#16 <<< prev





忘れてしまった思い出というパズルを埋めるため、おぼろげな記憶から欠けているピースを手探りで探してゆく、
眠りの深海の中、今夜もそんな作業を繰り返している。
今夢中になっているこのパズルはあと少しだけピースが足りていない未完成の作品。着手したからには必ず完成させたい。
舞台は九年前のかつて通った学び舎、朝陽学園中等部。役者はれいなと・・・・・・れいなと、誰だっけ。

『えー!れいなおかしい。絵里、普通なんて言われたの始めて。ちょっとショック』

そうか、絵里か。絵里だったなそういえば。
"れいな"は鼻の下をコシコシかきながらそっぽを向いて、

『れいなお世辞言うの得意じゃないけん、本当に思った時しかそういうの言わん』
『冷たいんだなあ・・・。他の男の子はみんな絵里のこと可愛いって言ってくれるのに』
『・・・おまえ女の友達いないっちゃろ?』
『ドキ。なんでわかったの?』
『そういうの、女は嫉妬するけんね。よく一人でいるの見るし』
『恥ずかしいからあんまり見ないでよ・・・』
『目立つけん自然と目に入るんよ』

海底に落ちていた意識が徐々に浮上していく。
ああ今夜はここまでか。あと少しなんだがなあ。
まぁ、また次回にでも。


*****


さゆが居候としてれいな達の部屋に転がり込んでから2日目。
普段、居間のソファーで寝ているれいなはさゆが来て居間を占拠したおかげで睡眠が困難になった。
困難、といっても居間が狭いわけでもなくもちろんさゆが太いというわけでもないので場所の余裕はあるのだが、
精神的攻撃、つまりさゆと同じ部屋にいるとさゆの寝息やら寝言やら寝返るときの微かなシーツの音やらが気になってまともに安眠できないのだ。
これを危惧していたからこそさゆを泊めることになかなか首を縦に振れないでいたのだが案の定この有様。
早々に居間で寝ることを諦めたれいなは部屋を出ることにした。向かった先はマンション屋上。
位置的に部屋を出てすぐ隣に設置されている短い梯子を上ればそこは街を一望できるこの建物のテッペン。
寝袋持参で屋根も壁もないコンクリートの床がひんやり冷たそうな屋上にて横風を受けながら睡眠を貪ることに決め、
春先のおかげかそこまで寒さに困らなかったため案外安眠でき今起きたところなのだが、

「・・・なんしとーと?さゆ」

目を開けると道重さゆみがいた。
太陽を背にしながら上かられいなを見下ろしている形で、いつもの冷たそうな顔を晒している。
・・・なんか視線を感じるなと思ったら。まさかずっと無言で見下ろしてたんじゃないだろうな。だとしたら怖すぎる。

「おはよう。それはこっちのセリフ。なんでこんなとこで寝てんの」
「・・・・・・星を見ながら眠りたかったけん」
「全っっ然似合ってないから。かゆい。どうせさゆみと同じ居間で寝るのが無理だったからってここで寝たんでしょ」

わかってたんなら聞くな。

「はぁ。んで、なんか用?」
「朝ごはん。できたから来て」
「・・・作ってくれよったん?」
「居候だし。これくらいはするべきでしょ」

殊勝な。なんか変なものでも拾い食いしたんじゃないだろうな。手間が省けて楽っちゃ楽だが毒物だけは勘弁してくれよ。
寝袋から這い出て寝起きの伸びをしてから、センチメンタルな顔をしながら景色を眺めているさゆを置いてさっさと屋上を後にする。
ドアを開け、玄関に入った途端に鼻腔をくすぐる甘いはちみつの匂い。
朝はれいなの大好きなハニートーストらしい。さすがさゆだ。テンション上がるね。

「おはようございまぁす田中さん。今日いきなり指名入ってますよ〜。10:00〜の二の腕のトライバルです」

リビングに入ると先に起きていた小春がニヤニヤしながら幸せそうにトーストを齧っていた。

「了解。デザイン出しといて」
「は〜い。ところで、女の子が作るご飯ってやっぱいいですねえ。
 キャベツの千切りじゃない、まともな朝食食べたの小春久しぶりですよぉ。
 食べ過ぎでゲシュタルト崩壊起こしてましたからねキャベツ。道重さん匿ってよかったです」
「なん言いようと。うまいやんキャベツ。文句あるなら自分で作り。アホ」

