当wikiは、高橋維新がこれまでに書いた/描いたものを格納する場です。

ショーン・K氏について思うところを記す。

1.まずは、何を語るにおいても肩書というものが重要になってくるということであろう。それを再認識させてくれたという意味では、彼も仕事をしたということである。
 世の中には様々な主張・言説があふれているが、それが本当に正しいかを真剣に判断するとなると、実際のところかなりのコスト(労力)を伴う。「原発は安全だ」という言説が本当に正しいかどうか、あなたに検証できるだろうか。本気でやろうと思ったら、原発について勉強するところから始めないといけない。
 そのために、人は自分が見聞きした言説の真否をもっと簡便な方法で判断している。この簡便な方法のことを、「ヒューリスティクス」などという。この方法は、結論が間違いである可能性も出てくるが、何といっても簡便なのでよく使われる。このときによく参照されるのが、主張者の肩書なのである。

「東大の教授」が言っているから正しい。
「日本政府の要人」が言っているから間違いだ。
「中国人」が言っているから信用できない。
「ちゃんとした格好のイケメン」が言っているから信用できる。

 そんなような話である。ただ、簡便だから、間違っている可能性は常にある。主張や言説の中身自体を見ていないので、理性的な議論にもならない。
 「差別」とも密接なかかわりがある。「差別」も、この検証を簡便化しようとするために起きてくるものなのである。
 駐輪場に停めてある自転車の鍵をノコギリで切ろうとしている人がいたとする。この人がスーツを着た日本人だったら、「鍵を失くしたのだろうな」と思う人の方が多いだろう。逆にみすぼらしい恰好の東南アジア人だったら、「自転車を盗もうとしているのではないか」と思う人の方が多いのではないだろうか。その人が本当は何をしようとしているのかを真に検証しようとしたら時間も労力もかかるので、それを節約するために簡単に得られる情報から判断を下すのである。これが、差別の淵源である。
 だから、こういう簡便な手法による判断には、気を付けた方がいい。まず、常に間違いの可能性があるということは意識しておくべきである。主張者の肩書のみを根拠として下した判断は、いつまで経っても仮説でしかない。結論の決めつけは、差別にもつながり得る。弁護士がいくらお笑いについて論じても正しいことは言えないだろうという言説も、全く理性的とは言えない。中身について議論しないと、真に正しい結論は下せない。
 また、人がいつもこういう手抜きの手法で物事を判断していることを逆手にとって、肩書を偽る人間も出てくる。こういう人もいるからこそ、肩書のみからその人の発言の正否を判断するのは危険なのである。

2.ではショーン・K氏が実際に何か間違ったことを言っていたかというと、それを指摘する声は今のところほとんど見ない。おそらく、コメンテーターとしての体裁は保てるだけの努力をして、きちんとそれっぽいことを言い続けていたのだろう。
 そういう意味では、誰かに実害を与えたわけではないので、ここまで叩かれるのがかわいそうだという声も聞くし、上記の努力を評価する声もある。ただこれは逆に、テレビのコメンテーターというものがいかに薄っぺらいことしか言っていないかということだと筆者は考えている。
 情報番組のコメンテーターに与えられているコメントの尺は、非常に短い。短いので、爪痕を残すには何らかの工夫をしなければならない。笑いをとるというのは一つの手法だが、真面目な情報番組では忌避される。ドナルド・トランプのように、極端なことを言うというのも一つの手法である。中国人が殺人を犯したというニュースを受けて、「だから中国人は全員国に送り返して国交を断絶すべきなんですよ」というコメンテーターがいれば、少なくとも耳目を引くことはできるだろう。
 ただ、極端な言説というのは、大抵の場合間違いである。正当な結論は、通常はもっと穏当なところにある。しかしこの穏当な結論というのは、穏当であるがゆえに結論それだけを提示しても「何を当たり前のことを言っているんだ」という感想を与えることしかできない。「中国の方にも犯罪に走る方とそうでない方がいるのだから、そこはきちんと区別すべきでしょうね」などというコメンテーターがいても、「そりゃそうだろう」としか思わないのではないだろうか。
 穏当な結論は、その根拠やそれが導き出される議論の過程を紹介するとおもしろい場合があるが、そんなとこまで話を広げるのはあの短い尺では不可能である。結果、テレビのコメンテーターという枠は「極端なことを言う人」と「穏当なことを言うけど(おもしろくない)人」で支配されることになる。前者は、間違いの言説を公共の電波でがなり立て続けるという意味では有害ですらあるし、後者は存在意義がない。
 そこにギャラを払っているなら、それをもっと他のところに回し、淡々とニュースを伝え続ける番組にするべきだろう。あるいは、逆に一つのテーマを掘り下げるのであれば、もっと尺を用意する必要がある。
 それは本気のドキュメンタリーになるが、薄っぺらいことしか言えないコメンテーターを置く意味はやはりない。
 ショーンK問題には、今のテレビが抱える根源的な問題の縮図がある。いい機会なので、業界も自覚的にシフトチェンジをしていってほしいのだが。

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