当wikiは、高橋維新がこれまでに書いた/描いたものを格納する場です。

三 ネルソン・テムズ


 その日の晩、フラドは家に帰ってこなかった。
 フラドは、犲目畫りになった三博士の失踪事件を一人で内偵していた。
 犲目瓩箸蓮△海灰魅┘亶颪離好僖ち反イ里海箸任△襦9颪防要な情報を集める犲瓩任△蝓↓猝椨瓩任△襪箸いΠ嫐を込めて名付けられたらしい。このスパイ組織の名前だけは、この国の不気味さとともに世界的に有名になっているそうである。隣のファルージャ国などでは親が子をしつける際の脅し文句にさえなっているそうだ。「言うことを聞かないと犲目瓩来るぞ」と。
 犲目瓩牢靄榲にはスパイ組織であるが、警察のような犯罪の捜査活動も行う。他国のスパイが関わっているような事件についてはもちろんだが、そうでない事件についても犲目瓩捜査権限を得て捜査を行うことがある。もっとも後者については、「行う」というのは建前だけであり、その建前さえ国民には公表されていない。無論ヌエバ国には警察があり、通常の犯罪捜査は警察が行うのが原則であるが、警察に捜査されたくないような事件は犲目瓩警察からその捜査権限を取り上げてそのままうやむやにするのである。警察に捜査されたくない事件というのは、国家機密にかかわることであるとか、国家の重鎮が行った不始末であるとかである。犲目畆身が行った他国のスパイに対する殺人であるような場合もある。だから、犲目畫りになった事件はその後まともな捜査はされない。「建前だ」というのはそういう意味である。そして、犲目畫りになった案件については、警察が捜査を断念してお蔵入りになったという形で国民に公表される。「建前さえ公表されない」というのはそういう意味である。
 だから犲目畫りになった事件について犲目瓩離好僖い捜査活動を行うと、同僚から白眼視される。もっとも、漫然と働いているるパイには、捜査活動を行う暇などないだろう。フラドは、懸命に仕事に取り組んで暇を作り出してはそれを行っていた。犲目畫りになった三博士失踪事件を単身調査していたのである。フラドはこのことを犲目瓩涼にも打ち明けていなかった。ただ一人、親友のように親しかったネルソンを除いて。ネルソンはなぜフラドが三博士失踪事件にそこまで興味を持つのかが分からなかったが、友人のやっていることでもあり敢えてこれを冷視したりまた妨害したりということもなかった。
 そのフラドが、突如として失踪した。
 彼はその日、自宅で待っている妻のもとにいつまで経っても帰らなかった。スパイの仕事は拘束時間が不規則でありフラドが何の連絡もなしに帰りが遅くなるのも頻繁にあることだったので、妻も特に心配もせずに先に床に就いた。
 朝目覚めても、フラドは帰っていなかった。スパイという仕事柄もあり、彼女は夫が仕事中に連絡をとることを禁止されていた。何晩も仕事場で徹夜することもよくある話である。彼女は待った。それまでのフラドの無断外泊の最高記録は1週間だった。しかし、10日待っても2週間待ってもフラドは帰ってこなかった。
 彼女はここでようやく警察に捜索願を出した。警察が捜索願を受けて犲目瓩墨⇒蹐鬚箸辰燭箸海蹇▲侫薀匹鰐誼之膓个続いているとのことだった。警察も事件性を嗅ぎとり、本格的に捜査に乗り出すことにした。警察は妻から詳しい事情を聞き、また後日連絡するという刑事の言を受けて妻はその日は家に帰った。
 しかし待てども待てども警察からの連絡は来ない。フラドも帰ってこない。心配に思った妻が警察に電話をかけたところ、電話口に出たのは以前警察署で彼女から事情を聞いた刑事だった。
「奥さん。申し訳ありませんが、この件は捜査打ち切りということになりました。まことにあいすみません」
 刑事はそれだけ言って電話を切った。刑事の声は非常に悔しげで苦々しげであり、爆発しそうな感情を押し殺すように一言一言をゆっくりと口に出していたという。

 そこまでをフラドの細君から聞いて、ネルソンには一つの直感が生まれた。
「フラドの失踪事件も犲目畫りになったに違いない」
 ネルソンは頭の中だけで呟いた。事件が犲目畫りになると、真相を知ることができなくなった刑事たちはみな一様に悔しがるという。電話口に出た刑事の声の調子も犲目瓩某秦蟆鯡世鯆戮気譴寝しさ、それでいて何もできない自分の無力さに対する悔しさから来るものに相違ない。
 ネルソンに相対しているフラドの細君は、長い話を終えて俯いていた。頬に射す憂いが一層この人の美しさを引き立てている。フラドは新婚だった。この細君は、犲目瓩鳩磴靴いがみ合っている警察官の家の出である。彼女の父親は、警察の相当上の方の幹部らしい。2人は大恋愛の末に家を飛び出して結婚したらしいが、彼女の親からは相当な反対を受けたらしい。何しろ警察官の父親からすれば、敵国に嫁をやるようなものなのである。とにかく、フラドがそんな紆余曲折の末に手に入れた眉目麗しい夫人を残して行方をくらますわけがない。それにフラドは仕事も順風満帆で、話し振りからすると三博士失踪事件の内偵も順調に進んでいるような印象をネルソンは受けていたのだ。
 ネルソンは細君の顔の翳りを見ると気がひけたが、意を決して尋ねた。
「奥さんには、心当たりはございませんか。こういうことを聞くのは大変失礼ですが、例えばご主人に他に親密な関係の女性がいたとか」
「そういうことはないと思います。良人は、正直で不器用でしたから…。あなたもそうお思いではありませんか?」
 ネルソンも、無論そのような可能性は万に一つもないだろうと考えていた。フラドとは養成所時代から付き合いがあるが、一途で口下手な男であり、2号を抱えて二重生活ができるような男ではない。第一、ネルソンが見る限り、フラドは起きている時間の8割は仕事場にいたような人間である。愛人との逢瀬を楽しむような暇があったとは思えない。
「それに…、私のお腹には彼の子がおりますの。このことは彼も知っているはずです。私も言いましたから」
 これはネルソンも初めて聞いたことであった。そうだとすれば、ますますフラドが姿を消す理由はないことになる。
 ネルソンは確信を強めた。フラドは何者かに暴力もてさらわれたのだ。
 ネルソンは覚悟を決めて目の前の細君に自身の推理を述べた。
「奥さん。私は、フラドは何者かにさらわれたのではないかと考えています。奴が自ら進んで姿を消す理由はどこにもありません。私は、奴が今どうしているかを知りたい」
「はい…」
 細君は声の震えを必死に抑えている。
「そこで、何でもいいのです。どんな些細なことでもいいので、奥さんが気がついたことや、何か失踪に関係しそうなことがあれば教えてください」
「はあ…」
 細君はためらいがちに俯くと、やがて意を決したように語り始めた。
「これは、事件に関係のあることかどうか分かりませんが。少し気になったものですから、お話いたします」
「ええ。お願いします。何でもよいのです」
「ネルソンさんは、私と良人との結婚が私の父には歓迎されていなかったということはご存知でしょうか」
「ええ。聞いております」
 ネルソンははっきりと言った。
「それでも母は、父の前でこそ口に出さねど、一人娘の結婚を喜んでくれていたのです。私は家出同然に家を飛び出したのですが、それでも母とはちょくちょく会っておりました。もちろん実家で会うと父が不機嫌になるので、外で、です」
「ほう」
「私の母は公務員でして、平日は働いているので、会うのは毎週土曜日と決まっておりました。ある日もいつものように母と他愛もない話をしてから家に帰ると、客間に妙なものが落ちておりました。それがこれです」
 細君が差し出したのは、帝室の家紋が入ったバッジであった。ネルソンはバッジを手にとってしげしげと眺めた。
「これは、警察のバッジじゃないですか」
「そうです。私、それを見て父がこっそりこの家に来たんじゃないかと思ったんです」
 確かに彼女の父は警察の幹部である。
「でも、失礼ですが、あなたのお父様はフラドとは仲が悪かったのでは」
「ええ、そうです。でも老人の頑固みたいな部分も多分にあったので、ようやく素直になって良人と和解する気になったのではないかと思ったんです。でもそれを母や娘の前で認めるのは恥ずかしいから、こっそりまず良人と会ったのではないかと」
「なるほど」
「それで私、良人に聞いてみたんですの。『今日、父が来なかったか?』って。そうしたら、あの人は『来てない』って言いましたわ」
「じゃあ、誰か別のだったと」
「いえ。それでそのあと、私カマをかけてみたんです。母にお願いして、そのバッジがこの家で見つかったということは伏せて、父にバッジを渡してもらったんですの。そうしたら、父は『ちょうど無くなって探してた』と言ってそのバッジを受け取ったそうですわ」
「つまり、フラドは嘘をついていたと?」
「そういうことになります。父にも母に聞いてもらいましたが、やはり『行ってない』と言ったそうです」
「ふうむ」
 ネルソンは顎に手を当てた。
「ちなみにそれはいつ頃のことですか?」
「もう記憶が定かではございませんが、ネルソンさんがお話しいただいた三博士の失踪事件よりは前のことでございます」
「うむ」
「あ、あの」
 細君がためらいがちに口を出した。
「関係ないことだったでしょうか。だとしたら徒に混乱させて申し訳なかったかと」
「いえ、非常に重要なことです。お話しいただいてありがとうございます」
 ネルソンもこの話の意味はまだよくつかめなかったが、この薄幸の美女をこれ以上心配させまいと、敢えて断定的な返事をした。

