当wikiは、高橋維新がこれまでに書いた/描いたものを格納する場です。

五 ゴ=ディン・ディエム


「ようポテト。お前のフルネームはアイダホ・ポテトっていうんだって?」
 アイダホが振り向くと、いつものようにゴ=ディン・ディエムとリングバードが立っていた。
 だいたいゴ=ディン・ディエムというのは聞いたことのない名だ。どこの国の人間だ。広い肩幅に筋骨隆々の体、そして鼻もちならないほどに自身に満ちた表情。大部分の男は、こいつと対峙すると崇敬よりも嫉妬の方が勝るのではあるまいか。
 ゴ=ディン・ディエムの後ろには、いつも、金魚のフンみたいにリングバードという腰巾着がついている。青い長髪を女のように後ろで束ねているのが一番の特徴だ。ゴ=ディン・ディエムがアイダホにちょっかいを出してくるときはほとんど黙って後ろでマムシのような睨みを利かせているが、もしかするとゴ=ディン・ディエム以上にタチの悪い人間かも知れない。
「おいポテト。返事ぐらいしろ」
 アイダホは無視して立ち上がると、更衣室を出ようとした。
「置いてくなよポテト。だいたいポテトってなんだ。おまえ、どこの出身だ」
 こういうときにうまく口が回らない自分のことをアイダホはとても嫌っていた。口で対抗できない場合には腕であしらうか無視するかしかないのだが、ここで腕力に訴えると途端に教官が飛んでくる。かといって無視していると相手はどんどん増長するばかりである。
 アイダホは廊下に出ると駈け出した。食堂へ向かって一生懸命に駈け出した。
「だから置いてくなって。ポ〜テ〜ト〜!」
 ゴ=ディン・ディエムも走りながら聞えよがしに大音声でアイダホの名を呼ばわった。ちょうど女子更衣室から出てきたハンゲンキが、駆けてゆくアイダホの背中を心配そうに見つめていた。

 ヌエバ国とファルージャ国の国境線は、ネブカのすぐ北にある。国境線はそのほとんどの部分が峻厳たる山々にはさまれた川の中を走っており、鉄条網のような物理的な防御は一部にしか施されていない。その中でも特に厳重な警備が敷かれているのは、ネブカからもほど近い海岸部のほかには、山と山の間を走る一条の道路の周辺である。ヌエバの側からは、この道路は36号線と呼ばれている。ヌエバ国境警備隊第一部隊はヌエバとファルージャの国境を警備する部隊であり、その本部は36号線と、海岸部からやってくる128号線という道路の交差している場所にある。この交差点は、第一部隊の人間からはクロスポイントと呼ばれている。あとは、支部が128号線の突き当たりの沿岸の辺りと、36号線と国境が交わるあたりにある。ファルージャからヌエバへと陸路で国境を超える場合、辺りは山ばかりなので現実的なルートは128号線か36号線を通るものとなり、必ずどちらかの支部とクロスポイントの本部という二重の検問を経ることになる。
 実はこの本部は、元はもっと国境に近いところにあった。しかしシズラーが内務長官に就任してからそこは支部に格下げとなり、もうちょっと奥まった場所に広く土地を取って本部が作られた。そこがクロスポイントである。当時は、シズラーがその広い土地で何らかの軍事組織を作るのではないかとも噂された。実際東西に広い領土を持つヌエバ国においては、国土の東端に当たるファルージャとの国境は、反対側の端にある首都からは大分離れた場所であり、あまり中央の目が行きとどかないのも事実であった。
 某月某日、クロスポイントの検問を通過しようとする一台の黒塗りの車があった。128号線からやってきた車であった。運転手を含めて黒いスーツに身を包んだ男が4人乗っているのが外から分かったが、後部座席とその更に後ろは黒いカーテンで仕切られており、そのカーテンの奥に何があるかは分からなかった。
 車がクロスポイントの検問に差し掛かると、運転手が提示したのは犲目瓩凌畔証であった。これがあればヌエバ国内ではほとんどなんでも自由にさせてもらえる切り札である。運転手はいつものように特にチェックもなく通してもらえるものと確信しているようだった。しかしその呈示を受けた警備隊員の動揺具合は尋常でなく、詰所から上官らしき隊員がバタバタと出てきた。2人は何か協議していたが、やがて部下の方が奥に消え、上司の方がこちらに向かってやってきた。
「すみません。もう少々お待ちください」
 運転手は訝った。いつもなら犲目瓩凌畔証という伝家の宝刀を抜くだけでほとんど素通りさせてもらえるのである。それがなんでまたこのような仰々しい手順を踏むのであろうか。
 ここで騒いでも時間が余計にかかるだけだと踏んだ運転手は、仕方なく付き合うことにした。5分ぐらいすると、詰所の更に奥にある第一部隊本部から何人もの隊員が群れを為してやってきた。真ん中には、妙なヘルメットをかぶった男と、青の長髪を後ろでしばった男がいた。ヘルメットは男の顔の3/4を覆おうかという大きさであり、正面から見ると男の顔の顎・口・鼻先ぐらいしか見えない。こんなヘルメットをかぶった状態での勤務が認められているところを見ると、何かのっぴきならない事情があるのだろう。
 やがてヘルメットの男が車の窓から中を覗き込んできた。
「やあやあ犲目瓩里澆覆気鵑任垢。いつもご苦労様です。私はこの第一部隊隊長のゴ=ディン・ディエムと言います」
 ゴ=ディン・ディエムと名乗った男は身分証を出した。確かに隊長であった。なんでまた、隊長が直々に出てくるのであろうか。
「皆様のお手を煩わせるようで本当に申し訳ないのですが、カーテンの後ろを、見せてもらえないですかねえ」
 口調はどこか慇懃無礼である。運転手は、後部座席と後ろを仕切るカーテンをチラと見るとまた向き直った。
「見せる必要はないだろう。君たちは犲目瓩里海箸魑燭Δ里ね」
「いやいや、犲目瓩粒様の普段の働きぶりは私たちも聞き及んでおりますし、尊敬してやまないものでもございます。先ほど身分証も見せていただきました。皆様が犲目瓩鴆戮覽曲だと疑う心も毫もございません。ほんの形だけのことでして、カーテンの後ろを見せてもらいたいんですよ。ええもう。ここでお互い疑い合うのも時間の無駄ですし精神衛生上も良くない。パッと見せてくれるだけでいいんです」
「普段はそんなことはしていないのだろう」
「いえまあ、歳末特別警戒中でして」
「ちっ。分かった」
 運転手は、助手席の男、後ろの男と相次いで目配せし、ゴ=ディン・ディエムがいったん窓から離れるのを確認すると、一気にアクセルを踏み込もうとした。しかしその瞬間、こめかみにもゴ=ディン・ディエムの小銃が突きつけられ、運転手はアクセルに当てていた右足をぐっと踏みとどまった。車はすでに警備隊員たちが抱えた突撃銃の銃口に取り囲まれていた。
「歳末特別警戒中といったろう」
 男4人は車から降ろされ、手錠をかけられて奥へと連れられて行った。ゴ=ディン・ディエムが空になった車の中のカーテンを開けると、両手両足を縛られ猿ぐつわをはめられた紫色の髪の少女が横たわっていた。

