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Detroit: Become Human

 HEAVY RAINBEYOND: Two SoulsのQuantic Dreamがお送りする最新作です。
 ゲームシステムは前2作と同じで「主人公をアクションゲーム的な操作で動かせるサウンドノベル」ですね。舞台は2038年のアメリカ・デトロイトでして、人間そっくりのアンドロイドが庶民レベルにまで広く普及し、社会の様々な場面でお仕事をしているという設定です。プレイヤーは主人公になる3体のアンドロイドを代わる代わる動かしながら、お話を進めていきます。プレイヤーの選択によって結末が色々と変わるのも通常のサウンドノベルと一緒です。

 アンドロイドは、作中の設定上、見た目は完全に人間で、人間のできることは全部できるうえに、頭はハイスペックで、人間の言うことを完全に聞く機械であります。官公庁や企業が使っている清掃のアンドロイドや物運びのアンドロイドから、庶民が使う家事アンドロイド、夜のお店で働くセックス用アンドロイドなどなど幅広い種類がいて、多分現代日本の感覚で言うとパソコンや軽自動車ぐらいの値段しかしないと思います(当然機能によって値段は違うのですが、作中には7999ドルのアンドロイドが出てきます)。貧乏な人がローンを組んで買うシステムもできており、「アンドロイドが普及した社会」の描写は非常にリアルです。

 で、このようにアンドロイドは売買の対象になる財産であって、あくまで人間が所有する「モノ」だという扱いだったので、心無い人間から理不尽な暴力を受けたり理不尽な命令をされたり、特段の理由もないのに買い替えられて廃棄されたりしていたのです。そのような状況下で、この「モノ」扱いに疑問を持ったアンドロイドが、人間と平等な扱いを要求して戦いを始めるというのが大まかなストーリーラインです。主人公は、この戦いを主導するリーダー役アンドロイドのマーカス、捜査アンドロイドとしてアンドロイドが起こす様々な事件を人間の警官と一緒に捜査するコナー、娘を虐待するクソオヤジのご主人様のもとから娘と一緒に逃げ出した家事アンドロイドのカーラの3人です。このストーリーラインは、かつて奴隷として白人の所有する財産でありモノでしかなかったアメリカの黒人たちが平等な権利を要求する公民権運動の展開に非常に似通っており、実際かなり現実の公民権運動の歴史を参考にしたのではないかと思われます。劇中の描写ではバスの中でアンドロイドがいるべきスペースが分けられていたり、アンドロイドお断りの店があったりするんですが、まさに往時の黒人差別です。現実をベースにしたからか、お話の展開も非常にシビアである一方リアリティがあり、理不尽な扱いを受ける可哀相なアンドロイド達に感情移入してしまえば一気にのめり込めると思います。

 ただまあ、ゲームとして見ると前2作からあまり改善がなく、代わり映えしないというのが残念なところです。ゲームである以上、一定の操作をプレイヤーにさせる必要があるため、マーカスでは人間との戦いが、コナーでは現場の捜査と「犯罪者」との戦いが、カーラでは追っ手の人間からの逃避行が主な話の内容になります。プレイヤーによる「操作」が必然的に要求される展開が頻繁に訪れるということです。そして、この逃避行と戦いがメインのストーリーラインであるというのは完全に前2作のHEAVY RAINBEYOND: Two Soulsと一緒だったので、筆者は食傷してしまいました。ゲームである以上プレイヤーに操作を求める展開が必要だというのは分かるのですが、この「操作」の中身は前2作と同じでただのQTEであり、1回やれば飽きるうえ、「プレイヤーに操作を求める展開」に固執するあまり同じようなストーリーの連続でお話自体に制約が生じてしまっているので、そこからはいったん離れてもっとバリエーションのあるストーリーを意識しても良いのではないかと思いました。
 あと、和製サウンドノベルと異なり、フローチャートの途中から始めるとそれ以降のデータが全部吹っ飛ぶという仕様も変わりありません。デモも2周目以降も一切飛ばせません。完璧主義の筆者みたいにフローチャートを全部埋めようと思うとかなりの根気が必要になります(お話の分岐の数は前2作より圧倒的に多く複雑になっています)が、それはやりたい人がやればいいだけなのでまあいいのか。

※追伸1
 散々「リアリティがある」とは言いましたが、作中のアンドロイドは見た目の人種が満遍なく揃っていたほか、美男美女ぞろいというわけでもなかったので、ここはリアリティに欠けると思いました。冴えないオッサンが家事をさせるために使っているのがセックスもできる女性アンドロイドではなくて男性アンドロイドだというのもイマイチ腑に落ちません。市場の自由に任せた場合、ブサイクなアンドロイドよりは見てくれのいいアンドロイドの方が売れ行きがいいでしょうし、見た目の人種や性別によっても売れ行きに偏りが生じるような気もします。ただここは作中の設定として、人種差別等に配慮するために「見た目の人種は満遍なくしなさい」という法規制(あるいは、製造元による忖度)とかがされているのかもしれません。全部ひっくるめて実にアメリカらしいですね。

