当wikiは、高橋維新がこれまでに書いた/描いたものを格納する場です。

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(3)「共感の笑い」

 ここまでに述べたように、笑いには排斥力と連鎖力という二つの作用があります。ここから、笑いとは元々共同体の連帯を高めるための感情・動作なのではないかという仮説が生まれてきます。つまり、ある共同体にとっての異端を共同体内部の構成員で笑うことで、その異端をスケープゴートとして排斥する一方で(排斥力の作用)、構成員どうしが相互に連鎖力が働きあっている中で一緒に笑うことで、共同体の連帯を高める効果が生じてくる(連鎖力の作用)のではないかということです。そうやって生贄を利用して自分たちだけがいい気持ちをする醜い感情なのです。笑いというものは。
 この仮説はまだ筆者の個人的印象の域を出ていませんが、手前味噌ながら結構的を射ていると思っています。なぜならこの仮説から、筆者のズレ理論では説明が難しい現象が説明できるようになるからです。

あるある

 ズレ理論で説明することが難しい(と思われる)現象の中でも最大のものが、「共感の笑い」と呼ばれるものです。その典型例があるあるネタです。
 あるあるネタとは、ある状況においてよく見られる現象を指摘することで笑いをとる手法です。筆者はこれを考えるのをあまり得手としないのですが、以下頑張って例を挙げてみます。

例:横断歩道あるある


 このうち(おもしろいかどうかは別として)あるあるネタとして成立しているのはABのみです。Cは、そんなことは「ない」ので「あるある」とは言えません。ただし、「あるあるネタ」だと言っているのに「ない」ことを挙げているという意味ではABとは別のメタなズレを提供しているので、これも笑いを呼び起こすものではあり得ます。いわゆる「あるあ…ねーよ」の笑いです。この局面においては、ABはフリの役割を果たしています。
 他方、DはABよりも高い頻度で生じそうな現象ですが、これがあるあるネタとして成立しているとは言えないと思います。つまり、頻度の高い現象をむやみに紹介してもあるあるネタになるとはならないということです。頻度には、適切さが求められるのです(ただし、あるあるネタとして成立していないという意味ではDと同じくメタなズレを作出しています)。
 しかし、頻度さえ適切であればあるあるネタになるわけではありません。Eは、日常的な感覚としての頻度でいったらABと同程度でしょうが、これがあるあるネタとして成立していると考える人は少ないのではないでしょうか(無論、CDと同じく成立してないというメタなズレはあり得ます)。
 ここから分かることは、あるあるネタも実はズレ理論に包摂できるということです。あるあるネタとは、ツッコミなのです。頻度は同等なのに、ABはあるあるネタとして成立し、Eは成立しないのは、ABが指摘している状況がズレを作出しているのに対して、Eはそうでもないからです。Aは、「そんな自分ルールを課して何が楽しいのか」というズレがあります。Bは、「普段は信号無視するくせに、幼稚園児の前ではなぜかいいかっこをしている」というズレがあります。あるあるネタとは、このようなズレのある状況を指摘することで、受け手にその存在を気付かせ、ズレを認識させるというツッコミなのです。
 ではなぜ「あるある」という名の通り指摘する対象に「頻度」が求められるのかといえば、あるあるネタではズレの指摘をするのみで、前提となるボケ自体は行わないため、受け手はズレの存在を少なくとも潜在的には認識している必要があるからです。ある程度の「頻度」をもって生じる現象でなければ、この潜在的な認識さえ基礎付けることができないため、笑いとして成立しなくなってしまうのです。逆に言えば、「頻度」はこの「潜在的な認識」を基礎付けるために求められるに過ぎず、ネタの主軸は今まで指摘してきた通りズレにあります。この点は他のボケと一緒です。
 逆に言えば、あるあるネタではボケを担う人が必要なく、人々が潜在的に認識しているズレを指摘さえすればいいので、ピンでもやりやすいということになります。