言いながらテーブルに座り、いただきますとれいなもトーストを食べる。
・・・前言撤回。さゆの作ってくれたハニートーストはれいなの作るキャベツの千切りがゴミに思えてくるほど美味しかった。
アツアツのパンにはちみつの味がよく染みてて、上に乗っかっているキャラメルソースがかかったクリームとバニラアイスが舌に甘くとろける。
今まで犬の餌みたいなものを食べていたんだなと今初めて自覚したのだが、さゆが出てまた小春との二人暮らしに戻ってもキャベツは止める気はない。
だって楽だし。
あっという間に朝食をたいらげ、支度をしてから仕事に向かおうとドアを開けると、

「おっと。なんださゆか。朝ごはんごちそうさま」

屋上から帰ってきたさゆとちょうど鉢合わせした。

「ちょっと待って」
「?」

仕事に向かおうとするれいなを引き止めて何か言おうと口を開くさゆ。しかし言葉が出てこない。
言い出しにくいことだろうか。

「なん?」
「・・・さゆみがれいなの家に寝泊りしてること絵里には言わないでよ」
「え?なんで?」

さゆはれいなの目の前でわかりやすい盛大な溜息を思いっきり吐いた後、呆れたような顔をしながら、

「ほんとバカだよねれいなって。自分の彼氏が他の女と一つ屋根の下で暮らしてるって知ったら絵里悲しむでしょ?
 高橋愛と別れたんだしもう付き合い始めたんでしょあんたら。れいなも絵里の彼氏だっていう自覚持ちなよ」
「ああそういうこと。まぁ言うつもりもなかったしいいっちゃけど。あ、でもれいなと絵里はまだ付き合ってな」
「用件はそれだけ。わかったんならいいよ。じゃあね、仕事いってらっしゃい」

パタン、とドアが閉まってれいなのセリフは誰に聞かれることもないまま空気中に溶けて霧散した。
つい先日フられたばかりなのだが。まぁいちいちさゆに報告することでもなし、カッコ悪いから言いたくもないのでいいけど。

気にせず、すぐ隣のYHに入り仕事の準備を始めた。
さて、頑張ってお金稼ぐか。


*******


「こんにちは新垣さん。豆パンください」

あの衝撃的な出会いから一夜明け今日。凝りもせず俺は食堂の購買に顔を出していた。
理由は単純。心配だったから、だ。
我ながら世話好きな性格していると思うよ。

「はいはーい。今日はちゃーんと用意してあるわよ。はい、150円ね」
「・・・これはレーズンパンです。俺が欲しいのは豆パンです。フォルムは似てるけど全く違います」
「あっ本当だ。まーた間違えちゃった。でも豆パンってそもそもなんの豆なんだろうねえ?豆っていってもいろいろあるじゃない?
 そら豆とかえんどう豆とかさあ。なんの豆使ってるんだろうねえ?そう考えたらこのレーズンパンだって似たようなもんでしょ」

豆ですらないが。

「はぁ。もういいよ。やっぱりあんた一人にここを任せるのはすこぶる不安だ。昨日家帰ってからさんざん考えたんだが、
 昼休憩の時のみ俺もレジに入ることにする。文句は言わせないよ」
「あら手伝ってくれるの?文句なんてないわよもちろん。お金の計算とかやっぱりまだちょっと不安でさ。あなた頭良さそうだから助かる」
「高橋愛」

新垣里沙はキョトンとした顔をしたがそれも一瞬で、パッと花が咲いたような笑顔を見せてから、

「よろしくね、愛ちゃん♪」
「あ、愛ちゃん!?愛くんならまだしも"ちゃん"てなんだよ!」
「なんか愛ちゃんって感じがするから愛ちゃん。いいじゃない呼び方なんてどれも一緒でしょ?男なら広い心で受け止めなさいよ」

品行方正で絵に描いたような完璧超人で通っている一流企業の部長がたかがバイトにちゃん付けで呼ばれる姿なぞ部下には到底見せられない。
抗議しようと思ったがこのだいぶ頭がおかしい女にいちいちこんなこと注意しても無駄無駄無駄ァ!なので、
諦めてレジに入ると新垣里沙がチョンと腕をつついてきた。