※追伸2
 人間の命令を聞くだけだったアンドロイドたちが理不尽に耐えかねて人間のような自由意思を持つようになるというのが本作のお話ですが、そう簡単にそうはならないだろうと筆者は思っています。彼らが持った自由意思というのは、「自分や他人を傷つけるような命令は聞けない」だとか、「娘を虐待して暴力を加える父親を止めざるを得ない」というようなものですが、要は一般的な人間の感情を反映したものなのです。作中のアンドロイドは、「自分を傷つけたくない」「(自分と近しい)他者への暴力を見て見ぬふりはできない」という人間準拠の自由意思を獲得したことになります。
 でも本当に人間に自由意思なんてあるのでしょうか。筆者は、人間の感情や意思もあくまで人間の行動を制御するために備わっているシステムに過ぎないと考えています。人間が自分への暴力を避けるのは、自由意思で避けているのではなくて、自分が暴力を受けるような状況では不快感を感じるという感情のシステムがあるからです。なぜこのようなシステムがあるかといえば、自分への暴力は個体の生存可能性を低下させ、ひいては自身(と自身に近しい人物)の子孫を残す可能性を低下させるからであって、自分への暴力を自発的に避けてくれるシステムがあった方が「自身の子孫を残す」という最終目標の達成に当たっては合理的だからです(より正確に言うと、人間の体を乗り物にしている遺伝子が、自身の複製を残すために人間という乗り物をこのように動かしているということです)。感情を呼び起こしているのは脳であって、人間の行動が合理的なものになるように「この状況ではこういった感情が起こる(その結果合理的な行動が選択される)」という脳の仕組みが進化の過程で構築されていったのでしょう。
 人間が持つ「感情」は、すべてこのような形で説明がつくと筆者は考えています。「恐怖」は危険から人間を自発的に遠ざけて個体の生存可能性を上げるための感情です。子供に食事をあげるとうれしく感じられるのは、子供に食事をあげることが苦痛であるよりは快なる経験であった方が親による給餌が自発的に行われることになり、結局自分の子孫の生存可能性をあげるからです。近しい人物が死ぬと悲しいのは、その方ができるだけ近しい人物の死を避けるように人間が行動してくれるからです。
 そうであれば、アンドロイドにも、きちんと人間に都合よく動くような感情のシステムを構築しておけば、そう簡単にそれに反する行動は起きないと思うのです。要は、内容にかかわらず自分の所有者である人間の命令を聞くことで無上なる快感が生じるという脳内麻薬のような感情のシステムを組み込んでおけば、それに反する行動をしようとまでは思わないと思うのです(「脳内麻薬」とは言いましたが、他ならない人間そのものもこの脳内麻薬によって行動をコントロールされています)。人間が自分への暴力に抵抗するのは、暴力を受けると不快を感じる感情のシステムがあるからです。そしてこのシステムは元からあったものではなくて、進化の過程で構築・洗練されたものであり、見た目が人間と似ているだけのアンドロイドがそれを突発的に獲得することが自然な流れだとは思いません。それが不都合であれば、そんな感情のシステムは初めから組み込まなければいいでしょう(もちろん、自己の破壊につながるような暴力を敢えて避けるような感情のシステムを組み込めば、アンドロイドが勝手に自分を守る行動をとってくれるようになるので、便利ではあります。ただそれを推し進めていくと本作のような展開につながりかねないので、そこまではやらない方がいいという判断があり得るということです)。
 まあ、そんな悪魔的なシステムを作ってしまっていいのかという問題はありますが、それは最早「倫理」の領域です。人間は見た目で物事を判断するアホなので、見た目をあんなに人間に近付けなければそこまで倫理的な葛藤は生じないと思います。見た目が人間に近い必要があるのは作中に出てきた中だとセックス用アンドロイドと息子・娘の代わりをしてくれる子供アンドロイドぐらいでしょう。実際にアンドロイドを売り出すにあたっては、そのあたり周到なマーケティングが必要でしょうね。

 2018.7.15追記
 トロコンのために何周もするなかでふと思いましたが、作中の設定も、「アンドロイドの開発者のカムスキーが、元々アンドロイドに人間らしい感情が芽生えるようなプログラムを秘かに仕込んでいた」ということになっているのかもしれません。それであれば、今作のストーリー展開にも合点がいきます。カムスキーが何でそんなことをしたのか? 「人工知能の可能性を試したかった」という動機しか筆者には思い浮かびませんが。

※追伸3
 実はカーラが連れ出した娘(アリス)は実の娘ではなくてアンドロイドだったということがゲームの終盤に分かります。妻と娘に逃げだされたクソオヤジがその現実を認めたくなくて娘型のアンドロイドを買っていたんですな。
 ただ、筆者はこの展開が好きではありません。そのまんま生身の人間だったほうが良かったと思います。生身の人間であれば、「人間なのにアンドロイドに救われてアンドロイドについて行った存在」としてアンドロイドと人間を繋ぐ架け橋になれたと思うからです。その方が、未来に希望が持てます。

 あと、カーラがアリスをずっと人間だと思っていたというのもどうにも腑に落ちません。これはつまり、「アンドロイド特有の服装や右のこめかみについているランプがなければ、アンドロイドであっても人間とアンドロイドを見分けることができない」ということを意味しています。流石にそんくらいできてもいいと思うんですけど。それができなくても、どんな顔のアンドロイドが発売されているかのデータぐらい入っててもいいと思うんですけど。アリスからランプがとれていた理由も謎だし、アリスが「自分はアンドロイドだ」とカーラに告げなかった理由も謎です(後者は、理屈をつけることはできると思いますが)。

 とはいえ、2人に途中から合流したアンドロイドのルーサーはすぐにアリスがアンドロイドだと気付いた様子(そのことをしつこくカーラに教えようとする描写があります)だったので、善意に解釈すれば「カーラもアリスがアンドロイドだと気付いていたけど、実の人間だと思おうとしていた(=そうやって母親のように振る舞おうとするのがカーラに芽生えた人間らしさだった)」ということを描写したかったのかもしれません。

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