 帰り際に、フラドの細君は玄関口までネルソンを見送った。細君は、震える声を振り絞りながら言った。
「今となってはネルソン様だけが頼りです。どうか、どうか良人の行方を突き止めてくださいまし…」
「奥さん。私もできる限りのことをしてみます。フラドは数少ない友人の一人でしたから…」
 ネルソンは歩きながら考えた。ポケットには細君から手渡された例の帝室の家紋入りのバッジと、やはり彼女からもらった彼女の父の名刺が入っている。ネルソンは、まず名刺を見た。ケスケニー・ラクーン。それが彼の名だ。今は副総監らしい。ネルソンは名刺をしまうと、今度はバッジの方を取り出してしげしげと眺めた。
 なぜ警察の幹部と犲目瓩猟敢紺という水と油のような関係の2人が接触していたか。そしてその接触は自身の妻や娘にまで秘密にする必要があったらしい。どういうことか。
 ネルソンは一つの仮説を立てた。そもそもフラドはなぜ直接の仕事ではない三博士の失踪事件の調査などを行っていたのか。細君の父親から、直々に犲目瓩猟敢左限を使っての調査を依頼されたのではあるまいか。そのような要請は警察としては不名誉なことだから、極秘裏に進めたいだろう。バッジが外れるというのも不自然な話である。あのバッジは、舅の方がわざと外して見せたのではないか。思えば、フラドは帝室への忠義も篤い古臭い人格の持主である。あのバッジを見せて「陛下のお願いだ」みたいなことを言えば、犲目瓩凌Χ販冤を忘れてコロッと傾くような気もしなくもない。
 ネルソンはその足で犲目瓩遼槁瑤傍△蝓⊆0族櫃離疋△鮹,い拭治安課は、名目上は犲目瓩望紊辰討た犯罪の捜査をするのが仕事であるが、これが建前でしかない以上、ここは窓際部署に過ぎない。
 ノックしても返事がないのでネルソンが勝手に入ると、中ではフォンゼ課長が窓に向かってシャボン玉を吹いていた。ネルソンは、この課長の知り合いである。ネルソンがまだ養成所にいたときの教官であった。
 犲目瓩呂修陵楡機関が優れていることでも知られており、本部の優秀な職員が持ち回りで教官をやるという独自のシステムが敷かれていた。教官に選ばれるのは名誉なことであるという価値観が構成員の間にもしみついていた。ここの課長は、自身が受け持っていた生徒が卒業間際に脱走してしまったがために、こんな窓際部署に飛ばされているのだった。その生徒はネルソンの一年か二年後輩ということであり、そうであるならば養成所で直接会う機会はあったはずだが、ネルソンには後輩の顔などほとんど思い出せなかった。
 ネルソンの入室に気がついたフォンゼは、シャボン玉用の先が広がったストローを口にくわえたままこちらに振り向いた。
「おお。ネルソンじゃないか」
 フォンゼが「おお」と発声した瞬間に、くわえていたストローは机の裏へと落ちていった。
「ご無沙汰してます。フォンゼ教官」
 ネルソンは屈託ない笑顔を見せていた。フォンゼは机の下にもぐってストローを拾いあげながら応じた。
「そんな畏まるな。俺はただの治安課長だ。お前は押しも押されもせぬエリート街道をまっしぐらではないか」
「そんなことを言わないでください。養成所で受けた教官の訓示はまだ暗誦できますよ」
「そんな前時代的なことをお前に強いるつもりはないさ。ところで、何の用だ」
「ちょっと、最近犲目疇りした事件で調べたいものがあって」
 フォンゼは急に眉をしかめて、低い声で言った。
「そうか。ここには資料はないぞ」
「そうなんですか?」
「そりゃあそうだろう。ここは形ばかりの捜査報告書を作って捜査した体を装う部署だ。犲目疇りした事件は、真相を隠したいからこそ犲目疇りするんだ。もっと上にいかないと事件の有意な資料は手に入らん」
 フォンゼは座っている椅子を回転させながら長い台詞を言いきった。
「そうですね。じゃあ、その形ばかりの捜査報告書でいいので見せてください」
「なんだ? 上からの命令か?」
「上からの命令ならこんなとこに来ませんよ」
「それもそうだ。じゃあ、お前が独断でやってることか?」
「そうです」
 フォンゼは眉を一層しかめた。
「そうか。俺はあまり勧めんぞ。お前なら、自分がどれくらい危険なことをやっているか分かるよな」
「分かっています。俺の同僚もそういうことをして姿をくらましちまいました」
「フラドか?」
「そうです」
 フラドも養成所時代にはネルソンと一緒にフォンゼの薫陶を受けた一人であった。
「フラドもここに来たんですか?」
「ああ。その後に今度はあいつが失踪したっていう事件の書類がここに来た」
 フォンゼは座っている椅子を下げて机の抽斗を開け、中からクリップボードにはさまれた書類を取り出した。表題は、「事件番号00016975 犲目畤Π失踪事件」となっていた。やはりフラドの失踪事件も犲目畫りにされていたのだ。
「これはまだ作り途中だ。この表紙しかできとらん。まあ、15分で書き上がるがな。いつもみたいに『分かりませんでした』って書くだけだ」
「教官は実際に捜査をするんですか?」
「しないさ。すると怒られるからな」
「三博士失踪事件の報告書はありますか?」
「あるぞ」
 フォンゼはまた抽斗を開け、書類を合計で3枚取り出した。
「事件としてはそれぞれ別々になっている。まあ全部表紙と『分かりませんでした』って内容の報告書がついているだけだ」
「教官は三博士の方も調べてはいないと」
「ああ」
 ネルソンは4組の書類を見比べた。見知った三博士の名前がそれぞれの報告書に書いてある。ネルソンもフラドから何となく話は聞いていた。ユエダー博士、トロノート博士、ダイジュ博士。報告書は、確かに報告書としての体裁は繕ってあるが、内容はどれも大同小異で、要約するとフォンゼの言っているように「分かりませんでした」という内容だった。
「教官はフラドから何か聞きましたか? 何でこの三博士の失踪事件に興味を持っているのかって?」
「帝立研究院の博士が同時期に立て続けに3人失踪した裏には絶対に何かあると言ってたな。単なる個人的興味のように俺は見えたが」
「その裏にある何かについてフラドは心当たりがありそうだったんですか?」
 ネルソンは、警察から依頼を受けたのではないかという自身の推理は伏せて探りを入れた。この推理はまだ推理でしかなく、人に話すには気が引けた。
「いや、なさそうなんだ。俺も聞いてみたんだが、ただの好奇心っぽかった」
「じゃあその捜査過程で真っ黒な何かを偶然見つけてしまったということなんでしょうかね?」
「そうじゃないかなあ? あいつバカの一念みたいなところがあるし」
「ふうむ」
 どうやらフォンゼは何もつかんでいないようである。ネルソンはまた4組の書類を見比べた。不思議なことはに、全てが失踪事件なのである。殺されたにしても死体すら上がっていない。
「全部の事件の下手人は同じなんでしょうかね?」
「なんとも言えんな。3人の博士は全員帝立研究院所属ってだけで、俺の記憶だと専門分野なんかは全員バラバラだったはず。同一犯だったとしたら動機が分からん。あ、あと誘拐だと決まったわけじゃないぞ」
「でもそれを調べていたフラドも消えたってことは、相当臭いじゃないですか。博士を誘拐した何者かがその発覚を恐れてネルソンをもさらったのではないかという仮説が成り立ちます」
「それは十分成り立つが、仮説の域を出ないな」
 ネルソンはうーんと唸りながらまた考え込んだ。
「三博士の情報を仕入れないとなんとも言えないですな」
「そうだろうが、ここには資料がない」
「帝立研究院にありますかね?」
「通り一遍の情報ならあるだろうな。名前とか、専門分野とか」

 ネルソンは一応報告書を部屋の古いコピー機でコピーしてもらった。フォンゼは、「本当は治安課以外の人間にはあげられないんだが…」と言いながらコピーをとってくれた。ネルソンがコピーを懐にねじ込んで部屋を出ようとすると、去り際にフォンゼが声をかけた。
「フラドもいなくなったんだ。お前も気をつけろ」
「教官は大丈夫なんですか?」
 フォンゼは、ピクリと右眉のてっぺんの部分を持ち上げた。
「俺も、今のこの事態には憤りを感じている。お前には是非とも頑張ってほしい。なに、お前がここに来たのを黙っておくぐらいの協力はしてやろう」
 ネルソンは厚く礼を言ってその場を辞した。

