暦は八月に入り、夏休みが始まった。

「はい、それじゃ田中さん、この数式問題、前に出てきて解いてみて」

シャーペンを握っていた手に思わず力が入り、ぼき、と芯が砕けた。
夏休みを迎えたれいなを待っていたものは、成績不良生徒のための補習授業。
現実とは、常に厳しいものだった。

「すみません、まだ計算が終わってません」

れいなが答えると、補習担当の女教師は、はあ、とわざとらしく大げさな仕草で肩を落としてみせた。

「一体、今学期中に何を学んでいたんですか?この問題を解き始めてから、もう十分も経つのですが?」

腹立たしい教師だった。髪の毛全体にパーマをかけていて、年齢は、たぶん四十代くらいだろう。
化粧が異常なほど濃いせいで、顔のしわと一緒に本来浮かぶべき表情も隠れてしまっていて、それが余計に不気味だ。

「もういいわ。それなら――」

女教師の視線が、れいなの隣の席へ移る。
補習を受けさせられている生徒は、れいなだけではない。
教室にいるのは、れいなと女教師。

それと、もう一人。

声の出し方が、れいなと会話していたときよりも一段ほど柔らかくなったのが、れいなにもよく分かった。

「亀井君はどうかしら?」

れいなの隣に座っていた男が、はい、と愛想良く返事をして、席から立ち上がり教壇に上がった。
よどみない手つきで、すらすらと黒板を白いチョークでなぞっていく。

「あら、よく出来たわね」

男はチョークを置いてから、女教師の方へ、すっと振り向き、にっこりと微笑む。れいなは男の顔を見ないようにした。

「先生が分かり易く教えてくれたおかげです。
 それに、先生が僕のためにわざわざ夏休みを割いてくれてるんだと思うと、頑張らなくちゃ、って思うから。
 ありがと、先生」

「いいのよ、これが私の仕事なんだもの」

女教師は、やや興奮気味に言った。男の言葉に感激してしまったのかもしれない。

「不登校のことで、あなたのことを悪くおっしゃる先生も、中にはいるわ。
 でも不登校と一口に言っても、様々な理由がある。先生はそのこと、ちゃんと理解してるの。
 もし困ったことがあったら、いつでも相談して。先生が力になるからね」

男はそれを聞いて、涙を目尻に溜める演技をしてから一礼すると、元通りにれいなの隣へ着席した。

この茶番劇は一体なんなのだと、れいなは冷めた目でその光景を見守っていた。
男――亀井絵里は、誰にでも媚びを売るのが得意らしい。
その甲斐あってか、男が学校に登校するようになってわずか一週間ほどの間で、
男は女子生徒を中心に教師やクラス内においても高い人気を獲得したようだ。

誰も男の本性に気付いていないのである。
男をアイドルのように騒ぎ立てている友人や他の同級生達も、男に裏の顔があることなど、考えもしないだろう。

「出席日数が足りないからって、夏休みに補習、なんて先生に言われたときは、頭が痛くなったけど。
 まさか今年の夏をれいなと一緒に過ごせるなんて、思ってもみなかった。ホントに嬉しいよ」

女教師が、追加の課題となるのだろう、新しいプリントを取りに職員室へ行った隙を見て、男が馴れ馴れしく話しかけてきた。

「ねえ、れいな。なんで僕があんな女の機嫌を取ったりするのか、不満に思ってる?」

返事はしない。

「安心して。僕が愛してるのは、れいなだけだから」

れいなが男に告白されたという事実は、誰が言いふらしたのか、噂となって学校中に広まっていた。
羨ましがられることがほとんどだが、れいなにとっては単に気持ちが悪いだけだ。
こいつは、れいなを強姦しようとした男ではないか。
男が続ける。

「僕は、れいなにも愛してもらえるようになりたいんだ。
 成績を上げて、勉強もスポーツも、どれ一つだって他の男には負けない。
 れいなのような美しい女性に相応しい、そういう男になってみせるよ」

放っておいたら、いつまでも馴れ馴れしく話かけてくるつもりなのかもしれない。
思わず舌打ちをしてしまいそうになった。

「あれだけのことをしておいて、よくそんな口が利けるっちゃね」

課題を解いている振りをして、シャーペンを握っている手だけ動かし、男に顔を向けることはしない。

「冗談のつもりか知らんけど、れいながお前を好きになるなんてことは、この先、一生ない。
 それから、補習とはいえ、授業中にべらべら喋る男も嫌いやけん。黙っとって」

れいなの長い独り言が終わると、男はすっかり元気をなくして、ごめん、とだけ言った。

一体、こいつは何を考えているのだろう。
自分でレイプしようとした女を好きになる?
そんな思考があり得るのか?
誰かを好きになるということは、その程度のものなのだろうか?


数学の補習授業が終わり、休憩時間を挟んで、英語の課題が与えられた。
教科書の内容のうち、今期に学習した英文をひたすら辞書を引いて訳すという退屈な作業だった。
それでも、男が話しかけてこなかったおかげで、初日にしては随分多くの量をこなすことができた。
それがまた一息つく頃には、もう夜になっていた。

「二人とも、よく頑張ったわね。今日はこれまでにします。外は暗くなっているから、気をつけて帰ってね」

挨拶もほどほどに、女教師が教室を出て行く。
れいな達には事前に、補習期間は一週間だと知らされている。
女教師からすれば、その間ずっとこんな時間になるまで出来の悪い生徒の面倒を見なければならないのだから、大変だろう。
嫌味は言うものの、その割には機嫌が悪い素振りもなく淡々と授業をこなしていたし、見た目ほど悪い先生ではないのかもしれない。

「れいな、一緒に帰ろうよ」

問題なのは、やはりこの男だ。

「…話しかけるなって言ったやろ」

「だって、今は授業中じゃないよ」

帰り支度をれいなより素早く済ませ、れいなの席の真横で笑顔を浮かべながら待ち構えている。
もしいきなり何かをされても、大声を出せば、まだ誰かしら残っているであろう階下の職員室まで声が届くとは思ったが、
人気のない学校で男と二人きりというこの状況には、否が応でも考えなければならないことが多すぎた。

れいなが通学鞄を肩にかけて、席から立ち上がる。男はその後ろをくっついて歩いてきた。
れいなが足を止めると、男もその場から動かない。
れいなが、男を睨み付ける。男は冷静に言った。

「れいなみたいな可愛い子が、こんな時間に一人で帰るのは危険だよ。
 この世界には、頭のおかしい連中が大勢いるんだ」

家までついて行くよと、男は決定事項のようにれいなに告げた。



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