 本部の医務室に保護された少女はきっかり7時間後に目を覚ました。その日はもう遅かったのでそのまま休ませて、ゴ=ディン・ディエムが医務室を訪ねたのは翌日の昼ごろになった。後ろにはリングバードとそれ以外の書記らしき部下も訪ねていた。
「やあお嬢さん」
 上体だけ起こしてベッドの上にいた少女の顔は恐怖でひきつった。何か言おうとはしているが、声にならない様子であった。
「そんなに怖がらないでください。我々はあなたの味方です。あなたを暴力もてさらった悪い奴は、全員逮捕しました」
 少女の恐怖の表情に一縷の安堵が混ざっていった。
「本当ですよ。威力検問所突破未遂で現行犯逮捕です」
「あ、あなたは…」
 少女はか細い声を振り絞った。
「私はゴ=ディン・ディエムと言います。ここの国境警備隊の隊長です。こっちのチャラそうなのはリングバード。私の副官です」
 リングバードと呼ばれた青髪の男は、釣り上がった両眼でゴ=ディン・ディエムを睨みつけながら少女に一礼した。
「ここは、どこですか?」
 少女にはもう毅然とした口調が取り戻されていた。
「クロスポイント…って言っても分からないか。まあヌエバとファルージャの国境のすぐ北辺りですよ」
「私をさらったのは、何者なんでしょうか」
「早速そこに入りますか。まあ、説明しましょう」
 ゴ=ディン・ディエムの長い説明が始まった。この国には犲目瓩箸いΕ好僖ち反イあること。その犲目瓩たまにファルージャから人さらいをやっていること。この国ではイルフォルノとシズラーという二大有力者がいて、激しく対立していること。犲目瓩魯ぅ襯侫ルノの側についており、ゴ=ディン・ディエムが所属する国境警備隊はシズラーについていること。
「そして、シズラー長官から直々の命令が最近入ってたんです。イルフォルノが最近また人さらいを始めた疑いがあるから、今度それらしき犲目瓩凌祐屬ここを通ろうとしたら何としても確保して被害者を救出しろと。ただ、あなたをさらった4人はもう釈放しましたが」
「釈放?」
 少女の顔が恐怖でひきつった。
「いや、犲目瓩シズラー長官の方に寝返ったらしいのでもう放してやれという命令が来たんです。まあ、それは話をややこしくするんでいんですが。とにかく、我々は犲目瓩らあなたを救出したということです」
「救出してどうするおつもりですか?」
「被害者をおさえればイルフォルノの国家的犯罪行為の動かぬ証拠になりますからな。それを使って長官はイルフォルノを追い落とすつもりなのでしょう」
「なるほど。筋は通っていますね。でも、あなたは何でそんなことを一被害者の私にベラベラと喋ってくれるんですか」
「どういうことでしょうか」
 ゴ=ディン・ディエムの口は例のヘルメットの下で微笑を湛えた。
「たとえシズラーがイルフォルノとの権力闘争に勝ったとしても、国家としてそういう人さらいの責任は負わなければならないでしょう。今からその人さらいがあったようなことを認める方向で動いていいのでしょうか」
 ゴ=ディン・ディエムはヘルメットの目の部分を右手で抑え、天を仰ぎながら大きく哄笑した。
「はっはっは。聡明なお嬢さんだ。ご安心あれ。うちの大将のシズラーという人は、そこまで小さな人間ではありません。ヌエバという国が国家として許し難い人権蹂躙を行っていたことはすっぱりと認めたうえで、そういう悪いことをやっているイルフォルノを倒そうという腹なのです。なんの下心もない。それならば、直接の当事者であるお嬢さんにはできるだけ詳しく事情を話して、できるだけたくさんの証言を引き出した方がいい。もっとも…」
「もっとも?」
 少女は鸚鵡返しに聞き返した。
「それは半分ぐらいで、もう半分は私の個人的な義侠心から出たものです」
 ゴ=ディン・ディエムの口元は再び微笑を湛えた。真っ白な歯が間から覗いた。
「分かりました。あなたを信用しましょう」
「理解が早くて助かります。では、早速別の部屋に移動して聞き取り調査にかかりたいが、よろしいかな」
「ええ」
 少女が連れてこられたのは会議室のような十畳ほどの部屋だった。ゴ=ディン・ディエムとリングバードが少女に向かい合って座り、脇では書記がパソコンと向かい合っている。
「じゃあ、始めようか。そういえばまだ名前をうかがってなかったな」
「ハトノス・デーデキントと申します」
 そこからゴ=ディン・ディエムのある種執拗とも思える聞き取りが始まった。公主は話した。父が失踪したこと。バーコードと『H』のハンカチという手掛かり。従者のアイダホと一緒に街を回ったこと。そこで出会ったケヤキという遊女。偶然見てしまったアイダホのバーコード。そして、海岸で自身も連れ去られたこと。
「なに、アイダホ?」
 「みぞおちにバーコード」というキーワードが出てきてからゴ=ディン・ディエムのヘルメットは震えっぱなしだったが、この名前が出てくると抑えきれなくなったらしく、いきなり机を叩いて立ち上がった。リングバードも容易ならざる目つきになっている。
「お嬢さん。そのアイダホという男のファミリーネームはご存知あるまいか」
「ファミリーネームですか? そういえば知らないですね。長いこと一緒にいるわりには」
「うーむ。では、その男の特徴などあれば」
「背は高いですよ。髪は、燃えるような赤です」
「ポテトだ!」
 ゴ=ディン・ディエムとリングバードは一緒に机を叩きながら立ち上がった。2人でお互いに向き合うと、そのまままた座り込んだ。
「いや失礼。お嬢さん。その男、アイダホ・ポテトという名ではあるまいか」
「分かりません。申し訳ありません」
「いや、もう確実です。みぞおちにバーコードの烙印まであるとなれば」
 今度は公主が容易ならざる様子になってきた。
「い、いったいあの男は何者なんです? それにバーコードの烙印とはなんなのでしょう」
 ゴ=ディン・ディエムは一瞬机に目を落としたが、すぐにまた顔を持ち上げた。
「アイダホが隠していることだろうから黙っていようかとも思いましたが、まあポテトだしいいやと踏んで喋りましょう。アイダホは、犲目瓩料甦養成所出身なのです」
 犲目瓩料甦養成所。
国外で活動するスパイにとって最も大事なのは、スパイだと気付かれずにその国に溶け込むことである。そこでネックとなるのはやはり言語である。その国の言葉が流暢に話せなければ、周りから怪しまれてしまう。しかし、言語というものはいったい乳幼児の頃に教え込まなければなかなか流暢に話せるレベルにまでは身につかない。
 そこで受け取り手のない赤ん坊を犲目瓩諒で引き取って、色々な言語の英才教育を行い、色々な場所に派遣できるスパイを育て上げるという構想が持ち上がった。こうして設立されたのが犲目瓩料甦養成所である。引き取られた赤ん坊にはみぞおちの辺りにバーコードが押される。このバーコードには体調や能力などその赤ん坊に関する個人的な情報が刻まれており、そのバーコードの情報をもとに赤ん坊は徹底管理される。
 こうしてこの養成所で何人かのスパイが育て上げられたが、ものになるまでにあまりに時間がかかるということと、そこまで多言語を覚えさせてもさほど使い道がないということになり、三期生の卒業とともに廃止された。
 アイダホは、その早期養成所の出身である。そしてゴ=ディン・ディエムの語るところによれば、そのケヤキという女も早期養成所の出身であろうとのことであった。
「じゃ、じゃあアイダホはヌエバの人間なのですか?」
 公主が素っ頓狂な声を上げた。
「ええ。そうです。私も彼を知っていますから」
「あなたはどこで…」
「私も養成所出身なのです。もっとも、早期ではない通常の方の養成所ですが。早期養成所上がりと一緒になって様々な訓練を受けました。でもその早期養成所上がりというのは仲間の中でも珍しいもんで、そのなんというか、当時のような年頃の我々としては、色々とちょっかいを出したくなるんですな」
「いじめたということですか」
 ゴ=ディン・ディエムはヘルメットに右の掌を当てて俯いた。
「有り体に言えば、そうです」
 ゴ=ディン・ディエムは悪びれる様子もなく言い切ったが、その開き直りの様子が却って場の空気を悪くした。ゴ=ディン・ディエムは仕方なく自分で話を続けた。
「それでアイダホ君は、もう卒業間近という頃に養成所を抜け出して姿をくらましてしまうんですな。我々のいじめも今振り返ってみれば一因だったような気がしますが」
 公主は憮然とした様子でそっぽを向いた。
「まあ、いいです。過去のことは水に流しましょう。アイダホも今や立派に立ち直っているみたいですから。それより、これからどうするんですか」
「いや、お嬢さんのお話はだいたいちょうだいしましたので、これを我々がシズラー長官に報告して、善後策を練るという形になります。お嬢さんには迎えが来るまでしばらくこちらに逗留していただいて…」
 その時会議室のドアを素早くノックする音が聞こえた。ノックの主は、こちらの返事を待つ前にドアを乱暴に開けてバタバタと入ってきた。警備隊員の一人だった。
 公主が呆気にとられていると、その隊員はゴ=ディン・ディエムの元までやってきて何やら耳打ちした。しかし、興奮している彼の声は部屋中に響き渡った。
「正体不明の飛行物体が国境を突破してクロスポイントに近付いてきます。かなりの速さです」
「なにぃ? 正体不明だぁ?」
 ゴ=ディン・ディエムが何か聞こうとするのを遮って、大きな墜落音が本部の敷地中に響き渡った。ゴ=ディン・ディエムの背後の窓の外で、黒い人型のロボットが右足と左ひざでの着地を綺麗に決めていた。その音に気がついたゴ=ディン・ディエムとリングバードが同時に窓の外を見ると、黒いロボットも赤い目をこちらに向けてきた。公主は、ロボットと目があったような気がした。

