当wikiは、高橋維新がこれまでに書いた/描いたものを格納する場です。

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(11)その他

 その他、お笑いでよく聞く見られる用語やコンテンツについて説明を加えます。

大喜利

 これは、特に言うことはありません。お題があって、それにボケて答えるというものです。プロでもアマチュアの間でも広く行われています。

 前述の通り、大喜利力はお笑いの世界における基礎体力であることは間違いないと思います。大喜利で考えたボケはあくまでプリミティブなエレメントに過ぎず、その後でこれを並べて前後に絡み合わせ、複雑なネタを作っていくもんだと思います。そういう作業をせずにエレメントのボケをそのまま見せる大喜利というショウは、ショウとしてやるとしたらもう少し工夫をすべきだと思います。

 基本的には、「大喜利」と銘打ってやるとお客さんが「これからおもしろいものが見られる」と考えてハードルを上げてしまうため、まじめなクイズやアンケートの体で初めて実質は大喜利とであるうことは隠し、奇襲を志向すべきではないでしょうか。
 実際はまじめな質問なのに、気づいたら大喜利化していたということも結構あるでしょう。こういうのが、理想的です。2chでも、大喜利化しているスレッドはよく見かけます。2chの強みは、テレビ・新聞・雑誌のようなメディアにおける束縛(放送禁止用語/下ネタ/暴力描写/スポンサーへの配慮など)にほとんど縛られないことと、単純にネタを考えている人の絶対数が多いことでしょう。
 大喜利でも、ボケのパターンを増やすことは有効です。敢えてすべる、敢えてまじめに質問に答えない、敢えて人の答えをパクる、敢えて前と同じことをいう、など。もちろんお客さんが意表を突かれるかもしれませんが、司会者に技量さえあればきちんと笑いとして回収できます。ただまじめな大喜利イベントではこういうことをやると「邪道」として嫌われる可能性もあるので、そこは空気の読みどころです。筆者としては、ボケを一次的なもののみに限ってしまうと笑いの可能性を自ら狭めることになるので、単に受け手の笑いをとるという局面では、そういう限定をかけない方がいいと思っています。もっとも一次的なボケのうまさを競う大会などでメタなズレをやられても困るわけですが。
 このようなメタなズレを提供している人の代表格が、「笑点」の林家木久扇こと木久ちゃんです。木久ちゃんは、敢えて馬鹿なことを言う、答えができていないのに手を挙げる、くだらないダジャレしか言わないなど、「まじめに答えられていない」というメタなズレを作出してきます。木久ちゃんの場合、もう何十年もこういうことをやっているので、これがキャラクターとして定着しており、お客さんもどのようにおもしろいのかを分かっているという利点があります。司会者の歌丸さんも、扱い方をきちんと分かっています。笑点のまじめなボケは、年配の方向けに分かりやすく作ってあることが多いので、若い人には木久ちゃんの答えが一番楽しめるのではないでしょうか。
 あと笑点では円楽さんがよく社会や政治を諷刺した答えを言いますが、あれは笑える答えではなくて、単にうまい答えです。「おもしれ〜」ではなくて「うめ〜」「すげ〜」の類です。まあ、需要があるのであればよいのではないでしょうか。

トーク

 これも特に言うことはありません。
 しゃべりによってズレを作出するという構造は漫才と同じです。ボケとツッコミという役割付けが漫才ほど明確にされていないだけです。話題があって、その中で参加者がバラバラとしゃべります。誰かがフり、誰かがボケ、別の誰かがツッコむというのが大筋の流れですが、ときに、単体としてオチがついて完結している話があります。これを俗に「おもしろい話」や「エピソードトーク」などと言います。
 笑いというコンテンツに特化したトーク番組はたくさんあります。「アメトーーク」「ダウンタウンDX」「しゃべくり007」「人志松本のすべらない話」などが全国区で有名なところでしょう。その中でも「すべらない話」は、前述した「おもしろい話」(エピソードトーク)に特化した番組です。