「私のことも"あんた"じゃなくて"ガキさん"って呼んでくれない?」
「ガキさん。・・・なんか間抜けなニックネームだな」
「そう呼ばれるの好きなのよ。じゃあ改めてよろしくね愛ちゃん」

そう言って手を差し出してくるガキさん。
・・・昼休みの間だけだけど。愛ちゃんって呼び方に納得してないけど。先行き不安だけど。

「ん、・・・よろしく」

握った手はかよわい女の子そのもので。柔らかくて小さくて・・・少し、絵里さんを思い出した。


*****


19:00。仕事が終わって小春と一緒に部屋に帰って来るとさゆの姿が見えない。
コンビニのバイトはしばらく休みを取っているので今の時間部屋にいるのが普通なのだが自分の部屋に忘れ物でも取りに行ったんだろうか。
ストーカーに狙われているのに危機感が足りないんじゃないかと思ったがこの場合さゆが襲われたとしても自業自得。
全然心配なんてしてないしするわけがないし知ったこっちゃないなと見切りをつけて風呂にでも入ろうかと風呂場のドアを開けると、

「・・・」
「あ、さゆ」
「・・・・・・」

なんだ、いたのか。取り出しかけた携帯をしまう。
さゆは黒曜石のような大きな瞳をこちらに向けて湯上りのほぼ全裸状態のまま固まっていた。
下半身の秘部はパンツで隠されていたがそれ以外はモロ出しで、バスタオルで濡れた髪を拭いているところだった。
汚れのない陶磁器のような白い肌がほのかにピンク色に染まっていて、白桃を連想させる。

拭ききれていなかった水滴がツゥーっと背中を滑り落ちた。

「・・・失敬。ただの事故やけん許してほしいっちゃ」
「・・・許すから早く出て」
「あっ怒っとう?わざとじゃなかよ?ほんとたまたまであって決して不純な気持ちとk」
「いつまでジロジロ見てんのよさっさとドア閉めろ変態痴漢ピーピング猥褻魔ーーーーー!!!!!!!!!!!」
「ぐほぁっ!」

すごい。例え怒っていたとしてもあんなに躊躇なく洗面器を他人の鼻っ面に全力でぶち当ててくる女そうそういないんじゃないか。
バンッ!と大きな音を立てて風呂場のドアが閉められる。
ドアごしに聞こえる"コロス"だの"ユルサナイ"だのの呪詛の声がれいなの額から冷たい汗を滲ませた。

「田中さんってちょっとエッチな漫画の主人公みたいですね。い○ご100%とかラブ○なとかの気弱でモテモテで
 よく女の子のパンツとか見えちゃうラッキーな体質の。田中さんは気弱じゃなくて性格に難がありますけど」

ホスト用のスーツに着替えながらくだらないことをのたまう小春に一瞥をくれてからキッチンへ向かう。
顔が痛くて料理する気が起きない。野菜炒めでいいや、もう。

「さゆみが作るからいいよ。ちょっとどいて」

服を着たさゆがエプロンをつけてキッチンに入ってきた。
先程のことがあったせいでまともにさゆを見られず無駄に距離をとる。
しかし男の妄想力というのは逞しい。
上気した肌とかなめらかな曲線の腰回りとか決して大きくは無いが綺麗なお椀型の胸やらを思い出してしまって下半身が熱くなった。
必死に親父の裸を頭に描いてそれを鎮める。
さゆはそんなれいなの心中の闘いを余所に器用に卵を割っていた。野菜炒めにするつもりはないらしい。

「ん・・・じゃあ、任せたけんね」

手持ち無沙汰でここにいても邪魔だろうしリビングに戻ろうとしたその時、何か黒い物体が床をカサカサと移動していったのが見えた。

「ぴぎゃっ!ご、ゴキ!」
「わっ!ちょ、ちょっと!邪魔!」

ビックリした勢いでさゆの腕に掴まってしまった。しかしそんなの気にする場合じゃない。

「さささささゆ!ゴキブリ!ゴキブリがおった!殺して!れいな虫嫌いっちゃけんなんとかして!」
「さゆみだって好きじゃないっつの!しかもGとか勘弁してよ!」
「ぎゃー!ぎゃー!動いた!飛んだらどうすると!?ぎゃああああ!怖い!怖いいいいい!!さっさゆうううう!!」
「なっさけないなあ!!男でしょー!?虫ぐらいでギャーギャー騒がないでよバカ!」