 友人の地質調査員が、こんなことを話していた。
「ベンゲル湖の湖底に膨大な量のフォンダンが眠っていることが明らかになってきた」
 ベンゲル湖は確か平均深度がこの星で一番深い湖である。その底に、熱効率が石油に倍すると言われた幻の燃料が埋まっているというのだ。何とかしてこれを回収できないものか。
 研究すればするほどフォンダンというものの脆さが分かってきた。放っておけば塊のまま鎮座しているのだが、動かそうとすると非常に崩れやすい。人の手で慎重に扱わなければすぐポコポコと割れていって水の中に雲散霧消してしまう。ところが、フォンダンがふんだんに存在するのはベンゲル湖の中でも深度2000m級の場所である。2000mともなると水圧がものすごく、よほどよくできた潜水艦でもない限りその場所に到達することさえ難しい。そのくせフォンダンは機械みたいなもので乱暴に取り扱うと、すぐに粉々になってしまう。
 ならば人を送り込めばいい。しかし生身の人では無理だ。ではロボットのように人の動きができて、湖底2000mという過酷な環境にも耐えられるものを作ればいいではないか。ロボットというと語弊があるが、基本的な発想はそういうことだ。
 こうして私が着手したのが湖底2000mの水圧に耐え得る人工皮膚と人工筋肉の開発である。これは、もちろん試行錯誤はあったが、存外にあっさりとできた。問題は、この人工筋肉にどうやって生身の人のような滑らかな動きをさせるかである。人工筋肉自体は生身の筋肉と比べても、できる動きに関しては遜色がない。問題はやはり司令塔であろう。生身の筋肉は、中枢神経という司令塔がきちんと細やかに命令を伝えるから繊細な動きができるのである。やはりあの脳というのは偉大な組織である。筋肉や皮膚などと違って一朝一夕に真似できるものではない。
 ここで私は大きな発想の転換をした。作れないなら、そのまま使えばいい。何で今までこんな単純なことに気が付かなかったのだ。生身の人間の脳が人工筋肉を動かせばいいのだ。
 しかし人工筋肉と人工皮膚を作ったところで研究室の予算はほぼ尽きてしまった。研究を続けるには金が、パトロンが必要だ。私が抱き込んだのは軍務長官のイルフォルノだ。私は気が付いていた。私の研究分野は確実に軍に気に入られると。フォンダンは国内で使ってもよし輸出してもよしの優秀な物資である。国内で使えば軍需産業が発展する。他国に売り出せばほとんど唯一のフォンダン輸出国として国際社会で大きな顔ができる。フォンダンだけではない。この人工筋肉の技術自体を転用すれば様々な過酷な環境に堪えて長時間作戦行動を継続できるスーパーな歩兵部隊も作ることができるのだ。
あの血なまぐさい男はこの話にすぐ乗った。専用の研究機関を設立して、膨大な予算を回してくれた。財務省もおさえているからこそこういう芸当ができるらしい。私もここまでやってくれるとは思わなかったが、これで研究に没頭できるというものだ。イルフォルノが出した条件はただ一つ、「5年で成果を出せ」ということだった。
 研究は順調だった。サンド国からトロノート、ファルージャ国からユエダー、そしてうちの国からダイジュという優秀な研究者を招聘し、理論自体は完成を見た。もっともこの3人からは一方的に研究データの提供を受けただけである。私の実験に参画させるというようなヘマはしない。
 このシステムをCNHと名付けたのもこの頃だったか。人工筋肉の方に生身の人間の司令塔が乗っ取られてしまうのである。実に言い得て妙の命名ではないか。
 問題はここで生じた。ラットやサルでの実験では限界がある。ヒトを利用する兵器だ。ヒトが利用する兵器だ。実用化するにはどうしてもヒトで実験する必要がある。当初はシュトゥルーデルという若い助手が志願して実験台になってくれた。しかし、こういう志願制をとる限りあまり無茶な実験はできず、こっちが望むデータが思うようにとれない。
 困ったときはパトロンさまさまである。イルフォルノは金だけじゃなくて暴力もおさえている。イルフォルノに頼んで、実験台を「調達」してもらった。当初は囚人が多く回されてきた。彼らを利用した実験に躊躇を感ずる人間も多かったようだが、どうせ死刑や終身刑を待つ社会のクズばかりだ、刑務所の中で屎尿を垂れ流させるよりは最後にこの実験の役に立ってもらった方が彼らの人生も意味のある物になるだろうと大演説を打ってやったら、みな黙った。そのうち囚人は調達が厳しくなったらしく、しばらくは囚人以外の国民が回ってくるようになった。それも厳しくなると、やがて主流になったのは他国の人間だった。色々な国からさらわれてきたが、一番多かったのはデヌークだ。あそこは国が内戦のさなかにあって警察組織もまともに動いてはいない。人が失踪しても大部分は闇に葬られるだろう。
 こうして実験台は十分に集まった。彼らは研究院の地下の牢獄のようなところに押し込められた。食事は、研究院の中に合成石油タンパクで食料を作ることを研究している奴がいたから、その試作品を回してやった。量は十分あった。当初は外部から調達していたが、これだけの数の人間を食わせるための食料となると自然と量は膨大になってしまう。そんな量の食糧が出入りしていたら「ここに人がござい」と自ら言っているようなものなので、すぐにこの内部調達の方式に切り替えた。彼らには大人しい囚人の記憶を植え付けてやった。そうすれば自分が牢に入れられている現実に不満を抱くこともなく、それを所与のものとして受け取るから、滅多に脱走を図ることもない。我ながらいいアイディアである。
 当初はこちらの理論や実験方法に関しても未熟な部分が多く、たくさんの死者が出た。なんといっても脳をいじるのである。下手すると脳の中の呼吸や心拍を司る部分がいかれて死に至るということもある。死までは至らずとも、前頭葉と言語野が同時に破壊されて見るからに廃人と化してしまった被験者もいた。そういうのを見ると良心が咎める者もいたようだが、そういう良心を殺せないようでは学究の徒の資格はあるまい。ラットやサルを実験に使うのと何が違うのだ。死体は研究院の中の溶鉱炉で荼毘に付してもらった。墓場まで面倒を見てやるユートピアではないか。ここは。
 そういえば被験者の供給があれ以来パタリと止まっていた。イルフォルノに問いただしたところ、国外調達でもシズラーの監視の目が厳しくなったからいったん打ち切るとのことだった。まあいい。今のところ十分な数は集まっている。足りなくなるころにはほとぼりも冷めているだろう。
 とはいっても、被験者はポツポツ補充された。代表格がトロノートとダイジュだろう。人体実験に勘付いた2人はあろうことか私を恫喝してきたのである。ここで研究の場を提供してやったのは誰だと思っている。専門分野ばかりやっているとこういう恩知らずができ上がるらしい。もちろん2人とも牢獄行きだ。CNHの技術の一端を担っている2人の口を塞いでしまえば技術の国外流出を防ぐこともできる。一石二鳥ではないか。そういえば、ユエダーは敏感に危機を察知して逃げたらしい。あいつもどうせ行くところがないのだから、どこかでひっ捕まるか野垂れ死ぬかだろう。
 数ヶ月後には、トロノートとダイジュに余計なことを吹き込んだという犲目瓩猟敢紺が牢獄に送られてきた。フラドとかいう名だったか。犲目畚蠡阿慮務員の癖に、国益に反することを行う矛盾した売国奴である。更にその数週間後には、フラドの行方を追っていたとかいう別の調査員が送られてきた。更に更に、その別の調査員と接触して情報を漏らしたとかいう疑いでシュトゥルーデル君も監獄送りとなった。今に芋づる式に国民全員が実験台になるのではあるまいか。それもまた一興か。
 実験は進んだ。試作品も完成した。しかし、まだ歩兵部隊を一部隊作れるほどコストが低いわけではなかった。一台作るだけでダムが一つ作れるくらいの金が飛ぶ。これでは実用化というわけにはいくまい。というわけで、私はこれから長らくの間コスト削減との戦いをしていくことになった。実験方法も確立してきたから被験者は長持ちするようになっていたが、コスト削減に伴い安全性をある程度犠牲にせざるを得なくなるため、被験者の寿命はまた縮むことになった。
 こうして延々とコストと戦っている間に、イルフォルノと約束した5年が過ぎた。まだコストはほとんど削減できていない。だいいち桁が変わっていないのだ。私はイルフォルノに3年の延長を要請した。さすがに3年は認められなかったが、割合すぐに1年の延長が認められた。まあいい。3年というのも元々ダメもとで吹っ掛けた数字だ。
 しかし更に1年を費やしてもこれといった進展はなかった。私はもう1年の延長を懇願した。イルフォルノは渋々延長を認めた。
 思えばその時からイルフォルノは私を見限り始めていたのかもしれない。帝立研究院の予算はまず私が好きな額をとってから、残りを他の研究室が取り合うという形で決められていたが、私からその先取りの特権が剥奪された。そして、徐々に回される予算自体も削減されていくこととなった。不幸なことに、そこに被験者の不足が重なった。被験者は、そろそろ調達しないと尽きるというぐらいにまで減っていたのである。私はイルフォルノに予算の確保と被験者の調達を求めたが、向こうはまるで聞き入れようとしない。そればかりかイルフォルノまで私を恫喝するようになったのだ。「結果を出せない奴に回す金はない」と。バカな男だ。そんな近視眼的な発想しかできないから国が先細っていくのだ。兵器の開発に金と時間がかかることは軍人のお前ならよく分かるだろう。あれでは大局を見失う。
 しかし私はどんどん追い込まれていく。院長の座を下ろされ、新たな院長にはアイヒとかいう下品な若造が就任した。笑うと口の中で唾液が糸を引く汚らしい男だ。更に、私はその男の研究分野を聞いて愕然とした。あまりの怒りと驚きでまともに聞くことができなかったが、要は威力の高い爆弾らしい。爆弾! それこそこのCNHが最も馬鹿にしていた兵器ではなかったか。爆弾にできるのは破壊だけだ。歩兵ができる創造的活動は爆弾にはできない。そんな物を作ってどうしようというのか。これでは大艦巨砲主義時代と発想が一緒だ。今に重くなりすぎて国自体が沈降していくという比喩はいささか寓話的に過ぎるか。
 アイヒも憎い。イルフォルノも憎い。奴らは私の業績を全て否定し去っている。あの馬鹿どもに私の研究結果を認めさせるにはどうすればいいのか。そうだ。私の研究が優秀であるということを奴らに示してやればよい。
 私はCNHの完成を急いだ。少なくなった被験体に過酷な実験を課した。当然被験者の不足は加速度的に深刻になる。そしてあろうことか、私の忠実な助手までこの実験に異を唱えるようになった。今まで散々人を殺めてきた人間が何を言うか。お前たちはもう私と一蓮托生の運命共同体なのだ。そういう思いを込めて、私は予定を前倒ししてシュトゥルーデル君を血祭りにあげてやった。あれはいい見せしめだった。恐怖にひきつる助手どもの顔で三升はいけただろう。次に、シュトゥルーデル君の実験に異を唱えた助手2人を実験台にしてやった。そうだ。こうやって不忠の助手どもを実験台にすれば、被験者の不足という問題も解決できるし、邪魔者も排除できるし、みなも実験に精を出すようになって、一挙両得どころではないではないか。
 ところがあれ以来顔を出さなくなる連中が増えるようになった。私が信頼しているザッハ君も例外ではない。みな今更になって何に気が咎めるのか、理解に苦しむ。まあ、もうそんなことはどうでもいいのだ。実験は少人数でもできる。いや、そういうことではなくて、ついにできたのだ。試作1号機だ。アイヒが院長になってから更に3年ばかりも結局かかってしまったが、できたのだ。試作機だから金に糸目をつけずに色々な機能をつけてやった。身体能力は成人男性の平均の5倍ほどだ。視力は10.0ほどあるし、耳もコウモリ並みに利くし、嗅覚もその気になれば犬ぐらいにはなる。星の裏側からでもほとんどラグなく遠隔操作が可能だ。
 もう金も被験者もほとんど底を尽きてしまった。どうするのか。そうだ。この試作機の優秀さを世に、イルフォルノに知らしめてやればいい。そうすればイルフォルノも私がやっている研究が間違っていなかったことを再認識するだろう。どういうやり方がいいか。そうだ、皇帝を殺すというのはどうか。皇帝暗殺。これほどセンセーショナルな事件はないだろう。イルフォルノを見返すこともできるし、奴にとって邪魔な人物を消すことにもなって一石二鳥だ。そうだ。どうせなら今まで散々邪魔をしてきたというシズラーも消してやろう。
 そうと決まれば善は急げである。私は犲目瓩鯆未犬撞楪遒肇轡坤蕁爾了篥,凌淕未鮗蠅貌れた。襲撃計画はシンプルである。夜討ちだ。しかし、シズラー邸はさすがに要塞と噂されているだけあり、警固は相当に厳重で、単騎突入は厳しそうだった。私は計画を変更することにした。皇帝は夜討ちでいいだろうが、シズラーは出勤中のところを襲うとしよう。
 まずは皇帝である。皇帝の寝室は宮廷の裏側にあるので、裏から警備兵を始末しつつ宮廷に侵入して、寝首を掻くのである。暗殺は呆気ないほど簡単に成功した。警備兵は、5倍の力で背後から組み伏せて、首を締めればあっという間に、そして静かにこと切れる。広い庭も気持ち悪いほど早い匍匐前進でなんのそのだ。宮廷にたどり着いたら、後は壁をよじ登って窓をたたき割り、中に侵入するだけである。由緒ある建物だから電子的な警備システムもそこまでついていない。あとは部屋の前に立っている兵士を締めあげて、皇帝も締めあげてやれば一丁上がりである。私が「搭乗」した試作機は悠々と宮廷を引き上げていった。
 次はシズラーだ。こいつは警察を握っているだけに皇帝より難しいが、要領は同じだ。力を得たならば、やり方は単純な方がいい。犲目瓩ら、シズラーの普段の出勤経路の情報も仕入れておいた。私はその経路のほぼ全域が見渡せるビルの上に立って、軍からちょろまかしてきたロケットランチャーをシズラーの車にぶち込むだけである。このロケットランチャーも、こいつの身体能力で軍の倉庫を破って入手したものだ。一発必中。仕留めたら、こいつの身体能力でビルを渡って逃げるのだ。何せ5倍である。
 やがて、目当ての車がやってきた。3台の車が一列になっている。どれも護送車のような頑丈そうなバンである。常識的に考えれば、前後は護衛で真ん中にシズラーが乗っているのだろう。まあ、外しても3発までなら弾がある。私は、ロケットランチャーを肩に乗せて構えた。車列が信号で止まる。今だ。
 放たれた弾は真ん中のバンの横っ腹をえぐった。見事だ。こいつならロケットランチャーの重さや反動もなんのそのだし、手ぶれもしない。やはり優秀な歩兵だ。前後の車から一斉に護衛が飛び出してきた。みな予想外の事態に慌てふためいている。私は2発目の弾をセットすると、まず前の車にお見舞いしてやった。辺りで狼狽していた護衛が吹き飛ぶ。続いて後ろのバンにもドカン、だ。私はロケットランチャーをその場に残すと、立ち上がって振り返ろうとした。銃声が聞こえたと同時に、視界は真っ暗になった。

