行を行うことによって、収入という現実的な効用をも得ています。
 このような場合に、笑いを禁止するのは、笑う人たちどころか笑われる人たちからも効用を奪うものであって、全くにナンセンスだと言えます。実際にかつては低身長症の人たちは、不合理な差別によってまともな職にありつけず、ミゼットプロレスが重要な就職口だったと言われています。すなわち、ミゼットプロレスによる笑いを禁止することは、小さなレスラー達から生活の糧を奪うものであって、このような状況についてよく理解せぬままに禁止すべきと主張するのは、単なる感傷に過ぎないと評価されても仕方ありません。
 このような結論は、更に以下のような2つの反論を受けます。ひとつは、「実際に笑われる人が許容しているとしても、そのような笑いをのさばらせることは、そのような笑いを笑われる人が許容していない場合でも正当化することにつながってしまう。子どもたちが馬鹿にされることを嫌がっている『チビ』な人も馬鹿にしていいという価値観を植え付けてしまう」というものです。しかし、子どもたちにはきちんと「許容している人しか笑ってはだめで、いやだと言われたら笑ってはいけない」と教育すればいい話です。この論理を拡張すると、全ての笑いは排斥力を持っている以上許されないということになりますが、そのような結論は到底是認できないでしょう。
 いまひとつは、「確かにミゼットレスラーとして働くことに自負や生きがいを覚えている人もいるだろうが、『チビ』と笑われたくないのにもかかわらず、他に職業がないためにやむを得ずミゼットレスラーをやっている人もいるはずである。少なくともそのような人のことを笑うべきでない」というものです。しかしこの反論に対しても、更に以下のような再反論ができます。「『チビ』と笑われたくない人がやむを得ずミゼットレスラーをやって糊口をしのいでいるのは、『チビ』を不合理に差別してまともな職に就かせない社会に問題があるからであって、直すべきはその社会の方である。却って、社会が直らないうちにミゼットプロレスを禁止すると結局レスラー達から生活の糧を奪うことになってしまうので、社会が直るまでの過渡的な措置としては、むしろミゼットプロレスを認めるべきである」。
この辺の議論は、売買春に対してパターナリスティックに規制を課すべきか、という議論と似通ったところがあります。
 とはいえこの反論は重要な教訓を与えてくれます。まず、「笑われている人」は笑われていることを進んで許容しているわけではなく、笑われることを余儀なくされているに過ぎない場合があるということです。そのため、その人が笑われることを許容しているかどうかは、慎重に判断される必要があります。更に言えば、基準状態からのズレによって作り出されるという笑いの特性上、笑い手の側は多数派であることが多く、この数のパワーのために、少数派が笑われることを不本意ながら許容せざるを得ないという状況は、頻繁に生じます。多数派は、真に許容されているかどうかを慎重に判断する必要があります。
 そして、この裏返しとして、許容を強制するような状況がないのにもかかわらず、笑われる側が自らの真正な自由意思によって笑われることを許容しているときは、笑うことを禁止すべきでなく、むしろ大いに笑ってやるべきであるということになります。この場合、笑われる側も効用を得られるからこそ笑われることを許容していると推認され、笑ってやることで社会全体の効用が増進していくからです。
 そして、少なくとも現代日本における笑いのプロは、そのような真正な自由意思で自ら笑われることを選択した人たちばかりだというのが筆者の観測です。チビはチビなりに、ブサイクはブサイクなりに、自分の「欠点」を長所に変えるべく、「笑われることのプロ」になるという自律的決定をしているはずなのです。
 ただし、この観測は希望的観測に過ぎません。先に挙げた「普通でない」人たち、チビ・デブ・ハゲ・ブス・バカ・ビッチ・童貞・性的マイノリティ・宗教的マイノリティ・民族的マイノリティ・人種的マイノリティなどに対する、不合理な理由のない差別が、完全に消え去ったとはどうもいえないからです。これは、こういった人たちが、完全に真正な自由意思で笑いのプロという職業を選んだと断言できないことを意味しています。これは、人がヒューリスティクスによる判断を行う限り、完全には払拭できない疑いです。
 ヒューリスティクスとは、ある主張の正しさを判断する際に、人が用いる簡便な判断法です。「FXは儲かります」「原発は安全です」などといった主張の正しさを、本当に論理的に判断しようとすると、膨大なコストがかかります。そこで人は簡便で低コストな判断法によって、一応の結論を出します。曰く、「イケメン/美女が言っているから正しい」「声が大きいから正しい」「大学教授が言っているから正しい」「背筋が伸びて堂々としているから正しい」「着ているスールがパリッとしているから正しい」「貧相な小男だから信用できない」「ピアスをつけているから信用ならない」「ヒゲをきちんと剃っていないから信用できない」。この方法は、常に正しい結論を出せるものではもちろんありませんが、低コストで為せるというのが最大のメリットです。就職面接等においても、このようなヒューリスティクスによる判断が、完全には排されていないと考えられます。「私は見てくれに左右されずきちんと中身を見る」という方もいるかもしれませんが、ヒューリスティクスによる判断は、意識して排しようとしても無意識的に行われてしまうものであります。また、いくら自分がヒューリスティクスによる判断を排しても、第三者はするかもしれないので、そのために見てくれのいい人を優先するということはあり得ましょう(有能なブサイクより有能なイケメンの方が営業等で有利であると考えられます。それは、営業先という第三者が「イケメンのいうことの方が信じられる」とヒューリスティクスによる判断をしてしまうからです)。このような状況が未だ残存していると考えられるからこそ、「普通でない」人たちが完全に自由に職業を選択できるとは言い切れないのです。しかし、この点にこだわり始めると際限がなくなるので、現代日本のお笑い芸人は真正な自由意思に基づいてお笑いの道に入ったのだという結論を、一応承認することにしましょう。よしんばこれを承認できないとしても、先ほどの結論からすれば、社会が変わるまでの過渡的な措置としてはお笑い芸人を笑ってやるべきことになるといえます。
 だいぶ話が長くなってしまいました。ここまでの話は、「笑われる人が笑われることを真正な自由意思に基づいて許容している場合は、笑ってやるべき」というものでした。では、「笑われる人が笑われることを許容していない場合」はどうでしょうか。この場合、笑う人の効用が笑われる人から奪われる効用より多いとしても、直ちに笑いが許容されるべきだということにはならないと筆者は考えています。
 では、笑われる人が許容しているかどうかが明らかでない場合はどうすべきか。この場合に一切笑いが行えないというのも窮屈です。
まず、笑いを作る側としては、笑われる人が、事後的にであれ、許容するような質の高い笑いを作り出しておくことです。良質の笑いは、笑われる側が笑われたことに効用を覚えて、許容してくれる可能性が高くなります。
 まあ、そのような質の高い笑いが作れない場合もあるし、作ったとしても不快感を覚える人は出てきます。この場合でも、笑われる人が不効用を感じないような態様での笑いは、許されるのではないでしょうか。要は、笑われる人に知られないように、陰口のように笑うということです。そのような陰口は許されないという人もいるかもしれませんが、芸能人やスポーツ選手について本人の知らないところで悪口を言ったり、さっき行ったコンビニの店員が挙動不審だったことを話のタネにしたりして、笑いあうというのは全ての人がやっていることです。全員にこのような陰口の権利を認めれば、それはそれでトントンです。笑う対象と継続的な接触がある場合には、多少の注意を要するというに過ぎません。
 このように考えると、笑われる人に笑われることが知られる可能性が高い笑い―テレビ、ラジオ、インターネットのような公共性の高い媒体における笑い―については、笑われる人の事前的あるいは事後的な許容を得ない限りは、行い得ないということになってしまいます。とはいえ、これはしょうがないでしょう。この結論では制限的に過ぎるという反論もあるかもしれませんが、このような公共性・伝達性の高い媒体で笑われる対象を取り上げるということは、笑われる対象が広く知られるというメリットもあるわけで、そのようなメリットを作り出すことによって、笑われることを許容させるよりないのではないでしょうか。めちゃイケによるパロディは怒られることも多そうですが、許容されている場合も少なくなさそうです。それは、めちゃイケによって取り上げられることが、笑われる側にとってもメリットになるからです。
 別の形で笑われる側が許容していない笑いを許容するとすれば、「プロは素人に失敗を笑われることも覚悟すべきである」という前提を承認する方法があります。この前提を承認すると、プロが作ったゲームがクソゲーだったり、プロが作った映画がクソ映画だったりした場合に、これを当該プロの意思にかかわらず笑うことが許されます。これは、お笑いのプロであるお笑い芸人については特に妥当することでしょう。お笑い芸人は、自らが誇るべき笑いをとる技能についても、笑われることを許容しなければならない職業であります(この笑いをとる技能の低さを笑うのがすべり芸です)。芸人は、「私は○○と××については笑われたくありません」というような留保を付すことはできないものであると筆者は考えています。このような留保は、通常他の共演者や受け手には分からないため、お笑い芸人がめいめい勝手にこのような留保を付すと、制約が多くなって、笑いが極度に萎縮されてしまうからです。
 ただお笑い芸人以外のプロについては、その職業に無関係な事項について笑うことまで許容されるものではないと思われます。ゲームを作るプロの野球の技術や性的嗜好についてまで、無条件で笑っていいということにはならないはずです。もっとも、どこまでが「関係のある」ものかどうかは、直ちに答えが出るわけではありません。野球ゲームの作り手なら、野球の技術は関係のあることかもしれません。
 お笑い芸人についても、例えば本人ではないその親族等についてまで無条件に笑っていいことになるものではないでしょう(芸人と結婚するならネタにされることを覚悟で結婚せよとは言われますが)。つまり、「プロだから笑っていい」という前提を承認するにしても、その限界がクリアに明らかになるわけではないということです。