 ネルソンは携帯端末で帝立研究院のウェブページにアクセスしたが、三博士の名前は「研究員一覧」に出ていなかった。もう削除したのだろう。三博士の名前を入れて検索をかけてみたが、益体もない情報しか得られなかった。事件は、反体制気取りが多いインターネット住民の口の端にすらほとんど登っていなかった。
 ネルソンが治安課を出たその足でやってきたのは、警察だった。警察も犲目畫りになる前に捜査ぐらいはしているだろうという判断である。ウェブページの無関心さを見ても、帝立研究院に行っても有意義な情報は得られそうになかった。あるいは、帝立研究院自身に何か後ろ暗いところがあるのかもしれない。
 ネルソンは仰々しい構えの自動ドアから署に入ると、左側に「総合案内」という窓口があった。ネルソンはその窓口まで歩み寄り、ニコニコと笑顔を振りまきながら座っていた若い女性職員に身分証を提示した。
「犲目瓩亮圓澄2判仗佑料楮を扱っているのはどこかな?」
 この国では犲目瓩猟敢紺には「無限定調査権」なるものが法的に認められていた。国民は犲目當敢紺がこの権限を行使するに当たっては、供述や証拠物件の提出などの形で全面的に協力しなければならないという義務を負っていた。
 若い女性職員は新人なのだろう。身分証の意味が分からないらしく、依然として笑顔を崩さなかった。
「あの…、ご用件は?」
「家出人の捜索を扱っている部署の責任者に話を聞きたい」
「アポイントはございますか?」
「ない」
 苛々してきたネルソンの語気には怒りがこもった。この女性職員はよくわけが分かってない。無論犲目瓩猟敢紺が直接警察に出向くなどというのは異例のことではあろうが。
 ネルソンが手にした身分証でカウンターを叩き始めると、女性職員の顔にようやく焦燥が浮かんできた。窓口の後ろから先輩らしき年配の事務員が怪訝な表情とともに出てきた。彼は犲目瓩凌畔証を一瞥するや、途端に平身低頭になり、丁寧な言葉遣いで話し始めた。
「申し訳ありません。新人が失礼いたしました。ご用件は…?」
「家出人の捜索を扱っている部署の刑事から話を聞きたい」
「承知しました。6階になります。私の方から内線を入れておきますので、そのまま6階の窓口までお進みください」
 ネルソンは総合案内の窓口から更に奥に入り、エレベーターに乗り込んだ。6階でエレベーターのドアが開くと、まん前に女性の事務員が立っていた。彼女に案内されるまま別室に通されると、スーツを着たごま塩頭の刑事が入ってきた。刑事はネルソンに名刺を差し出しながら自己紹介をした。
「捜査課長のヴァイエンと申します」
 いきなり捜査課長が出てくるとは思わなかったネルソンは、少なからず面食らった。
「突然の訪問失礼する。警察さんの方で三博士の失踪事件について調べていたのであれば、ちょっと話が聞きたいと思ってな」
「三博士の失踪事件?」
「帝立研究院の博士が3人同じ日にこぞって消えたということがあったろう。2ヶ月前ぐらいに」
「少々お待ちください。失踪は、事件性がなければ警察が積極的に動くことはないもんでしてね」
 ヴァイエンが立ちあがると同時に、先ほどの事務員がお茶を持ってきた。
 ネルソンが茶をすすりながら窓の外をぼうっと眺めていると、ヴァイエンが一人の刑事を伴って舞い戻ってきた。刑事は、明らかに不服そうな顔をしていた。2人が腰掛けると、課長が切り出した。
「うちで捜査した記憶がありました。これが当時の担当刑事のサブリナ君です」
 サブリナはヨレヨレのスーツから汚い名刺入れを取り出すと、そこから出した名刺をぶっきらぼうに片手で差し出した。最初から最後までそっぽを向いたままだった。
「こら、サブリナ君」
「いえいえ、お構いなく」
 ネルソンが言った。犲目瓩警察から快く思われていないのは周知の事実だった。ネルソンも、このような冷たい対応はある程度予想していた。
「それで、何の用だ今さら?」
 サブリナは不遜な態度で言い放った。
「サブリナ君!」
 課長の声も馬の耳に念仏とばかりにサブリナはネルソンの目を睨みつけてきた。
「少し、三博士失踪事件の話が聞きたいと思いまして」
「犲目瓩諒がよく分かってるんじゃないですか? 捜査したんでしょ?」
 サブリナは横柄な態度を崩さない。ネルソンはあくまで丁重に応じた。
「いや、警察の方の捜査も参考にしたいと思いまして」
「犲目瓩諒では捜査打ち切りということでカタが付いたそうじゃないですか。天下の犲目瓩匹里吠からなかったことがうちに分かるわけありませんや」
 サブリナのはあくまで喧嘩腰だった。ネルソンは無限定調査権を振りかざすのではなく、敢えて下手に出ることにした。
「サブリナさん。警察から公式に情報が欲しいのであれば、犲目瓩両紊警察に電話一本入れて命令するだけです。私がこうして警察に出向かざるを得なくなったのは、私が犲目畫澗里琉媚廚任呂覆、個人の意思としてここに来たからです」
 あさっての方向を向いていたサブリナは、一瞬視線だけをネルソンの方に向けた。隣の課長はこめかみに汗を垂らしながらオロオロしっぱなしである。
「私も、犲目疇りしたあの事件には納得できないものがある。だからこうして一人で動いているのです。サブリナさん。あなたも真相を解明できずに悔しい思いをしたことでしょう。私は、あなたの味方です」
 サブリナはゆっくりと顔をこちらに向けた。
「この前も、そんなことを言ってきた犲目瓩猟敢紺がいましたよ。私は嬉しくなって散々こっちで得ることができた情報をあげたが、その方もいなくなってしまった。その方の失踪事件は別の刑事が捜査していたんですが、それも犲目瓩房茲蠑紊欧蕕譴討靴泙辰拭
「その調査員は、私の同僚で友人だったのです」
 何重にも皺が寄っていたサブリナの眉間が少し緩んだ
「フラドさんのですか?」
「そうです…」
 サブリナは一気に沈痛な面持ちになった。あの話し振りを見ると、フラドとは相当交渉を持っていたものと見える。ヴァイエン課長は、今度はサブリナの豹変ぶりが予想外だったのか、まだオロオロしていた。
「分かりました。あなたを信じてお話しましょう」
「信じてくれるのですか?」
「あなたが犲目瓩琉佞鮗けた回し者だったら、こんな回りくどい方法はとらないはずですから」
 サブリナはそう言っていったん部屋から出ていった。一人残された課長は、まだオロオロしていた。
 やがてサブリナは一冊のファイルを抱えて戻ってきた。
「ここで分厚いファイルでも持ってこれるといいんですが、何しろちょっとしか捜査できなかったもんで…。あ、課長。もう僕一人で大丈夫ですよ」
 ヴァイエンがすごすごと退散するのを見届けると、サブリナはファイルを開いて、事件の概要を語り始めた。

