結局ズレ理論に包摂されてしまったあるあるネタですが、ズレのみから笑いの場面で行われているものではないと筆者は考えています。
笑いは、前述のように、排斥力と連鎖力から、異端を排除して共同体の連帯を高める作用を持っていると考えられます。この作用を、結紮力(けっさつりょく)と呼ぶことにしましょう。
あるあるネタは、前述のように受け手と作り手に共通する知識を前提としたネタです。このような共通知識を利用してお互いに笑いあうことは、「私にもこの知識があるから、私もこの共同体の一員なんだ」という感覚を笑い手に抱かせるもので、笑いと同じく結紮力があります。結紮力による共同体意識の高まりは、人が社会的動物である以上ひとつの快感を呼び起こすものであるため(この辺は怪しいですがあまり気にしないでください)、結紮力のあるパフォーマンスは、必ずしも笑いを呼び起こす作用を持っておらずとも、笑いに附随して行われる場合があります。
あるあるネタはそのひとつの例です。前述した通り、笑いを呼び起こす力と、独立の結紮力の双方を持っています。
内輪ネタもそうです。内輪ネタは、内輪だけに通ずる知識を前提としたネタであり、あるあるネタと同じく作り手・受け手に共通の知識に基礎づけられる笑いであるため、結紮力を持っています。内輪だけに通ずる知識はあるあるネタの前提となる知識よりも狭い範囲にしか知られていないため、その結紮力はより強いと言えるでしょう。
内輪ネタは、テレビや舞台等では、作り手と前提知識を共有していない受け手の笑いを喚起することができないため、やってはいけません。それでもやられる場合があるのは、「禁じ手なのに敢えてやっている」というメタなズレを感得することができることのほかに、前述したような強い結紮力があるということも一因となっていると考えられます。
ちなみに内輪ネタをやりたいのであれば、しつこいぐらいに何度もやって、受け手にもその情報を知らしめるという手があります。こうなった場合、本稿の定義上内輪ネタではなくなります。これは、「内輪ネタの外部化」と筆者が呼んでいる現象です。もっとも、こういう内輪ネタも、新参者には分からない場合があるため、「内輪受け」という批判が飛んでくる危険性は常にあります。
スタッフいじりをよくやるのはとんねるずや「ガキの使い」です。めちゃイケも結構多いです。この三者に関しては、やりすぎてすでに外部化されている部分が大きいといえるでしょう。慣れてしまえば受け手としても「禁じ手なのにやってやがる」というズレを感得することができるほか、結紮力が及ぶようになるため、さっさと慣れてしまうのが吉です。
また、定番化したギャグやお約束も、結紮力を持ったパフォーマンスの一例であると考えられます。
ギャグとは、短いフレーズや動作でズレを引き起こすものです。ボケの一種です。主には「何でそんなことを言うのか」「何でそんな動きをするのか」というズレを作出するものです。ダジャレやたとえを含んでいる場合もあります。「あたり前田のクラッカー」「ガチョーン」などが古典的なギャグです。いずれも「よく分からない、意味を為さないことを(唐突に)言っている」というズレがあります。
といっても、ギャグは、人気を得て繰り返されると、飽きられます。飽きられると、意外性が稀薄になり、ズレによる笑いを呼び起こす力が弱くなります。しかし、吉本新喜劇における各種のギャグやお約束の流れ、またダチョウ倶楽部の「どうぞどうぞどうぞ」など、意外性が薄まったギャグでも何度も行われているものはしばしば見られます。なぜ死滅しないかといえば、「結紮力があるから」というのがひとつの説明になるでしょう。すなわち、これらのギャグやお約束は、受け手に「よく知っているアレだ」という感情を抱かせ、これを知らない人たちを置いてけぼりにすることで、知っている者だけの間で結紮力を生じさせるものであると考えられるのです。
ちなみに「結紮」というのは医学用語でして、その名の通り何かを結ぶことを意味します。結紮という手法は、医療の現場においては、除去したい組織を縛り上げて血流を止め、これを壊死させる場合にも行われます。笑いが共同体の構成員どうしを強固に「結び」付ける作用を持っている一方、他者を排斥して共同体内部における結束を過度に高めると、やがて孤立して、壊死していきます。このマイナス面を含意したかったために、敢えて「結紮」という言葉を用いました。
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