 10年前と同じである。失踪事件が頻発しているのである。
 10年前と違うところは、証拠が山のように残っているところだ。消えたのは帝立研究院の研究員や職員が6人ばかり。何日を経過しても帰ってこない彼らを心配した家人が警察に捜索願を出すという形で失踪は事件となる。単なる失踪の場合、本人が望んで姿を消している場合もあるので、最初から事件と決めてかかるわけにいかないのが厄介なところである。
 しかし、今回のシズラーには直感があった。消えているのは帝立研究院の関係者ばかりである。10年前と同じように、呪われた人さらいが行われているのではないかという直感があった。
 思えば10年前にも徴候はあったのだ。不自然な形で消える囚人と、活発に動いているふうの犲目甞位撹堯やたらと早いタイミングで犲目畫りにされる数々の失踪事件。帝立研究院に一時期運びこまれた大量の食糧。何かがある。そう確信したシズラーは伝家の宝刀「内務長官指揮権」を発動して全力で捜査に当たらせた。当然犲目瓩篦詢研究院からはいい顔はされず、有形無形の様々な妨害を受けた。保管しておいた被害者の遺品が忽然と姿を消したことがあった。鍵を握ったらしき捜査官が失踪したこともあった。真相は、いつもつかみかけたところでスルリと手から抜けていった。それでもシズラーは犲目瓩猟敢紺を抱き込んででも捜査を続けた。全ての状況証拠は帝立研究院が何らかの理由で大量の人間を必要としているということを示していた。しかし、結局有力な物的証拠は何一つ得られなかった。シズラーは、それ以上無理に踏み込むと今度は自分が略取されかねないと判断して、断腸の思いで捜査の手をひいた。
 その失踪事件が、10年越しで再び起きるようになっている。シズラーは2人目の事件が明らかになった瞬間から指揮権を発動した。やはり犲目瓩瞭阿は素早く、絶妙なタイミングで事件を犲目畫りにしてきた。犲目畫りという手段は、警察の捜査を封じられる代わりに、その事件に裏があるということをも自白してしまう両刃の剣である。シズラーは確信した。もうなりふり構わずに捜査活動を継続することにした。10年前現場で捜査を担当した刑事たちも同じ思いのようであった。みな今度こそホシを上げてやると躍起になっている。シズラーも、今度こそイルフォルノの大スキャンダルを捕まえて彼奴を追い落としてやるという気概に満ちていた。
 実際に捜査を進めてみると、今回の事件も10年前と全く同じではないことが明らかになってきた。まず、手口が粗い。10年前の事件では被害者の最後の足取りが雲のように掴めないことも少なくなく、この分では失踪したことさえ気付かれていない者も相当いるのではないかと思われたほどだったが、今度の被害者はみなはっきりしている。帝立研究院に行ったその日に消えているのである。これほど分かりやすい手掛かりはない。これはもう、隠す気がないのではないかと思われるほどである。加えて、捜査中の犲目瓩遼験欧發修譴曚俵くない。10年前であれば現場を物理的に封鎖したり、捜査員に暴力を振るったりといった禁じ手も頻繁にとってきたが、今回は積極的な妨害が一切ない。こちらも犲目畫りという決定を無視して捜査しているのであって犲目瓩らの妨害は当然予想していたが、積極的にそういう手段に出てこないのはむしろ無気味であった。犲目瓩砲呂呂辰りと迷いが感じられた。現場も犲目瓩遼鬼僂鱠ではなく迷いだと解釈して、一層強引に捜査を進めた。
 警察から上がってきた捜査報告書を眺めながら、シズラーは唸っていた。もう深夜の2時は回ろうかという時間である。捜査員たちが寝る間も惜しんで書き上げた報告書だった。
 被害者が全員帝立研究院の関係者であること。最後に目撃された場所がみな一様に帝立研究院であること。ペシャワールの研究テーマは人体実験を必要とするものであるとの証言。10年前の事件とのリンク。10年前に院長だったペシャワールは3年ほど前に解任され不遇を託っていたこと。素早く犲目畫りにされた失踪事件たち。これらの証拠をまとめると出てくる結論は一つである。ペシャワールはイルフォルノから干されて焦っていた。10年前はイルフォルノの協力を得ながら実験台の人間を調達していたが、今回はもう彼の協力を望めない以上自分で調達するしかない。そのために自分に近しくさらいやすい帝立研究院の関係者をターゲットに、彼らが帝立研究院に来た時を狙ってさらったのだ。人さらいに関しては素人の科学者がやったことだから、今回はこれだけ痕跡が残っているのだろう。
 部屋のドアをノックする者があった。シズラーが入るように言うと、執事が顔をのぞかせた。
「旦那様。夜分遅くに申し訳ありません。お客様です」
「客? こんな時間にか? 帰せ。非常識にもほどがある」
「私も後日また来ていただくよう申し上げたのですが、『俺の名前を言えば絶対に会ってくれる』と言って譲りませんで。旦那様がまだ起きていらっしゃるならお取次だけはしようかと」
「誰だ?」
「コマンダー殿と仰っております」
 コマンダー!
 コマンダーとは、犲目瓩亮鶻,任△襦犲目瓩了蔑瓩暴△い真祐屬蓮誰であろうとその個人名を捨ててコマンダーの名を襲うことになる。今回来たコマンダーは10代目とかで、確か10年前から変わらない長期政権のはずだ。その敵の首魁が、のこのことこちらの本拠地にやってくるとはどういう料簡であろうか。
「分かった。通せ」
 シズラーは苦り切った顔で言い捨てた。
 やがて執事が連れてきたのは、筋骨隆々の体の上にピチピチの黒い衣装をまとった大男だった。筋肉が衣装に浮き出ている。黒の衣装は頭まで覆っており、目の部分にはゴーグルがついている。巷間の語るところによれば、コマンダーは誰であろうとこのような恰好をしなければならないらしい。
 執事が部屋を出るのを確認すると、コマンダーは肩を揺らしながらしゃべり始めた。
「どうも。夜分遅くに申し訳ありません」
「なんのつもりだ? 私をさらいにでも来たか?」
「この家が要塞だってことはみな知ってますよ。多分、私の命を捨てる覚悟をしないとあなたの生け捕りはできないでしょうね」
 実際シズラーは机の下の隠しボタンに手をかけていた。これを押すとコマンダーはたちどころに蜂の巣にされる。
「時間がない。手短に行きましょう」
 コマンダーはまた両肩を波打たせた。これがこの男の癖らしい。
「長官は、今回の失踪事件のあらましをもうご存知でしょう。それでですね、先日、ペシャワールが宮廷の地図と、あなたの私邸の地図と、あなたの出勤経路を書いた図を寄越せと言ってきたんですよ。我々に」
「ペシャワールが何を寄越せだって? もう一回言ってくれ」
「宮廷の地図と、ここの邸の地図と、あなたの出勤経路を書いた図です」
 突如としてシズラーの脳髄に電流が走った。コマンダーはその顔を見ながら笑ったような表情をしたが、黒い布に包まれた顔は表情の判別がしづらい。
「もうお分かりのようですね。家や出勤の道中っていうのは暗殺の花道でしてね。あの男は、陛下とあなたを暗殺しようとしています」
「ペシャワールが? 一科学者が?」
「ペシャワールの研究テーマというのは、そのようなことも可能にする兵器なのですよ。申し訳ないが、今はそれについて話している時間はない」
「君は、我々の敵じゃないのかね? なぜそんなことを教えてくれるのだ」
「おや。とんだ誤解ですな。犲目瓩呂い弔世辰胴颪里燭瓩貌阿だけです。今回は、私がこれ以上イルフォルノやペシャワールに味方するのは国のためにならないと判断しただけです」
「調子がいいな」
「時流に敏いと言ってください。長官ならお気づきでしょう。ペシャワールが実験用の被験体を大量に必要としていたこと。その調達と尻拭いは主にイルフォルノの軍と我々犲目瓩やっていたこと」
「ああ」
「ところがペシャワール最近イルフォルノに愛想を尽かされ始めて、独自に荒っぽく実験台を調達するようになったのです。あそこまでやられると、もう我々でも尻拭いはしきれないのですよ」
「要するに、ペシャワールの暴走に犲目瓩呂箸Δ箸Πα曚鮨圓したから、今度は我々の味方につきたいということか」
「そう身も蓋もない言い方をされると忸怩たるものがありますが、まあそういうことです」
 忸怩という言葉を使いながらコマンダーの語り口には微塵もそのようなものが感じられない。
「そして、彼はおそらく自らの技術の有用さを示すために、自らの技術で皇帝を暗殺しようとしています」
「なるほどな。とんでもない奴だ。決行はいつだ」
「今日でしょうねえ」
「なに?」
 シズラーは驚いて椅子から飛び上がった。
「お前たちは我々に寝返るのだろう? ならなぜペシャワールを止めない? いやそもそも、なぜペシャワールに宮廷の地図をのこのこと渡したのだ。陛下は我々の味方だぞ」
「そこですよ。長官」
 コマンダーはまた両肩を素早く波打たせた。
「どうせイルフォルノを追い落とすなら、皇帝弑逆の大罪も付いた方がインパクトがあるでしょう。それに、イルフォルノを失脚させてゆくゆくは長官がこの国の首領になったとき、帝室があると何かと邪魔でしょう」
 シズラーの頭の中はどす黒い煙で真っ黒になった。この男は、ペシャワールに敢えて皇帝を暗殺させて、イルフォルノにその罪を着せようとしているのか。
「まあ、我々も散々長官の邪魔をしてきましたからね。手ぶらでこちらの陣営につけていただけるとも思っていません。これは我々からのささやかな手土産だと思ってください」
 シズラーの頭の中は依然として黒い雲に覆われていた。シズラーはコマンダーの目を見ようとしたが、分厚いゴーグルに隠された両目の様子は全くうかがい知ることができない。
「あ、あと、ペシャワールはあなたも暗殺する気です。明日からは当分出勤しない方がいいですよ。まあ、多分この要塞にこもっていれば大丈夫でしょう」
 シズラーはコマンダーの言葉を頭に入れるために、必死に頭の中の雲を追い払った。
「分かった。明日は囮を出そう」
「囮ですか? なるほど。それはいいですね。ペシャワールをペテンにかけることができる」
「そうだな。付近一帯を警戒させてみよう。身柄を確保できるかもしれん」
「気をつけてくださいよ。相手は一人とはいえ化け物みたいな腕力を持ってると思いますから」
「そうか。なら特務部隊を出そう。警告なしで発砲だ」
「あ、そうだ。言い忘れてた」
「なんだ?」
「宮廷はいつもより警備を緩やかにして侵入しやすくしてあります。それから陛下のお部屋には超高性能の隠しカメラを仕掛けておくんで、下手人の姿もバッチリですよ」
 そう言い残して、コマンダーは両肩を波打たせながら部屋を出ていった。

 両足の親指を曲げた状態で、舌で口蓋を素早く前後に3回撫でる。何も起きない。アイダホは両足の親指を更に力いっぱい折り曲げて、もっと素早く舌を動かした。依然として反応はない。アイダホは舌を動かす速度を限界まで速めていった。何度口蓋を往復させたか分からなくなったぐらいのときに、「ブシュー」と音がして視界がぼやけていった。
 徐々に視力が回復していく。アイダホは腕を動かした、ノブシでなくて、自分の腕が動くのが分かる。アイダホはかぶりものをとると、コックピットの中の景色が視界に広がった。レバーを倒す。ハッチがばね仕掛けのように勢いよく開く。外には見慣れた顔が3つあった。ヘルメットをかぶったゴ=ディン・ディエム、青い長髪のリングバード、そして、公主。
 公主がノブシに向かって駆けだして来た。ゴ=ディン・ディエムとリングバードは後ろでその様子を微笑ましそうに眺めている。
 アイダホは座席から立ち上がり、コックピットの縁までにじり寄った。眼下ではノブシの足元で公主がぴょんぴょんととび跳ねている。
「アイダホ! アイダホ!」
 ゴ=ディン・ディエムとリングバードは一瞬向き合って目を合わせると、すぐに前方に向き直って微笑ましそうな表情のままノブシに向かって歩いてきた。
 ゴ=ディン・ディエムが、歩きながら大きな声を出した。
「久方ぶりだな! ポテト!」
 アイダホは面倒くさそうに上からゴ=ディン・ディエムのヘルメットを睥睨した。
「ポテト!」
 ゴ=ディン・ディエムはまた呼びかけた。
「なんだ!」
 アイダホもしびれを切らしたように返事をした。
「お前、文化祭の喩え話って知ってるか?」
 アイダホはまたゴ=ディン・ディエムのヘルメットを見た。次に、視線を右にずらしてリングバードの顔を見た。リングバードの顔は嘲笑を隠そうともしていない。
 アイダホは視線を更にずらして頭上の真っ白な曇り空を見つめた。眼下を覗きこむと、公主はノブシの足の甲の上に立って目を輝かせている。
「ゴ=ディン・ディエム!」
「なんだ!」
「脚立ないか?」