 事件が起きたのは2ヶ月ほど前であった。三博士は全員その頃何かの研究に没頭していたらしく、みんながみんな2週間ばかり研究室で寝泊りしていたらしい。
 予定されていた帝立研究院での連続公開講座に、トロノート博士もダイジュ博士も出てこなかったことから事件が発覚した。研究院の職員で方々を探したが結局2人とも行方不明であり、研究院の方で捜索願を出した。
 2人が同時に行方不明となったという点に事件性を嗅ぎとった警察の動きは迅速だった。すぐさま帝立研究院に捜査員を派遣して聞き込みを行い、その聞き込みの過程でトロノート博士とダイジュ博士は失踪前に盛んにユエダー博士とコミュニケーションをとっていたという事実が明らかになった。そこで警察がユエダー博士から事情を聞こうとすると、ユエダー博士も行方不明であることが発覚した。
 トロノート博士の研究室とダイジュ博士の研究室には助手がたくさんいたため、両博士の姿が最後に目撃されたのは連続公開講座の前日夜22時ごろだということが分かった。両博士ともその時間に誰にも行き先を告げずにふっと研究室を出ていったらしい。博士が何も言わずに研究室を出ていくのは気晴らしの散歩であったり自宅にいったん戻ったりでよくあることだったため、誰もしばらくは気にしていなかったらしい。他方でユエダー博士は、助手を一人も持たずに孤独に研究に没頭していたようであり、いつ消えたのかは定かではなかった。最後に見たのは3日前だという者もあれば、5日前だという者もおり、埒が明かなかった。
 警察は三博士の研究室に残された遺留品を調べた。ユエダー博士の研究室からは彼が普段研究室に置きっぱなしにしていたという生活用具がごっそりと消えていたが、不思議なことにトロノート博士やダイジュ博士の研究室には財布も含めて博士の私物が丸のまま残っており、本当に両博士は着の身着のままどこかに姿を消したようだった。
 公開講座のあった日はそこまで捜査を進めて帰っていったサブリナだったが、翌朝警察署に出勤してみると、上司から本件を犲目畫りにするという辞令を渡されて、捜査はここで中断したらしい。サブリナは地団太踏んで悔しがった。聞き込みも終わりきってなかったし、だだっ広い研究院の捜索も終わりきっていなかったのだ。サブリナの気持ちを察した上司は彼の肩をポンと叩いて励ましたが、サブリナの憤りは収まらず、他の仕事にはしばらく身が入らなくなった。
 ここまで話をして、サブリナはいったん言葉を切った。
「捜索願は研究院から出されたんですか? 三博士に家族はいないんですか?」
「そこです」
 サブリナは膝をポンと打って得意げに説明を始めた。
 帝立研究院というのは、「帝立」という名こそ冠しているが、実際に一番設立に力を入れたのはイルフォルノ軍務長官と、軍務長官子飼いの科学者ペシャワールである。帝立研究院は「総合的な学究の場」というコンセプトを掲げてはいるが、実際のところはペシャワールとイルフォルノが結託して、怪しげな兵器の開発を様々に行っているらしい。イルフォルノは、皇帝に対抗して急速に台頭してきた有力者であり、今や飛ぶ鳥を落とす勢いである。皇帝も彼の意向を無視して政務を行うことはできず、帝立研究院もイルフォルノの脅迫じみた要望を皇帝が渋々認可することで設立されたらしい。
 帝立研究院の院長には例のペシャワールが就任し、国内国外を問わず優秀な研究者を見境なく引き抜いてきた。研究院には一省単位の予算が割り当てられ、所属する研究者には好き勝手に研究をさせたため、この好条件に食指を動かされてヌエバのような胡散臭い国にやってくる研究者も少なくなかった。
 ここまでは犲目瓩猟敢紺であればだれでも知っている話であった。ネルソンは、緊張した面持ちで話の続きを待った。
 自らやってくる研究者も少なくない中で、失踪した三博士はペシャワールの肝煎りで招聘した研究者らしい。
 トロノートは、サンド国の出身者である。彼の専門分野は元々障害者福祉であった。
「文系の先生なのですか?」
 ネルソンが聞いた。
「いや、理系の先生ですよ」
 サブリナは話を続けた。
 トロノートは、国では障害者の生活や運動を支援するデバイスの開発に携わっていたらしい。特に力を入れていたのが、視覚障害者の視力を支援するデバイスらしい。分かりやすく言えば、視覚における補聴器のようなものを発明しようとしていたらしい。ところが彼の出身のサンド国で国教とされているトマラ教においては、人間の体に機械や道具を埋め込むのは自然の摂理に反する禁忌とされていた。そのようなものの研究に従事していたトロノートは、多くの国民の不興を買い、国の学界を追われた。そこでペシャワールの招聘に渡りに船とばかりに応じ、ヌエバにやってきた。
 彼には妻子はいない。両親は未だ健在だったが、2人とも敬虔なトマラ教徒であったため、大喧嘩が絶えなかったという。トロノートがヌエバにやってきてからは父が彼を勘当したという話だ。
「ふうむ。ありそうな話ですな」
 ネルソンが呟くと、サブリナはまた話を続けた。
 ユエダーはファルージャの人間で、専門はロボット工学である。ファルージャでもどこの大学に属することもなく在野で研究をしていた。組織に属さない研究者にとって一番の問題は研究費の確保である。ところが、一台目のロボットは失敗作に終わり、あちこちで借りた金も返せなくなったため、借金取りから逃げるようにペシャワールの招聘に応じたらしい。
 そんな変人じみた気質があるだけにユエダーにも妻子はいない。実父は行方不明で、実母は彼がものごごころついた頃には鬼籍に入っており、彼は反りの会わぬ養父母の下で育った。高校を卒業すると、すぐに家を飛び出したらしい。
「ロボット工学ですか」
「どうも、ユエダー博士は童心を忘れ得ぬ純粋な人らしい」
 サブリナが吐き捨てるような調子で応じた。
「ユエダー博士だけ私物が消えていたんでしたっけ」
「そうです。この人だけ、自分で姿を消した可能性も高い。もっとも誘拐犯が私物も一緒にさらった可能性も否定できません。そうだとしても、なぜそんなことをするのか、或いはなぜ他の二博士の私物は置きっぱなしだったのかといった疑問が残りますが」
「………」
 考え込むネルソンをよそに、サブリナは話を続けた。
 ダイジュは前の2人と異なりここヌエバ国で生まれ育った人である。彼の専門は認知神経学であったが、所属する大学が研究棟の改装工事をするとかでしばらく研究活動ができなくなることになったため、それを良いきっかけとして帝立研究院に移ったらしい。
「認知神経学?」
「分かりやすく言うと、脳科学だそうです」
 サブリナが頭をちょんちょんと指差しながら答えた。
「それでですね…。ダイジュ博士にも未だ妻子はなく、博士の両親も彼が博士号をとった直後に相次いで亡くなったそうです」
「それは…、つまり?」
「三博士ともこの国には身寄りがないんですよ。安否を憂慮してくれるほどの身寄りは」
 だから、捜索願は帝立研究院が出したのである。ネルソンは、三博士全員に身寄りがないという事実に慄然たるものを覚え、そこに何らかの意図を感じた。
「仮に共通の誘拐犯がいたとすれば、身寄りのない発覚しにくそうな人間を狙ったということは考えられませんか?」
 ネルソンは疑問をぶつけた。サブリナは、当時の状況を慎重に思い出しながら答えた。
「それは私も考えましたが、誘拐だとすると、身代金の要求とかも来ていない以上動機が分からないのです。それに身代金目的なら身寄りがいる人を狙わないとダメですし。それ以外の理由というのはどうも思いつかない。同一犯だとしても、研究院に数いる科学者の中でなぜその3人を狙ったのかがよく分からない」
「そう。そこも疑問だったのですが、研究所というのは普通何か特定の研究課題というか、テーマに沿った研究者を集めるものではないのですか? 帝立研究院のように何でもいいから研究者集まれというやり方では、成果が出ないと思うのですが」
「その点は私も違和感を覚えたので、大学出の法医の先生に聞いてみたんです。先生も全く同じことを仰ってました。帝立研究院みたいな無軌道な人材の集め方をする意味が分からないと。先生は『総合大学でも作るつもりなんじゃないか?』と仰ってましたが」
「ううむ。研究院には他にどんな研究者が?」
「あ、じゃあ一覧をお見せしましょう。あそこのウェブサイトのコピーですが」
 サブリナはファイルの頁を繰って、一覧を取り出した。ネルソンにも見覚えのあるデザインだった。「専門分野」の項を見ると、航空力学・進化生物学・社会心理学・経済動学とてんでバラバラである。
 失踪した3人にしても、障害者支援・ロボット工学・認知神経学とまるで共通点はなさそうだった。トロノートが研究していたのは障害者の身体能力の補助機械らしいから、脳を研究する認知神経学とはかろうじて「人体」という共通点を見出せる。そういえば、ロボット工学も人体の動きを参照することはあるかもしれないが、未だ共通点としては弱かった。
「そういえば、その公開講座というのはなんなんです?」
 ネルソンが唐突に聞いた。
「ああ。帝立研究院が毎年やっている社会貢献活動だそうです。別に統一テーマがあるわけではなくて、所属する研究員が自分の専門分野について好き勝手に話すだけのようです。トロノート博士とダイジュ博士も、特につながりのある内容を話そうとしていたようではないみたいで」
 ネルソンはしばし考え込んだが、ここで手に入れられる情報はこれぐらいな気がした。失踪した3人の共通点は、やはり当事者たる研究院で聞き込みをしてみないと分からないだろう。
 ネルソンは、手にしたままだった研究院の一覧をファイルに戻した。
「ありがとうございました。有意義な情報を得ることができました」
「いえいえ。我々も苦労して捜査した甲斐があったというものです」
「そういえば、これはどうやって捜査したんですか?」
「犲目疇りになってしまったからばれないように捜査するのは大変だったんですよ。特に、帝立研究院の人は当初からあまり警察権力の介入を好まないような節があったから、話を聞き出すのは大変でした。それでも協力的な人を見つけては世間話を装う体で聞きたいことを聞き出すんです。あとはサンド国やファルージャ国に行く刑事についでに聞き込みを頼んだりもしましたね」
「そんなことまでやったのですか。それは苦労なさいましたな」
「ええ。執念です。でも、分かったことはこれぐらいで、失踪なのか誘拐なのかさえ分からない有様です。」
「いえ、十分です。私もここから独自に調査を進めてみます。時に、サブリナさんがよく話を聞いたという研究院の方がいれば教えてほしいが」
「一番聞いたのはシュトゥルーデルという若い助手さんですね。彼も失踪事件には疑問を抱いていたようで。今はもうちょっと偉くなったとかなんとか。ただ、今ここでお話しした以上の話はないですよ。多分」
「いえ、まあダメもとで聞いてみます。どういう方ですか。写真があれば見せていただきたいが」
「写真は…あったかな?」
 サブリナはファイルの頁を忙しくめくりながらシュトゥルーデルの特徴を挙げた。
「青い髪で眼光が鋭い男ですよ。疲れた感じの表情にヨレヨレの白衣がよく似合ってます。うーん。やっぱりなさそうですな」
 一番後ろの頁まで行き着いたサブリナはファイルを机に置きなおした。
「いや、ないなら結構です。なんか、その方に容易に会える場所みたいなところはありますかな?」
「彼は、毎日昼休みに帝立研究院の前庭をぶらついています。我々もそこで落ち合って話を聞いていましたから」
「一般人が入れるんですか?」
「前庭だけは解放されてますよ。だだっ広い敷地に研究棟がいくつもあるんでなかなかそこに入っただけでは全貌がつかめないですが」
「なるほど…」
 ネルソンは端末にチラリと目を落とした。頃合いよく、ちょうど昼時だった。ここで聞ける話はこんなものだろう。
 ネルソンは、ソファーから立ち上がろうとしてあることを思い出した。そういえば、フラドの妻の父親も警察関係者ではないか。
「サブリナさん。話は変わりますが、副総監に会うことはできますかね」
「副総監…ですか?」
 サブリナは訝しげな表情を見せた。
「そうです。ケスケニー・ラクーン副総監です。フラドの妻の親父さんに当たるから、警察に来たついでに話を聞ければと思って」
「ああ。そういえばそうでしたな。ちょっと待ってください」
 いったん部屋を出たサブリナは、すぐに帰って来た。
「申し訳ありません。副総監は今出張中です。一両日中に帰ってくるようですが」
「そうですか。それは残念だ」
 ラクーン氏がいないとなるともう警察に長いは無用である。ネルソンは、研究院の一員であるというシュトゥルーデルに話を聞きに行くことにした。ネルソンが丁重に礼を述べてその場を辞すると、サブリナも満足そうな表情を見せていた。
 ネルソンは、去り際に思い出したように尋ねた。
「そういえば、フラドもそのシュトゥルーデルさんには話を聞いているでしょうな」
「多分聞いているでしょうね。彼にもシュトゥルーデルさんのことは教えましたから…」

