当wikiは、高橋維新がこれまでに書いた/描いたものを格納する場です。

目指したのは、お笑い学における芦辺憲法。


日本芸人地図(2017年版)

日本芸人地図(2014年版)


まえがき

 本稿は、筆者が漫画・テレビ・映画・舞台などを通して観賞してきた「笑い」について記したものであります。笑いについて筆をとるにしても、様々な角度からのアプローチが考えられますが、そのなかで本稿の問題関心は「何が人に笑いを生じさせるか」を解明し、それによって「どうすれば人を笑わせることができるか」を、人にも通じる形で言語化して、まとめることにあります。有り体にいえば、笑いをとる方法のマニュアル化を試みているのです。
 ここまで読んで本稿の試みに共感していただいた方は、以下を読まずに中身に進むことをお勧めします。以下は、このようなマニュアル化にどのような意味があるかを説明するものですが、多少難解な部分があるかもしれません。

お笑い論 1.序論


余談

 マニュアル化、のメリットは明らかです。すなわち、より多くの人により分かりやすい形で笑いをとる技術を伝達することができます。しかし、このようなマニュアル化には、不可避的について回る2つの問題があります。それが、‘叛蠅諒壊という問題と、◆崛続亜廚箸いμ簑蠅任△蠅泙后
 ‘叛蠅諒壊というのは、文字通りマニュアル化によって、それまで知識を独占してきた体制が崩れるということです。お笑いの知識を独占してきた者がいるのかどうかは定かではありませんが、仮にお笑い芸人や脚本家などの笑いの作り手に、このような知識を独占してきた者がいるとすれば、本書によってその知識が自分たち以外の者に暴露されることを好ましくは思わないでしょう。それは、笑いの技術の持つ者の絶対数を増やし、競争を激化させるからです。しかしこの問題は、もっぱらそのような独占者たちの利益が侵害されるという問題に過ぎず、暴露される知識が一般へと広めるべきものならば、無視してよいということになります。
 △痢崛続亜廚箸いΔ里蓮△茲蠖執錣別簑蠅任后A続阿箸蓮▲Εキペディアによれば、「人間が作ったものが人間自身から離れ、逆に人間を支配するような疎遠な力として現れること。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態」のことを指すそうです。本書が問題とする疎外もこの定義によって把握できるものです。定義にいう「人間が作ったもの」とは、本書のようなマニュアルのことになります。本来マニュアルというのは、人間がよりよく笑いを行うために作るためのものです。しかしマニュアルを作ると、このマニュアルによって笑いの限界が画されてしまうという現象が大なり小なり生じてしまうのです。
 例えば「状況Xにおいては発言Aをすれば笑いをとれる」というマニュアルがあったとしましょう。こういうマニュアルがあると、状況Xにおいて発言Bや発言Cをした場合も笑いをとれるかもしれないのに、マニュアルを勉強した者は、(BやCがマニュアルによって禁止されているわけではないにもかかわらず)発言Aをすべしという観念に囚われ、A以外の発言の可能性という自由な発想が阻害されてしまうのです。無論、マニュアルなんぞによっては縛られない自由な発想の持ち主もいますが、それは少数派であって、マニュアルがないと勉強できないような多数派は、マニュアルによって技術の限界が画されてしまうことになるのが普通です。これは、敢えて比喩的に言えば、人間が支配して道具として用いるべきマニュアルに、逆に人間が支配されてしまうという状況だといえます。これが「人間が作ったもの(=マニュアル)が人間自身から離れ、逆に人間を支配するような疎遠な力として現れる」ということの意味です。それによって、「人間があるべき自己の本質を失う」とは、ここではマニュアルによって能力や技術が限界付けられてしまい、真に自由な「笑い」という営みができなくなるということです。
 マニュアルができれば十分ではないかという反論もあるかと思います。しかし、マニュアルというのは人に教えるために書かれているものであり、そうであるからには多くの人に分かるように書かれていることです。すなわち、そこで書かれている笑いは、究極的には誰にでもできる陳腐なものに過ぎないということです。
 マニュアル化による疎外は、笑いに限らず様々な分野で発生します。音楽における楽譜もその一例だと言えます。大昔の音楽には、楽譜などというものはなく、楽譜は音楽の演奏を容易にするために、後世になって発明されたものです。しかし、楽譜があると、多くの人は楽譜通りの演奏しかできなくなり、楽譜を離れた自由な発想というものが阻害されてしまいます。
 このようなデメリットを抱えているマニュアル化ですが、それでも筆者が敢えて笑いのマニュアル化を試みたのは、簡単に言えば、筆者が気が付いたことを他の人にも知ってほしいからにほかなりません。ハハハ
 もう少し付言するならば、以上の議論を踏まえても、マニュアルの有用性は全く否定されるものではないということがいえるでしょう。筆者を含めた凡人は、まずマニュアルに書いてある程度のことを踏まえないと、新たな発想ができないからです。ゼロから新しいことを考えろと言われても無理な話で、まずマニュアルによって基礎をおさえ、最初はその基礎にマイナーチェンジを施していく形で徐々に独自性を打ち出していくのが凡人の常道でしょう。まあ、この点は当たり前だから書きたくなかっただけです。

 もう一点、まえがきで書きたいことをひとつ。本書は、学術論文ではありません。学術論文は、自身の研究成果を披見し、学界に新たな知見を加えるものですが、どんな学問分野であろうと、自身の知見の開陳の前に、先行研究を紹介し、それに基づいて学界が現状でどの程度の知見にたどりついているかを要約するという作業が必要になってきます(一定の例外はあると思います)。
 これが学者に義務付けられるのは、その作業をしないと、その論文がどのような意味で新たな知見を加えているかがはっきりしなくなるからです。更に、先行研究を紹介することによって、論文を読んだ他の研究者が、その論文の正しさを検証することが容易になります。これによって、その学問分野の発展が更に促されることになります。また、論文の書き手本人についても、先行研究に触れる中で、自身の主張が本当に意味のあるものなのかを検討し、これを練磨彫琢していくといった効果が期待できます。
このルールは、学問のより効率的な発展を期して学者たちが作り上げた知恵であるといえます。これにケチをつける気はありません。とはいえ、当然難点もあります。それは、先行研究の蒐集と要約に非常に手間がかかるということです。ゆえに、学者はそういうことに没頭できる人でないと向いていません。どんなに天才的なひらめきができる人でも、自身の気が付いたことを論文という形で学界に還元するには、まず先行研究を踏まえるという作業が必要になるのです。そして学界は、基本的に、論文以外の媒体を学問的知見としては認めません。
 本書が学術論文でないというのは、先行研究を全く参照していないからです。笑いについて論じた学問的知見はおそらく数多くありますが、筆者はそのほとんどに触れていません。本書はあくまで、漫画やテレビや舞台といった笑いの「実務」に読者・視聴者として触れる中でまとまっていった筆者の知見を紹介するものに過ぎません。ゆえに、筆者の主張は、笑いを研究する学問の世界からすれば、すでに到達された陳腐なものである可能性は十分にあります。とんでもない異端的な主張をしている可能性もあります(そもそもこういった事態を防止するのが先行研究の参照を義務付ける目的である、というのは前述したところです)。まえがきのこの部分を読んだ方は、その点を理解したうえで本書をお読みいただきたいです。
 なんでこんな言い訳じみたことを書いたのかといえば、先行研究の参照に没頭できる人(=学者)や、きちんと体裁の整った学術論文に対してコンプレックスを抱いているからでしょう。おそらく。

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