 隊員の一人が持ってきた梯子を使って下まで降りると、公主がアイダホの胸にすがりついてきた。
「アイダホ! アイダホ!」
 アイダホが対処に困っていると、ゴ=ディン・ディエムとリングバードの2人はもうすぐ近くまで来ていた。
「よう。生きてたのか」
「お前もこんなところで何をやってるんだ」
「こんなところとはご挨拶だな。長い間没交渉だった友人と大いに久闊を叙さんという私の気持ちに水を差すつもりか」
「またそうやって無理に高級語彙を使おうとして」
 リングバードが横から口を挟んだ。
「いや、純粋な疑問なのだが、何で犲目瓩陵楡所にいたお前が国境警備隊で働いてるんだ」
 アイダホは、既に公主を彼女のすがりつくままに任せていた。
「なに…色々あったのさ」
 ゴ=ディン・ディエムは俯いた。アイダホはそれ以上聞く気も起きなかった。
 アイダホはなおもすがりつこうとする公主を無理やり引き剥がすと、ゴ=ディン・ディエムの案内するままに国境警備隊官舎の一室に通された。先ほど公主が事情聴取を受けていた一室だった。ノブシは、アイダホが着地した場所に突っ立ったままコックピットのハッチも開けっぱなしで放置された。
「さて」
 ゴ=ディン・ディエムがヘルメットに右手を当てながらしゃべり始めた。
「ポテト。お嬢さんから今までのあらましはだいたい聞いた。お前もここに来たからには我々のことを聞いてるんだろう」
「いや、別にそんなに聞いてはいないが」
「そうか。まあいい。ところで、あのロボットは何だ」
 ゴ=ディン・ディエムが下ろしたブラインドの間から外に直立しているノブシを睨みつけた。
「あれは、ノブシと言うらしい。ユエダー博士から借りたものだ」
「ほう。ユエダー博士から。そのロボットに乗って、お前はここに何をしに来た。立派な威力国境突破だぞ」
「公主を助けに来た」
「そうか。もう帰るのか?」
「そのつもりだが」
「ううむ。これはお願いという形になるが、もうちょっとここにいてはくれまいか」
「なぜだ」
「イルフォルノは知ってるだろう」
「ああ。そいつが先代の失踪の黒幕であろうということも知っている」
「なら話は早い。我々国境警備隊がイルフォルノに敵対するシズラー一派に属するということも知っているな」
「ああ」
「シズラー一派は、今回の一件を利用してイルフォルノ一派を国政から駆逐しようとしているのだ」
「俺の預かり知らぬところだな」
「話は最後まで聞け。知っての通り、イルフォルノは軍をおさえている。そのイルフォルノが国軍を使って本格的に対抗してきた場合、シズラー長官にはあまり有効な対抗策がないのだ。そこが今回の策謀の一番のネックだった。もっとも警察にほとんど軍隊のような特殊部隊を作ったり、我々国境警備隊に国境警備には余るほどの武力を持たせたりということはやっているが」
「武力?」
「ああ。シズラー長官は、首都からほど遠いこのファルージャとの国境付近で、国境警備隊と銘打って密かにイルフォルノと対抗するための武力を作り上げているのだ。最近ここの本部がクロスポイントに移ったのは、基地用の土地を広く取ってしっかりとした軍を構築するためだ」
 シズラーはこの場所で自らの私兵を作り上げていたのか。なるほどネブカに軍人が多くなるわけだ。この辺でのきな臭い動きをファルージャ政府は警戒したに違いない。ところがそれは対ファルージャの軍ではなくて、対イルフォルノの軍だったのだ。
「なるほど。色々合点がいった。それで?」
「もっとも、イルフォルノがおさえているのは流石に国軍だ。我々だけでは対処しきれる相手ではない。そこでシズラー長官が考え付いたのが情報戦だ。イルフォルノのこれまでの犯罪行為を明らかにして、軍人の忠誠心に亀裂を入れるのだ」
「その犯罪行為が人さらいだというのか」
「そうだ。軍人にはまだ律義なのが多いからな。これは利くぞ。こちらに寝返るのも相当数出てくるだろうな。そこまでやってくれなくても、イルフォルノにつかずに中立を守ってくれるだけでも万々歳だ」
 アイダホはゴ=ディン・ディエムのヘルメットを見つめた。相変わらず表情が読めない。
「それで?」
「人さらいはイルフォルノを吊るしあげるのに恰好の材料だ。そして、お嬢さん、あなたはその生き証人なのです。しかもうら若き乙女と来ている。大衆を激情させるのにこれ以上の好条件はない」
 ゴ=ディン・ディエムはいきなり公主に話を振った。公主はキョトンとした表情でゴ=ディン・ディエムをまじまじと見ている。
「待て」
 アイダホが強い語調で声を発した。
「お前らの内戦のために、公主を利用しようというのか」
「また身も蓋もない言い方をするな。まあ、その通りなのだが。イルフォルノの犯罪行為の餌食となった悲劇のヒロイン、という形で舞台に躍り出れば、奴の評判や信用はがた落ちだ」
「そんな勝手なことを…」
「アイダホ!」
 アイダホが椅子から跳ね上がるように立ち上がると、隣に座っていた公主は強い口調でアイダホの動きを制止した。
「まあ、座れ。これは単なる要請であって、命令ではない。いやなら帰ってもらって結構だ。ただし、協力してくれるというのであれば君たちは我々と一緒に帝都まで赴いてもらうことになる。そうすれば、お父上とも会えるかもしれん」
 アイダホがギクリとしてゴ=ディン・ディエムを睨みつけた。公主は泰然と構えているが、さっきよりも気持ち身を乗り出しているようにも見える。
「あるいはあのノブシとかいうロボットに我々の戦力の一翼を担ってもらうことも考えている。ユエダー博士が作ったからには戦えるんだろう」
 ゴ=ディン・ディエムは顎で窓の外を指した。
「ま、待て」
 アイダホがためらいがちに口を出した。
「なんだアイダホ?」
 ゴ=ディン・ディエムが首をかしげながらアイダホの目を食い入るように見つめた。
「行きます」
 アイダホを横目に、公主が力強く声を発した。
「行きます。協力させてください。いえ、協力を仰ぐのはこちらかもしれません」
「助かります」
「公主!」
「アイダホ! せっかくつかまえたお父様の尻尾ですよ!」
「公主? あなたは聞いているんですか? 先代がなぜさらわれたか?」
「いえ、聞いていません。正直今までの話もよく分かっていません。でも、私は父上にもう一度会いたい。これだけは確かです」
「そういうことだ。お前も主人の意向は無碍にできまい」
「くっ…」
 アイダホは観念したように俯くと静かにまた席についた。やがてゴ=ディン・ディエムは、アイダホがユエダー博士から聞いたような長い話を公主にゆっくりと語り始めた。

 シズラーの邸内は慌ただしかった。警察関係者らしき人間がひっきりなしに出入りし、シズラーはずっとやってきた人間と話をしたり電話で何かしらの指示を出したりしていた。
 コマンダーの言う通り、果たして皇帝は暗殺され、シズラーが用意した囮のバンも襲撃された。付近のビル群を警戒していた警察特務部隊の隊員たちは、色めき立ちながらこう報告してきた。
「ええ。もう。生け捕りしようとするととり逃してしまうだろうから、最初から殺すつもりでいけというご指示だったじゃないですか。だから、そいつを見つけた一部隊も、そいつが寝そべってロケットランチャーで何かしらに狙いをつけているところを、背後からいきなり発砲したんです。頭に命中したから、いきなりこと切れましたね。意外とあっけなかったですよ。そいつは軍服らしきものを着て軍帽のようなものをかぶっていましたが、体を転がして仰向けにしてみるとぞっとしましたね。顔は一面真っ白で、毛が一切ない。そう、顔面をパックしている女性みたいな見た目なんですよ。まあでも、我々もそういうものに一々物怖じして入られないので、車でその白い悪魔を科警研まで運びました。ちゃんと人間並みの重さがあるんですな。あいつは」
 そして、それを調べた科警研の報告を手短にまとめると以下のようになる。
「軍服と軍帽を脱がせると、全身が顔と同じで真っ白でした。材質は、かなり珍しいものです。人工筋肉と人工皮膚です。特務部隊が撃ったという銃弾は後頭部から入って眉間へと貫通していますね。視力があったとすれば、そのときに失われているでしょう」
 科警研が残していった淡白な報告書をシズラーが眺めていると、電話が突如としてけたたましく鳴り響いた。シズラーはしばらく電話が鳴るに任せて一呼吸置くと、ガバと受話器を取り上げた。
「シズラーだ」
「長官ですか。電波庁のシメクシュと申します」
 シメクシュは、興奮したような戸惑ったような、どこかつかみどころのない声色だった。
「なんだ」
「は、これは長官に申し上げたものかどうか、ずっと迷っていたのですが、密告用回線に数日前から断続的に通信が入っておりまして」
「密告用回線?」
 そうだ。思い出した。電波庁をシズラーがおさえたときに、サービスというか冗談で、自分への密告用回線なるものを作ってもらったのだった。とはいっても予想通り益体もない讒言や中傷しか入らず、シズラーも開設以来すっかりと忘れていたのだった。
「はい。普段なら心ない者の嘘偽りとして切って捨てるのですが、今回はその内容があまりに真に迫っているものでして、しかも断続的に何度も入るものですから、一応ご報告だけはしておこうかと思いまして」
「どういう内容だ?」
「多岐にわたるのですが、簡単にまとめると、自分はネルソン・テムズという元犲目瓩猟敢紺である、今帝立研究院の地下に捕えられている、帝立研究院の地下ではおそろしい人体実験が行われている、私は研究員であるザッハと共に脱走を企てている、シズラー殿のお力を借りたい、とのことです」
 シメクシュの説明を聞きながら、シズラーの手はワナワナと震えはじめていた。
「シメクシュ君。それは確かかね?」
 シズラーは声の上ずりをおさえることができなかった。
「はい。何なら録音したものをお届けいたしますが」
「それは是非頼む。ええと、こちらからそのネルソン君だったか、に連絡をとることは可能か?」
「向こうが受信機を備えていれば可能でしょう」
「分かった。ダメ元でやってみよう。技師を一人こっちに寄越してくれないか」
「承知しました。ご報告が無駄でなかったようで良かったです」
 シメクシュの声色には安堵が混じっていた。
「ああ。いいことを言ってくれた」
 シズラーが受話器を置くと、ドアをバタンと開けてコマンダーが入ってきた。
「なんだ」
「連れないですねえ。陛下の部屋に仕掛けておいた防犯カメラの映像を持ってきてあげたのに」
「なに? まあいい。見せてくれ」
 部屋の中にデッキにコマンダーがテープをセットした。
 部屋の中は真っ黒だった。画面の右上の隅の辺りにある窓が割れたかと思うと、軍服と軍帽を身にまとった男が部屋の中に侵入し、仰向けに寝ている皇帝の首を思い切りしめた後、窓の外へひらりと飛び出していった。
「完璧だ」
 シズラーは映像を満足そうに眺めながら独りごちた。
「よく撮れてるでしょう。これで、あのビルの上で拾った人工筋肉くんと同一犯だという証明ができますね」
「ああ。そうだ。問題は操縦者がペシャワールであるということをどうやって証明するかだが…」
「それは簡単ですよ。人工筋肉を研究しているのは、この国では唯一帝立研究院のペシャワール博士のみです。この一事のみで充分でしょう」
「そうだな。それで充分だ」
「ふふ。では私はこれで」
「待て」
「なんです?」
「どうしてお前が来た」
「ああ。確かに説明する必要があるでしょうね。このビデオは、事件が発覚する前に犲目瓩諒で回収したもんです。警察がゼロから捜査して見つけるとなると時間がかかりすぎるでしょうからね」
「このビデオを犲目瓩持ってるのはいいとしても、何でお前が直々に来るんだ」
「それは、私の趣味ですよ」
 コマンダーは部屋の扉を開け放った。外ではシズラーの部下たちが慌ただしく駆け回っていた。
「見てくださいよ。この、大きなイベントの本番まで時間的にあと僅かだから、あたふたしている空気っていうのが、私はたまらなく好きなんです。だから口実を設けて、少しでもそのおこぼれにあずかろうと思ってね」
「大きなイベントねえ。お祭やなんかとは訳が違うんだぞ」
「歴史に残りますよ。確実に」
 コマンダーはそう言い残すと、堂々と闊歩しながら部屋を出ていった。
 シズラーはコマンダーの後姿が視界から消えるのを確認すると、受話器をとった。相手は副総監のケスケニーである。
「は、長官」
 ケスケニーも興奮をおさえ切れていないような声色だった。
 シズラーは、満を持して指示を出した。
「逮捕状をとれ。イルフォルノとペシャワール以下、15名だ」
「罪名は?」
「殺人」

