アラベラルドゥス

アラベラルドゥス

 アラベラルドゥスは、師のロスケリヌスの実在論を批判し、
師のロスケリヌスの名声を失墜さるにいたりました。
 このことからわかるように、 アラベラルドゥズは学問にお
いては自説を決して曲げない性格であり、間違っていると思え
ば己の師ですら罵倒し、論破したそうです。
 また、独立で聖書を講解するなどして、驚くべき哲学者とし
て、人気を博したそうです。
 ただし、アラベルドゥズは、普遍論争を通して多くの敵対者
をつくりました。
 普遍論争というのは、普遍は、個物に先立って実在する
という実念論が正しいのか、あるいは個物のあとに人間が
つくった名辞にすぎないという、唯名論がただしいのかという
対立がありました。
 それを普遍戦争といって、中世スコラ学の論争の一つだとい
われていわれています。
 スコラ哲学というのは、学校の意味で、今回の、アラベルドゥ
ズのころ、西欧中世の教会・修道院の学校の学者・教師たち
によって担われた学問です。
 さて、このスコラ哲学の初期の哲学者の一人であるロスケ
リヌスは、普通は事物の側に存在せず、それらの物の名称と
しての音声言語にすぎないと主張しました。
 そこにある一つの”もの”こそが実際に存在するもので、
普遍というのは、実在するものというよりも、単に”もの”
につけられた名前にすぎないということです。
 それとは反対に、シャンボーのギョームという哲学者は、
普遍的な言葉に対応して、それと同じものがものごとの側
に実在していると説きました。
 たとえば、”人間”や”動物”など、共通点をもつグ
ループにわけられる種や類などの普遍概念に対応する普遍
的なものが、”もの”とは別に、何らか存在することを主
張するということです。
 普遍論争では、前者を唯名論、後者を実在論といいます。
優れた論理学者であった。アベラルドゥズは、ギョームを
批判する形で、普遍を問題にする新たな視点を提示しまし
た。
 まず、概念実在論は、言ってみれば、アウグスティヌス
の宗教の信仰の主張になります。
 アウグスティヌスは、キリスト教を信じる根拠として、
アダムの自由意志による原罪によるものだった述べます。
 つまり、すべての人は、現在を持つという本質を共有
し、原罪を持つという概念は全人類に当てはまることに
なるわけです。
 このように、普遍的な本質や概念がすべての人に共有
されていて、現実世界に実在しているという考え方を概
念実在論と呼ぶわけですね。
 次に、概念実在論に対して反対の立場をとった唯名論につ
いですが、唯名論は、実在するのは個物であり、普遍は個
物のあとに人間がつくった名辞にすぎないと考える立場だ
ということですね。
 唯名論は、概念そのものについて、概念そのものは直接見た
り触れたりすることができないという現実を重視しています。
 普遍論争においては、概念実在論と唯名論が常に対立してい
るので、お互いの立場を照らし合わせると解りやすいかもしれ
ません。
 アベラルドゥスは、その著弁証論において、師であるギョーム
などの実在論を批判しました
 アベラルドゥズは、一つの種に属する個体間の類似性を
本質、あるいは実体とみなすことは誤りであるとしました。
 その上で、一つの実体がすべての個々の人間の中に、同時に全
体として存在したとすれば、それは自然学の原理に反している
ことになります
 そこで、人間は、すべての人間が、かかわり合うしている共通
の形式、あるいは状態であり、それは事物でも概念でもなく、
両者の間に立つ一つの表示であるとしました 
 アベラルドゥズにとって、普遍は事物の側にも、音声の側にもな
く、むしろ普遍を把握する人間知性の固有の動きであると主張したの
です。
 つまり、普遍とは、個々の事物から知性が取り出した事物の普遍的
認識であり、その考えそのものであるとしました。
 その意味では、普遍は知性によって、成立するもので、事物
の後のものですが、その内容は既に事物の中に存在していると
しました。
 つまり、創造者である神の精神の中にその原型が存在してい
るとアラベルドゥズは主張しました。
 次に、アベラルドゥスは、中世の人間としては、初めて、
倫理学を著して、人間の行為と意図と道徳法則の関係を論じた
哲学者です。
 アベラルドウゥズは、道徳性において問題なのは、我々が何をなす
かではなくて、何故にそれを為すかという意図であると主張しました。
道徳は、具体的な行動や態度のことではなく、どうして具体的な
行動や態度をとるかという意図のことだということです。
 たとえば、電車で、お年寄りに席を譲るという行為が道徳性なのでは
なくて、一般にお年寄りは体力がなく大変だろうから、席を譲って
少しでも助けてあげようという思いやりの気持ちが道徳性だという
ことですね
 そして、アラベルドゥズは、自然的行為は道徳的に見れば中立であっ
て、それ自体が正しくあるいは不正なのではないとしました、
 欲求を満たすという行為そのものには、道徳的には善悪も無く、中立だ
とアラベルドゥズは主張しました。
 とはいいつつも、人間は、何らかの行為をするとき、何らかの意図が
生じます。
 この意図こそが道徳性の重要な部分であるのは先ほど述べたとおりです。
 この行為の意図については、神の法則にかなっていなければ消散されな
いので、むしろ非難されるべき罪となるとアラベルドゥズは主張しました。
 アラベルドゥズは、道徳的行為は、その人の所有している道徳法則につい
ての知識の程度に応じて判断されるべきだと主張しています



WRITER:呟き尾形
(注:呟き尾形の解釈です)
2013年06月12日(水) 02:08:02 Modified by tubuyaki1




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