当wikiは、高橋維新がこれまでに書いた/描いたものを格納する場です。

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A.

 子が、自分よりできない(極端な例では、何らかの障害を持っている)と、その子をちゃんと愛せる自身がありません。ちゃんと責任を持って育てられる自信がありません。
 逆に子が自分より優秀な奴だと、今度は嫉妬してしまう気がします。やっぱりその子に愛情を注ぐことができる自信がありません。
 だから子を持つのが怖いのであります。
 多分実際に生まれてしまえばすごく愛おしくなると思うので、単に自分が一生子を持てないであろうことを何らかの理屈をつけて納得しようとしているだけだと思います。

B.

 自分の子供が立派な引きこもりに育ってしまったとして、その子供からこう言われたら、親のあなたは何と言い返すでしょうか。

 「てめえが勝手に生んだんだから最後まで面倒見ろよ」

 私は、これに対する反論をずっと考えてはいますが、「これに論理的に反論することはできない」というのが現状の結論です。だって、真実ですから。

 親は常に自分のために子を作り、生み落とします。まず「できちゃった」場合は分かりやすいですね。子は親自身が気持ちいい思いをしたかったがための副産物に過ぎません。子は、親が自分の都合のために(=自分が気持ちいい思いをしたいために)できた存在にすぎないのです。
 そして、そうじゃない場合も結局親は自分が子供が欲しいから子供を作っているのに過ぎないと思うのです。世間体があるから、自分の両親(生まれ出ずる子にとっての祖父母)や親戚がうるさいから、自分が子供を育ててみたいから、自分が可愛い乳幼児に癒されたいから、子を作るにすぎません。生まれてくる子の都合のことなんか、お構いなしです。

 だから、子というのは常に子本人の意思は無視されたままこの世に加入させられる存在であります。だからこそ、「てめえが勝手に生んだんだから最後まで面倒見ろよ」なんて言われたら、反論はできないと思うのです。反論できない以上、親はそう言われたら子供の面倒を(少なくとも自分が死ぬまでは)見ざるを得ないと思うのです。

 長じた子にそんなにを言わせないようにするのが「教育」の役目です。まあ、何といっても親は子より先に死んでしまう場合の方が多いでしょうから、子が死ぬまで面倒を見てやることは難しいでしょう。子が自分一人でも生きていけるように、「いつかは経済的に自立して自活しなければならない」という価値観を植え付け(この過程は、「洗脳」と言っていいと思います)、実際に自活するための能力や技能を教え込みます。「人間はいつか自立するのだ」「自立しなければならない」「自分の都合で世に出たわけではないけど、その理不尽を飲みこんだうえで自立しなければ駄目である」という価値観を子にひたすら埋め込むのが親の役割であります。別に失敗したからどうということはないのですが、失敗したら困るのは親自身です。親も、自分の親(子にとっての祖父母)からこの価値観が内面化するほどに埋め込まれているでしょうから(子を持ったということはおそらく経済的に自立できてはいるので、祖父母による「洗脳」は成功しているでしょう)、子もこの価値観に従う人間にならないと気持ち悪くてしょうがないと思います。だから、自動的にこの洗脳を行うと思います。価値観の内面化による再生産という現象です。これで、この価値観は安価に連綿と受け継がれていきます。
 でもまあ、上記の通りこの教育過程に失敗することは当然あるわけで、子が「自分は親に勝手に産み落とされた存在にすぎない」という真実に気が付いてしまう場合もあるのです(私はその一人です)。また、教育しても自活する「能力」が先天的に備わっていない子というのも当然いるでしょう。筆者は、この洗脳教育もきちんとできる気がしないので、そういう意味でも子を持つことが怖いのです。きちんとできる自信がないのは、筆者が「子は親の都合で勝手に産み落とされるもの」という真理に気が付いており、なおかつ筆者が嘘をつく(=自分の本心と違うことを言う)のが苦手だからです。

 さてまあ、上記のような「教育」が奏功しないような「ハズレ」を引いてしまった場合には、ケツを持たなきゃいけないのが子を作るということであって、親になるということです。特に今は日本も青息吐息で、世界も激動の時代です。この時代に生み落とされた子は、なかなか一人で生きていくのも難しいでしょうし、生きていけたとしても楽しい人生を送るのも難しいと思います。そんな閉塞した時代の閉塞した社会に自分の都合だけで――自分が気持ちいい思いをしたいがだけのために、あるいは自分が子に癒されたいがためだけに――気軽に子を生み落としていいのでしょうか。自分の都合で生み落としてしまった子なのに、一定の年齢になったら「あとは自分で何とかしろ」と放逐していいのでしょうか。世の親たちはそこまで考えて子を作っているのでしょうか。

 まあ、そんな複雑なことを考えている人はごく少数派でしょう。そんな複雑なことを考えずとも子ができるようになっているからこそ、人間は増えているのです。生物の目的は自身の子孫を増やすことなので、いちいちそんなことを考えられていたらその目的が達成されなくなってしまいます。交尾が、そして子に接することが人間にとって抗い難い快楽だからこそ、人間は増えるのです。

 でもまあ、親になるってのは自分の都合で生み落とした子に最後まで責任を持つということです。そういう覚悟がない人が親になってしまうから、歪みも生まれるもんだと思います。

追記
 こういうことを書くと「妻子もいない人間の僻みだ」「僻んで妻子持ちを攻撃しているだけなんだ」という反論をされます。筆者に妻子がいないのは間違いのないことなので、この反論に対して効果的に反駁することはできません。ブッダみたいに、妻子もいたうえでなおこういうことを言ったら説得力が生じるのでしょうが、子というのは作る前に上記のような覚悟を決めたうえでないと軽々しく持ってはいけないもんだと思っています。そして、配偶者についても、子についても、いったん作ってしまうと、「やっぱやめた」ということは(少なくとも現代の日本の法律の下では)そう簡単にはできません。だから、二の足を踏まざるを得ないじゃないですか。

 同じようなことは『シトラス三国志』第68回で劉禅にも言わせていますし、『チン太のこと』のあとがきにも書いています。よろしければご参照あれ。

C.

 でも小さい子は可愛いので、孫や甥姪は欲しいのです。両者の共通点は、「自分が優先的に可愛がれるけど、育てきる責任はない」ということです。弟と一緒に、「早く甥姪の顔を見せろ」と言い合っています。そうやって言い合っているうちは、絶対に無理なのですが。

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