「ごめんなさいねアイダホ。私、あなたのことを誤解してたわ」
「聞いたのですか?」
「ええ。ゴ=ディン・ディエムさんから」
「そうですか…」
「せっかく隠してたのにごめんなさいね。でも、あの人から聞いたことは誰にも話すつもりはないから」
「………」
 アイダホは黙って手すりに肘をつき、外のノブシを眺めているふうだった。公主も真似をして手すりから身を乗り出した。
「そういえば、あの人のヘルメットは何なの? あんなんで公務員が務まるの?」
「あれですか? いや、気が付いたらああいう恰好になってたんで、私もよく知らないのですが」
「目ですよ」
 半開きだった窓をガラリと開けて、背後からゴ=ディン・ディエムとリングバードの2人がベランダに入ってきた。公主はギクリとして振り向いた。
「あいやお嬢さん。そんなまずそうなお顔をしなくても結構です。このヘルメットが何かが気になるのは当然でしょう」
「申し訳ありません。無神経で」
「いえいえ。なに、私は昔訓練中に目をやられましてね。視力をほとんど失ったんです。ところがこの国には幸いなことにトロノートという博士がいた。博士は自分が作った人工眼の被験者を探してました。そこで私が自ら実験台として志願したというわけです」
「まあ、そんな事情が?」
「ええ。幸い実験は成功しまして、今は物を見るのになんの不自由もございません。博士はいなくなってしまったので、こいつの手入れは自分でやっていますが」
 ゴ=ディン・ディエムは人差し指で例のヘルメットをちょんちょんとつついた。
「それで、なんの用だ。我々の話を聞きつけてやってきたわけでもあるまい」
 まだ警戒を解いていない様子のアイダホがボソリと呟いた。
「そうそう。出動だ。約束通りお2人にもご足労願いましょう」
「目的地は?」
「イルフォルノの本拠地、ガビザンです」

 夜になって、シズラーの私邸には特務部隊の指揮者たちが集まっていた。明日の作戦行動のブリーフィングとシズラーへの説明である。隊長のシャスタは淡々と明日の作戦を説明している。
「第一部隊、外務省に入り、外務長官スレーゼンほか1名を逮捕します。
 第二部隊は財務省です。逮捕するのは財務長官テシウス1名です。
 第三部隊・第四部隊・第五部隊はそろって帝立研究院に入ります。院長のアイヒ及び主任研究員のペシャワールが主要な目標です」
「ネルソンとの通信はとれたのか?」
 シズラーが口を挟んだ。
「はい。決行の日時を伝えたところ、『こちらもそれに合わせて行動を起こす』との返事が返ってきました」
 技師が事務的な口調で答えた。
「よし。続けてくれ」
「はっ。ええ、最後に第六部隊から第十部隊までが軍務省に突入して、イルフォルノ以下7名の身柄を拘束します」
「結構結構」
「これらの地上部隊に加えて、情報戦としてですが、この『イルフォルノ・ペシャワール十九箇条の大罪』と題したビラを、特務部隊のヘリ部隊が帝室空挺団の協力も得ながら撒きます。特に官庁街と帝立研究院周辺で重点的にですね。このビラまきは、国土に散らばっている軍の基地の上空でも行うことになっています。これに加えて、インターネット上にもイルフォルノ罪状を数え上げた動画を、例の、陛下のお部屋に仕掛けられていたという防犯カメラの映像も含めて流します」
「大事大事」
 シズラーは仕上がったビラを満足げに眺めた。「一、皇帝弑逆」から始まって、ほとんどでっちあげのようなものも含めてイルフォルノの罪状が数え上げられていた。
「最後の仕上げとして、長官が国営放送にて今回の事態についての会見を行うということですね」
「そうだ」
 シズラーはまだビラをながめながら生返事を返した。
「長官」
 シャスタが困ったような声を上げた。
「むっ」
「作戦行動は以上ですが」
「結構だ。あ、ゴ=ディン・ディエムは呼んであるだろうな?」
「抜かりはありません。呼んであります」
「ようし」
「長官、何かお言葉があれば」
「むむっ」
 シズラーはビラを机の上においてしばらく考えた後に、早口で語り始めた。
「今回の逮捕劇は、むろんシズラーとペシャワールによる陛下の暗殺という大罪に端を発したものであるが、私はこの機会に彼らの一派を一掃しようと考えている。そのために外務長官や財務長官といった直接には関係のない連中もリストには入っているのだ。彼らは長い間国の中枢に居続け、すっかり腐敗してしまった。これは、この国の病巣を外科的に取り除く正義の戦いだ。合言葉は?」
 シズラーの振りに呼応して、部屋の中にいた全員が一斉に叫んだ。
「誅奸討賊! 誅奸討賊! 誅奸討賊!」
「よし。決行は?」
「明日1000」

 翌日、街は全体に靄がかかったかのように静まり返っていた。官庁街の静寂は、「誅奸討賊!」と叫びつつ目的地へと急ぐ特務部隊の一団が、綺麗に足並みをそろえて行進しながら切り裂いていった。頭上では、底面に帝室の家紋があしらわれた警察のヘリや帝室空挺団の黒い戦艦が、茶色いわら半紙に刷られたビラを盛んにまき散らしていた。交差点のビルにある巨大なビジョンでは、イルフォルノを指弾するペシャワールの演説が延々と流されている。
 シズラーのもとには、報告が続々と入ってきた。
「外務省に突入します!」
「外務長官スレーゼンの身柄を確保!」
「財務省に吶喊!」
「財務長官テシウスを逮捕!」
「帝立研究院、目に物見せてくれるわ!」
「院長アイヒは俺がひっ捕らえたぞ!」
「ペシャワールが逃げたぞ! 誰か追え!」
「イルフォルノはどこだあ!」
 任務が進み隊員たちの興奮も昂進する中で、報告はどんどん怒号じみていった。シズラーに分かったのは、一番肝心のペシャワールとイルフォルノには揃って逃げられたということだった。

 イルフォルノが逃げたのは、彼の本拠地、ガビザンの地であった。ガビザンにイルフォルノは広大な私有地を抱えているほか、ここにはヌエバ最大の陸軍基地があり、イルフォルノはガビザン基地の兵士であればほとんど私兵のように扱えると言われていた。
 シズラーによる今回の蜂起を敏感に察知したイルフォルノは、軍務省の手勢を連れて一目散にガビザンへと逃げだしていた。イルフォルノはシズラーの動きに対抗するために各地の軍に召集を呼び掛けていたが、動きは鈍かった。ここは、シズラーが仕掛けた情報戦が奏功した形である。イルフォルノが国軍を私兵のように扱えるのは、彼らにイルフォルノに対する忠誠心を徹底的に植え付けたからであるが、彼らは国軍である以上国家と帝室に対する忠誠心も非常に篤いものを持っていた。そのイルフォルノが皇帝を弑したとなると、忠誠を尽くすべきイルフォルノと帝室の双方が相争っていることになるのである。多くの軍人はこのためにモラルジレンマに陥り、事態の静観を決め込んだ。なかにはシズラーの主張を真なるものと信じて積極的にシズラー一派につく軍人もいたが、大部分は日和見に徹した。シズラーからしてみれば、イルフォルノにつかないだけでもありがたかった。
 シズラーはイルフォルノを追った。彼はコマンダーと共に警察の特務部隊と犲目瓩遼苗吃隊を引き連れて、ガビザンの南、フモトの地に陣取った。フモトからであればイルフォルノが立てこもるガビザン陸軍基地はもう目と鼻の先にあった。シズラーは、その地からイルフォルノに向かって呼びかけた。
「長官。イルフォルノ長官。抵抗はやめて素直に投降しなさい。これ以上の見苦しい抵抗は恥の上塗りになるだけですぞ」
「これはクーデターだ! どういうつもりだ! 私は非法・無道・不正義には断固として対抗するぞ」
「何を言う! クーデターはお前の方だろう。陛下を手にかけておいてよくもそのような口が聞けたものだな!」
「………」
 それきりイルフォルノからの反応はなかった。シズラーはそれから呼びかけを断続的に続けたが、イルフォルノが答えたのはその一回きりだった。それ以降ガビザン基地は、海底の二枚貝のように押し黙ってしまった。
「まずいですね。これは」
 基地を眺めながらコマンダーが呟いた。
「うむ。まずい」
 シズラーも渋い顔で応答する。
「敵の狙いは、持久戦でしょう。となると敵もこちらの情報戦に対抗しているはずです。今のまんまにらみ合いを続けているのであれば、今は日和見を決め込んでいる各地の軍がイルフォルノに一斉につくという事態にもなりかねない」
「見立てが甘かったな。イルフォルノに逃げられたのと、思ったよりこちらにつく軍人が少なかったのと、ガビザン基地に思ったより残ったのと」
「まあ、そんなこと言っても始まりますまい。早めに突入することですな」
「突入? こちらにいるのは警察の特務部隊と犲目瓩遼苗吃隊だぞ。武器を扱ったことがあるとはいえ、本格的な戦争はしたことがない連中だ。相手は本職の軍人だぞ。基地になんか攻め込んだら全滅しかねん」
「だから私も例の国境警備軍が来るまでは待つと言っています。機を逸しなければよいですが」
 シズラーは、両肩を蛇のようにうねらせているコマンダーとガビザン基地とを、交互に見比べた。
「そういえば、ペシャワールはどうなりました?」
 コマンダーが突然肩の動きを止めて口を開いた。
「ああ。多分あの基地にいるんじゃないかという見立てだ」
「例の、帝立研究院で見つかった開かずの間にいるという可能性は?」
「隔壁が厚さ10mぐらいはありそうでなあ。破るのには時間がかかるそうだ。ただ、設計図を見る限りではあそこは袋小路らしいから、あんなところに隠れるとも思えんが。ペシャワールか誰かが何かを隠すためにあの隔壁を下ろしたのは確実なんだがな」
「ふふん」
 せせら笑ったコマンダーのゴーグルが鈍く光った。