 エピソードトークは、話者が一人でオトす必要があります。故に、自分のボケに自分でツッコんでもおもしろくないという笑いの鉄則からすると、自分でボケた場合にはツッコミが使えません。この場合は、ボケを分かりやすくするためにはフリをうまく使ってやる必要があります。ボケ自体のズレの程度を上げて分かりやすくるというやり方もありますが、これは俗に「盛る」と言われる手法です。
 エピソードトークにおいてもう一つよくあるパターンとして、自分でボケるのではなく、街中で見かけたボケに対してツッコミを入れるというものがあります。よく話題になるのは、街中で見かけたおかしな人とか、自分のおかしな家族とか、おかしな共演者とかですが、ボケをやっているのはこの「おかしな人たち」であって、話者はこの人たちがいかにおかしいかを伝えるツッコミの役を果たしているのです。
 そして筆者は、世に言う「エピソードトーク」は、こちらの「ツッコミ」のパターンの方が圧倒的に多いと感じています。そして、このエピソードトークというのは、そんなにおもしろいものではありません。理由は単純で、ボケが目の前におらず、客(聞き手)は話者の語り口に頼ってボケを想像するしかないからです。ボケが目の前でやったボケにツッコむ方が、聞き手が想像したボケにツッコミを入れるより分かりやすくて、訴求力があって、おもしろいのは自明の理でしょう。
 だから、エピソードトークに特化するより、ボケとツッコミが生で絡み合う様子を見せた方が絶対におもしろいと思います。一つエピソードトークの利点として考えられるのは、生で見せられると引いてしまうようなズレも、「話」の形にすることでマイルドにできることです。「誰かがウンコ漏らした」というエピソードトークは、ウンコを漏らした人(ボケ)に対するツッコミですが、スタジオでウンコを漏らされてもお客さんは引くだけだと思います。これを間接化することで笑えるレベルに収めることができるというのは、エピソードトークの強みでしょうが、逆に言うとそのレベルのズレがない場合は、わざわざエピソードとして話すよりボケとツッコミを生で絡ませた方がいいということになります。
 そしてどうしてもエピソードトークをやらざるを得ない場合でも、お客さんが話者が接触した「ボケ」の様子をきちんと想像できるように、絵や写真をできるだけ入れ込むと言った工夫が必要でしょう。このへんがうまい話者がいるのは確かですが、どう考えてもこういった視覚的な補助手段を入れた方が分かりやすいはずです。それすら全く排除している「すべらない話」の演出方針を、筆者は理解することができません。「単なる手抜きではないか」と思われても仕方ない気がします。

 もう一つ付言をば。よく、「オチ」ということが言われます。オチというのは、エピソードトークの一番最後に来る笑いどころです。筆者は、別に途中におもしろいところがあれば、オチがおもしろい必要は必ずしもないと思います。エピソードトークには、当然笑い所とそうでないところがあって、オチがおもしろい話も例外ではありません。前半のフリの部分なんかは、笑ってもらわなくてもいいところだし、むしろここが笑い所だと勘違いされるとオチもぼやけかねないため、困るところです(例えばジュニアの話は、前半のフリが長くてしつこい傾向にあると思います)。
 「オチは特におもしろくないけど途中がおもしろい話」というのは、笑い所とそうでないところの順番が入れ替わっているだけです。サビがちょっと早めに来てしまっただけなのです。そういう意味では、「オチがおもしろい話」と何の違いもありません。

落語

 落語というのは、まあ「おもしろい話」の一種なのですが、先述のエピソードトークと異なり、話者が一人で何役も演じ分ける形で進んでいくのが通常です(当然、落語のように話者が一人何役もやるエピソードトークも存在はします)。
 そのため、落語にはエピソードトークと同じようなデメリットが出ると筆者は考えています。話者が、ボケとツッコミを交互に演じると、演じ分けがうまくないとともすれば「自分のボケに自分でツッコんでいる」ように見えてしまうというデメリットが出ます。それ以前に、一人で何役も演じ分けるとなると、登場人物が増えれば増えるだけ当然演じ分けも難しくなっていきます。「今しゃべっているのが誰なのか」が分からなくなれば、客は迷子になってしまいます。