 以上の結論をまとめます。
‐个錣譴訛Δ笑われることを事前的に、あるいは事後的に真正な自由意思に基づいて許容しているのであれば、笑うべきである
(そして、事後的な許容でもいい以上、実務ではまず許容されるかどうかが分からない段階からやってみるべきである)
⊂个錣譴訛Δ笑われることを許容していない場合は、少なくとも以下の場合は笑うことが許される。
(a)笑われる人が不効用を感じないような態様をとる場合(典型が「陰口」的な笑い)
(b)プロについてその職業と関連性のある事項を笑う場合
 あまり面白味のない結論になりましたが、こういう議論は結論そのものよりも結論が導かれる過程におもしろさがあるものです。
 この議論が笑いをとる技術とどう関係があるのかという疑問をお持ちの方もいるでしょうが、一応、あります。それは次項(2)をご参照ください。

毒舌

 ちなみに、毒舌というのは、この排斥力が最も現出する笑いの手法です。対象のズレを指摘してバカにするものです。笑いというのは、何かをバカにしてこそ生まれるものなのです。
 毒舌は、第一次的には何かのズレを指摘するというツッコミです。言い過ぎれば、「言い過ぎである」というズレが生じるため、ボケの要素も帯びてきます。
 毒舌を言われた方は、シュンとしてしまうとお客さんが可哀想だと思ってしまって笑いを阻害するので、できるだけヘラヘラするか、毒舌を言い返して喧嘩をするようにしましょう。笑いで大事な、プロレスです。


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