「これは正義の戦いだ! 帝室に仇なす逆賊イルフォルノに天誅を!!」
 国営放送はずっと蜂起後のシズラーの演説を流し続けている。ゴ=ディン・ディエムは、力強く演台を叩くシズラーを尻目に、リングバードに声をかけた。
「なあ、リングバード」
「なんです?」
「ちょっと考えたんだ」
「何の話ですか」
「連続する2個以上の正整数の和で表せない正整数の条件をだ」
「暇ですね。あたなも」
「最小は1+2で3だ。1と2は表せない。4も考えてみると表せない。これがだ、8も表せないのだ」
「そうなると16が表せるかどうかが気になりますね」
「そうだろう。調べてみたら表せなかった。そして32もなんと表せなかった」
「本当ですか? そして間は本当に全部表せるんですか?」
「5は2+3だろ。6は1+2+3だ。7は3+4だ。8は無理で、9は2+3+4だ。10は1+2+3+4だ。11は5+6で、12は3+4+5。13が6+7、14が2+3+4+5、15が4+5+6だ。別に奇数は全部連続する2個の整数の和で表せるのだが」
「間はいいですよ。16や32は本当に表せないんですか?」
「ちょっと待ってろ」
「あ…」
「どうした」
「レーダーを見てください」
 ゴ=ディン・ディエムがレーダーを見上げると、ガビザン基地から何かが盛んに動くのが分かった。
「どういうことかな…?」
 ゴ=ディン・ディエムが彼の顔で唯一露出している顎を撫でながら声を出す。
「我々の接近に勘付いたイルフォルノが、奇襲を仕掛けたんじゃないでしょうか」
「なるほど。イルフォルノはずっと基地にたてこもって友軍を待つ戦法をとっているという見立てだったからな。そういうときに敢えて基地を打って出てシズラー長官の首を獲りにいく戦法をとるのは、裏をかくための発想としては及第点だろうな」
「落ち着き過ぎですよ。数ではシズラー長官の方が勝ってるとはいえ、職業軍人と軍人崩れの戦いですよ。それに、ペシャワールの得体の知れない新兵器も出てくるかも知れません。ヘタを打つ可能性は大いにあります」
 ゴ=ディン・ディエムはまたレーダーに一瞥をくれた。確かにレーダーの真ん中辺りを異様に元気そうに飛び回っている何かがいた。
「しょうがねえなあ」
 ゴ=ディン・ディエムはめんどうくさそうに操作盤からニョロリと伸びるマイクを手にとった。
「ポテト? 聞こえてるか?」
 モニターにはCNHに身を委ねたアイダホの姿が表示された。コックピットのかぶり物をすでにかぶっているため、表情は見えない。
「聞こえてるぞ」
「一足先に行っておくれ。イルフォルノが乾坤一擲の大勝負に打って出た」
「突撃したのか?」
「そうだ。レーダーを見ると異常に素早くぴょんぴょん飛び跳ねているのもいる。それは多分ペシャワールの何かだろう」
「分かった」
 アイダホはそれだけ言うとすぐさま通信を切った。ゴ=ディン・ディエムが乗っている飛行空母がわずかに揺れ、モニター脇から黒い塊がものすごい速度で空母を置き去りにしていった。
「さて…」
 ゴ=ディン・ディエムはマイクから手を離すと、姿勢を正して再びレーダーを眺めた。もう指呼の間にある戦場では、すでに友軍と敵軍が入り乱れてわやくちゃになっている。ゴ=ディン・ディエムは立ち上がると、襟を正して呼吸を整えた。
「ディンディンディンディーン。さて皆さんお待ちかね。ゴ=ディン・ディエムの登場です」
 リングバードは見るに堪えなくなって眉をひそめながら目を反らした。「誰に向かって言っているんですか」という台詞が喉元まで出てきたが、すんでのところで飲み込んだ。
「拍手が足りんぞオーディエンス!」
 ゴ=ディン・ディエムはリングバードの反応を期待しているのか背中を震わせながら両手を振るっていたが、我慢しきれなくなって右手をモニターに向かって振り上げた。
「はい! 横っ腹からドーーーーーン!」
 飛行空母が急加速を始めたために、ゴ=ディン・ディエムは前につんのめった。

「アンノウン、来ます」
「分かっている!」
 戦場を一心不乱に駆け抜けてくるのは、どう見てもアニメに出てくるようなロボットだった。近付くにつれ、相当に大きなものであることが分かってくる。胸にはライオンだからトラだかの顔があしらわれているのもアニメのロボットらしい。
 ロボットは真っ直ぐにシズラーとコマンダーのいるフモトの本陣を目指していた。
「なるほど。あれがペシャワール博士の兵器でしょうねえ」
 手に冷や汗を握っているシズラーとは対照的に、コマンダーは落ち着き払っている。
「なぜ分かる?」
「あんなものを作るのはペシャワール博士しかいない、といいたいところですが、おそらく亡命したユエダー博士が置いてったものを自分なりに改造したのでしょう。確か、ユエダー博士が作ったものの中にああいうトラをあしらったロボットがあったはず」
「そうか。それで、どうするべきだ?」
 ロボットの足音はどんどん近くなっていた。
「三十六計逃げるにしかず。くっくっく」
 そうは言いつつもコマンダーには全くその場を動こうとする気配がない。シズラーも茫然としてロボットの挙動を注視していると、ロボットはフモトの本陣目がけて大きくジャンプした。その時、右斜め上から、黒い大きな塊がロボット目がけて一直線に激突した。ノブシだった。
 ノブシがそのままトラをあしらったロボットを巻き込んで地面に激突した。砂埃が大きく上がった。やがて砂埃が落ち着いて視界が開けると、片膝をついて着地したノブシと、首元に懐中電灯のような光線刃が付き立ちぴくぴくと体を痙攣させながら倒れているトラロボットの姿がそこにはあった。ノブシが立ち上がって主戦場の方へ向き直ると、脇から突撃したゴ=ディン・ディエムの一軍のために、ひどい乱戦が展開されていた。

六 エピローグ


「イルフォルノは?」
「自決した模様です。基地から死体が発見されました」
「そうか。ペシャワールは?」
「例のトラのロボットのコックピットを暴いたところ、中から死体が発見されました。全身打撲によるショック死ですね」
「ほう。中でそのまま死んだのか。CNHにつながってたんだ。せめて痛みを感じることなく死ねたのが幸運だったんじゃないか。あの悪魔にしては」
「あ、長官。それからもう一つ報告がありまして」
「なんだ?」
「例の、帝立研究院の地下の隔壁なんですが、まだまだ破るのに時間がかかりそうです」
「なんだ。破れたんじゃないのか。ノブシにも手伝ってもらってるんだろう」
「そうなんですが、数日のスパンで見ていただかないと無理ですね。なんせ硬くて」
「隔壁を上げるのは無理なのか?」
「研究員に話を聞いてみましたが、どうも急ごしらえのシステムらしくて、閉じるシステムはあってもいったん閉じたものをまた開く仕組みはないそうです」
「なんだそれは。じゃあ上から穴をあけるのは無理なのか?」
「どういうことですか?」
「隔壁の先のスペースの真上から穴を掘るんだ」
「ああ。どうなんでしょうね。確か、真上に研究棟があるから、機材を設置するにはその研究棟をまるまるどけないと無理だと現場監督が言っていたような」
「どけることを許可しよう。上からで済むなら上から言ってくれ」
「分かりました。伝えておきます」
「ノブシも、せっかく手伝ってもらってるんだからもっとうまく使ってみてくれよ」
「はい…」