 「なぜ落語は、一人で何役もやるという『分かりにくい』手法に固執しているのだろうか」というのが筆者の長年の疑問でした。芝居のように、一人の登場人物に一人の演者を当てた方が分かりやすいのではないでしょうか。ただこれをやると、当然演者が増えた分ギャラの総額は増えますし、適切な演者を捜索・選考する手間、演者同士で稽古して間を合わせる手間などが増え、作品を完成させるコストが増大していきます。それは、観覧料の増加という形で客に跳ね返ります。落語家は、脚本も自分で考えますし、登場人物全員を一人でやるのでボケとツッコミの間も自由自在に調整可能です。ギャランティーも一人分で済みます。だから、本格的な芝居より随分観覧料が安いはずです。
 筆者が今のところ思いついている落語のメリットはこれだけなのですが、そうだとすると落語はアジやサバで、本格的な芝居はフグやホンマグロということになってしまいます。落語を愛する人たちはそれだと納得がいかないでしょうから、筆者も落語という手法のメリットを考え続けてはいます。

 あと、古典落語というものは、基本的に話の内容(ストーリーの大まかな流れとオチ)は同じで、落語ファンであればそれを知っているので、話のオチそれ自体に意外性というものはほとんどありません。これは、笑いの本質に真っ向から反しているというのは今更指摘するまでもないでしょう。落語家の個性は、マクラと途中のくすぐりに出ます。マクラというのは、本題に入る前のおもしろい雑談のことで、くすぐりは途中に入れる笑い所です。
 落語界も絶えずお客さんの裏をかける新作落語を作って新陳代謝を続けていかないと、「伝統芸能」化してしまうと思います。ここで言う「伝統芸能」とは、「客からの支持がなく、それ単体では収支が維持できない(それはとりもなおさず、エンターテインメント性が稀薄で、金を払ってでも見ようという客が少ないということです)のに、なぜか(公的な資金や援助の注入等によって)生き残らされている芸能」のことです。

なぞかけ

 これこそおもしろいものではなくて、「うまい」「すごい」の世界に入るものです。なぞかけは、余程工夫しないと笑えるものにはならないと思います。
 なぞかけがなぜ笑えないかと言えば、単にダジャレ的に言葉の類似を指摘するものであって、ズレを作出しないからです。ではなぜダジャレは笑えないのかという話になります。

ダジャレ

 ダジャレは笑いを生みだすものでは基本的にはありません。なぜかって、言葉の音の類似を指摘するに過ぎず、ズレを生むものではないからです。
 おそらく、元は天然ボケだったのでしょう。「エコロジー」と「エロジジー」を天然で言い間違えたとしたら、それは確かにズレがありますが、わざと言ってもズレは大してありません。

 ダジャレが笑いに使われる場合、以下のパターンがあると思われます。
.瀬献礇貅体が生むズレ
△修領犹性から勘違いを生じたというズレ
ダジャレを言ってすべるというすべり芸
ぅ僖蹈妊のタイトル

 は特に言うことはありません。笑点の木久ちゃんとかです。
 い蓮△△までパロディであるため、それ自体がズレになるわけではなりません。もっともこれについても´△里茲Δ弊質を帯びた結果ズレになることもあります。
 △蓮∨粗に記した天然ボケです。タメ口のローラと西城秀樹のローラを間違えたというような話です。わざと言ってもさほどおもしろくないので、天然を装った方がいいです。また、時間を稼ぐにはここから話を広げていく必要があります。
 ,砲蓮△いつかパターンがあります。言うだけでズレになるシモ絡みのダジャレ(あそ国際マラソン)、あまりにマニアックだ(武市シュンペーター)、ダジャレで指摘されている状況にズレがある(そういえば総入れ歯)などです。
 要は、ダジャレもズレを生みださないとダメだということです。そうでなければ、これも「うまい」「すごい」で終わる類のものです。

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