もぉ〜!と言いながら履いていたスリッパを手に持ったさゆがゴキに悟られないよう慎重に近づいていく。
しかし振り下ろそうとしたところでゴキは食器棚の下に潜り込んでしまった。これじゃあ手も足も出ない。

「どっかいった!どうするとさゆ!?」
「諦める」
「ええええええ!?やだやだゴキがいるキッチンで作ったご飯食べると!?作る前にこr」
「うるさーーい!!もう離れてよ料理に集中できない」
「ぎゃあああああああ出たあああああああああああ」
「きゃんっ!こっ腰!腰に抱きつかないでよ!!」
「うわああああああああああぎゃあああああああああああああ」
「・・・・・・」

突如、室内の気温が2℃下がり、大地が震えたのを感じた。
外では夜の帳が下りているというのにカラスがギャアギャアと鳴いている。
そこでようやくれいなは気付いた。破壊神を怒らせてしまった自分の愚かな過ちに・・・

「いい加減に・・・」
「ご、ごめんさゆ!れいなちょっと取り乱」
「しろよこの世紀末バカーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」


*****


「痛いなちくしょうさゆのやつめ・・・」

腫れた頬を押さえながら屋上へと続く梯子を上る。
あの後まったく口を聞いてくれないさゆと2人きりで過ごす勇気はれいなにはなかった。
無言の圧力が痛くて自分の部屋だというのにれいながコソコソとこうして屋上へと逃げている始末。こりゃ情けないと言われても仕方ない。
しかしさゆもさゆだ。れいながちょっと腰に抱きついただけであそこまで殴ることなかったんじゃないか。
ジャブだフックだアッパーだと殴られて最後の右ストレート決められた頃には既に痛覚が麻痺していたぞ。今ぶり返して泣きそうだが。

「あ」
「ん〜?おっ。れいなじゃぁ〜ん」

酔っ払いが屋上で一人酒していた。

「月見酒ですか吉澤さん・・・・・・っていうかどうしたんですかその頬」
「おまえも同じようなことになってんじゃん。わかるだろ」
「ああ。でもれいなは吉澤さんほど酷くはないですけど・・・」

吉澤さんの頬は赤く腫れあがっていて、ひまわりの種を頬袋に詰めたハム太郎みたいになっていた。ハム澤さんと命名しよう。

「おまえもこっち来て座れよ。一緒に飲もー」
「れいなはいいです。てゆか下にシートとか敷きましょうよ」

とか言いながらジベタリアンする。今夜は風のない夜で外でも過ごしやすい。
都会にしては綺麗な星空でそりゃあ酒も進むだろうね。
屋上から見える風景を楽しみながら猪口を傾ける吉澤さんは頬がアレでもとても絵になる美しさで、なんとなく気軽に声をかけるのが憚られる。
れいなもボーっと夜空を眺めていると吉澤さんが猪口に酒を注ぎ足しながら、

「なあ。おまえさあ・・・シゲさんのもう気付いた?」
「? なにがですか」
「・・・」

??? よくわからん人だ。ストーカー関連の話なんだろうがあまりにも抽象的すぎて要領が掴めなかった。

「ストーカーなら今のところ大丈夫ですよ。影も形も見当たりません。このままさゆのこと諦めてくれればいいんですけど」
「そか」

グイっと酒を煽った吉澤さんが猪口を脇に置いてショートピースを取り出した。
今度は煙草か。健康という言葉を丸めて燃えるゴミと一緒に焼却したような生活を送っている吉澤さんは、
別に長生きしたいという願望は素粒子ほどもないらしい。