 帝立研究院の前庭は、一般開放されているだけあって公園のような作りをしていた。白い清潔感のある石畳の合間合間に緑が植えつけられており、清らかな空気に満ち満ちていた。平日ということもあり若い母親と乳幼児のコンビがあちらこちらにいる。
 ネルソンが辺りを見回しながら奥に進んでいくと、目当てのシュトゥルーデルらしき人物にすぐに行きあった。前庭の中心部付近に藤棚があり、その藤棚の下の大理石造りのベンチに、青い髪の男が腰掛けていた。肩までかかる髪は碌に手入れもしていないのだろう、あちこちから枝毛が出ている。肩幅は広いが、眉間に皺を寄せて視線を落としており、その表情や姿勢からにじみ出る疲労感がその男をだいぶ小さく見せていた。
 ネルソンは、その男がシュトゥルーデルであろうと確信した。ベンチの元まで歩み寄って男の隣に腰掛けると、ネルソンは視線を藤棚に合わせたまま男に話しかけた。
「シュトゥルーデルさんですか?」
 ネルソンは横目でチラリと男を見た。男は両の膝の上に乗せた拳を握りしめ、ガタガタと体を震わしていた。ネルソンは、男の動揺が余りに激しいのを一瞬訝ったが、構わず続けた。
「そんなに身構えないでください。私は犲目瓩亮圓任后あなたは、シュトゥルーデルさんですよね?」
「ひっ」
 男は犲目瓩箸いγ姥譴鯤垢と情けない悲鳴を上げて、両手で顔を覆いながら激しく貧乏揺すりを始めた。ネルソンにはますますこの男の挙動が怪しげに映った。一体この男は、何をそんなに畏怖しているのか。犲目瓩魔砲泙譴襪茲Δ淵好僖こ萋阿任發靴討い襪里。
「シュトゥルーデルさん。大丈夫ですよ。私はちょっと、最近失踪したフラドという男のことと、その男が調べていた三博士の失踪事件のことを聞きたいだけなんです」
 ネルソンはできるだけ穏やかな口調でゆっくりと喋るよう心がけた。しかし、「フラド」や「三博士」という単語を聞くたびに、男は肩をびくつかせながら顔を更に深くうずめていった。貧乏ゆすりもそれに合わせて激しくなった。ネルソンは直感した。間違いない。この男は何かを知っている。
「シュトゥルーデルさん。喋ってくれなければ分かりませんや。ほら。私は別に怪しい者じゃありません」
 ネルソンはベンチから立ち上がってネルソンの正面まで歩むと、犲目瓩凌畔証を膝の間にうずめられたシュトゥルーデルの顔めがけて突き出した。シュトゥルーデルは、ゆっくりと顔を上げた。ようやく真正面から視認できたその両目は、かわいそうなほどに生気を失っていた。
 ネルソンは、また穏やかな声を努めて作りながら目の前の哀れな男に語りかけた。
「ネルソンさん。私は別にあなたをどうこうしようというわけじゃない。この仕事も、犲目瓩量仁瓩箸牢愀犬覆靴妨朕妖に動いていることです。フラドは、私の友人だった。私は、彼がなぜ綺麗な奥さんと子供を残していきなり姿を消してしまったかを知りたい。そのためにはあなたの協力が必要なのです」
 シュトゥルーデルはネルソンの身分証を凝視したままネルソンの話を耳に入れていた。やがて、どもりながら声を発し始めた。
「ネ、ネ、ネルソンさんというのか。あ、あ、あ、あな、あなたは」
「そうです」
「た、助けてくれ。わ、わ、私は、こ、殺される!」
 シュトゥルーデルは身分証にすがりつく勢いでまくし立てた。「殺される」という言葉を聞いて、ネルソンの心の臓にもさっと悪寒が走った。
「殺される? どういうことですか? あなたはシュトゥルーデルさんですか?」
「い、いかにも、私はシュトゥルーデルだ」
 シュトゥルーデルはここで乱れていた呼吸を落ち着かせた。
「こ、こうなったらあなたに何もかも話してしまおう。い、今まで決心がつかなったが、こ、殺されるよりはましだ」
「待ってください。ここは不適切だ。そういうことなら、場所を変えましょう」
「い、いや、待ってくれ」
 シュトゥルーデルは視線を落として奥歯をガタガタと鳴らし始めた。
「待ってくれ。やはり待ってくれ。話す。話すさ。全部話すさ。でも、決心はついたが気持ちの整理がつかない。それに、俺の話を信じてもらうためには資料の準備も必要だ。そうだ、明日また俺と会ってくれ。そのときにすっかり全部話そう」
 ネルソンは眉をひそめた。
「明日になればすっかり話してくれるんですか?」
「ああ。それは約束する。でもまだ、その覚悟ができない。すまないが、俺に一晩の猶予をくれ。俺は弱い人間だ…」
「分かりました。こんな場所で今のような状態のあなたから話を聞くよりもそっちの方がいいでしょうね。明日のいつどこにしますか?」
「明日の19時がいい。俺の自宅の近くのメメという喫茶店でということにしよう」
「あなたの自宅はどこですか?」
「ここのすぐ近くだ。そのメメも、ほら、ここから看板が見える」
 シュトゥルーデルが指をさす方に目をやると、毒々しい彩色の看板がビルの壁に取り付けられているのが見えた。
 ネルソンは、身分証を懐にしまいながら再びシュトゥルーデルの顔を見た。小さくなった肩に大きな双眸がミスマッチだった。
「分かりました。では、また明日」

辞令
二等調査員 ネルソン・テムズ
貴殿にサンド国への出向を命ず。

「栄転だよ栄転。ははっ。君のお友達と一緒で、最近の君の課外活動の成果が認められたかっこうさ。光栄に思いなよ。サンドは間諜もよく訓練されているからねえ。情報戦の最前線だ。命を落とす者も多いから、君も気を付けなよ。あ、今から行ってもらうから。善は急げが犲目瓩離皀奪函爾世らね。ボディガード3人に付き添ってもらうなんて、福利厚生もしっかりした組織だねえ。ははっ」
 司令は、長い背もたれのついた司令席の背を向け、窓の外を眺めたままだった。ネルソンには、肘掛に置かれた両肘しか拝むことができなかった。

ザッハの日記
(日記が書かれた月日は不必要な情報ゆえ省略する。なお、各日記間の経過日数は必ずしも一定でなく、2日続けて日記が書かれている場合もあれば、次の日記が記述されるまでに数ヶ月間を隔てているような場合もある。―編者註)

×月×日
 このような形に残るやり方でわたしの心理状態を吐露するのは、非常に危険である。しかし、このまま放置すれば私の精神はいずれ限界を迎えてしまう。何か辛いことがあったときは、それを言語化するのがよいと高校時代の先生は言っていた。だから、私もその言葉にならって日記を書こうと思う。これで私の心を少しでも長く持たせることができるならそれで万々歳だ。