「いやあネルソン君。また君とこうして再会できるとは」
 8年前に見たときと変わらず、コマンダーは椅子に腰かけて椅子ごとこちらに背を向けていた。背もたれの向こう側から真っ黒い衣装に包まれた腕が見え隠れする。
「なんの、ご用でしょう」
 ネルソンはどういう態度で接したものか図りかねて、曖昧な声色になった。
「なに、謝るために君を呼んだわけではないのは確かだ。もともと謝罪するつもりはさらさらないからね。どうにも『ごめんなさい』という言葉は言い慣れない」
 その姿勢が彼を犲目瓩了蔑瓩涼楼未砲泙撚,珪紊欧燭里世蹐Δ箸いΔ海箸詫動廚冒杼ができた。
 コマンダーは、ここでゆっくりと椅子を回転させてネルソンの方に向き直った。
「今回君を呼んだのは、辞令を渡すためだ。8年間のブランクを物ともせずに帝立研究院の地下牢から素人を一人連れて脱した凄腕ということで、組織では君を英雄視する空気があってね。我々司令部としても過去のことは水に流して君を復職させないとどうにも収まりがつきそうにない」
「はあ、そうですか」
 組織内で自分の評価が高まっているというのはネルソンも初めて聞いた話だった。もちろん、悪い気持ちはしない。
「といっても、現在ポストに空きがない状況だ。だからとりあえず、養成所の教官でもやってみるかね。8年治安課で頑張っていたフォンゼ君もつけるから」
「フォンゼ教官がですか?」
「そうだ」
「治安課はどうなるんですか?」
「そういう仕事はもう警察に任せるということだ。もういがみ合う必要はないからな」
「なくなるんですか?」
「なくすさ。もちろん他国の諜報部員が関わっているような犯罪については我々も受け持つが、それは元から専門の部署があるだろう」
「なるほど」
「それより、やるのかね」
「私に選択権が?」
「君はまだ犲目瓩凌Πではないから私が命令することはできない。やるというのならこいつにサインしてくれ」
 コマンダーが差し出したのは、簡単な雇用契約書だった。ネルソンはその契約書を無言でひったくると、同じくコマンダーから差し出されたペンでサインを入れた。
「結構だ。じゃあ、細かいことはまた追って連絡する」
 ネルソンが部屋を出ていこうとすると、背後から再びコマンダーが話しかけてきた。
「ネルソン君、君があそこから連れ出したザッハという研究員はどこに行ったか知らんかね。あの、緑色の長髪の」
ネルソンが肩越しにチラと振り向くと、コマンダーの椅子はまた背もたれがこちらに向いた状態になっており、2人は背中を向き合わせている恰好になった。
 ネルソンも、背を向けたまま答えた。
「さあ。どこかに消えたんですか」
「姿が見えんのだよ。犲目瓩琶々を探しているが、国内ではどうしても見つからん。となると、亡命した可能性が高い」
「失敗して誰にも見つからないようなところで死体になっているかもしれませんよ」
「一科学者が単独で亡命に踏み切るとも思えん。そういう場合は誰か手引きした者があったのではないかと見るのが常道だ。まあエスコートした者がいたとしたら、イルフォルノ死後の政治空白というか混乱を突いて亡命に踏み切る辺りの手腕が見事だな。さすがは英雄と呼ばれた男だ」
 コマンダーはもう言いたいことを隠しきれていなかった。
「………」
「ネルソン君。黙ってちゃ分からんよ。何か申し開きがあるかね」
「一つ言えるのは、奴も実験に加担していた加害者であり、私は奴のことを決して許してはいないということです」
「ほう」
「しかし、奴はペシャワールによる人体実験に巻き込まれた被害者の一人であるとも考えられます。この国に残っていれば、イルフォルノやペシャワールに加担していた人間としてどのような目にあわされるか分からない。私にはそれが不憫でならなかったのも事実です。ただし、許し難かったのも確かだ」
「それで?」
「このジレンマをどう解消するか。思いつくのは、さらわれた被害者がいる国に亡命させることでしょう。ヌエバの官憲の手は逃れることができるが、その国にも被害者がいる以上あまり大っぴらな活動はできない。ばれたら袋叩きですからな。だから亡命はできても、奴は一生殺人の十字架を背負って生きていくことになるのです」
「なるほどな。まあ、一般論として聞いておこう。それにしても、何でこんな簡単に喋ってくれるのかね」
「亡命先でのことまで私が面倒を見ることはできません」
「なるほど。亡命は手伝ってやるが、それ以降の護身は自分でやれということか。折り合いをつけるならそのへんだろうな」
「では」
 ネルソンは背を向けたままつかつかと部屋を出ていった。コマンダーがまた椅子を180度回転させると、机の下からハンゲンキが顔を出した。ハンゲンキは、口の中で飴らしきものを盛んに転がしている。
「で、どうするんですか?」
 ハンゲンキが飴を口に入れたままコマンダーに話しかけた。
「まあ、放っといてもいいだろう」
「危険ですよ。ヌエバ政府の公式発表が虚偽だってザッハに言われたらどうするんですか?」
「ザッハはそんなことを言えまい。彼は被害国にいるんだ。ネルソンの言っていた通り、自分の素性がばれて袋叩きになってしまう」
「被害国から第三国に移動したら?」
「そうしたら、我々は動こう」
「ふーん」
 ハンゲンキは完全に机の下から這い出して立ち上がると、服の埃を払い、飴をガリっと一噛みした。
「まあ、君は通常通りネブカで任務を続けたまえ。いつもどおり、何かおかしなことがあったら報告するように」
「はあい」

「何ニヤニヤしてるんです?」
 ヘルメットの下からのぞくゴ=ディン・ディエムの口元は緩んでいた。ヘルメットの中の目まで緩んでいそうなしまりのない唇をしている。
「軍務長官だと」
「軍務長官がどうしたんですか?」
「軍務長官は私だ」
「何を言ってるんですか?」
「シズラー長官から軍務長官の職を拝領したのだ」
「本当ですか?」
「本当だとも。見ろ」
 ゴ=ディン・ディエムがリングバードに向かって突き出した紙は、一枚の辞令だった。確かに「ゴ=ディン・ディエム」の名と「軍務長官に任ず」との文句が見える。
「大抜擢だぞ」
「この辞令は本物でしょうね」
「いいか、大抜擢だぞ」
「本物だとしても冗談だとか」
「よく聞け。大抜擢だって」
「後から撤回されるとか」
「大抜擢」
 リングバードは根負けしてゴ=ディン・ディエムに話を合わせることにした。
「私はどうなるんですか?」
「副長官ぐらいにはしてやろう」
「へえへ」
 ゴ=ディン・ディエムはまだ辞令を舐めまわすように見ている。
「そうだ」
「なんだ?」
「あなたの名前の由来を話してもらいましょうか」
「なんだ。急に話が変わるな」
「前に由来を聞いたときは、『私が上機嫌な時に聞けば教えてやろう』って言ってたじゃないですか。今は機嫌が良さそうなもんで」
「そんなこと言ったっけえ? ああ、言ったなあ…」
「言いましたよ。教えてください」
「まあいいや。教えてやろう。といっても、そんなに大した話でもないんだが」
「いいですよ」
「私がまだ小学校に入ってすぐの頃だ。あたりをうろうろしていたら本が落ちている。手に取ってみたら歴史の本だった。家に帰って読み出すとおもしろくてなあ」
「ほほう。その中に『ゴ=ディン・ディエム』の名前が出てきたと?」
「先に言うなよ。まあ、そういうことだ。本の中での扱いはすごく小さいのだが、『ゴ=ディン・ディエム』という音の響きを一発で気に入ってしまってなあ」
「じゃあ、本名じゃないということですね?」
「いや、本名だ。元の名は捨てただけだ」
「まあそれは何を本名というかの問題なんでいいですけど、元の名はなんていうんですか」
「忘れたさ…」
 ゴ=ディン・ディエムからこのように返ってくると、いくら追及しても口を割らなくなるということはリングバードもよく分かっていたので、話題を変えることにした。
「ゴ=ディン・ディエムっていう名は私も寡聞にして初耳なのですが、どこの国の歴史本なんですか?」
「それだよ。どうも、この星の歴史ではなさそうなのだ」
「え? じゃあ歴史の本っていうよりはその体をしたフィクションじゃないですか」
「そうともいうな」
「フィクションですよ」
「いや、フィクションの割には物語仕立てではないんだよな。きちんと歴史の概説書みたいな書き方になってて」
「そういう本があってもいいじゃないですか。ちなみになんて星なんです?」
「地球だ」

「長官、ついに破れました。やっぱり上からでしたね。ノブシもよくやってくれました」
「何があった?」
「実験室ですね。簡単な実験をしていたみたいです。例の人工筋肉アンドロイドの遠隔操作の実験を。中には実験用の牢屋と、そのアンドロイドが計7体と、実験装置にくくりつけられた生存者が2名いました。2人ともファルージャ人の模様です。研究員の一人がゲロったデーデキントとダンジョウでしょう」
「生きてたのか?」
「生きてましたよ。実験に回されたのが最後の最後だったのが幸いしたようですね」
「ほう。実験とは、やっぱりあれかね」
「ちゃんとその人工筋肉が動くかどうかの実験みたいですね。牢屋には2人で協力すると脱出できる簡単な仕組みを置いておいて」
「簡単な仕組みとは?」
「説明が長くなるんですが…」
「構わん」
「ええと、牢獄が2つあって、それぞれに被験者とつなげた人工筋肉アンドロイドを入れるわけです。じゃあ、牢獄AとBとしましょうか。Aにはダイヤルがあって、Bには時計があります。ダイヤルと時計を両方とも正しい数値に合わせると鉄格子が下りる仕組みになっているんですが、その正しい数値を書いたメモ用紙というのがそれぞれ逆の部屋にあるんです。つまり、ダイヤルのある牢獄Aに時計の正解が書いてあるメモ用紙があって、時計のある牢獄Bにダイヤルの方の正解が書いてあるメモ用紙があるわけです」
「えらく簡単だな」
「いいんですよ。そのアンドロイドの目と耳と筋肉が正しく動くかを見られればいいんですから。目が動かないとメモ用紙に書いてあることが読めない。耳が動かないと向こうの部屋とコミュニケーションがとれない。筋肉が動かないとダイヤルや時計が合わせられない」
「なるほどな」
「その実験がきちんとできるように偽の記憶まで植え付けていたみたいで」
「随分本格的だな」
「さらわれた時の記憶があったらそこから脱出しようという気が起きない可能性がありますからね。植え付けると言っても簡単なものですよ。元の記憶も完全に消えるわけではないみたいです。たとえば口癖とか、自転車の乗り方とか、そういう染みついた記憶は消えないらしいです」
「ふうむ。隔壁はなぜ下ろしてあったんだ?」
「どうもそこはペシャワールの部下が地道に量産のための実験をやっていたようで。そいつが逃げる時に証拠隠滅のために下ろしていったんですな」
「とはいっても、ペシャワールの息はかかっているんだろう」
「それはそうですよ。実験をしていたのはデショウという研究員なのですが、デショウはペシャワールの信頼も厚く、かなりの程度実験を任されていたようです。それで、デショウは不足している被験体をできるだけ殺さないように、慎重に実験をしていたんですな」
「ふむ」
「で、ちょうど実験を始めたときに特務部隊が突入したから、実験をやめる暇がなくて、とりあえず隠して逃げ出したそうです。ほとぼりが冷めたら戻ってきてなんとかしようとしていたんじゃないんですかね」

「ヌエバ国による他国民の誘拐。今回この国家的犯罪行為を糾弾するに当たりこの番組でVTRを製作しましたので、まずはそちらをご覧ください」
 虹が横切っていた女性司会者の顔が消えると、おどろおどろしい字体のタイトル画面に切り替わった。アイダホはそば屋の壊れかけのテレビから目を反らして向かい合っている公主を見た。彼女は一心不乱にかけそばをすすっている。
 その公主の雰囲気に物怖じしたアイダホは話しかけるのを諦め、再びテレビに目をやった。「専門家」とされている頭の禿げあがった中年男が暗い部屋の中でインタビューに答えている。神妙な面持ちを必死に取り繕っているが、得意げな表情を隠し切れていない。
「今回ヌエバ国政府発表の被害者はファルージャから2名、サンドから9名、デリダから1名ということですが、実際にはこんなもんじゃないでしょう。政情が不安定なデヌークからはもっと何十人規模で人さらいが行われていたという話もあります。ヌエバ政府は問題の規模をわざと過小評価することで、公表と謝罪だけで事態を切り抜けようとしているのでしょう」
 なるほど正しい見立てである。アイダホが感心していると、女店員がアイダホの頼んだ力そばを運んできた。アイダホがわりばしを手にとると、トイレに行っていた先代が意気揚々と戻ってきた。
「そういえばアイダホ君」
 先代は手を拭きながら椅子に腰掛けると、アイダホに向かって声をかけた。アイダホがギクリとして、わりばしを握る手が止まった。公主は2人の会話を気にする様子もなくそばをすすり続けている。
「文化祭の喩え話って知ってるかね?」
「ゴフッ」
 アイダホがせき込むと、噛み砕かれたそばが喉の奥でどこぞへと消えた。

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