「ふぅー・・・・・・あのさぁれいな」
「なんですか」
「シゲさんのこと、守ってやれよ」
「・・・はぁ」

突然なにを言い出すのかと思ったら守るって。れいなが?
自慢じゃないが腕力は下手したら絵里に負けるレベルだぞれいなは。喧嘩だって体格のいい小学生相手にも勝てるかどうか怪しいぐらい弱い。
れいなじゃなくてボディガードは小春に頼んだ方がまだ安心できるな。あいつももやしではあるがタッパはあるのでれいなよりは頑丈なはずだ。
そもそもさゆなら自分でなんとかしちゃうんじゃないか。
れいな限定の話かもしれないが人を殴る時に躊躇しない女だ。襲われたら相手の骨を折るぐらいのことはするかもしれない。恐ろしい。

「れいなじゃなくて小春に言うべきですよそれ。れいなはクリボーレベルの雑魚です」
「だろうね」
「それにさゆはれいなのことあんま好いとらんみたいですし、れいなに守られるのとか嫌がる」
「へえ。そうは見えないんだけどな。なんで?」
「絵里に酷いことしたからじゃないですかね・・・。さゆは絵里の親友なんで」
「ふーん・・・」

星に向けて煙を吐き出す吉澤さんは「でもさ」と言葉の引き出しを開いて、

「おまえじゃないとダメなんだよ」

と続けた。
はぁ。と再び間の抜けた声が出る。
いつの間に吉澤さんはさゆに詳しくなったのか、さゆのことをわかっている風な口調で言うもんだから戸惑う。
なんでれいななんだろう?長い付き合いだから?そんな単純な理由で盾役を命じられたのかれいなは。
吉澤さんは短くなった煙草を地面に揉み消し、携帯灰皿に捨てて上を向いた。
れいなの方には目は向けず、月と喋ってるみたいにそのままいつもの気だるそうな口調で言う。

「れいな以外にゃ無理だから」
「そうですかね・・・?」
「そうだよ」
「そうですか」


静かな夜だった。

*******


深夜。無音の闇が支配するこの時間帯にピンポーンと昼間よりも不気味に聴こえる冷たい機械音がさゆみを眠りから覚醒させた。
こんな時間に誰?れいなかな。さゆみのことなんて気にせず居間で寝ればいいのにさっきのことも別にもう怒ってないし。

「はーい」

れいなだろうけど一応覗き穴で確認、

「っ! いやっ!」

恐怖でその場に転んでしまう。
覗き穴から見えたものは・・・目玉だった。誰かが、覗き穴に向かって目を押し付けている・・・?
その後に聞こえる獣のような生ぬるい息遣い。はぁ、はぁ、とそれは段々と大きくなってさゆみの鼓膜にねっとりと絡みつく。
少し考えればわかること。鍵を持っているれいながインターホンなんて押すわけないのに・・・!


"こわくないよ"

「いやっ!いやっ!!」

"いつでもきみをみているよ"


そうして息遣いは消えた。世界は平常を取り戻し、静寂の夜に戻る。
さゆみだけが世界から取り残されて異常を訴えていた。

「いや・・・いや・・・」

肩を抱いてその場にうずくまる。震えが止まらない。
目蓋から、閉めきれていない蛇口から漏れる水のようにポタ、ポタと不等間隔で涙が床に落ちていった。
ここにいても安心なんてできないんだ。一人でいる限り不安と恐怖はいつでも襲ってくる。
誰かに側にいてほしい。さゆみを安心させてほしい。

「誰か助けて・・・誰か・・・」

叫びは室内に空しく響くのみで、今夜も眠れない一人の夜が始まった。

*******


カチャ・・・という恐る恐るといったドアの開閉音にビクっと体を縮こませる。
布団の中に隠した顔を少しだけ出して誰か確認した。暗くて全くわからない。れいな?久住くん?
その人はさゆみが寝ているソファーの側に溜息をつきながら座って誰ともなしに一人ぼやく。

「しばらく眠れんったいね・・・」

・・・・・・。

"彼"はソファーを背もたれにしてそのままずっと黙ってそこにいてくれた。
心が暖かい風に覆われて、静かに涙がこぼれた。


すぐに眠気がやってきて、その後のことはわからない。
でも朝になってさゆみにバレないようコソコソと部屋を出て行く彼を見て、一人の夜は終わったんだとようやく安心することができた。
不器用すぎる彼の名誉のために、全部知っているってことは黙っておこう。
ねえ誰かさん?





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