×月×日
 いったいペシャワール先生が変わってしまったのはいつの日からか。やはり、院長を免職させられた日からだろう。それ以前にも徴候はあったが、やはりあのできごとが一つ決定的であった。
 そもそも兵器開発というのはスピードが命である。もともとこのCNHは開発期間5年という約束で研究費を取り付けたものであるが、その5年というのがそもそも兵器開発にかかる時間としては異様に長い。そして、5年たっても完成しなかった。あと1年、あと1年という形でずるずると引き延ばしてきたが、7年たってもダメだった。そこでイルフォルノが怒って愛想を尽かしてしまったという寸法だ。
 悪いことは重なるものである。CNHよりも(イルフォルノにとっては)魅力的な軍事技術の開発を標榜する者が現れた。なんでも原子核が崩壊するときに放出される莫大なエネルギーを用いた爆弾らしい。嘆かわしいことだ。
 嘆いても状況は変わらず、ペシャワール先生は院長の座を下ろされ、あのアイヒとかいう男が院長についた。CNHの開発に回る予算もどんどん絞られていった。そして、無論のことだが、イルフォルノの協力が得られなくなったことから、被験体の調達にも難渋するようになった。
 当初はCNHの実験も手探りの面が多く被験体の命を奪ってばかりだったが、三博士を招聘して技術が確立されてからは被験体を殺さずに実験ができるようになっていった。それでも、被験体の脳に異様な負担をかけるのである。一定の期間実験を続ければ被験体は死んでしまうのは確かである。今はまだ10数体確保されているようだが、いつまで持つことやら。

×月×日
 やはり最近のペシャワール先生は異様である。今残っている被験体は大事にしなければならないというのに、負荷の大きい実験を大した休憩時間もとらずに連続して行うようになっている。やはり、あの人は焦っている。結果を出そうとして焦っている。イルフォルノの協力を得られなくなって焦っている。
 いやむしろ、自身の研究を認めようとしないイルフォルノら国家の首脳たちを見返そうとしているのかもしれない。

×月×日
 今日も被験体が一人死んだ。真っ暗な部屋の真ん中で彼は死んでいた。無理もない。商品の低コスト化を推し進めるために安全性を二の次にした試作品の実験を行っているのだ。被験体の脳には異常な負荷がかかっている。

×月×日
 明日はついに長らく順番待ちをしていたシュトゥルーデル氏を実験に用いるらしい。
 いうまでもなく、彼は元ここの研究院だった人間である。秘密漏洩の疑いありということで「実験室送り」となった。あの頃はまだイルフォルノも犲目瓩盒力的だったからそういう無茶もできたのだ。
 私は直接彼の指導を受けたことはないが、見知った顔の人間である。そういう者が実験台とされるのを見るのはやはり辛いものがある。シュトゥルーデルと親しかったテンチやカシュートはペシャワール先生に実験の中止を懇願するようだ。最低でも、実験の欠席を要望するつもりらしい。どう考えても今の狂気の先生にそういうことを言うのは藪蛇のような気がするが、私には止めることはできない。

×月×日
 シュトゥルーデル氏はあっという間にこと切れた。最早、殺すために実験したとしか思えないような内容だった。ペシャワール先生は最早常人の神経を持っていない。 やはり、こんな非道を続けるべきでない。私も、この実験は国のためになると言い聞かせて被験体の命を奪っているという罪悪感をなんとかして押し込んできたのだが、こんな実験はけして国のためにならないし、CNHのためにもならない。これではただの人殺しだ。
 私は先生に直訴したが、聞き入れられなかった。先生はこう言うばかりだ。
「お前も私の邪魔をするのか?」
 そういえばテンチやカシュートは姿が見えなかったが、欠席の要望が利き届けられたのだろうか。今日のペシャワール先生の血走った目を見る限りそうとは思えない。

×月×日
 ついに私もただの人殺しに堕してしまった。
 私は、人を殺してしまった。
 今日、玉座の上に寝かされていたのはテンチだった。遠くからでよく見えなかったが、テンチは目を閉じて両手をだらりとたらし、生気のない顔つきをしていた。先生、いやあの悪魔は、玉座の上のカバーを下ろすとこう言った。
「この裏切者は私の実験を妨害しようとした。ザッハ君。君も昨日私に妙なことを言っていたね。私も、君のような有能な研究者の命をむやみに奪いたくはない。さあ、君が裏切者でないことを証明するために、今日はこいつで実験をしてやってくれ」
 先生が言い終わると実験室がいつものように真っ暗になった。私の唇と両手はガタガタと震えていた。
「さあザッハ君。何をためらっている? そのレバーを引いて玉座のスイッチを入れるだけでいいのだ。もたもたしていると明日あそこに座るのは君になるかもしれんぞ」
 私は震える手をレバーに向かって伸ばした。しかし、レバーに手が届くまえに体が言うことをきかなくなってしまった。私は体全体を震わしながら汗をダラリダラリと床に落とした。
「何だ情けない。なんなら若いのに手伝わせてやろう」
 心なしか博士の声には不気味なエコーがかかっていた。悪魔の助手の一人が後ろから私の近くに歩み寄り、レバーに向かって伸ばした私の右手を掴みとって、そのまま私の右手にレバーを倒させた。玉座のあちこちが光りはじめた。
「さあザッハ君。負荷を上げたまえ」
 私の右手をつかんだ助手は、今度は負荷を調整するレバーを一番奥まで倒させた。今度は私に躊躇させる間も与えなかった。私に抵抗する力は残っていなかった。
「はっはっは。結構結構。さあ、テンチ君。何が見える? 何が見えるかね?」
 博士が尋ねても、真っ暗な部屋の真ん中に座っているテンチからの返答はなかった。
「おい! 何か見えるか?」
 博士は声を荒らげたが、まとも返答はなかった。
 博士が部屋の電気をつけると、モニターに出ている大脳の様子はひどいものだった。既に大部分が機能していなかった。
「おやおや。もうダメかね。こりゃあ言語野までやられたかな?」
「恐らくそうでしょうね」
 私の右手をつかんでいた助手がぶっきらぼうに答えた。眼鏡の男だった。名は分からぬが、眼鏡の奥の瞳が異様に小さいことだけは分かった。
「これだけでここまで広く破壊されるのも珍しい。顔かたちに似てヤワな男だ」
 私は右手を掴んでいた助手の手を振り払うと既に廃人と化したテンチのもとまで歩み寄った。まだ息はあるのが分かった。モニターの方を振り返ったが、心拍や呼吸はまだ記録されていた。
「よしたまえザッハ君。もう無駄だよ」
「そうですな。もう解剖班に回しましょう」
 助手が冷たく答えた。
 私が茫然とその場に立ちすくんでいると、博士の後ろの助手たちが玉座のそばまでやってきて、テキパキと事務的な様子でテンチに取り付けられた様々な装置を外した。続いて部屋の外から、全身を白衣に包んだ解剖班が死臭でも嗅ぎとったかのように素早くやってきて、テンチの体をストレッチャーに乗せてそのまま部屋を出ていった。
 私はその様子をぼうっと見守ることしかできなかった。私は、トボトボと部屋を出ていこうとすると、後ろから悪魔の怒声が鳴り響いた。
「どこへ行く? まだ終わりじゃないぞ」
 今度はストレッチャーに乗せられたカシュートの体が運ばれてきた。カシュートの顔にも生気がなく、ホルマリン漬けのような色をしていた。
 それからのことはもう書く元気がない。

×月×日
 実験に出る気力が出ない。
 何も言わずに研究室にこもっていたら、この前の眼鏡の助手がやってきた。この前は暗くてよく見えなかったが、見れば見るほど風采の上がらぬ男だ。ボサボサの蓬髪に鼻筋についた大きなホクロが一つ。ふちなしの眼鏡の奥のおちょぼの目は、光を捉えるのに難儀していそうだ。
「どうされました? 今日は?」
 助手がボツリとつぶやいた。
「今日は、体調がすぐれない。すまないが欠席ということにしてくれたまえ」
「そうですか…。分かりました」
 向こうは案外あっさりと引き下がった。

×月×日
 あれ以来私の研究室を訪ねてくるものは誰もいない。もう3日ほどになるか。誰も来ないのがかえって不気味で仕方がない。
 もっとも、私の方もここを出る気すら起きないので、ここ数日の外の様子はよく分からない。

×月×日
 久方ぶりに人の来訪があった。この前のホクロの助手だった。
「先生。いつまでもボイコットを決め込んでいると、先生も玉座に座ることになりますぜ。ペシャワール先生はいたくお怒りだぁ」
 この助手は、風貌はさえない癖に凄むと妙な迫力があった。
「今までの先生の功績や先生の優秀さを天秤にかけて踏みとどまっている状態です。でも、いつまでもそうしておられると、もう片方の天秤がどんどん重くなって、しまいにゃそっちに傾いちまいますぜ」