結紮力と内輪ネタ・ギャグ・お約束

 結局ズレ理論に包摂されてしまったあるあるネタですが、ズレのみから笑いの場面で行われているものではないと筆者は考えています。
 笑いは、前述のように、排斥力と連鎖力から、異端を排除して共同体の連帯を高める作用を持っていると考えられます。この作用を、結紮力(けっさつりょく)と呼ぶことにしましょう。
 あるあるネタは、前述のように受け手と作り手に共通する知識を前提としたネタです。このような共通知識を利用してお互いに笑いあうことは、「私にもこの知識があるから、私もこの共同体の一員なんだ」という感覚を笑い手に抱かせるもので、笑いと同じく結紮力があります。結紮力による共同体意識の高まりは、人が社会的動物である以上ひとつの快感を呼び起こすものであるため(この辺は怪しいですがあまり気にしないでください)、結紮力のあるパフォーマンスは、必ずしも笑いを呼び起こす作用を持っておらずとも、笑いに附随して行われる場合があります。
 あるあるネタはそのひとつの例です。前述した通り、笑いを呼び起こす力と、独立の結紮力の双方を持っています。
 内輪ネタもそうです。内輪ネタは、内輪だけに通ずる知識を前提としたネタであり、あるあるネタと同じく作り手・受け手に共通の知識に基礎づけられる笑いであるため、結紮力を持っています。内輪だけに通ずる知識はあるあるネタの前提となる知識よりも狭い範囲にしか知られていないため、その結紮力はより強いと言えるでしょう。
 内輪ネタは、テレビや舞台等では、作り手と前提知識を共有していない受け手の笑いを喚起することができないため、やってはいけません。それでもやられる場合があるのは、「禁じ手なのに敢えてやっている」というメタなズレを感得することができることのほかに、前述したような強い結紮力があるということも一因となっていると考えられます。
 ちなみに内輪ネタをやりたいのであれば、しつこいぐらいに何度もやって、受け手にもその情報を知らしめるという手があります。こうなった場合、本稿の定義上内輪ネタではなくなります。これは、「内輪ネタの外部化」と筆者が呼んでいる現象です。もっとも、こういう内輪ネタも、新参者には分からない場合があるため、「内輪受け」という批判が飛んでくる危険性は常にあります。
 スタッフいじりをよくやるのはとんねるずや「ガキの使い」です。めちゃイケも結構多いです。この三者に関しては、やりすぎてすでに外部化されている部分が大きいといえるでしょう。慣れてしまえば受け手としても「禁じ手なのにやってやがる」というズレを感得することができるほか、結紮力が及ぶようになるため、さっさと慣れてしまうのが吉です。

 また、定番化したギャグやお約束も、結紮力を持ったパフォーマンスの一例であると考えられます。
 ギャグとは、短いフレーズや動作でズレを引き起こすものです。ボケの一種です。主には「何でそんなことを言うのか」「何でそんな動きをするのか」というズレを作出するものです。ダジャレやたとえを含んでいる場合もあります。「あたり前田のクラッカー」「ガチョーン」などが古典的なギャグです。いずれも「よく分からない、意味を為さないことを(唐突に)言っている」というズレがあります。
 といっても、ギャグは、人気を得て繰り返されると、飽きられます。飽きられると、意外性が稀薄になり、ズレによる笑いを呼び起こす力が弱くなります。しかし、吉本新喜劇における各種のギャグやお約束の流れ、またダチョウ倶楽部の「どうぞどうぞどうぞ」など、意外性が薄まったギャグでも何度も行われているものはしばしば見られます。なぜ死滅しないかといえば、「結紮力があるから」というのがひとつの説明になるでしょう。すなわち、これらのギャグやお約束は、受け手に「よく知っているアレだ」という感情を抱かせ、これを知らない人たちを置いてけぼりにすることで、知っている者だけの間で結紮力を生じさせるものであると考えられるのです。
 ちなみに「結紮」というのは医学用語でして、その名の通り何かを結ぶことを意味します。結紮という手法は、医療の現場においては、除去したい組織を縛り上げて血流を止め、これを壊死させる場合にも行われます。笑いが共同体の構成員どうしを強固に「結び」付ける作用を持っている一方、他者を排斥して共同体内部における結束を過度に高めると、やがて孤立して、壊死していきます。このマイナス面を含意したかったために、敢えて「結紮」という言葉を用いました。

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