私たちは常に、いつも神様の恵みの中にいます。神様が、私たちに語ってくださっている「みことば」を聞こうではありませんか! 「きこまい!!」は名古屋言葉で、「聴こうよ!!」という意味です。

「伝道」とは、何でしょうか。――それは、「わたしは、道であり、真理であり、命である」とおっしゃった主イエス・キリスト、つまり、私たちが今歩んでいる「道」を「お伝えすること」に他なりません。それは、自分が受けた救いの御恵み、与えられた永遠の命の御約束について、嬉しさがあふれ出て、共有せずにはいられないことから、隣人に対して行われることです。
 もし、伝道する意欲がないのなら、それは、「恵みを受け足りない」ということです。そんなときは、伝道しようとは考えずに、恵みが満ちるように祈りましょう。神さまの恵みは、主イエス・キリストによって、すべての人に十分に注がれていますが、受け取り方は、各人に任されています。もしも、ある人が恵みを受け足りない状態、つまり、溢れるほどの喜びに突き動かされずに伝道したとしたら、それは、無理をしているだけです。その人が証しているのは、「恵みに満たされ、喜んでいる姿」ではなく、「無理をしている姿」なので、せっかく伝道しても、なかなか伝わらないでしょう。
 主が御復活されても、弟子たちはユダヤ人を恐れて、鍵をかけて閉じこもっていました。五旬祭がくるまで、「都にとどまっていなさい」という主のご命令通り、都にとどまり、祈っていたのです。五旬祭の日が来て、聖霊が弟子たちに御降りになってはじめて、弟子たちは伝道し始めるのです。それまで恐れていた弟子たちが、まるで恐れなどまったく知らないかのように変貌させられるのです。伝道は、私たちだけでできるものではありません。聖霊なる神様の御導きがなければ、無理なことです。

 伝道は、すべてのクリスチャンに求められている働きですが、聖職者よりもむしろ信徒が主体になって行うものではないでしょうか。司祭や牧師の役目は、むしろ、クリスチャンの霊的なお世話をするのが主な役目だからです。司祭とは、聖祭を司る役目のことであり、牧師とは、羊の群れを牧する教師という意味を持っています。そのような奉仕に当たっている教会の司祭や牧師よりも、信徒の方が、生活や職場などで、まだ主を知らない方々に触れる機会が多いと思います。
 伝道とは、決して難しいことではありません。「ここは伝道困難な地域」とかよく耳にしますが、何をもってそういうのでしょう。「伝道」とは「主イエス・キリストの救いの福音をお伝えすること」であり、回心させること、洗礼を受けさせること、人数を増やすことではありません。福音を愛を持ってお伝えしていれば、それはすなわち、伝道が行われているということです。ですから、伝道に成功も失敗もありません。ただひたすらに、愛と祈りを込めて証し続けることが大切なのです。神様からいただいた種をまくこと、そんな貴い奉仕に就かせていただいているのです。ですから、結果や成果などは求めないことです。伝道が「困難」だということは、ある意味で、伝道する側が困難なのではなく、伝道される側、つまり「相手に困難なことを強いる」行為なのです。なぜなら、伝道するということは、生き方をまったく変える必要性を相手に突きつけることだからです。「生き方を変える」とは、今までの生き方の否定なしにはあり得ません。つまり、今の今まで歩んできた生き方から、「イエス・キリストを主として、心の真ん中にお迎えし、神様にお仕えする」という新しい生き方への転換を迫ることとなるわけです。これは、簡単なことではありません。なにしろ、これはゲームではなく、かけがえのない自分の人生のことなのですから。そして、大抵の人にとっては、今まで歩んできた生き方の「否定」というのは、耐えがたい苦しみであるはずです。
 伝道は、愛をもって行われることです。伝道する人は、相手の心をつかもうとする誘惑に駆られることがあるかもしれません。しかし、それは本当の愛から伝道しているのでしょうか。「自分の大切なこの人が救われてほしい」と願う想いは大切です。しかし、伝道する人に求められているのは、あくまでも「道」である主とその福音をお伝えすることであり、それを受け入れるかどうかは、本人次第です。

 とは言っても、「伝道するチャンスがない」ということは大いにあるでしょう。私たちの周りには、使徒17:20-21のように、新しいこと好きで興味津津な暇人は、まずいないでしょうから。けれども、自分がクリスチャンであることを明言しているならば、チャンスはあるはずです。私も、会社でそういう話になることは、ごく稀ですが、それでもそんなときは、「私たちはこんなことを信じているよ」と話す機会がゼロではありません。また、直接話す機会がなくても、生きているだけで、証になります。よく人に「幸せそう」と言われます。それは、この主イエス・キリストを受け入れた生き方の側面に、興味をもってくれているのだろうな、と受け取ることにしています。証にならない人間的な欠けもありますが、「そんな者でもキリストによって罪赦される」という証になるでしょう。
 つまり、私たち自身が、「キリストを受け入れた喜びの生き方サンプル」なのです。いわば、モデルさんです。本職のモデルは、美しくキレイであろうとします。私たちは、ますます福音によって、赦され、新しくされ、恵みに満たされた、神様と共に歩む喜びに満たされて、より輝いて生きていこうではありませんか。
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