×月×日
 私は言うことを聞かぬ体躯に鞭打ってなんとか実験に顔を出した。ペシャワールは、それでもあまりいい顔はしていなかった。
 玉座に座らせられていたのは、名は知らぬが顔は知っている女だった。ここの研究員だろう。
 いかん。エサが無くなったこの組織は、タコのように自分の足を喰い始めている。喰う順番は、どうせ忠誠心か何かで決めているのだろう。となると早晩私もこのタコに喰われてしまう。私は嬉々として負荷を調節するレバーを一番奥まで倒すペシャワールの顔が正視に堪えなかった。
 生にいじきたなく執着する私の心はギリギリのところで体力と気力を取り戻した。このまま指をくわえていたのでは、私は殺される。
 実験が終わると急いで研究室に戻り、対策を考えた。ふと目に入ったのは被験体のリストだ。そういえば、犲目瓩猟敢紺がここに捉えられているという話だった。私は祈るような気持ちでリストをめくっていた。いた。まだ生きている。一筋の希望が見えた。犲目瓩巴辰┐蕕譴臣砲覆蕁∋笋里茲Δ並手まといを連れてでも娑婆に出られるかもしれない。ネルソン・テムズ。見ると、今はサフォンの記憶が植えつけられているらしい。
 私はみなが寝静まるのを待ってネルソンが捕えられている檻舎に入った。幸い私に支給された檻舎のカードキーは取り上げられていなかった。この檻舎に放り込まれている被験体からは記憶を奪ってあるから、監視を置いておかなくても大人しいものである。だから、私の侵入を直接視認している者もいない。そのことも幸いした。
 ネルソンは、一番奥の牢にいた。牢の真ん中でサイドの壁に向かって体育座りをしていた。元犲目瓩箸いΔ世韻△辰董他の被験体と違って独房に入れられている。
「サフォン。サフォン」
 静かに、囁くように呼びかけた。ネルソンは体育座りの姿勢を崩さぬまま淀んだ視線をこちらに向けた。声は一言も発しない。
「いいか。聞け。君の本当の名前はネルソンだ。ネルソン・テムズだ。君は元犲目瓩離好僖い覆鵑澄ところがサンド国への出向を命じられ、向こうで殉職したという扱いでこっちに回されたのだ」
 私はリストの記述や同僚の噂を総合した情報をネルソンに伝えた。ネルソンは、私の台詞を聞きながら体育座りのてっぺんにある両膝を叩き合わせた。汚泥が沈殿したような瞳に、徐々に生気が取り戻されていった。
「もう1回言うぞ。君の本当の名前はネルソンだ。君は元犲目瓩澄今日一晩かけてじっくりと思いだしてくれ。また明日同じ時間に来よう。あ、思い出しても私以外に喋るなよ」
 その日はそれぐらいにしておいた。

×月×日
 朝は再びホクロが来た。
「今日は実験をやるそうですが、ザッハ先生はご体調が優れぬようなら不参加でもいいそうです。最近激務でお疲れのようですから」
 ホクロの台詞には毎度の如くぬるりとしたいやらしさがまとわりついている。参加が任意の実験とは、分かりやすい踏絵だ。ここで怪しまれてはならないと踏んだ私は出席すると言いかけたが、ホクロが遮った。
「いや、いや。お疲れみたいですから結構です。ペシャワール先生には私から言伝しておきますから」
 ホクロは陰惨な笑みを残して部屋を出ていった。どういうことだ。まあ、出なくていいに越したことはないだろう。

 夜は再びネルソンの元へ向かった。今日は鉄格子と正面から向かい合う姿勢で体育座りをしていた。私が近付くと、その視線は鉄格子を焼き切らんばかりに爛熟しているのが分かった。全てを思い出したのだろう。元々二言三言本当のことを言ってやれば思い出すような程度にしか記憶を抑圧していないのだ。
「ここで話すのはまずいから、通信機を置いておく。使い方は見れば分かるはずだ。今日の深夜にまた連絡する」
 鉄格子の隙間から放り込まれた通信機を、ネルソンははっきりと手の中に握り込んでいた。

 あとは深夜の私たちのやり取りを簡潔に記録しておこう。
「ここはどこだ?」
「帝立研究院のとある研究棟だ。地下にこういう施設を作っている」
「今は何年だ?」
「新暦でいうと59年だな」
「59年? となると俺は8年もあそこにいたことになるのか?」
「君のサンド出向は51年だから、確かにそういうことになるな」
「何をやっているんだ?」
「CNHの実験だ」
「CNH?」
 私はCNHの概要をかいつまんで説明した。少なくともその内容を聞いて、ネルソンは少なからず驚いたようだった。
「お前は何者だ」
「ここの研究員だ。ザッハという」
「ここの研究員ならなぜ俺に利するような真似をする? 大事な実験台だろう」
「もうこんな実験を続けたくないのだ。せめてこのような施設を国中、いや世界中に暴露して、このようなことはやめさせなければならない」
「ふん。それで今までの人殺しの贖罪になると思ったら大間違いだぞ」
「それは分かっているさ。でも、少なくとも新たな殺人を止める必要はあるだろう」
「それは理屈だ…」
 ネルソンは怒りを噛み殺しているようだった。
「そうだ。フラドは? フラドはどうした?」
「ああ。そういえば君はそのフラド君の行方を探していたんだったな。フラド君もここの実験台になって、いつだかに死んだよ」
「ぐっ…」
 ネルソンは私に掴みかかりたいだろう。殴りかかりたいだろう。せめて大声をあげたいはずだ。でも、彼の犲目當敢紺としての冷静な判断力が、ギリギリのところで彼を押し止まらせているように私には感じられた。
「三博士は?」
「三博士のうち二博士はここで実験台にされて死んだ」
「もう一人はどうしたのだ?」
「もう一人は二博士をさらったのと同じタイミングでどこかに逃げだしたのだ。今はファルージャでうまくやっているようだぞ」
「ファルージャということは…、ユエダー博士か?」
「よく覚えているな。そうだ」
「うむむ…」
 ネルソンはここでしばらく押し黙った。何かを考えているようだった。
「だいたい状況は把握できた。それで、お前はどうしたいのだ」
「私と君でここを脱出して、ここで行われている非道を暴くのだ」
「簡単に言ってくれるな。どうせ厳重に隠されているのだろう。ここは」
「そうだ。だが君ならできると信じているぞ。スパイとしての運動能力までは奪われていないはずだ。あと、筋肉も現役当時の水準を維持しているはずだぞ」
「ああ。それは俺も感じている。なぜそんなややこしいことを?」
「スパイの類稀なる運動能力は実験台としては魅力的なのだよ」
「ちっ…」
 ネルソンはまた反吐でも吐きたいのを必死に我慢しているようだった。
「分かった。俺もここからは脱出したい。なんとかしよう。ただ、お前の協力がどうしても必要になってくる。最低限ここの図面と、懐に隠せる程度のサイズの武器と、外と通信できる機器をくれ。正直俺はお前のことをまだ全面的に信用していないが、その3つを持ってきてくれればもうちょっと信用してやろう」
「図面と通信機器は用意できるが、武器は難しいかもしれん」
「最悪ボールペンでもいい」
「分かった。そういえば、外のどこに通信する当てがあるのだ。君はもう娑婆では死んで8年が経った人なんだぞ」
「それは、色々考えているさ。そういえば、娑婆はどうなってるんだ?」
「この国は8年前と特に変わりはないさ。イルフォルノが最大の権力者で、シズラーと結託した皇帝が二番手として対抗している状態だ」

 ―ドンドンドンドン

 俄かにして、背後からドアを静かにノックする音が聞こえた。
「来客だ。いったん切るぞ」
 私は小声で通信機に向かって話しかけると、スイッチを切ってドアのそばまで歩み寄った。ドアの錠を開け、ノブを握ってゆっくりとドアを開くと、外に立っていたのはホクロだった。
「先生。鍵をお掛けになるとは珍しいですね。よほどお疲れのご様子だぁ」
 ホクロの口調にはたっぷりと皮肉が籠っていた。背筋に小さな寒気が走った。だいたい、なんでこんな時間にやってくるのだ。
「なにかね?」
「明日のことなんですが」
「実験か? 私も出られたら行くが、最近またどうも調子が優れない。行けない可能性の方が高いと思ってくれたまえ」
「珍しいですなあ。壮健で知られる先生が」
 助手は天井を見上げ辺りを歩き回りながら、たっぷりと芝居がかった調子で喋った。そして、私に背を向けた状態で立ち止まると、首だけ素早く振り返ってまた声を発した。
「スパイにでも襲われましたかな?」
 私は言いようのない恐怖を覚え、少なからず動揺した。その動揺を表に出すまいと必死で平静を装ったが、声の震えは隠せなかった。
「そ、そんなことはない」
「はっは。悪い冗談でしたな」
 顔を上げると、ホクロはまだ背を向けていた。
「あ、そうだ。明日の被験体ですが、こういう順番で行こうと思っています」
 ホクロが背を向けたまま突き出したのは、被験体の顔写真や個人情報が載った書類だった。早くこの場を切り抜けたい私は、碌に書類を見もせずに答えた。
「いい。その順番で構わない。私が出てこなくてもそれでやりたまえ。これからも私に確認する必要はない。だいたい今まで私の確認なんか必要なかったじゃないか」
「そうですか。一応ご意見をうかがおうということになっていたのですが、先生がそう仰るならそうさせていただきます」
「用件はそれだけか?」
「ご安心ください。これで終わりですよ。では私はこのへんで」
 ホクロは最後まで背を向けたまま部屋を出て、扉を閉めた。私はその足音が聞こえなくなるまで待った後に、扉を開けて廊下の左右を確認した。誰もいなかった。
 ゆっくりとデスクまで戻ると、通信機のスイッチを入れ、通信機に向かって呼びかけようとした。
 
 ―ドンドンドンドン
 
 刹那、ドアを強く叩く音がけたたましく鳴り響いた。私は慌てて通信機のスイッチを切ってそれを胸ポケットにしまうと、デスクを背にしてドアを凝視した。
「先生? いらっしゃいませんか?」
 ドアの向こうから聞こえてきたのはホクロの声だった。例の芝居がかった調子だった。
「いるぞ。入れ」
 私は懸命に喉を振り絞ったが、ドア越しには届きそうもないか細い声にしかならなかった。ホクロは、言い終わらないうちに扉を開けて入ってきた。
「なんだ?」
「いや、やっぱりなんでもありません。お疲れのところ失礼しました」
 ホクロは再び部屋を出ていった。今度は扉を開け放ったまま去っていたので、ザッハが近付いて扉を閉めようとすると、隙間から助手の顔が覗いていた。
「なんだ?」
 私の声はまたも声にならなかった。
「いえ。失礼」
 ホクロはくるりと踵を返して廊下の向こうに消えていった。私は素早くドアを閉めて、鍵をかけた。そしてそのままベッドの上に体を投げ出し、毛布にくるまった。

×月×日
 目が覚めたら、もう昼だった。
 今日はホクロは来なかった。しばらくは落ち着いていた方が良さそうだ。私はネルソンに、ほとぼりが冷めるまで待ってくれとだけ連絡した。

×月×日
 今日もホクロは来なかった。
 夜はこの前のように檻舎に入り、ここの図面と、外と通信できそうな少し大きめの通信機を渡した。この地下からも電波が届く強力な奴だ。武器は結局手頃なものがなかったので、私の研究室にあった果物ナイフを渡した。

×月×日
 今日もホクロは来ない。
 彼は、夜になってから私の部屋に入ってきた。
「おや、今日はお話にならないんですか?」
 ホクロは開口一番例の芝居がかった調子で私に尋ねた。私は、昨日と同じように肝が冷えるのを覚えた。
「なんのことだ?」
「いえ。失礼しました。ところで、明日の被験体はこれで行こうと思います」
 私はまたも恐怖で助手が付き出した書類をよく見ることができなかった。
「それでいい。それと、昨日も言ったがいちいち私の決裁を仰がなくてもよい」
「そうですか。では。早く良くなってください。現場は先生の復帰を切望しています。ふふふ」
 ホクロはぎこちない笑みをたたえた顔を私に向けたまま、部屋を出ていった。

×月×日
 目が覚めると、もう夕方だった。昨日の入眠時の記憶がはっきりしなかい。辺りをキョロキョロしていると、ホクロがノックもせずに入ってきた。
「先生、お体はどうですか?」
 ホクロはいやに早口だった。
「ま、まだ優れない」
 面食らった私は、動揺を悟られまいとホクロに背を向けたまま答えた。
「先生、ニュースはご覧になってますか。皇帝陛下が暗殺されたそうですよ。物騒な世の中ですねえ」
「そうか」
 ホクロの言葉は私の耳には入っていなかった。何だってこいつはこんな世間話を振ってくるのだ
「ところで、明日の被験体はこれでいこうと思います」
「一々見せに来なくていいと言っているだろう」
「おや、確認しなくていいのですかな?」
「いいと言っている」
「おやおや、本当によろしいのですか?」
 ホクロがやけにねばるのを訝った私は、振り返ってバインダーに挟まった書類を確認した。一番下に、見覚えのある顔があった。ネルソンの顔だった。
「こ、これは? 独房の囚人は後回しでは?」
「おや。こいつが独房の囚人だとよくご存知ですね。ああ、そういえば先生にもリストは行ってましたな。失敬失敬。まあ、こいつ以外の被験体を使い果たしたから、順調にお鉢が回ってきただけですよ」
「待ってくれ。こいつは後回しにしてくれ」
「おやおや。残念ですなあ。今さらそいつは通りませんよ」
 ホクロは素早く踵を返すと、部屋を出て勢いよくドアを閉めた。私は助手を追おうとしてドアのノブに手をかけたが、押せども引けどもドアは開かなかった。私は、渾身の力を込めて体当たりをした。しかし無情にも、ドアはびくともしなかった。溶接でもされているかのような堅牢さである。

 私は呆然とその場にへたり込んだ。急いで胸ポケットから通信機を取り出し、スイッチを入れて呼びかけた。
「ネルソン! ネルソン! おーい! 聞こえないのか! 聞こえたら返事をしてくれ!」
 いくら呼びかけても、通信機はザーザーと砂嵐のような音を立てるだけだった。私は床に両手をついて俯いた。両目から、涙がこぼれ落ちた。ふと床の向こう側から、「ウーウー」という警報のような音が入ってきた。遠くで鳴り響いているのか微かにしか聞こえなかったが、それは確かに警報音だった。
 私には、その音が自らの死を宣告する音のように聞こえた。今までの非道を閻魔さまは見逃していなかったのだ。観念した私は目を閉じた。遠くから鳴り響く警報音に身を任せれば、自分を冥界へといざなってくれるような気がした。
 背後の扉の向こうから「ガチャン」と大きな音がした。自分がまだ生きていることを確認した私がゆっくりと振り返ると、扉もゆっくりと開いた。逆光でよく見えなかったが、そこに立っていたのは散弾銃を抱えたネルソンだった。
「行くぞ」
 私はネルソンが差し出した右手をつかんで、ふらふらと立ちあがった。
 私は、ネルソンに案内されて廊下を駆けていた。今まで書きためた日記を懐に入れて。
「その銃はどうした?」
「敵から奪った」
 ネルソンが言い終わらないうちに、廊下に面した扉から研究所の監守が1人飛び出した。一介の警備員とは思えぬ重武装だった。ネルソンはその敵兵に至近距離から散弾銃を浴びせた。鮮血が飛び散った。私が返り血を拭う暇も与えずに、ネルソンは怒号が飛び交う中を再び駆け出した。
「どこから脱出するんだ?」
「目星はつけている」
 やがて我々は、真っ直ぐな廊下の先にあったY字路にたどりつき、そばに積まれていた段ボールにいったん身を隠した。見覚えのある場所だ。ここまでくればもう地上は壁一枚隔てた程度の距離のはずだ。
 ネルソンは、私に拳銃を1挺手渡した。前から後ろから警備員が迫ってくる足音が響いてくる。
「ここからは別々だ。俺は先のY字路を右に行って敵兵を引きつける。お前は左を行け。けして振り返らずにひたすら走れ。そうしたら先に俺達の仲間がいる」
「君はどうするんだ?」
「なに、とっくに捨てた命だ」
「危険だろう」
「お前にはここで何が行われてきたかを伝える義務がある。生き延びろ」
「私が囮になって君が逃げた方が確率が高いだろう」
「つべこべいうな。もう時間はない」
 私がぐずっている間にも足音はどんどん近付いてきていた。
「しかし…」
 まだ踏ん切りがつかぬ私を見ながらネルソンは一瞬何やら考えていたが、不意に何かを思いついたように上着のポケットに手を突っ込み、中の物を掴みだした。
「大丈夫だ。この紋章が俺たちを護ってくれる」
 ネルソンの掌の中に入っていたのはバッジらしき何かだった。Ψのようなマークが印刷されている。
「なんだこれは? 帝室の家紋じゃないか」
「犲目瓩里守りみたいなもんだ。これがあるから、犲目瓩猟敢紺はみな勇敢で向こう見ずなのだ」
「ふっ」
 私は思わず鼻で笑ってしまった。ネルソンも咄嗟に思いついて言ったことなのだろう。彼は、明らかにポケットの中にあった適当なものを今この場でお守りにでっちあげていた。ネルソンも自分の嘘の下手さに今になって気がついたらしく、「しまった」というような表情を隠し切れていない。
 それでもこの場を法螺で切り抜けようとするネルソンが、私にはこのうえもなく頼もしく思われた。それに、適当に出てきたわりには帝室の家紋というご利益のありそうなものであるという点も吉兆ではあるまいか。
「いたぞーっ!」
 敵の怒声が響いた。もう視認できる距離にまで迫ってきている。
「ようし。元気が出ただろう。俺はもういくぞ。俺が出たらお前も行け」
 ネルソンは私の肩をポンと叩きながらそう言い残すと、ネルソンは雄叫びを上げながら右の廊下へと突っ込んでいった。私はできるだけ右の廊下が目に入らないように左へと駆け出した。壁の向こうから、複数の銃声が聞こえてきた。私は、断腸の思いで振る両手に一層力を入れた。
 後ろから何人かの足音が聞こえてきた。私は懸命に走った。しかし、目に飛び込んできたのは行き止まりだった。壁・天井・床を隈なく探ったが、出口らしきものはない。振り返ると、ライフルを抱えた敵兵が4,5人迫って来ていた。私は壁を背にして懐の拳銃を探り当てた。ネルソンからもらったやつだった。
 私がそれを取り出す前に、敵の1人が壁を背にして立ち尽くす私目がけてライフルを撃った。弾は右肩と左腿に命中し、私はその場にへたれ込んだ。
 かすみゆく景色の中で私が銃を構えようとすると、途端に天井が吹き飛び、敵も吹き飛ばされていった。私が銃口を前方に向けたまま空を見上げると、真っ白な空の後ろから黒い戦艦がゴウンゴウンと音を立てながらゆっくりと前進してきていた。私の目は、艦底にあしらわれたΨのようなマークをしっかりと捉えていた。

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